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2014年6月

2014年6月30日 (月)

短編小説集(11) 知らない花[ばな] 

 今日も暑い日になりそうです。今、ふと思い出したのですが、そう…あのことがあったのも、こんな暑い日だったと思います。それはもう、20年以上も前のことなのですが、かつて私が勤めていた会社での出来事でした。
 その日、私は残った仕事を終え、ようやく解放された気分で自分のデスクで背伸びをしておりました。ビルの窓ガラスの向こうは、すっかり暗闇です。残っている者といえば、私と係長の野坂(のさか)の二人でした。野坂は私から少し離れたところで明日のプレゼンテーション用の書類コピーをしておりました。やがてそれも終わったようで、野坂は私の席へ近づいてきました。
「課長、そろそろ帰りましょうか?」
「そうだな…」
 私は野坂から書類を受け取り、疎(まば)らに確認しながら頷(うなず)きました。そして、なにげなく隅(すみ)の卓袱台(ちゃぶだい)上に置かれた花瓶に視線を移しました。その花瓶には、女事務員の三崎(みさき)が生けた花が飾ってありました。三崎は感心な子で、常々(つねづね)、自費で花を買って飾っておりました。そこまでするのは、なぜだろう? と疑問に思えたものですから何気(なにげ)なく訊(たずね)ますと、私の趣味です・・と、可愛く申します。即答されてはそれ以上、言葉を返すこともできず、以後はそのままにしておりました。しかし、私と野坂が見たその日の花は、今までに見たことがない私の知識外の花でした。毎度のことですから、課員の誰もが見過ごし、私も見過ごしていたようです。
「珍しい花だな。…君、この花の名、知ってる?」
「えっ?! いえ…。明日(あす)、訊(き)いておきましょうか?」
 野坂は振り向きながら、卓袱台に置かれた花瓶の花を見ていいました。花は電光に照らされ、不思議な輝きを放っておりました。
「いや、いいよ…」
 私は慌(あわ)てて打ち消しながら、席を立ちました。
 次の日、出勤しますと、先に来ていた野坂が血相変えて、私の課長席に迫ってきました。他の課員達もその異常さに驚いて、私達に視線を走らせました。
「課長! その花、名前がありません…」
「なんだって?! そんな馬鹿な! 調べりゃ分かるだろうが」
「いえ、本当なんです。気になったので寝ずに調べたんですが…」
 私と野坂は三崎のデスクを見ました。彼女は出社しておりませんでした。それ以降、次の日もまた次の日も、三崎は出社しませんでした。一人暮らしの彼女と音信もとれぬまま、ひと月が経ちました。不思議なことに花瓶のその花は枯れずにそのままの姿を保っておりました。科学的には誰が考えても有り得ない事実でした。話は農水省、学術機関、植物新品種保護国際同盟[UPOV]まで及びましたが、とうとう花の名は分からずじまいでした。課員の誰もが、少しずつ怖(おそ)れるようになったのもこの頃からです。私はこれ以上、放置すれば仕事にも影響し、課内の統制を乱す恐れがあると判断し、その花瓶と花を破棄するよう野坂に命じました。野坂は最初、身に危険が及ぶのを怖れたのか嫌がりましたが、仕方なく私の指示に従いました。
 次の日の朝、私が出勤しますと、デスクの上に1通の手紙が置かれていました。会社の私あてに届いた三崎の実家の親からのものでした。封を切りますと、今朝、三崎が息を引きとった・・とありました。私はその文面に、ギクッ! といたしました。といいますのも、それなら会社へ来ていたのは誰…ということになります。その話を課員達にしますと、課内は凍りつきました。以後、課員から異動の希望届が頻繁に出るようになったのは当然といえば当然でした。私も困りますから慰留に忙殺される日々が続いたのでございます。そうした働き辛(づら)い日々が続きましたが、さすがに数年もしますと、課員の怖さも薄らいだようで、私はやれやれ気分になっていきました。課ではその後、誰彼となく話が出るごとに、その花を知らない花(ばな)と呼ぶようになっておりました。そんな不思議な出来事が20年以上も前にありましたよ。未(いま)だに、その花の名の学術名は判明しておりません。

             THE END

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2014年6月29日 (日)

短編小説集(10) お気の毒 

 無宗教のお別れの会が、しめやかにとり行われていた。ちょうど、某有名人のお別れの辞が読み終えられたところだった。ここは、とある私営葬祭場のホールである。会場は故人の遺徳を偲(しの)ぶかのように、多くの弔問者でごった返していた。その数、ざっと数百名。映画やテレビでよく知られた有名人も多く列席していた。祭壇に飾られた遺影の壇田(だんだ)は、彼らを見ながら、こんな俺のために態々(わざわざ)、来なくてもいいのにな…と、ぶつくさいいながら、餅を齧(かじ)っていた。
━ ご遺族さまに続きまして、順次、ご献花をお願いいたします ━
 馴れた名調子で、葬儀社の進行係がマイクへ声を流す。遺影の向こうにいる死んだ壇田には、葬祭場の模様がテレビ画面で見るかのように克明(こくめい)に映し出されていた。むろん、献花する者達から見れば、ただの遺影でしかなかったのだが…。
「ほんとに、お気の毒なことでした…」
 後方に立つ稲首(いなくび)が、白菊の花を手にして、隣に立つ顔見知りの陸稲(おかぼ)にそういった。
「残念なことです…」
 陸稲もポツンと返した。
『ふん! なにいってやがる、あいつら! 俺が死んで清々(せいせい)したって思ってるに違(ちげ)えねえんだ! どうしてくれようか。よし! アレだな!』
 憤懣(ふんまん)やるかたない壇田は、そういうとガブリ! と餅を齧ってニンマリした。
 列は進んで次第に稲首と陸稲の献花する順が近づいてきた。そのとき異変が起きた。有り得ない異変だった。稲首と陸稲が最前列に来た瞬間、二人が手にした白菊の花がポロッ! と花の部分が折れ、床へ落ちたのである。それも二人同時だった。一瞬、多くの者の目が二人に浴びせられ、ホールは凍りついた。二人は慌てて床に落ちた花を拾い、手にする茎に添えて献花した。格好悪い無様(ぶざま)さだった。稲首と陸稲はソソクサと後方へ下がった。
『ははは…ざまぁみろってんだ!』
 そういうと、壇田はまた、ひと口、餅をガブリ! と齧った。
「ほんとうに…。いい方でございましたのにね」
「ええ…、お気の毒でございますわ~」
 銀座の高級クラブのママ、百合(ゆり)と菖蒲(あやめ)が呟(つぶや)いた。
『なにが、お気の毒だ! 今度は、あの金盗り虫のクソ婆(ばばあ)どもか!』
 壇田はニヤリとして残った餅を頬張ると、手にしたあの世の水をグイ飲みした。そのとき、光が射して厳かな声が壇田に届いた。
『そのとおりなのですが、それは私にお任せなさい。あなたが、そういうことをしちゃいけません! お気の毒な方だ…』
 壇田はいい返せなかった。最前列まで来ていた百合と菖蒲は、その瞬間、合掌したまま同時に、くしゃみをした。

                  
THE END

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2014年6月28日 (土)

短編小説集(9) 鞄[かばん] 

「あのう…もし。これ、忘れ物ですよ」
 鳥山住夫は電車を降りようとして隣の座席の男に呼び止められた。男が手にしていたのは鞄(かばん)だった。住夫が男との境に置いた鞄をうっかり忘れていたのには、それなりの理由があった。結果、住夫は呆然(ぼうぜん)として、鞄を持って乗ったことすら忘れていたのだった。住夫はギクッ! と驚いたように振り返った。
「あっ! どうも…」
 軽い会釈で鞄を受け取ると、住夫は乗降扉の方へ歩いた。こんなヘマやっちまって、なにやってんだ、俺は…と、自分自身が腹立たしかった。
 小一時間前、ちょっとした手違いで課長の丸岡から、こっぴどく叱責(しっせき)され、住夫はすっかりテンションを下げていた。
「駄目じゃないか! 鳥山君! 我々は公僕なんだぞ。間違えました・・では済まないんだ! 幸い、先方さんが気づいてくれたからよかったものの、そのままだったら訓告以上だぞ! …まあ私がいるから、そこまではいかないだろうがな」
 丸岡は自分を少し高く見積もり、偉ぶった。住夫が意気消沈して席に戻ったとき、定刻のチャイムが鳴り、気落ちしながら役所を出た。駅へと歩く道すがら、失敗の原因を辿(たど)ったが、どうしても分からないまま電車へ飛び乗っていた。そして、なお想いに耽(ふけ)って鞄を忘れた…ということだ。
 駅の前に小さなラーメン屋台があった。住夫は常連で、いつも決まりのニンニク入り葱(ねぎ)ラーメンを注文し、冬なら熱燗をコップ一杯、以外は小瓶のビール一本と決めていた。屋台の親父も馴れたもんで、住夫を見ると、注文を聞かずに準備を始めて、出した。
「今日は元気がありませんね、鳥山さん」
 住夫が座った途端、慰めるような眼差(まなざ)しで優(やさ)しく親父が声をかけた。
「ああ…つまらんことで、怒られちまったんだ。ははは…、今日はどうかしてるよ、俺」
 住夫は笑って返した。そのとき、小さな声がした。
『明日(あした)から、逆のいいこと、ありますよ、住夫さん』
 住夫は辺りを見回した。客は自分一人で、親父以外、誰もいない。
「親父さん、今、なにかいったか?」
「へえっ? いや、ぺつに…」
 親父は鉢の麺に具を添えながら、顔を上げていった。
「そうか…。気のせいか」
『気のせいなんかじゃありませんよ、住夫さん』
 ふたたび、住夫の耳に、はっきりと声が聞こえた。
「誰だ!」
 住夫は思わず立って叫んでいた。
「鳥山さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな顔で親父が住夫を見た。
「ははは…、どうも。俺、疲れてんだな、きっと」
 バツわるく、住夫は座りながら声を小さくした。その後はなにもなく、残ったコップのビールを飲み干すと住夫は屋台を出た。
「また、どうぞ…」
 置かれたお愛想を手にして、親父は決まり文句をひとつ吐いた。住夫は心地よく歩いて家路を急いだ。今日のことは忘れよう・・と思った。そのとき、また声がした。
『場所がらも考えず、先ほどは失礼しました。いったことは本当です。明日になれば分かりますよ』
「誰だ!!」
 住夫は立ちどまり、辺(あた)りを見回した。だが、だれもいない。漫(そぞ)ろ歩く通行人が驚いて、振り返った。
「いや! 別に、なにもありません」
 住夫は笑って誤魔化し、また歩き始めた。
『私は、あなたが持つ鞄です。この前は修理して下さって有難うございました。では…』
 住夫は、また立ち止って、手に持つ鞄を見た。捨てようとしたが思いとどまり、昨日、修理した鞄だった。
 次の日、辞令が出た。住夫は課長補佐に昇格していた。
「ははは…、おめでとう。昨日のことは忘れてくれたまえ鳥山君。君も管理職だ、よろしく頼むよ」
 うって変わった態度で、丸岡がいった。

                        THE END

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2014年6月27日 (金)

短編小説集(8) 夜闇提灯[よいやみぢょうちん]

 いや~、こう暑いと堪(たま)りませんな。ははは…私なんか、めっぽう暑さには弱いもんで、どこか涼しげな外国で暮らしたいのですが…。能書(のうが)きはこの辺にして、話を進めて参ります。
 私の実家はとある片田舎なんですがね。夏ともなれば蝉が我が世とばかりに集(すだ)く、今考えれば、いい風情の村でございました。私も今では大都会で暮らしておりますが、社会人になるまでは、この片田舎で暮らしておったというようなことでして…。
 話は私の子供時代へと遡(さかのぼ)ります。村は戸数が二十軒ばかりの山奥の小さな集落でしたが、ここには古い風習がありましてね。村の社(やしろ)の祠(ほこら)に年番で一年間、夜中参りをする・・という変な風習なんですが、そういうのがありました。私の家も来年、その年番が回って来るというので、父は、そろそろ精進潔斎しないとな・・なんていっておったもんです。と申しますのは、年番に当たった当家は翌年、他家へ引き継ぐまでの一年間、精進潔斎をして身を清め、神や仏に仕(つか)えるということなんでございます。神や仏といいますのは、古い神仏混交の思想からきておるようでした。
 そんなある日、私の家へ駆け込んだ一人の男がおりました。この年の年番の村人でございました。私は九才ばかりの子供でございましたが、父とその男の会話は、今でも手にとるように、はっきりと憶えております。話の内容は来年、引き継ぎを受ける家の者が、俄(にわ)かの病(やまい)で亡(な)くなったから私の家で引き継いでもらいたい・・という内容でございました。父はまだ一年あると思っておりましたから、心の準備ができておらず、最初は少し躊躇(ちゅうちょ)しておりましたが、仕方なく引き受けたようでございます。亡くなった村人の送りも済み、その後は、こともなく翌年の正月となりました。当然、父は話を聞いた翌日から精進潔斎で身を清め、正式な引き継ぎに臨んでいたのでございます。
 夜中参りは仏滅の日の子(ね)の下刻に提灯(ちょうちん)に灯りを灯(とも)し、山中の祠(ほこら)まで参って帰るという、ただそれだけの行事なのでした。で、引き継いだ父もそのように始めた訳でございます。昔からの風習でございますから、やめればなにか、よからぬことが起こるのではないかと、村の誰もが思うところは同じだったようでございます。
 仏滅が巡ったある夜のこと、父はいつものように提灯を灯して山道を歩いていたのでございます。すると、ふと夜闇(よいやみ)の彼方(かなた)に、父と同じような提灯の灯(あか)りが見えたそうにございます。深夜のことですから、そのようなことがあるはずもありません。父もそう思ったものですから、その灯りの方へ近づいていった訳でございます。すると、提灯を持って歩く確かに死んだはずの村人が灯りに照らしだされ、一瞬、見えたそうにございます。父は余りの恐ろしさでその場に蹲(うずくま)り、顔を覆(おお)いました。そして、恐る恐るもう一度、その灯りを見ますと、死んだ村人の姿は、すでに失(う)せ、灯りも次第に遠退(とおの)いてスウ~っと消えたそうでございます。父は、しばらく呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしたと申しておりました。ふと、我に返った父は、いつものように祠へのお参りを、なんとか済ませ、家へ帰ったそうにございます。その後のお参りは、そのようなこともなく、父は無事に翌年の引き継ぎを終えた訳でございました。父があとから聞いた話によりますと、その村人は信心深かったそうでして、かなり精進潔斎をしていたという話でございます。どうも、その男の執念が霊の姿で参ったらしいのでございます。そんな怖い話を九才の頃、聞かされた記憶が残っております。

                   THE END

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2014年6月26日 (木)

短編小説集(7) 価値[value] 

 派手な衣装と高価なネックレスで身を纏(まと)い、厚化粧を塗りたくった老齢の貴婦人と、頭髪に似つかわしくないティアラを飾(かざ)った老齢の貴婦人二人が、高級宝飾店の店内でガラスケースを覗(のぞ)き込んでいた。
「ホホホ…これなんか、安くて手頃ざ~ますわ、奥さま」
 ティアラ貴婦人が厚化粧貴婦人にアドバイスした。
「あら! そうざま~すわね。高々、1億2千万…」
「それに、なさ~ましな」
「ええ、じゃあ…。あの~う! これね」
 厚化粧貴夫人はガラスケースを指さし、まるで召使いのように後ろに従って直立する若い女性店員に指示した。
「かしこまりました…」
「お支払いは、いつものようにね」
「はいっ! あの…お付けになられますか?」
「えっ? 今日はその気分じゃないの。包んでちょうだい」
「分かりました…」
 何度も通う常連と見え、話は滑(なめ)らかに進んで、なんの違和感もなく10分後には二人は店の外を歩いていた。ティアラ貴婦人は買い求めた小袋を提(さ)げ、自慢げだった。皆さん、見てちょうだい、とばかりにわざと振るその袋も、ただの紙袋ではなく、純金+ダイヤモンド装飾の袋である。これだけでも軽く数百万はすると思われた。老貴婦人二人が歩く前方には二名、後方にも二名の黒サングラスをした頑強なガードマン達が黒背広で貴婦人達を守っていた。まばらに通り過ぎる人々は、まるで有名人を見るかのように立ち止まり、二人に視線を向けた。
「お食事にしましょうか? いつものお店で・・」
 買物でテンション高めの厚化粧貴夫人がティアラ貴夫人に提案した。 
「ホホホ…左様でござ~ますわね」
 二人はしばらく歩き、馴染(なじ)みの、とある高級料理店へと入った。店頭には会員制の看板がかけられていた。一般客は入れない店だった。決められたかのように四人のガードマンは店前で立ち止まり、一歩も動かずガードした。
 約1時間後、超A級の食事を終えた二人は満足げに店を出た。氷のように店前で立ち尽くしていたガードマン達は、まるで機械が再起動するかのように前後二名づつに分かれ、貴婦人達をとり囲んで歩きだした。やがて二人の老貴婦人達は、待たせた高級車に乗り込むと、街をあとにした。
 時は流れ、三年が経過したとき、世界の情勢は一変していた。人類は食糧不足の飢餓状態へと突入していたのである。すべてが文明という名のもと、食糧生産を軽(かろ)んじ、飽食を続けた末の代償(だいしょう)ともいえた。
 街は荒(すさ)み、人々は飢えに苦しんでいた。食べ物の物々交換が当たり前の世界に変化していた。街路には浮浪者の姿が溢(あふ)れていた。その中に、かつてのティアラ貴婦人、厚化粧貴婦人の姿もあった。だが、ボロ着を身につけた窶(やつ)れた姿には、以前の輝きを見いだすことはできなかった。ただの老婆の姿がそこにはあった。当然、過去にいた4人の頑強なガードマン達の姿も消えていた。二人の老婆は露天でパンを買い求めていた。
「商売の邪魔だ! 食い物もってねえなら、さっさと立ち去りな、ばあさん!」
「まあ! なんざま~す!! ばあさん、ですって? 失礼な!!」
「だって、あんたら、ばあさんだろうが! ばあさんにばあさんっていって、なにがいけねえんだ!」
 荒(すさ)んだ露天商の男に二人は言い返せず、沈黙する他はなかった。
「あの~、お願いですから、そこのロールバンを一袋、いえ、二個だけこの宝石と換えて下さ~まし。これ、1億2千万いたしますことよ」
「1億2千万だと!? 馬鹿いっちゃいけねえ! こんな宝石100個、200個積んだって、このパン1個の価値もありゃしねえよ。ほら、そこに落ちてる石ころと同(おんな)じさ」
 二人は意気消沈し、トボトボと、その場を去ろうとした。
「待ちな。ほれ、これひとつ、くれてやるよ。俺も助けられたことがあるからな。さあ、早く行きな!」
 二人はパンを受け取ると涙を流しながら立ち去った。男の足元の石ころの横に、一つの宝石が転がっていた。
 

                    THE END

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2014年6月25日 (水)

短編小説集(6) ストップウオッチ 

 陸上部コーチの末松教諭はグラウンドを周回して戻った生徒の高輪進に声をかけた。
「よし! 1分50秒02だ。コンマ04早くなったぞ。フゥ~、暑くなってきたな。今日は、これまでだ! 隣の北洋商業みたいに熱中症で倒れられたら、ことだからな」
「…はい! …」
 進は荒い息を鎮めながら、そういった。湧き立つ積乱雲が俄(にわ)かにその勢いを増しながら全天を占拠し始めた。同時に遠雷が鳴った。二人はグラウンドを歩きながら空を見上げた。
「進よ、こりゃ、ひと雨来そうだな」
「そうですね…」
 ようやく乱れた息が静まり、進はタオルで顔を拭(ぬぐ)いながら返した。校舎へ入ると末松は職員用更衣室へ、進は部室へと別れた。
「お疲れさま!」
 部室に残留していたマネージャーの藤崎有里香が元気よく、ペットボトルのスポーツドリンクをさしだした。
「おう! 有里香か。気がきくな!」
 進は冷えたボトルを手から受け取りながら笑っていった。
「どうだった?」
「んっ…まあな。04早くなった」
「よかったじゃない」
「ああ…。だが、県体優勝は800の場合、48秒ぺースじゃないとな」
「まだまだって訳ね」
 進は黙って頷(うなづ)きながら、シャワー室へと消えていった。
 次の朝は強化合宿で進だけの特訓だった。200mのグラウンドを4周しスタートラインへ戻ってきたとき、末松が口を開いた。
「妙だな…」
「先生、どうかしました?」
「いや、気のせいだろう。…また、38秒30か。新しいの買った方がいいな。壊れちまったらしい」
 末松はストップウオッチを振ったり弄(いじ)ったりしながら愚痴った。
「38秒30! 1分38秒30ですか!?」
「ああ、1分38秒30だ…」
「はは…そんな、馬鹿な!!」
 進は誰にいうでなくニヤついた。進がいったとおり国内高校男子の記録では1分48秒台が最高だった。進はそれより10秒ほど早く走った計算だ。いや、そればかりか、陸上男子800mで1分40秒の壁を破る世界記録は未(いま)だかつて出ていなかった。
「進、今日はやめだ、明日(あす)にしよう。備品で買ってもらわんとな」
「それしか、ないんですか?」
「ああ、この学校はケチだから部費落としで買えるのは一ヶ月待ちだ。そんなにせんから、これから自腹で買ってくる。大会前だ、のんびりと待っとられんからな、ははは…」
 そういうと末松は進の肩をポン! と軽く叩き、笑い飛ばした。
 翌日の朝になった。準備運動を済ませた進がグラウンドで待っていると末松が現れた。手には真新しいストップウオッチを持っていた。
「準備は、いいな?」
「はい! OKです」
 進は軽く身体を動かしながらいった。
「よし、それじゃ始めるぞ!」
 進は位置に着き、末松の合図で走り始めた。そして4周し終え、息を切らせながら口を開いた。
「先生、どうですか?」
 末松の顔から血の気が失せていた。
「おかしい…」
 末松は呻(うめ)くような小声で呟いた。真新しいデジタル式ストップウオッチは、またも01:38:30を刻(きざ)んでいた。進は末松が手にするストップウオッチを覗(のぞ)き込んで絶句した。
「進…これが本当なら、お前は世界のトップランナーだぞ!」
「まさか…」
「ああ、俺も、まさかとは思うが…」
 二人は凍りついたまましばらく、その場に立ち尽くした。そこへ有里香が校舎から出てきた。
「先生~、差し入れです~」
 二人は唖然(あぜん)として、走って近づく有里香を見た。有里香の手には鮮やかなオレンジ色の布に包まれた手料理が持たれていた。二人にはそれが手料理だと分かった。昨日とまったく同じ朝が繰り返されていた。
 二人の目の前に有里香が来たとき、二人はふたたび唖然として、言葉を失った。鮮やかなオレンジ色の布には01:38:30の黒文字が描かれていた。

                    THE END

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2014年6月24日 (火)

短編小説集(5)  底なし沼  

 皆さんは底なし沼というのをご存知でしょうか。実は、これからお話しするのは、その底なし沼に纏(まつ)わる不思議な出来事なんですがね。まあ、信じる信じないは、あなたの勝手、私は語るだけ語って退散しようと…思ってるようなことでね。なにせ、これだけ暑けりゃ、早く退散したくもなるってもんで…。
 かつて私が住んでおりました田舎は山村でして、今では廃村になっております。近年、この手の過疎化はどこでも見られる訳で、別に珍しい話でもなんでもないんですが…。しかし、私の村が廃村になった訳というのには、実は別の理由があったんですよ。と、申しますのは、もう随分と前、そう…私が赤ん坊の頃のお話なんです。過疎化とかが問題になるような時代では決してございませんでした。かく申します理由といいますのは、そう! 最初に申しました沼に起因するんでございます。
 私の村には昔から語り伝えられる話がございました。それは、いつの日か必ず田畑が窪(くぼ)み、そこが底なし沼となって村人を誘うから、そうなったときは村を棄(す)てて逃げよ! という俄(にわ)かには信じられないような言い伝えなんですよ。私がまだ乳飲み子の頃、地が揺れ、ぽっかりと田畑が陥没したらしいんですよ。これもね、今なら地震の陥没だろ? と冷静に訊(き)かれると思うんですが、それがそうとも思えなかったんです。といいますのは、わずか十日ほどで水が溜(た)まって小さな池に、そして半月ほどで水が引くと、言い伝えの沼が出来たんです。まあ、村の者達も、すぐには言い伝えの沼とは誰もが思わなかったんですがね。
 そんなことがありまして、あるとき、一人の村の若い者(もん)が、怖いもの見たさで近づいた訳です。すると、どう見ても底なし沼には見えない。なにせ、水が引いてますから、表面はまだ湿ってますが普通の地面に見えた訳です。で、向こう見ずだったんでしょうね。裸足(はだし)になると、どんなもんだとばかりに、ひと足ふた足と入ってみた。別になんともない。これは大丈夫だと思ったんでしょうね。さらに足を進めた途端、…もうお分かりと思うんですがね。そうなんですよ。その男、ズブズブ…っと跡形もなく沼に飲み込まれたんですよ。いや、私はそう聞かされただけで、見た訳じゃないんですが…。えっ? なぜ分かっていたってですか? それは、その男が自慢たらたら他の若い者に吹聴(ふいちょう)していたからなんですよ。で、男を助けに数人の男が沼に近づいた。村では帰りを待ったんですがね。その男達も帰ってこなかったんです。そうなると、村人も気味悪くなり、他の村へ出ていく者が出始めました。私の家もその一軒でしてね。なんでも、二十軒ばかりあった村は、その後しばらくして村人がいなくなり、廃村になったようなことらしいんです。いえ、これは諄(くど)いようですが私が親から聞いた話でしてね。乳飲み子の私が断言できる訳がございません。作り話か、どうなのか…。真偽のほどを明確にすべく、私は、いつやらその田舎へ行ってみました。…沼らしきものは確かにありました。私は怖くなり、すぐさま駅へ、とって返しました。
                        THE END

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2014年6月23日 (月)

短編小説集(4) 大きな蜘蛛(くも)

 怪談には、ちょっと季節外れの話なんですがね。その日の朝は雪が降りしきる寒い朝でした。私は、いつものように起きますと顔を洗い、それから歯を磨きました。前の日と何も変わらない平凡な日だな…と、思うでもなく縁側の廊下を歩いておりました。日本家屋でしたから、廊下の向こうはガラス戸を通して庭が見える訳です。カーテンを開けますと、当然、雪明りで明るくパァ~! っと目が眩(くら)む一面の銀世界が広がっています。おお、積もったなぁ~と、しばし見ておりますと、なんか風情があるんですよね。深々と雪は降っております。ふと、いつもの手入れしております盆栽鉢がどうなっているだろう…と、なにげなく置かれた辺りに目を遣(や)った訳です。すると、たぶん私の目の錯覚だろうと最初は思ったんですがね。いや、これは今考えても私の目の錯覚だったんでしょうが…。といいますのは、あまりにも常識では考えられない大きさの透き通った黄色い蜘蛛が一匹、その盆栽鉢の上に乗っていたんです。動くでもなく、ただじっとして乗っている訳です。先ほども申しましたように、朝起きたばかりですから身体(からだ)は次第に冷えきっていきます。しかし、妙なもので全然、寒くないんですよ。そりゃ、そうですよね。常識ではこの世に存在しない大きさの蜘蛛を目の当たりにしている訳ですからね。で、私は、もう一度、ジッとその大きな蜘蛛を見ました。すると、やはりいます。私も少しずつ気味悪くなってきましてね、その場を離れて台所へ向かった訳です。そのとき、妻が台所から出てきて、「どうかしたの?」って訊(き)くもんですから、「いや~別に…」と暈(ぼか)しました。すると、「そう? 顔色悪いからさ… 大丈夫?」って、また訊き返すんですよ。「余り寝れなかったからだろ…」って、誤魔化すしか私は出来ませんでした。原因は分かってましたが、妻に話す訳にもいきませんしね。で、妻が「そう…」と訝(いぶか)りながら台所へ戻ったあと、もう一度、縁側の廊下へ戻りました。そして、先ほどの盆栽鉢へ目を遣りますと、あの蜘蛛はもう跡形もなく消え去っていました。しかも不思議なことに、その乗っていた痕跡がまったくないんですよ。普通は重みで足跡とか残りますよね。それがまったくない訳です。しかしまあ、深々と雪は降り積もっていますから、その足跡を隠したんだろう…とは考えました。それで、もう一度、顔を近づけて目を凝らしましたが、不思議なことにその痕跡がないんです。といいますのは、雪が降り積もっているとしても、妻と話していたのは、ほんのわずかですから、そうは積もっていないですよね。あとが隠れた場合でも、少しは跡の部分が凹んで分かるはずなんです。それがなかったんです。フワッ! と山のように積もった形がそこにはあったんです。なんか、信じられない話なんですが、これは本当にあったお話です。こういう科学では説明できないことって…あるんですよね。
                        THE END

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2014年6月22日 (日)

短編小説集(3) 消えた羊羹(ようかん)

 私の子供の頃の話なんですがね。その当時は終戦後の物資がまだ出回ってない頃でして、食い物にも事欠く有りさまだったんです。
 そう、あれは夏の暑い盛りでしたよ。私の父親の故郷へお盆に帰るってのが毎年の夏の恒例になってまして、この夏も帰った訳です。私は子供でしたから、田舎の従兄弟と遊べるのと昆虫採集とかが出来るってので、もの凄い楽しみにしておった訳です。それもそうなんですが、それ以上に楽しみだったのが美味しい食べ物の数々でした。なんといいましても、田舎の畑にはマクワ、トマト、スイカ、トウモロコシとかがいろいろありましたし、白い米だけのご飯が腹いっぱい食べられましたから…。そんなで、私は田舎の古びた茅葺屋根の従兄弟の家へ行った訳です。両親は私を連れて手ぶらで毎年、帰るのが、なんか心の蟠(わだかま)りになってたんでしょうね。ある時から隣町の老舗の菓子屋で少し値の張った菓子鉢を買い求めるのが通例になっておりました。で、この年の進物は小箱に入った羊羹でした。母はその羊羹の入った小箱を大事そうに携え、父は扇子をパタパタと小忙しく動かしておったのを今でも憶えております。
 帰りますと、お盆ということもあったんでしょうが、両親は必ず仏壇に手を合わせておりました。当然のように、私も両親に従い、意味も分からないままそう致しました。まあ、いろいろあって、その日は遊び疲れで昼過ぎにはウトウトしておりました。そう、あれは三時過ぎだったでしょうか。目を覚ましますと、母が仏壇の前で首を傾(かし)げてるんですよ。私が、「どうかしたの?」と訊(たず)ねますとね。母は、「ここに置いてあったお菓子の箱、知らない?」って言うんですよ。私は従兄弟と外で遊んでましたからね、知ってる訳がない。だから、単に、「知らないよ」って返したんです。母は、「じゃあもう、美佐枝さんが下げたのかしら…」って言うと、奥の間の方へ行ってしまいました。美佐枝というのは、父の兄の嫁さんなんですがね。
 その晩は大勢の楽しい夕飯となったんですが、私は腹が減っていたもんで勢いよく食べておりました。そうしますとね、母が何を思ったのか、ふと、「お義姉さん、お仏壇の…下げられました?」って訊(き)きましてね。美佐枝さんは、「えっ?!」って驚くんですよ。するとね、父がニタリと笑って、「そういや、父さん、甘いものが好きだったからなあ。持ってきた羊羹は特に好きだった…」と、しみじみ言うと、仏壇の方をじっと見たんですよ。伯父さんも「そうそう、そうだったなあ…」って話を合わせ、「たぶん、食っちまったんだろ」って二人で大笑いしたんですが、とうとうその羊羹の行方は不明のままで出てこなかったんです。いやあ、あとから聞いたんですが、そんな箱が置いてあったことも知らなかったって美佐枝さんは言ったそうですが…。そういう夏の怪談なんですが、いかがでしょう?
 実は、この話にはオチがありましてね。本当は父と伯父さんが話をしながら、こっそり食べてしまったようなんです。子供の私と従兄弟は食べてない訳ですから、大人の悪知恵で誤魔化したんでしょうねえ。とんだ怪談でした。
                        THE END

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2014年6月21日 (土)

短編小説集(2) 声が聞こえる

「え~、必ず私は一票の格差をなくし、この日本が住みよい国になるよう努めて参りたい! かように思う、わけでございます!!」
 立ち止まった矢森透は、街頭で行われている選挙演説を冷めた目で聞いていた。
「ふん! どうだっていいさ…。どうせ変わらねえんだろ!」
 透の右隣にいた男がそう吐き捨てるようにいって立ち去った。透も同感に思え、その男の後ろに従った。足早やな透はいつの間にか緩慢に歩く男の横へ並んだ。突然、男が声をかけた。
「あんたも、そう思うかい?」
「はあ、まあ…」
 透は、ビクッ! として横を向き、そう返した。
「そうかい…。だよな、俺達とは住む世界が違うんだよ、政治家さんは…。なんか、上から目線に聞こえるのさ。あんた、どう思う?」
 憤懣(ふんまん)この上ない・・と思える怒った声で、その男は透に同意を求めて訊(たず)ねた。透は少し、その男に危険を感じた。
「そうですね…。じゃあ!」
 急いではいなかったが、知らぬ危険男の愚痴を聞くほどテンションは高くない。透はなに気なく交差点の通路を左へ逸(そ)れ、男と別れた。今日は久しぶりの休みだし、映画を見て美味いものだ…。透にはその程度の考えしかなかった。選挙など、どうでもよかった。○×党で給料が上がるわけないさ…と、透は思った。そのとき天空から声がした。
━ あんた次第だよ、矢森さん ━
 その声を透は確かに聞きとれた。危険男で気が昂(たか)ぶってるせいだ・・と思えた。だから余り気にはとめなかった。
 次に透がその声を聞いたのはバスの中だった。混雑したバスの中で、透は吊革を持ちながら窮屈さに耐えて立っていた。辺りは人いきれと熱気で噎(む)せ返っていた。そんなとき突然、声がした。
━ どうだい? 調子は、矢森さん? ━
「あんたは、いったい誰だ!」
 空間を見回し、透は叫んでいた。周囲の者が訝(いぶか)しげに透を見た。思わず、透は俯(うつむ)いた。
 そんなことが唐突(とうとつ)にその後、三度ほど続き、透は自分が病気ではないかと思い、病院の門をくぐった。
「おかしいですね…。どこもお悪いところはないんですが…。少し、お疲れなんじゃないですか? 安定剤を出しておきましょう」
 脳神経外科、内科などでは異常がまったく見つからず、透は最後に訪れた精神科で、そう医師に告げられた。疲れてんだな、きっと…と、保も思った。
 その夜、保がベッドへ入りウトウトとまどろみ始めたとき、その声がまた聞こえた。
━ 明日(あした)起きれば、あんたは政治家だよ、矢森さん ━
 またか! と、透は掛布を被(かぶ)ってその声を無視した。そしてやがて、深い眠りへと引き込まれていった。
 朝が巡り、透は肩を叩(たた)かれ起こされた。
「先生、起きて下さい! そろそろ街頭近くです」
「んっ!? …」
 透はなんのことかと思った。それより、一変した周囲の状況に驚かされた。そして、ゆっくり自分の姿に視線を向けた。背広を着ていた。肩には選挙立候補者の襷(たすき)をかけていた。傍(かたわ)らにはハンドマイクがあった。
 その十分後、街頭の透は、どこかで聞いたような演説を聴衆の前でぶち上げていた。[やもり透]として、である。
「え~、必ず私は一票の格差をなくし、この日本が住みよい国になるよう努めて参りたい! かように思う、わけでございます!!」
 スラスラとその言葉が透の口から飛び出していた。透は一字一句、その演説を忘れていない自分が不思議でならなかった。
                        THE END

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2014年6月20日 (金)

短編小説集(1) 照射銃

 ここは、とあるアパートである。紅葉山浩次は、ただひたすら、ある機器を作り続けていた。本来は六畳ある部屋の空間も、乱雑に散らばった機器部品や工具、そして製作のプログラムに使用されるPC(パソコン)で溢(あふ)れ返り、実質は四畳半、いや、三畳少しの狭さになっていた。その中で浩次は、ただひたすら機器を作り続けていた。
 突然、浩次は、その機器を手にした。
「よし! これでいいだろう」
 一応、完成した手ごたえに、浩次は思わずつぶやいた。浩次が作っていたのは照射銃である。形状は、ただの小型ピストルに似ていた。こんなものを世間で公然と見せれば、不審尋問されて警察沙汰になるのは必死だ・・と思えた。しかし幸い、その照射銃は小型で、いわば小型式リボルバー拳銃のような目立たない代物(しろもの)に仕上がっていた。ただ、その照射銃の殺傷力は皆無で、真逆に悪い心根の者を正義の味方へと変えるものだった。
「ハハハ…」
 浩次は、まるで自分が正義の味方にでもなったように気分がよかった。そして、テロリストなんか、この気分の真逆なんだろうな…と思った。そう思った途端、俄(にわ)かに腹がすいていることに気づいた。そうなるともう、いても立ってもいられない。浩次は安アパートを飛びだしていた。
 飛びだして一軒のパン屋の前へ来たとき、手に持つ銃を服の内ポケットへ収納した。遠目に見えたのが、あどけない女性店員だったからだ。実は、ほんの今まで店頭で試(ため)す気でいたのだ。それが、あどけない女性を見て、銃の必要がないと判断したのだった。
「あの…そこの揚げパンを三個、下さい」
「はい!」
 白い帽子に白い制服の若い女性店員は、愛想いい笑いを浮かべてガラスの陳列ケースを開けると、トングで浩次が指さす揚げパンを袋へ入れた。
「450円になります」
「あっ! …はい」
 財布には計算したかのように500円硬貨が一枚あり、浩次はそれを渡していた。袋と引き換えにそのコインを受け取ると、女性店員はレジから50円を出し、レシートに乗せ浩次へ返した。
「案外、安いんだね…」
 浩次は財布の中身と反比例した言葉を口にした。その原因を生物学的に紐解けば、雄性が雌性の魅力に引き付けられた・・とでもいえるものだった。
「えっ? ああ、はい! ありがとうございました…」
 女性店員の言葉のあと、浩次は軽く礼をすると店を出ていた。すっかり照射銃のことは忘れていた。歩きながら、ポケットをまさぐり、照射銃のことを思いだした。拳銃を凶器などと世間ではいう。では、これはどうなんだ? 浩次は自問自答した。吉器か…と少し笑え、声を上げた。通りすがりの者が妙な目でそんな浩次を振り返った。まあ、こんなケースでの使用はまずいな…と思った。アパートが近づいてきた。冷蔵庫には、きのう買ったミルクが冷やしてある。それに朝、茹(ゆ)でた卵が2個あった。その中の1個を食おう。それで十分だ…と浩次は思った。
 案外早く、照射銃を試す機会は訪れた。大学院はすでに単位修得を終え、修士論文もほぼ完成近くだったから、浩次は気軽に大学の門をくぐることが出来た。浩次が受けてきた講義の中で、学生の誰もから、いや世間一般の誰もから毛嫌いされるだろう・・と思われる醜悪な教授が一人いた。そんな教授がこの世に存在していいはずがなかろう…と誰もが認める毒々しい教授であった。獄山(ごくやま)といった。だが、直接、犯罪に手を染めたり悪に手を貸す軽輩ではなかった。ひとつひとつの行動が周囲の者を悪くする魔力を秘めた男だった。浩次はこの獄山教授に的(まと)を絞った。卒業してからでは時期を逸する・・と思えた。となれば、問題はその絶好の機会を探(さぐ)ることだった。
「どうした? 紅葉山君…。君は私のお蔭で卒業できるだろ? なにも心配することはないじゃないか、ふふふ…。いっておくが、これは犯罪じゃないぞ」
 そういうと、獄山教授は、半ば吸った煙草をポイ捨てると、足でもみ消した。
 浩次にすれば、むかっ腹が立つ振る舞いだった。思わず胸倉(むなぐら)を捕(つか)まえて殴(なぐ)りとばしたい衝動に駆(か)られた。しかし、浩次はその悪意を善意で返した。おもむろに潜(ひそ)ませた照射銃を背広の内ポケットから出すと、シュ~~っと、さもガススプレーを噴射する要領で、銃の引き金を引いた。特殊光線が獄山教授へ照射された。教授はその眩(まばゆ)さに顔をそむけた。
「な、なにをする!」
「いえ、べつに…」
 浩次に悪意とか殺意はまったくない。ごく普通の冷静な声でそういうと、銃を内ポケットへ収納した。五秒後、獄山教授の性格は一変していた。
「いやあ~、私はどうしたんだろうね? あっ! 紅葉山君じゃないか。君はよく頑張ったよ。君の努力は私も認めるしかないな、はははは…。いや、失敬。間違いなく学位は付与されるだろう、おめでとう。はははは…愉快愉快!」
 獄山教授はそういうとポイ捨てた煙草を拾い、背広の内ポケットへ、ばつ悪そうに入れながら立ち去った。浩次は成功だ! と思った。
                        THE END

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2014年6月19日 (木)

冬の風景 特別編(2の2) クリスマス・イヴ

    冬の風景       水本爽涼

    特別編(2の2) クリスマス・イヴ    

 まあ、どこのご家庭でも クリスマス・イヴとかは知っておられるだろうし、やられる行事であろう。父さんや母さんにすれば、正月へと続く臨時出費の嫌な季節の始まりなのかも知れない。じいちゃんには余り関係ないようだが、僕、いや僕と愛奈(まな)にとっては絶好のシーズンが到来したと言えよう。で、今年の我が家がどんな クリスマス・イヴ模様だったか…について、少し語りたいと思う。えっ?! 語って貰(もら)いたくないって? そこはそれ、我慢してお聞き願いたいと思う。
「ほら愛奈! おじいちゃまからよ」
 母さんが、照れて差し出したじいちゃんの縫いぐるみ人形を愛奈に手渡した。愛奈は手にしたが、微笑(ほほえ)むだけで、バブバブだ。詳しく言えば、気にいったのか、そうでないのかが、まったく判明しないのである。愛奈語で何やら訴えておられるが、聞く者をして理解させるまでには至らない。それでも、家中を和(なご)ませる不思議な光を放っておられ、僕はお見事! と思った。じいちゃんの照かる丸禿(まるは)げ頭は目に見える光線を放出するが、愛奈の場合はオーラなのである。
 ワイワイガヤガヤ[愛奈の場合はバブバブ]とケーキ、母さんの手料理で家族五人が浮かれ、一時間半ばかりでお開き[散会]となった。タマやポチも特別食で満足だったろう。じいちゃん、父さんの二人は、すっかり出来上り、酔いの回った赤ら顔でフラフラと縁側廊下に座り込んだ。この先の展開がどうなるか…は、愛読者の皆さんなら、よくご存じだろう。事実、二人は会話することなく、決められた作業のように将棋盤へ駒を並べ始めたのである。
「正也! すまんが、音楽を止めてくれ」
 父さんがお酒の勢いを借り、彼にしては幾らか偉そうに僕に命じた。 クリスマスの雰囲気を盛り上げるため、彼はCDレコーダーでクリスマス・ソングの軽音楽を流していたのだ。こういう細かな演出は、さすが宴会部長だけのことはある…と思えた。
「うんっ!」
 可愛い返事を一つして、僕は椅子を立つとCDレコーダーをオフにした。母さんは愛奈を乳幼児ベッドへ入れ、後片(あとかた)づけを始めた。
「正也! 愛奈を頼むわ」
「うんっ!」
 また可愛く返したがどう頼まれていいのかが分からない。しかし、見張り番は、すでにやっていたから、見張ってりゃいいんだろう…とは思えた。ところが、そんな僕の思惑は徒労(とろう)に帰し、彼女はもう、スヤスヤと寝息を立てているのだった。和みのオーラを放ち過ぎ、彼女は彼女なりに疲れたのだろう…と僕には思えた。タマとポチは満腹感で同じくスヤスヤだ。じいちゃんと父さんは将棋の駒をパチパチで、母さんはキッチンでカチャカチャと片づけている。僕もムニャムニャと眠くなり、子供部屋へ引き上げようとした。
「正也! 歯を磨くのよっ!」
 やはり、来たか…と思えたが、「は~い!」と、母さんが投げた小柄(こづか)を無刀取りで払い落とし、僕は子供部屋へと撤収した。いい クリスマス・イヴだ…と、また思えた。欲しかったラジコンが入手できたからだ。僕も現金なもんだ…とまた思え、反省した。

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2014年6月18日 (水)

冬の風景 特別編(2の1) 改造内閣

    冬の風景       水本爽涼

    特別編(2の1) 改造内閣    

 寒い日が続いている。我が家も愛奈(まな)が一人前? に当選して家事委員会に出席するようになり、内閣の改造が行われた。まあ、彼女の場合は委員会出席といっても、もちろん委員として発言できる訳もなく、飽くまでもバブバブと野次を飛ばす一議員としての出席である。
「ほれ! 買ってきてやったぞ」
 父さんが自慢げに威張って母さんに言った。滅多なことで彼が威張れることはないから、今日はいつもより大きめの声だった。
「こんなのしか、なかった?」
 母さんは父さんが買ってきた愛奈用の椅子をシゲシゲと見ながら言い返した。
「なんだ! お前が座る訳じゃないだろ? いいじゃないか、これで…。なにが不足だ?」
「色合いが少しね…。私好みじゃないから…」
 そこへ、じいちゃんがスウ~っとやってきて、割って入った。
「少し派手ですな、確かに…。恭一、換えてきなさい」
「えっ! 今ですか?」
 父さんは寒さに身を竦(すく)めた。
「あの色合い、なければ、こんな」
 母さんは乳児用ベッドの方を指さし、次いでエプロンを指した。
「分かった。…じゃあ、もう一度、行ってくるよ。えーと、領収書は…」
 父さんは買った領収書を確認すると、椅子を持って家を出た。議長席のような少し高めの椅子である。実は数日前、そろそろ愛奈もな…という会話が台所テーブルを囲んで成立していたのである。今、テーブルに座る位置は、じいちゃんの対面に父さん、じいちゃんの左横に僕、僕の対面[父さんの右横]に母さんの計四人が座っている形だが、内閣改造により、新たに愛奈の席(ポスト)を設けよう…というものだった。位置は僕と母さんを挟(はさ)んで、つまり僕から見れば左90°の位置、母さんからは右90°の位置に座るということだ。だから母さんからは愛奈の左横顔、僕からすれば右横顔が見えるように座る席(ポスト)である。この案件は全員一致で承認され、愛奈は目出度く独立を認められた格好だ。とはいえ、日本とアメリカのように、母さん抜きの愛奈は有り得ないのだった。両国が対等関係を築くには今後、20年ばかり、かかるように思えた。
 さて、内閣改造にともない、新たに愛奈を見張る役職が設置された。それは風呂の終(しま)い番のように巡るもので、母さん以外の僕、父さん、じいちゃんが巡ぐる役職となった。というのも、愛奈がハイハイをし始め、紐で遠くに行けないようにしてあるものの、なかなか油断ならず、侮(あなど)れないからだった。危険なものを飲み込んだり、壊(こわ)したり、落としたりetc.の諸事を見張る役職である。じいちゃんは子守りは苦手だと言っていたが、見張り番なら異論はない! と承認に加わり、拒否権は発動しなかった。もちろん、この役職は母さんがいない時だけに適用される特別法の色彩が濃かった。それと、愛奈を入浴させる役職に父さんが任命された。彼自ら買ってでた人事案件の原案承認である。
 かくして、愛奈を含めた新体制の正式な内閣が発足した。タマとポチには身分上の変動がなく、彼等は引き続き湧水家の衛視[護衛官、保安官兼務]を拝命することとなった。

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2014年6月17日 (火)

冬の風景 (第二十話) 古風

    冬の風景       水本爽涼

    (第二十話)  古風    

 今の時代、凧揚げに駒回しetc.は、およそお呼びがかからない子供の玩具(おもちゃ)である。ところが、僕の住む界隈(かいわい)では、どうしてどうして、これらに人気があるのだ。いわば、一種の隔離された昭和の佇(たたず)まいが残る地域、とでも言えるだろうか。開発は都会のようにされないが、かといって今の時代にとり残されている訳でもない。現に、父さんの書斎にはパソコンがあるし、僕だってゲームソフトは知っている。しかし、気分が馴染(なじ)まないのだ。じいちゃんという師匠の影響も少しはあるのだろうが、長閑(のどか)な生活が合い、現代風は似合わないのだ。古風を悪く言えば、時代遅れである。この感覚を持った人を時代遅れというのなら、僕はそれで結構だ、と言いたい。そして逆に、あなた方は進歩したんですか? と問いたいくらいのものだ。確かに文明は進歩したようだが、人は進歩したのだろうか? と思えることも、しばしばだ。テレビで流れる、おぞましいニュースを知るにつけ、愛奈(まな)のようにオギャ~! と泣いて洩(も)らすお人の方が偉いと思える。無邪気で罪がない…とは上手く言ったものだ。こんなことを思う僕だが、少しずつ世の汚(けが)れに染まって悪くなっていくのだろうか? …考えるだけでも、ああ嫌だ。じいちゃんの寒稽古は、そんな僕を戒めるのに役立っている。父さんは滝に打たれるようにじいちゃんの雷を忍んで邪気を払う。母さんは頭の秀(ひい)でたキレ味で邪気を遠ざける。じいちゃんは一刀のもとに斬り捨てる気合いで近づけない。僕もじいちゃんに頼らない誓願を立てて神様や如来様を目指そうと思う。…これは生きてるうちは無理そうだが。いや、いやいやいや、その心構えで古風に生きていく人間がいたとしても、いいように思える。いや、いいに違いない。とかなんとか言ってるうちに、大きくなった愛奈に、『お兄ちゃんって、時代遅れね…』と笑われるかも知れない。しかしまあ、その古風な発想が理に叶(かな)っているなら、それもいいだろう。逆に、『お前は、世に染まり過ぎだ!』と、じいちゃんのように一喝(いっかつ)できる人間になりたいと思っている。

 

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2014年6月16日 (月)

冬の風景 (第十九話) お誕生会

    冬の風景       水本爽涼

    (第十九話)  お誕生会    

 愛奈の話題ばかりで恐縮だが、すでに彼女は我が家の一員として、その重要な部分を占める存在になりつつあるのだ。そんなことで、どうしても省(はぶ)けないのだから、お許しを戴(いただ)きたい。
 さて、お誕生ケーキのことは少し語らせてもらったのだが、その数日前が愛奈のお誕生会だった。とはいえ、赤ん坊の彼女がケーキのローソクを吹き消すことなど出来る訳もなく、実際のところは彼女以外の四人のパーティに他ならなかった。要するに主役抜きのドンチャン騒ぎである。現に、愛奈は開催中、スヤスヤと乳幼児ベッドで眠っておられたのだった。それはともかく、お誕生会は盛大に、とり行われた。愛奈が分かる年になっていたら、恐らく怒るに違いないと思われる浮かれようだった。父さんが気分を出そうと茶の間を少し装飾し、雰囲気を盛り上げた。
「お前は、この手のことは得手だなあ…」
 じいちゃんが見回しながらそう言ったのだが、確かに…と僕もそう思った。会社での忘年会や新年会、慰安旅行での彼の活躍ぶりは凄(すさ)まじいもので、大よそ人々をして、これが父さんか…と疑わせるほどの余興だったらしい。まあ、じいちゃんも僕も、その姿を直接、見た訳ではなかったのだが、母さんの話によれば、どうも確からしかった。
「いやあ…」
 じいちゃんに褒められ、父さんは照れたが、まあ僕が茶の間を見回してもそう思えたのだから、強(あなが)ち大げさな話ではない。とにかく、その華やいだ茶の間で飲めや歌え…これは少し大げさだが、そのパーティ模様となった訳だ。いつもはキッチンで食べる母さんの手料理も、お正月、クリスマスetc.と同様、茶の間へ運ばれ食された。愛奈が僕ぐらいなら、勝手にやってりゃいいわ…と、膨(ふく)れたはずだ。タマやポチもその恩恵に浴し、お零(こぼ)れを頂戴できたのだから、ニャ~! ワン! だったろう。愛奈は、ほんの少し顔を見せ、ほんの少しを戴いただけで寝かされたのだから、その盛大な模様を見られた訳ではない。むろん、見ていたとしても意味不明だったとは思うが…。約一時間半、行われたお誕生会も、かくして主役抜きの家族慰安に終始した・・というお粗末な湧水家の逸話である。外は一端、やんだ雪がまた舞い始め、寒い一日だった。

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2014年6月15日 (日)

冬の風景 (第十八話) 育つ

    冬の風景       水本爽涼

    (第十八話)  育つ    

 楽しかった冬休みも終わり、僕の気分は、またお通夜になっていた。相変わらず寒風吹き荒(すさ)ぶ中を日々、学校へ歩いて通わねばならないのもその理由の一つではあるが…。しかし、愛奈(まな)の成長が毎日、見られるというメンタル面の癒(いや)し効果もあり、そうはテンションが下がらなかったのは幸いだ。人は育つのだ。育(はぐく)まれて育つ…まあ、育まなくても子は育つのだが、普通は全(すべ)てに言えることではないだろうか。社会に育まれて育つ。…父さんは別として、まあ言えるだろう。両親とじいちゃんという師匠に育まれて僕は育つ。末は博士か大臣か、はたまた著名人か…まあ、そんなことにはならないだろうが…。愛奈は母さんに育まれて育っている。これは誰もが認めるところだ。じいちゃんは? と腕を組めば、自然によって育まれ続ける尊いお方に思える。僕にはじいちゃんが人間とは思えないのだ。後期高齢者であの体躯、あの精神力、そして、あの行動力…とてもとても尋常の人とは思えないのだ。母さん…このお方も並みの人とは思えない節(ふし)がある。どう育まれれば、ほほほ…となるのだろうか。世界とはいかないまでも、日本七不思議の一つと言えるだろう。タマとポチは間違いなく僕によって育まれ、育てられている。彼らは僕を師匠、と思っているのだろうか。いや、いやいや…それはないだろう。大切にしてくれる人、よく見る人…くらいは思ってくれていると信じたい。
「あなたは食べられないからね…」
 と、バブバブやっている愛奈を横目にニタリ! とし、もっと食べられるのに、彼女は。ほんの少しを口に入れてもらっただけで、ケーキのかなりの部分をせしめた。早や、初めてのお誕生日が巡り、紛(まぎ)れもなく愛奈は一才となったのである。お目出度いこと、この上ない。そのケーキを、せしめた僕は悪い兄だ。この借りは出世して…これは余り期待できないが、必ず返すつもりだから、今はバブバブとやっていて欲しい。この話の続きは後日、語らせてもらおうと思っている。

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2014年6月14日 (土)

冬の風景 (第十七話) 音感教育

    冬の風景       水本爽涼

    (第十七話)  音感教育    

 洩れ聞くところによれば、子供は産まれる前から音の影響を受けるそうだ。胎教…とか言うそうだが、生後の愛奈(まな)に母さんが音感教育を始めた。自分のような女性になって欲しいと願ってのことなのだろうが、最近では愛奈が眠る前には子守唄がわりの軽音楽をBGMで流している。最初のうちは寝つかなかった愛奈だが、上手くしたもので、今ではその軽音楽が流れると、十中八、九は眠るようになった。少しパブロフの犬の条件反射的な感がしないでもないが、ともかく寝つくのだった。
「正也、あれは何という曲だ?」
 音楽関係では演歌と懐メロ専門のじいちゃんが、ふと僕に訊(き)いた。ちょうど離れでお茶を…正確にはお茶菓子を戴いていたときで、師匠の話を無碍(むげ)に聞き流す訳にもいかなかった。
「…確か、チャイコフスキーの白鳥の湖だと思うよ」
「んっ? チャコフスキーの白鳥の舞、か…」
 僕は、違う、違う! とも言えず、思うに留めた。
「なんか心が落ちつくのう…」
「そうだね…。愛奈に母さんが聞かせてるんだ」
「ほう、未知子さんがな。あの人のやることだ、間違いはなかろう」
「音感教育とか言うそうだよ」
「音感教育か…それは大事だな。恭一のようになれば偉いことだからな、はっはっはっ…」
 じいちゃんは急に顔を真っ赤にして笑いだした。父さんの音感がかなり悪いことは、彼のハーモニカで僕も熟知していたが、じいちゃんは、そのことを言ったのだ。
 チャコフスキーの白鳥の舞? が流れると、タマも玄関のポチも動→静へと行動が変わるのは不思議に思えた。ただ、じいちゃんは益々、目が爛々(らんらん)と輝いて行動的になるのだった。僕は、といえば、全(まった)く変化はない。音感教育など、必要なしなのである。

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2014年6月13日 (金)

冬の風景 (第十六話) しみじみ

    冬の風景       水本爽涼

    (第十六話)  しみじみ    

 今年も一年の汚(けが)れわ掃き消すかのように除夜の鐘がグォ~~ンと鳴っている。皆、しみじみとその音に聴き入る。そこへ愛奈(まな)が洩(も)らしたのかオギャ~~! とくる。全員に一瞬、笑みが零(こぼ)れ、母さんは乳幼児ベッドへと走る。去年まで僕、いや、誰もが知らない場面が展開されていく。それでいて、誰もがそのことを話題としない。特別ゲストがレギュラーの席を占めることがそう遠くないことを皆、分かっているからだろう。
「今年も絶妙の味ですな…」
 年越し蕎麦(そば)を啜(すす)りながら、じいちゃんが小声で言った。母さんは乳幼児ベッドにいるのだから聞こえるはずもない。父さんが、そう言おうとして、やめた。触らぬ神に崇(たた)りなし…か、と僕には、しみじみ思えた。じいちゃんもミスにすぐ気づいたのか、罰(ばつ)悪く黙った。年が変わる前に、こうして、しみじみするのは何故(なぜ)だろう…と蕎麦の残り汁を吸いながら、しみじみ思った。その半面で、まだあるかな…と追加の蕎麦を催促する気持もあった。
「…少し違いますね。向こうのは」
「ああ、あれは賞金寺の鐘だ。鐘にも、いろいろある。お前とわし、正也がいるようにな…」
 父さんは語らず、黙って頷(うなず)いた。我が家での年越しは静かで、しみじみとしている。テレビをつければ、ワイワイと浮かれて楽しいのだが、それでは味がない。囲碁でも九段の偉い先生がそう語っておられたが、味がないのだ。…ちょっと意味が違うようにも思えるが、まあ、いいだろう。
 母さんも愛奈が寝入り、テーブルへと戻ってきた。
「もう少しある?」
 蕎麦のお代わりを催促すると、「あるわよ。ちょっと冷めたかしら…」と言いながら、母さんは、また立った。やれやれ…の母さんをまた立たせた僕は、しみじみと罪悪感を抱いた。自分でやりゃいいじゃないか! と普段は湧かない心が怒っていた。
「あっ! 母さん、もういいや…」
「そう? …あるけど。変な子ねぇ」
 母さんは少し温めた鍋を持ってきた。僕は蓋(ふた)を開けて戴いた。口と行動が真逆だった。じいちゃんが笑い、父さん、母さんも笑った。
「ご遠慮、召(め)さるな、正也殿!」
 じいちゃんのお武家言葉が炸裂(さくれつ)した。僕はまだまだ人間が出来てないな…と、しみじみ思った。また除夜の鐘がグォ~~ンと鳴った。タマがビクッ! と目を開けた。

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2014年6月12日 (木)

冬の風景 (第十五話) カルタ大会

    冬の風景       水本爽涼

    (第十五話)  カルタ大会    

 我が家で恒例の百人一首カルタ大会が開かれたのは正月二日の午前十時~だった。これは誰が言って決めたという行事ではなく、遥か昔のlong,long time ago、じいちゃんが若かった時代から湧水家に受け継がれてきた伝統行事である。だから、体育会系で肉食男子のじいちゃんも事、カルタに関しては熟知していた。文科系で草食男子の父さんは当然、得意とするところで、我が意を得たりとばかりにガッツをだした。僕も知らぬ間に奮起するようになり、百枚の札(ふだ)のうち、ほとんどを詠(よ)めるまでになっていた。ただ、叔母(おば)さんが従兄弟(いとこ)と来たときは絵札のみの坊主めくりへと変化した。もちろん、従兄弟と二人きりのときだけだったが…。
 好きな札は、むらさめのぉ~~の寂蓮法師さんの作だ。じいちゃんが同じ坊主頭だから好きだ、ということではない。霧たちのぼるぅ~秋の夕暮れぇ~…この下(しも)の句のなんと雅(みやび)な自然描写なことか。言っておくが、じいちゃんの場合は坊主頭なのではなく丸禿(まるはげ)頭なのである。年季が入った照かる頭で、違いは歴然としたものだ。
 大会には母さんも加わったが、詠み人役で、選手は三代の男子三名だった。佳境に入ったところで愛奈(まな)が泣き始め、大会は一端、順延となった。詠み人がいなければ札の取りようがなく、お手上げだ。ちょっと疲れたところだったので、三人には、いい頃合いの休憩となった。
「なかなか、やるな…」
「いや、父さんも…」
 じいちゃんと父さんは互いの健闘を称(たた)え合ったが、取り札は僕が一番、多かった。学校で選手に選ばれた僕だから、当然といえば当然だった。これは決して自慢などではなく、クラスは二位だったのだからなるほどだ。賢明な母さんの優性遺伝子を引き継いだからに違いなかった。父さんの…まあ、それは言うまい。
 三人で餅を焼いて食べているところへ愛奈をあやし終えた母さんが戻ってきた。しばらくは母さんも寛(くつろ)ぎ、ふたたび大会は再開されたが、すでに勝負あり! で、二位を父さんとじいちゃんが競(きそ)うという構図だった。
 昼を少し回った頃、大会は無事、閉幕した。
「正也は、さすがだな。わしの孫だけのことはある!」
「そうですね…」
 お二人にお褒めの言葉を頂戴し、悪い気分はしなかったが、その実(じつ)、どうでもよかった。気分はタマやポチと一緒で、寝ていた。

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2014年6月11日 (水)

冬の風景 (第十四話) 明るい

    冬の風景       水本爽涼

    (第十四話)  明るい    

 愛奈(まな)が迎える初めてのお正月が巡ってきた。例年になく皆、ルンルン気分で、動きも、どことなく華やいでいるように僕には見えた。こう言う僕自身がルンルン! なのだから、余計にそう見えたのかも知れないのだが…。
 お正月の準備は、とり分けて外見上の変化があった訳でもなく、愛奈が生まれていなかった去年と気分以外は同じだった。
「正也、その裏白をこっちへ!」
 数日前、僕が山で採ってきた裏白は約30枚ばかりだったが、洗い場の湧き水に浸けてあった。それを水切りして拭き、じいちゃんに渡した。じいちゃんは手馴れた仕草で注連縄(しめなわ)に付けて飾った。愛奈独特の△※?◎□…という乳幼児語が、母さんのあやし言葉に混ざって時折り聞こえた。聞こえるだけで、なぜか場が和(なご)み、明るくなる。それがじいちゃんの手元にも伝わって楽しげだ。彼女の声には我が家を明るくする目に見えない癒(いや)し効果があるようだ。
「ごくろうさまです…」
 しばらくして、母さんがお茶を淹(い)れて持ってきた。僕は目敏(めざと)くお茶菓子を窺(うかが)った。
「今年は愛奈がいますから、賑やかな正月でしょうな」
「そうですわね、ほほほ…」
 今年ではなく正確には来年の…だが、じいちゃんの威厳の前には、そういう細々(こまごま)とした誤りは影を潜(ひそ)め、どこかへ吹き飛ぶ。母さんの、ほほほ…はPTA副会長に就任されてから多用される節(ふし)がなくもない…と思いながら僕は聞いていた。今や、偉いお人なのだ。
「私に出来ることがあれば…」
 父さんが大かた出来上ったのを見計らったように書斎から現れた。じいちゃんはチラッ! と父さんを一瞥(いちべつ)した。
「もう、終わったわい…」
 愛奈効果のせいか、いつもより声が小さい。遠雷だな…と僕はニタリとした。とすれば、落雷の避雷針効果も愛奈にはあることになり、益々、明るい日常が期待される。
 ひと通りの飾りつけが終わると、家の中は俄かに正月気分が溢(あふ)れてきた。母さんの手料理も整い、いよいよお正月を待つだけとなった。美味しい料理に諸収入による財源の増加、独楽(こま)回しなど…の楽しみで心がうち震える。…とは、少し言い過ぎだが…。まったく他人事のようにタマは毛並みを動かして眠り、ポチは欠伸(あくび)をして眺(なが)めていた。

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2014年6月10日 (火)

冬の風景 (第十三話) 離乳食

    冬の風景       水本爽涼

    (第十三話)  離乳食    

 すべてに初期、中期、後期とかがある。じいちゃんは恐れ多くも後期高齢者である。…とは、テレビで流れていた偉いお方の言葉だが…。愛奈(まな)も母乳一辺倒から、今や固めの離乳食を食べられるまでになった。大したものだ。…まあ、僕を含む誰もがその道を辿ってきた訳だが…。
 雪がすっかり消え、そろそろ春が…と思っていたら、また寒波が来襲し、気温は観測史上、最低を記録した。父さんは、ガタガタ震えながら仕方なく出勤していった。哀れな後ろ姿は、見る者をして涙させずにはおかないだろう…と僕には思えた。
「あいつは、まあ、アレだけのものだ…」
 諦(あきら)めともつかぬ言葉をじいちゃんが僕の横で漏(も)らした。後期か…と思った。愛奈の場合は同じ後期でも皆の仲間入りをして食べられるという初期へ変わるんだからいい。時折り、生えた歯が気持悪いのか、ぺチャぺチャと口を動かして笑う。美人だし可愛い。母さん似でよかったよかった…と僕も笑い返すと、母さんが呼んだ。
「正也! 何してるの? 遅刻するわよ!」
 しまった! もうそんな時間か…と、急いで家を出た。つい先ほどまで横にいたじいちゃんが、もう庭掃除をしている。頭は相変わらずの照かりようで結構なことだ。
 その夜は久しぶりに全員の大笑いとなった。もちろん愛奈は特別ゲスト程度だったが…。
「もう、固めのものもモグモグやりますのよ。まだ、ミルクも飲ませてますが…」
「ほう、そうですか。それはそれは…」
 どうも、じいちゃんと母さんの会話は他所(よそ)行きだ。
「もう、母乳はいらないですしね」
「お前が言うな!」
 父さんは黙ってりゃよかったと小さくなった。救いは、そう言ったじいちゃんが笑顔だったことくらいだろう。
「この前まで重湯(おもゆ)みたいだったのにね」
「そうそう、そうらしいな…」
 僕が言うと一も二もない。よく知らない癖(くせ)に、じいちゃんが合いの手を入れる。貴重な、ただ一人の弟子だから、可愛く、大事にしたいのだろうか…と思えた。そんなことも知らぬげに、母さんに抱かれて今し方まで笑っていた愛奈は、もうスヤスヤと深い眠りについていた。これだけ賑(にぎ)やかなのに…と思えば、なかなか侮(あなど)れない。

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2014年6月 9日 (月)

冬の風景 (第十二話) かまくら

    冬の風景       水本爽涼

    (第十二話)  かまくら    

「こりゃ無理だっ! 正也、今朝の稽古は雪掻(か)きだな、ははは…」
 じいちゃんは窓ガラスから庭を見回して僕に言った。近年にはないドカ雪で、約40㎝は積もったろう…と思えた。当然、外での早朝寒稽古は無理で、じいちゃんの離れにある道場で竹刀の素振りを軽くして身を温めた。さて! とばかりに意気込んで、剣道を雪掻き作業へと切り変えた。しばらく雪を掻いていると、じいちゃんが手を止めた。
「どうだ、正也…かまくら、でも作らんか。飯(めし)のあとでな」
「うん!」 
 学校へ行くならともかく、冬休みでは師匠に断る正当な理由が見つからない。まあ、少々のことなら、どちらにしても、じいちゃんの威厳の前に平(ひれ)伏すしかなかったのだが…。そんなことで、朝ご飯のあと、かまくらを作る話が纏(まと)まった。とはいえ、かまくら作りのイメージが僕には全然、浮かばなかったのである。
「ああ、かまくらですか…。懐かしいですね。私も作った記憶があります」
「そうか? お前は本ばかり読んどったぞ…」
「ははは…学校の話ですよ。確か、小学校五、六年でしたね」
「確かにしては曖昧(あいまい)だな」
「はあ、なにせ子供の頃の話ですから」
「それは、まあな…」
 父さんとじいちゃんの食後の話である。愛奈(まな)も雪明りのためか、いつもよりテンション高めで、バブバブとやっている。母さんは、「買物に出られやしない…」と幾らか不満げに愚痴る。それを聞かぬ耳で、父さんは新聞を手にし、茶を啜る。で、その三人を横目に、じいちゃんと僕は勇ましく出陣した。
 通り道は雪が掻いてあるから、スンナリと移動でき、庭へと回る。新雪を丸めて次第に大きくしていくじいちゃんに続き、僕も真似(まね)て大きくする。ほどよいところで固め、それを内側へ少しずつ傾けながら曲線状に積み上げていく。ついに最上部をじいちゃんが狭(せば)め、屋根が塞(ふさ)がった。大きさは、じいちゃんには少し小さめだったが、僕には、ちょうどいい具合だった。かまくらの中は薄暗かったが、嘘のように暖かかった。
「北国では、夜に灯りをつけて神様を祭るそうだ…」
「そうなの?」
 真っ白の自然の中で、しばし、じいちゃんと俗界を離れた。その夜、タマとポチを中へ招待した。寒がりのタマは迷惑顔だったが、ポチは、なんか嬉しそうだった。

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2014年6月 8日 (日)

冬の風景 (第十一話) 早いもので…

    冬の風景       水本爽涼

    (第十一話)  早いもので…    

 愛奈(まな)が生まれたのは今年のお正月が過ぎた頃で、まだ世間にお目出度(めでた)さが残る寒い日だった。だから初春とはいえ、冬将軍がどっしり居座る真っただ中で、その冬がふたたび巡ってきた訳だ。常套句(じょうとうく)として、早いもので…と言うが、まさに、それだった。少し世間のことが分かってきたのか…いや、まあそんなことはないと思うが、彼女も少しは我が家の一員として馴染(なじ)んできた。今や、離乳食を食べることで存在感が一層、増している。
「ほれっ! じいちゃんだ…」
 相変わらずじいちゃんは赤ん坊が苦手なようで、あやし方が、ぞんざいである。母さんは父さんのように嫌な顔も出来ず、苦笑していた。しばらくすると、いつもなら邪魔な父さんが書斎から出てきたのを幸いに、母さんは声を投げた。
「あなた! ちょっとこっちへ来て! 私、昼ごはんの準備するから…。正也も手伝って!」
 部外者としてのんびり構えていた僕に、とんだお鉢が回ってきた。このお鉢は骨董(こっとう)として悪い方だ。早いもので…時計は昼前を指していた。どうも休みの一日は、のんびり気分で時の経つのが早い。父さんは修理できず、結局、パーツを買い換えた電気炬燵に潜り込んで煎餅を齧(かじ)り始めた。早いもので…半ば袋を平らげたとき、じいちゃんが落雷した。
「馬鹿者! 昼前に…。正也ならともかく、お前は…」
 怒り心頭に発したのか、じいちゃんの声が止まった。父さんが母さんの声を無視したのは久しぶりの勇気だったが、じいちゃんがいたのは彼の手抜かりだったろう。渋々、重い腰を上げて愛奈を引き受けたから、話はそれでお終(しま)いになったが、危ういところだった。我が家はじいちゃんの被災を免れ、壊れることも燃えることもなかったから、やれやれだ。
 昼食が済(す)むと、上手くしたもので、じいちゃんの機嫌もすっかり元に戻った。早いもので…話題の主の愛奈は母乳を鱈腹(たらふく)飲んでスヤスヤ…だ。外は粉雪が舞いだしたが、我が家は床下暖房と炬燵でポカポカだ。タマもポチものんびり寛(くつろ)いで横たわっている。平和な日々を有難く思わねば罰(ばち)が当たるだろう。日本は、いい国なのだから…。

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2014年6月 7日 (土)

秋の風景 特別編(2の2) 硬いもの

   秋の風景       水本爽涼

    特別編(2の2) 硬いもの

 じいちゃんの入れ歯がまた不調となり修理の運びとなった。食欲の秋だというのにさっぱりだ! と言いたげな顔つきでじいちゃんはお箸を手にした。しかし、いつやらの正月騒動のような不調ではないようで、一週間ほどでOKらしい。だから、そう落ち込んだネガティブさはなく、僕としては幸いだった。とはいえ師匠は、硬いものが食えない! と、嘆(なげ)いておられた。
「フガガガ…ガガ(煎餅は…硬いな)。フガガ、ガガフガフガ(そうそう、ドラ焼きの貰[もら]いものがあったな)」
 離れに僕が招待されたとき、じいちゃんは抜け歯語でそう言うと、立ち上がって戸棚を開けた。中には幾つかの菓子箱があり、まだ真新しかった。じいちゃんによれば、かつて剣道で世話になった弟子連中からの貢(みつ)ぎものらしかった。
僕はそれを有難く口中(こうちゅう)へ放り込んで頂戴した。じいちゃんは? と見れば、こんな柔らかいものが…と思えるほどフガフガとやっている。いつもなら一、二口で平らげられるものが、少し齧(かじ)っただけだった。に聞これじゃ愛奈(まな)の離乳食じゃないか…と思えたが、言わずに心に留(とど)めた。
「お父さま、今夜は雑炊(ぞうすい)にしておきましたわ。新しい牡蠣(かき)が手に入りましたの」
「フガガ!(それは、どうも!) フガフガフガ~(有難いですな~)」
 母さんは束の間、首を傾(かし)げたあと、離れから去った。
 夕飯となる頃、僕はポチの散歩から戻り、タマとポチにいつものように餌をやっていた。彼等は普通の硬いものなら大概は食べた。特にポチに至ってはスペアリブの硬い骨が好物らしく、宝物のように庭を掘って埋めた。いわば、秘密倉庫だ。そして、食べたくなった頃合いを見計らって掘り返し、ゴリゴリガリガリと食べてしまうのだった。愛奈はすでに今のじいちゃんより硬いものが食べられるから、じいちゃんは雑炊を啜(すす)りながら羨(うらや)ましげにチラ見する。母さんは愛奈に食べさせてから幾らか遅れて食べ始めるパターンが我が家には定着しつつあった。
「どうです? 父さん」
「フガガ、ガガフガ!(見りゃ、分かるだろ!)」
 父さんは正確き取れなかったのか、返さず語らなかった。その殺伐(さつばつ)とした間合いを消すかのように愛奈がバブバブとやり、場が和(なご)んだ。愛奈効果、ここにあり! とは、まさにこれだ…と思いながら僕は硬い沢庵をバリッ! とやった。次の瞬間、しまった! と思った。横のじいちゃんの手が一瞬、止まったように思えたからだ。僕はふた口めからモグッ、モグモグの静けさへと切り替えた。
「フガガ、フガフガ…(正也、気を遣わんでもいい…)」
 じいちゃんは笑顔で僕にそう言った。僕は抜け歯語が通訳できるから、父さんとは違い、聞き洩らすことは決してないのだ。母さんが愛奈を寝かせつけて食べ始めた。父さんはもう食べ終えて茶を啜っている。じいちゃんは、ようやく終えようとしている。師匠に気を遣(つか)う僕は態(わざ)と遅らせているから最後になりそうだ。まあ、母さんがいるからいいか…と思ったとき、タマと顔が合った。次の瞬間、ニャ~~と言ってタマは目を閉じたが、どうも、『あなたも大変ですね…』とでも憐(あわ)れむような声に聞こえた。日没が早まり、外はすっかり暗くなっていた。

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2014年6月 6日 (金)

秋の風景 特別編(2の1)  胡桃[くるみ]

   秋の風景       水本爽涼

    特別編(2の1) 胡桃[くるみ]

 皆さんは胡桃(くるみ)を食べる…なんてことは、ごく稀(まれ)じゃないだろうか。そこへいくと田舎暮らしの僕なんかは手馴れたくらいよく採って食べる。先だっても、いつもの森へ入り、少し早かったが実を採取した。まだ熟しきらない果肉は黄色くなっていたが、落ちるまでには至らず、柿を採る要領で竹竿(たけざお)に絡(から)めて落とした。さて、落とした実はザラついた岩場で皮を擦(こす)り取り、その後、小川の水で洗って一端、袋へと入れた。誰もが知っている胡桃の形状だが、殻(から)は頑強で硬いから、相当強い力で叩き割らないかぎり、中の実は食せない訳だ。その硬さはじいちゃんには及ばないだろうが、遥かに父さんよりは勝(まさ)っている。ナッツクラッカーとかいう道具で割れば容易(たやす)い。その実は栄養価に富み、僕のおやつ代わりにもなる自然からの恵みものなのだ。胡桃の木には夏だとクワガタとかカブトムシが集まっている。湿気のある日蔭を好む彼等は、幹の痛んだところに集まる。樹液がごちそうなのだ。今の季節はさすがに撤収ぎみだが、最近の温暖化で梅雨ごろにはその姿を見ることができるようになった。話が流れたので元に戻そう。
 収穫した胡桃の袋はズッシリと重く、大黒さまのように♪大きな袋を肩にかけぇ~♪で、家に着いたときは少し疲れてしまった。
「おお! 大収穫ですな、正也殿」
「はあ、まあ…」
 返す言葉に詰まり、僕はお茶を濁(にご)した。じいちゃんは茶通(ちゃつう)のお人だから、なかなか濁すのは難(むずか)しい。
「殻(から)のままだと腐らんからな。いつでも食えて重宝(ちょうほう)する。まあ、嵩(かさ)のわりにはチョビッとだがな…」
「そうだね…」
 ここは素直に返事するしかない。実は昨日(きのう)、じいちゃんが胡桃の話を持ち出したからだった。
「正也、明日(あした)、胡桃を採ってこい。柿、栗、キノコとスケジュールが押してるからな。今のうちだぞ」
「…うん、そうするよ」
 師匠に逆らうなどはもっての他だから、僕は従うことにしたのだった。
 母さんは料理の隠し味に胡桃を使う。僕はおやつ代わりに食べる。父さんも、「これは健康にいいからなっ!」と、彼にしてはアグレッシブな能書きを垂れ、薬代わりに食べる。愛奈(まな)はさすがにバブバブだが、他の家族全員は食べる。…いや、味わう程度の少量だが、概して食べる訳だ。タマとポチは内容物がきわめて少ないから見向きもしない。じいちゃんは僕に合わせるようにほんの少しだけを食した。なんでも、入れ歯だから、この手のものは不具合らしい。そのフガフガ話は理に適(かな)っている…と僕は思った。
 胡桃は他にも野趣ある利用法がある。二つを手に握り、殻同士を擦り合わせると、なんともいえないゴリゴリ…とかのいい音色を奏(かな)でるのだ。少し蛙さんの鳴き声にも似た音だが、僕なんかは、これでよく遊ぶ。テレビゲームなどは、まったく眼中にない僕だが、この胡桃合わせで俗界を離れる…とは、じいちゃんの影響、いや、師匠の影響が絶大であることは申すに及ばない。

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2014年6月 5日 (木)

秋の風景 (第二十話) 長袖(ながそで)

    秋の風景       水本爽涼

    (第二十話) 長袖(ながそで)    

 秋も深まると、そろそろ肌寒さを意識するようになる。この頃になると虫の集(すだ)きも弱まり、そろそろ冬将軍の『こんちわっ!』が気がかりになるのだか、今年は割合と早く、その声がした。木枯らし一号である。
「おいっ! 長袖にしてくれ」
 父さんが風呂上がりに母さんへ注文をつけた。それでなくても雑用が多い母さんは愛奈(まな)をあやしながら迷惑この上ない顔をした。無言で、『それくらい、自分でしてよっ!』とでも言いたげな視線だ。
「分かった、分かった…」
 父さんもそれを感じたのか、自らクローゼットへ向かった。久々に見るか細いパンツ一枚の父さんの姿…ああ、なんと貧相で哀れを誘うことか、と僕には思えた。じいちゃんには一年中、長袖という言葉が不要だった。我が師匠だけのことはあり、冬は寒風摩擦で身体から湯気を昇らせ、雪道を裸足(はだし)で闊歩(かっぽ)されるお人なのだ。ましてや、今の木枯らしの季節だから不要なのは必然だった。
「ふん! 情けない奴だ…」
 じいちゃんは父さんを一瞥(いちべつ)すると、風呂上がりの一杯をグビッ! と飲んだ。今夜はかなり早く出来上がっているのか、師匠の顔はすでに赤く、僕の前には茹(ゆだ)った大蛸(おおだこ)が一匹、寛(くつろ)いでいた。…この表現は少々、師匠に失礼になるから修正すると、赤ら顔の仏様が鎮座しておられた、となる。しかしこれは、逆にヨイショし過ぎに思える。要は、赤ら顔のご老人がおられた、くらいが相当だろう。まあ、長袖が年中不要なお人だから並みではない。そこへいくと僕は並みの代表だ。父さんほどではないから今は不要だが、もう少しすれば長袖が必要となるだろう。愛奈(まな)はセレブで至れり尽くせりだから、そんな気遣いは一切、必要がない。すべては母さんによって快適に暮らせるのだ。すでに風邪をひかないよう厚手の衣装に身を包まれておいでだ。タマは長袖を着る訳にはいかないから、冷気を避けるように毎年、お決まりの部屋の片隅で眠るようになった。そこへいくとポチは夏場のようにハァ~ハァ~とせず、益々、元気に動いている。どうも寒い方が向いているみたいだ。むろん、タマと同じく長袖は着られない。両者とも着られないが、厚手の毛並みがある。これからの季節、僕はそれを羨(うらや)ましく思う。母さんは家事労働で動き回っておいでだから寒い方が返って好都合なのだろう。とはいえ最近、薄手のブラウスはお召しになるようになった。セレブな実家から送られたブランドものだ。

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2014年6月 4日 (水)

秋の風景 (第十九話) 余裕

    秋の風景       水本爽涼

    (第十九話) 余裕    

 じいちゃんの財布は、ぶ厚い。いつも札(さつ)が二、三十枚は入っている。もちろん万単位の紙幣だ。さらに、そればかりではない。吊り下げられた腰袋には、硬貨の各種が放り込まれている。こういう人を余裕のある人というのだろう。そうはいっても、師匠がそれらを使うのは、ごく稀(まれ)な珍事なのだ。めったなことでは買物をしないし、戴(いただ)きもので事が足りると仰せだ。じいちゃんの言葉はズッシリと重く僕の心に響いたから、それ以来、僕も余裕のある額を財布へ入れている。とはいえ、それは札が一枚と貨幣が一応、ひと通りの一枚ずつなのだが…。あっ! じいちゃんとは違い、もちろん千単位の札である。
「正也! 悪いけど、おつかい頼むわね。この紙に書いてあるから…。お釣りは、いつもどおりでいいわ」
 いつもどおりとは、僕の諸収入にしてもよい、という意味だ。夏場ならともかく、この秋空に澄んだ空気を満喫しながらの買物は気分を高揚(こうよう)させるし、僕の財源の余裕ともなるから大いに乗り気だった。
 買物から帰ると上手い具合にお腹が空き、夕ご飯が大層、美味しいという効用もあった。さらに、ポチの散歩も一石二鳥で出来たからいい具合だった。マーケットには言ってあるから、ポチのリールを繋いで買物は出来た。これが一週に二、三度は見込めたから、僕は富豪になった。まあ、一度に百数十円だったが…。
 僕が子供部屋で諸収入の額を計算していると、そこへじいちゃんが現れた。
「おお! やはり正也殿は蓄財の才がお有りとみえる…」
 お武家言葉でじいちゃんはそう言った。意味が分からなかったので、適当に愛想笑いをしてその場を凌(しの)いだ。
 夕飯のあと、母さんが父さんに渋々、臨時の小遣(づか)いを渡した。なんでも同窓会があるとかで特別出資金らしい。主婦としては安月給の臨時出費なのだから余裕がなくなる。で、渋々の苦い顔になる訳だ。
 聞こえる虫の集(すだ)きは、どこか余裕があり、夜長にいい具合だ。愛奈(まな)は余裕で、おしめの換えを要求する。母さんは、まるで召使いだ。母さんの余裕ある姿を見られるのは花を生けているときとPTAの役員会へ出かける前ぐらいだろうか。最近は愛奈も乳母車で連れていかれるから、妹はいい迷惑だろう。父さんに余裕ある姿を期待するのは不可能に近い。書斎やトイレに逃げ込むのが関の山に違いない。しかし僕の湧水家全体としては、絶え間ない湧き水という大自然の恩恵に浴し、環境面の余裕は語り尽くせないほどあるから合格点だろう。

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2014年6月 3日 (火)

秋の風景 (第十八話) 運動会

    秋の風景       水本爽涼

    (第十八話) 運動会    

 また恥を世間に晒(さら)す日が近づいてきた。運動会である。運動神経は悪くなく、走りもそう遅い方ではないが、父兄の方々に芸能人のように写真やビデオを撮られるのはそう得手ではない。どちらかといえば、準備とかの裏方が好きだから、シャイな面も含めて芸能人向きではないだろう。顔もイケてない訳ではないと思うが、イケてるとも思えないから余計、そう思える。最近の運動会はオリンピックのような選手宣誓とかの構成が一般的になったが、幸いにも僕の学校では昔ながらの朴訥(ぼくとつ)とした古風な構成である。僕は、この運動会を大層、気にいっている。恐らく、永遠に続くことはないだろうが、続く限り続いて欲しい…と願うばかりだ。すでに僕の小学校の運動会は重要無形文化財の様相を呈しているのだ。
「正也、今年はじいちゃんも見に行くぞ!」
 来なくていいよ! とは口が裂(さ)けても言えず、「うんっ!」と可愛く言うに留めた。
「お前は、どうする?」
 じいちゃんが父さんを指名した。
「あっ! 私は仕事が…」
 父さんが運動会で仕事を休めた試しがないことは家族全員が知っている。愛奈(まな)、タマ、ポチですら知っている…とまでは言わないが、少なからず雰囲気は感じているのではあるまいか。
「…だろうな」
 じいちゃんが半ば諦(あきら)め口調で呟(つぶや)いた。
「あなたも一度くらいは、いらしてね。私の顔もありますから…」
「ああ…」
 母さんはPTA役員の手前、外聞を気にしておられる。僕としては返って好都合なのだが…。じいちゃんが来て、そこへ父さんが…。思うだけでも、おぞましく、ゾォ~~っと身の毛が、よだつ。口争いとまではいかなくても、じいちゃんによる小言が始まる可能性は否定できない。いや、かなり高いだろう。だから助かる…と、まあこうなる。
「今年は愛奈を皆さんに見て戴けるわ」
 母さんは笑顔で言うが、愛奈にしてみれば、デビューしたい訳でもないだろうに、哀れなことだ。いや、スヤスヤ出来ないのだから、いい迷惑かも知れない。

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2014年6月 2日 (月)

秋の風景 (第十七話) 赤とんぼ

    秋の風景       水本爽涼

    (第十七話) 赤とんぼ    

 随分と日没が早くなった。
「正也、これくらいでいいだろう…」
 じいちゃんと共同作業で落ち葉を掃いていると、師匠から終了のお声が届いた。「うん!」と可愛く返事して熊手(くまで)の動きを止めた。空は薄紅色に染まり、日没の斜光がオレンジ色で射し込む。小一時間も掃いていたから落ち葉が小山のようになっていた。じいちゃんに視線を向けると、麦藁帽(むぎわらぼう)の上に赤とんぼがフワッと乗った。じいちゃんは気づいていない。師匠は無言で熊手片手に離れの方へ歩き始めた。僕も慌てて後方に従った。
「明日は焼き芋だな!」
 笑顔でそう言われると、やはり嬉しいものだ。僕のような昔人間は、市販のお菓子よりもなぜか美味に感じるのだ。人工の味ではなく、自然の味はいい。とか言って、その実、シュークリームは美味しいから食べたいのが本音なのだが…。
 熊手を物置へ収納して母屋へ戻ろうとすると、じいちゃんが寄っていけ、と言う。無碍(むげ)に断ると、とばっちりの可能性もあり、そこはそれ、甘んじて招待に応じた。相変わらず警察の表彰状、剣道の允許状、刀剣登録証など数々の額(がく)が所狭しと連なってかかる剣道稽古場を横切ると茶室がある。まだ赤とんぼは、じいちゃんの麦藁帽の上だ。僕は麦藁帽を見続けた。
「んっ? どうした、正也…」
 じいちゃんはそれに気づき、怪訝(けげん)な顔をした。
「じいちゃん、赤とんぼ!」
 僕が指さした瞬間、じいちゃんはピン! ときたのか、やんわりと麦藁帽を脱いだ。赤とんぼは逃げようともせず寛(くつろ)いでいる。こんな赤とんぼは今まで見た記憶がなかった。
「ほう…度胸の座ったとんぼだ…」
 感嘆とともにじいちゃんは静かに麦藁帽を畳の上へと置いた。赤とんぼは、まだ逃げない。
「どれ! お茶でも一服、召し上がられますかな?」
 じいちゃんが赤とんぼに語りかける。赤とんぼは、『はい!』とばかりに頷(うなず)いたように僕には見えた。そのとき、母さんが愛奈をあやしながら声をかけた。
「お父さま! そろそろ、お夕飯にしますから…。正也もねっ!」
 父さんが相変わらず下手なハーモニカを吹き始めた。次の瞬間、赤とんぼは聴きたくない! とばかりに飛び去った。

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2014年6月 1日 (日)

秋の風景 (第十六話) 主張

    秋の風景       水本爽涼

    (第十六話) 主張    

 リリ…ンと虫が集(すだ)く。いい塩梅(あんばい)の気温で、まだ肌寒いというほどではない。雌(メス)に対する雄(オス)の主張で、彼等は子孫を残そうと必死なのだ。主張しなければ成果を得られないのが地球上にいる生物の宿命のようだ。愛奈(まな)は泣くことによって身辺の異常を主張する。父さんは会社の宴会で得意の裸踊りを披露することで存在を主張する。ただ、彼の場合、仕事に関しての主張はないようだ。じいちゃんは豪快さで自分を主張している。家族の誰もが、じいちゃんを否定できないのだから、無言の主張と言えるだろう。僕の場合は、「はぁ~い!」と可愛く返事することで、お小言を未然に防ぐ、という僕独自の主張を心がけている。この効用は、可愛い子…と思わせるいい面もあるから、一挙両得の感が否(いな)めない。
「今日の松茸づくしは美味でしたね」
「お前は言うな! 部外者が…。それはわしと正也が言う台詞(せりふ)だ!」
 父さんは今日もじいちゃんに叱られた。しかし偉いもので、言い返さず、自分の主張はしない。タマがそのとき、ニャ~と美声で鳴いた。僕達だけが美味いものを食べるというのも、いかがなものか…と思えたので、今日は缶詰めを食べてもらったのだが、どうもそれが好評だったようだ。動物は人間のようにそうは自己主張できないから、僕がそれを感じなければならない。植物に至っては動かないから、なお一層、難しい。母さんの主張…これも余り思い当たる節(ふし)がない。家事に専念され、育児に専念され、更(さら)にはPTA役員に専念される彼女の主張は…と考えてみれば、やはりホホホ…ぐらいしかない。母さんは、やり切ることで自分を主張しているのではあるまいか…と思える。
 個人的な主張は微妙に人間関係を良くも悪くもする。食卓に残った一片の松茸…。さて、誰が箸を出すか…。この主張は誰もしたいのだろうが、ジッと遠慮して沈黙を保つ。早い話、鋏(ハサミ)で均等に四等分して食べればいいだけの話だ。失礼! もう、離乳食を食べる愛菜を忘れていた。均等に五等分である。

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