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2014年8月

2014年8月31日 (日)

短編小説集(34) 濡れそぼつ 

 霧雨は降っていたが、掃いてしまおうと三崎は思った。若干、躊躇(ちゅうちょ)する心がなかったかといえば、それは嘘になる。というのも、帰ったばかりで服装は背広姿だった。霧雨のしょぼ降りぐらいなら…と最初、思ったからだが、よくよく考えれば目に入った視界には落ち葉の広がりが相当程度あり、瞬間、すぐに終わるだろう…と思える状況ではなかったのだ。だから若干、躊躇した訳だが、結局はやってしまおう…という心の命で身体は動かされていた。
『申し訳ないですね…』
「えっ?!」
 突然、声をかけられた三崎は掃く箒(ほうき)の手を止め、辺りを見回した。だが人の気配はなく、しょぼ降る霧雨だけだった。三崎は空耳(そらみみ)か…と思った。残業で疲れていたことが三崎をそう思わせた。三崎はまた掃き始めた。早く終わらないと夕飯の準備ができない・・と思えた。単身赴任で早や一年、最近はようやく一人の暮らしにも馴れた三崎だったが、時間は待ってくれない。もう夕闇が迫っていた。今日は鍋にしよう・・と買ってきたスーパーの袋が玄関前に置いたままだった。入ろうとして、落ち葉を放っておけなくなった経緯(いきさつ)があったのだ。結果、三崎の律義な性格が箒を持たせていた。
『いや、もう少し待とうと思ったんですがね。私も命じられている身ですから仕方なく降らせた訳です』
 二度目の声に、三崎はまた手を止めて辺りを見回した。誰もいないのだから怖い話だ。冷静に考えれば家門の中なのだから、訪(おとな)う人がいれば気づくはずだった。三崎は、ふたたび掃き始めた。
『驚かせて、すみません。一応、謝っておこうと思ったまでです。いや、これでも遠慮はしたつもりなんですよ。霧雨でしょ』
 三崎は三度(みたび)、手を止めた。三崎は怖くなり、箒と塵取りを急いで隅へ置いた。気づけば落ち葉は一枚もなくなり、辺りは一面、綺麗になっている。三崎の心は恐怖心の半面、達成感で溢(あふ)れていた。三崎は買物袋を手にすると急いで家へ入った。
 玄関で靴を脱ぐと、背広の肩辺りはビッショリと濡れそぼっていた。いかんせん、地道な作業と奇妙な声に時間は20分以上も費やしたからだ。加えて、いつもは箒でサッ! と掃きとれる落ち葉が水分で地面を離れず、ことの他、手間どったこともあった。三崎は部屋の櫓炬燵(やぐらごたつ)のスイッチを入れた。炬燵の中の濡れそぼった上着が乾いた頃、窓の外のしょぼ降りは、いつの間にかやんでいた。着替えた三崎はキッチンで鍋の具を刻み始めた。

                      THE END

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2014年8月30日 (土)

短編小説集(33) 完璧[かんぺき]

「それはmade in chinaだっ! 完璧(かんぺき)な日本製は、ないのかっ!」
 課長の木崎は怒りを部下の藤原にぶちまけた。
「これなんか日本製だと思うんですが…」
 恐る恐る藤原は単一の乾電池を手にとって示した。
「馬鹿野郎! それは消耗品じゃないかっ! 私の言っとるのは製品だ、製品!!」
 益々、木崎の怒りは激しさを増し、顔を真っ赤にしだした。こうなっては手がつけられない…と藤原には分かる。
「それは、そのとおりです…」
 藤原は、ともかく木崎に従うことにした。そこへ言わなくてもいいのに藤原の横に座る田向(たむかい)が茶々をいれた。
「旋盤や微細部品なんかの技術はピカ一なんですけどねぇ~」
「ああ…それはそうだ。微細部品や金属圧延、精密機器部品とかは世界トップ技術だがな」
 田向とは馬が合うのか、木崎は怒りをやや鎮めた。話は、いつの間にか枝葉末節な世間話に変化していた。
「昔は小さな製品でもすべて国内生産でしたが…」
「そうそう。人件費が安い海外での現地生産になって久しいが、完璧に国力は落ちている」
「根を伸ばし過ぎて根腐れを起しかけた鉢ものみたいですね!」
「上手い! そのとおりだ。現地人の生産力に頼ってる訳だ。今、語られるのはGNP[国民総生産]じゃないからな」
「はい、GDP[国内総生産]ですよね」
 二人の会話は進み、話を挟めない藤原は面白くない。渋面(しぶづら)を作ると、二人の会話を無視して机上のパソコンキーを叩き始めた。
『完璧な日本? …そういや、今の日本には希少だ…』
 キーを叩きながら藤原は思った。ふと、木崎の話す姿に目がいった。
『いや、課長の頭のかつらは完璧な日本製だっ!』
 そう気づいた藤原は、ニンマリして木崎を垣間見た。
「藤原! なにが可笑しい!」
 木崎がまた落雷した。そのとき、ふと藤原は気づいた。
『課長の雷にも、もう馴れたな。まてよ! 雷は電圧[V]が数千万V~2億V、電流[A]が数万A~数十万Aらしいが、まだ蓄電技術は出来てないらしい。この技術開発や発見、発明が国力の起死回生になるかも知れん。この発想は完璧だ!』
 藤原は笑いを押し殺した。

                       THE END

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2014年8月29日 (金)

短編小説集(32) 縮む

 夕方近く、俄かに大揺れがあった。
「地震だぁ~!」
 久司は誰もいない部屋で、一人、声を上げた。そのとき、ちっぽけな久司などまったく見えない日本列島はくしゃみをしてその身を縮めた。
『また深海プレートの野郎、腰を押し上げやがったな…。安心して眠れたもんじゃない! 安眠できん!』
 日本列島は、またブツブツと愚痴を吐いた。噴火した火山灰が久司の家にも落ちてきた。またか…と久司には思えた。過去にもあったことで、さほど驚かなかったが、やはり掃除の手間が久司には嫌だった。しかし妙なもので手足は動き、いつのまにやら洗車や家掃除はあらかた片づいた。日本列島も、ボリボリと身体を掻く余震で動いたあと、いつの間にやら高鼾(たかいびき)で眠ってしまった。それに釣られたのか、久司も疲れからウトウトと眠ってしまった。
 久司は夢を見た。日本列島とタッグを組み、深海プレートを押し下げていた。日本列島と同じ大きさの自分がいた。いや、そのことよりも日本列島が人間のように動いているのが妙といえば妙だった。やがて深海ブレートは2対1で劣勢となり、両者に押し下げられて縮んだ。そのとき久司は目覚めた。部屋が地震で小さく揺れていた。久司はビクッ! と身を縮めた。

                       THE END

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2014年8月28日 (木)

短編小説集(31) 秋の雲

 別に急ぐ必要はなかったが、民夫の心は急(せ)いていた。急いていたのは真里に逢えるからだった。昨日、逢いたいと真里の方から携帯が入った。約束は10時だから、まだ30分ばかり余裕があった。
「待った?」
「いや、今来たとこ…」
 半時間待った、とは、とても言えない民夫だった。
「そう? よかった…。しばらく歩こうか」
 不満などあるはずもなかった。民夫は軽く頷(うなず)いた。二人は同時に歩きだしていた。
 空はすっかり秋めいて、青空にポッカリと秋の雲が浮かんでいる。爽やかに冷えた空気が清々(すがすが)しい。辺りは都会とはいえ自然公園だけのことはあり、時折りジョギングする人が通るくらいで、喧騒感はまったくなかった。
「私ね…帰らないといけないの」
「んっ? 今来たばっかりだよ」
「そうじゃなくって…」
 真里は突然、立ち止まると、浮かぶ秋の雲を指さした。民夫も立ち止って指先の雲を見上げたが、さっぱり真里の言葉が解せなかった。
「私、あの雲の彼方から来た宇宙人なの。昨日、帰るように命令が出たから、この星ではもう、あなたと逢えないの。よかったらあなたも来る?」
「えっ?! …」
 民夫は言葉を失った。真里の言葉が尋常とは思えなかった。真里が宇宙人な訳がない・・おそらく心を病んだか、下手(へた)な冗談・・いや、SF映画を見過ぎた挙句のなりきり思考か・・と思えた。
「馬鹿な冗談はやめろよ!」
 民夫は小笑いしてまた歩き出した。
「そう言うだろうけど、本当なの」
 真里は後ろ姿の民夫へそう言葉を投げかけた。民夫は、ふたたび立ち止ると振り返った。
「ははは…そういう映画、あったよな」
 民夫は否定したが、真里は真顔のまま右手の手の平を広げた。手の平には銀色の金属球が乗っていた。真里は瞼(まぶた)を閉ざした。すると、真里の手の平に乗っていた金属球は俄(にわ)かに輝き始め、フワ~っと数センチ上昇した。
「マジックか! これが見せたかったんだ」
 民夫は快活に言い切った。とても現実とは思えない展開だった。真里は静かに目を開けた。それと同時に銀球はストン! と真里の手の平へ落ちた。
「冗談でもマジックでもないわ。私は宇宙人なの」
 真里は静かに言い切った。その顔は笑っていない。民夫の顔から笑いが消えた。
「信じられないよ…」
「でも、ほんとう…」
 そう言うと真里は静かに歩きだした。民夫も続いた。
「俺も行く…」
「そう…。だったら明日の夜、月が昇る頃、この公園へ来て」
「ああ。分かったよ」
 次の夜、月が昇った。民夫と真里が静かに見上げる夜空から輝く未確認飛行物体(UFO)が静かに舞い降りた。謎の光が射し、やがて二人は船内へと消えていった。
 早朝、テレビ各局は未確認飛行物体の飛来を賑やかに報道した。空には秋の雲がぽっかりと浮かんでいた。

                   THE END

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2014年8月27日 (水)

短編小説集(30) 天空家族

「パパ、人間達が騒いでいるよ」
「ああ…お前が箒(ほうき)で掃いた風とジョウロの打ち水のせいだろう」
「下界では台風とかいうそうだね?」
「ああ、そうだ。私達は有史以前より自然の営みをしているだけなんだが、どうも最近の人間は身勝手な者が増えたからな。異常気象、温暖化とか言ってるが、すべては人間が為(な)した業(わざ)だ」
 天空王と天空王子が話し合っているところへ天空の妃(きさき)が現れた。
「二人とも、そろそろ食事よ。今日はいい霞(かすみ)が流れ込みましたわ」
「そりゃいい! 美味そうだな」
 王は楚々とした風を舞わせながら答えた。
「ええ。でも、少しお気の毒ね、下界の人たち」
 妃は薄雲のカーテンを少し開け、下界の惨状を眺めながら呟いた。
「それはそうだが、私達のせいじゃない。人間が自然を壊し始めて250年ばかりになるが、彼等はもっと早く気づくべきだった。だから、自業自得さ」
「そりゃ、そうだけど…」
「なんとかならないの?」
 王子も下界の惨状を垣間見ながら言った。
「これから立ち直るも潰(つい)えるも彼ら次第さ。私達はそれを見守るしかない。ただ一つ、彼らには地球の全生命を守る責務があるということだ」
「滅亡した種も多いそうね」
「ああ、絶滅種はかなりいる。それに危惧される種も増え続けているからなあ」
 王は溜息(ためいき)混じりの風を少し悲しげに舞わせた。
「だから身勝手なんだね」
「そう…。だが、彼らを信じて、もう少し様子を観よう」
「あと100年ほどね?」
「…だな。それで、すべての結果が出るだろう。地球生命が自滅していないことを望むばかりだ」
 天空家族は風に棚引(たなび)いて舞い去った。

                        THE END

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2014年8月26日 (火)

短編小説集(29) 正義の味方

 勇太は背伸びしながら欠伸(あくび)を一つすると深夜のアパートを出た。よくよく考えれば、勇太の実力からすると高級マンションに住み、地下駐車場に止め置いた外車に飛び乗ったとしても不思議ではなかった。が、それがどうだ。勇太は安アパートから飛び出ると地下鉄階段へ向かったのである。こんなギャップが、なぜ出来たのか? その事実を知ったとしても、恐らく他人には理解出来ないだろう。勇太の実態は、なにを隠そう、才能に秀でた正義の味方だった。勇太が向かったのは、二つ駅向こうに格安で買った廃工場だった。その中には勇太が正義の味方へ変化(へんげ)できるグッズが収納されていた。グッズとはいえ、子供騙(だま)しの玩具(おもちゃ)などではない。正真正銘の本物のスーパーマシーンである。今夜のスケジュールは、このマシーンで解析した悪党退治だった。警察が逮捕できない犯人を勇太の手で逮捕し、交番へ通報する手はずは、いつものように出来ていた。一般人でも逮捕できる・・とは、二年ばかり前、勇太がひょんなことで得た知識だった。それ以降、警察でもかなり評判になるほど勇太の存在は有名になっていた。警察も表彰状を送ろうとしていたが、いかんせん、忽然と消える勇太の情報を掴(つか)みかねていた。むろん、犯人ではないから手配できる訳でもなく、表彰状は何枚もうず高く積まれたまま、うやむやにされていたのだった。いや、逆にこの事件も解決してくれるんじゃないか…という密かな期待が警察内部では囁(ささや)かれ始めていた。そして、今夜である。
 犯人の潜伏先と情報は、すでにマシーンにより解析済みで固まっていた。警察は、その行方(ゆくえ)を知るべくもなく、捜査中であった。
「な、なに奴だ!」
 勇太は徐(おもむろ)に胸ポケットに挿したICレコーダーのスイッチを押した。すると、辺りに突如として、♪ 
 ♪の格好いいカラオケ曲が賑やかに鳴り響いた。
「ははは…、名乗るほどの者ではない! 悪を退治する正義の味方だっ!」
 突然、現れた正義の味方とその音に犯人はうろたえた。勇太は睡眠銃を腰から抜くと、まるで、害虫を駆除するようにブシュ~~と犯人めがけて噴射した。
「ウッ! …」
 犯人は呻(うめ)き声を漏らすと、バタッ! と倒れ、寝息をかき始めた。勇太はICレコーダーのスイッチを切ると、いつものように犯人を柱に括(くく)りつけたあと、 ━ 正義の味方 参上! ━ と書かれた紙を柱に貼り、廃工場へと引き上げた。乗り込んだ車は、まだこの世に存在しない時空瞬間移動装置だった。開発者は当然、勇太である。この車がマスコミに知られれば一躍、勇太は世の人となり、億万長者の有名人だったが、彼はそれをしなかった。まさに正義の味方そのものだった。
 時空瞬間移動で廃工場に現れた勇太は、車を工場内へ格納すると鍵をかけて出た。そして、地下鉄に乗りアパートへ戻ったのは夜中の二時過ぎだった。
「いつものように、○○の逃亡犯はドコソコに逮捕して括りつけてあります」
「ドコソコですか?! あっ! あなたは、もしかして正義の味方さん! ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
 電話対応に出た警官の声は弾(はず)んだ。彼だけではない。署の面々、全員が色めきたった。
「…」
 勇太は小さく笑うと格好よく電話を切った。
 次の朝、テレビ各局は正義の味方がふたたび現れたと華々しく報道した。

 
                THE END

  ※=七色仮面の歌、月光仮面は誰でしょう、海底人8823etc.の懐かしい曲が入ります。読者の好みにお任せ致します。
                               作者より

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2014年8月25日 (月)

短編小説集(28) 広がる

 マッチ棒でミニ模型の家を工作していた清は、模型が出来上ると、じっとそれを眺(なが)めた。以後、この模型はコーヒーを飲むときのケーキ代わりとなり、酒のツマミになった。それからしばらく、そうした日が続いた。
 ある日、いつものようにビールを飲みながら模型を眺めていると、清はなぜか物足りなさを感じた。もう少し大きめのサイズ・・そうだな、犬小屋程度のものを作ろう…と清は夢を膨らませた。上手い具合に飼い犬のリュクの小屋が老朽化していたから一石二鳥に思えた。
 次の日、職場の帰りに材料を買い求めて帰宅した清を、妻の珠代は横目に見て渋面(しぶづら)で迎えた。
「あらっ! また何か作るの? 置き場がないから困るのよね、そういうの…」
 テーブルへ手料理を並べながら少し不満げに珠代は言った。視線が自分に向いていないときはご機嫌ななめ・・とは、清が長い年月で培(つちか)った洞察力の成果である。事実、珠代は食事中、ひとことも話さなかった。清は、まあいいさ、そのうち冷めるだろう…と鷹を括(くく)り無視することにした。
「おい! 昼、いいのか?」
 職場の同僚が、昼休みに席を離れない清を訝(いぶか)って、声をかけた。
「ああ、いいんだ。これがある」
 清はコンビニで買い求めておいたサンドイッチと牛乳パックが入った袋を示した。デスクの上には犬小屋の設計図面が所狭しと広がっていた。
 次の日曜、清はさっそく犬小屋の工作にかかった。材料を買って帰宅した日から四日が経っていた。この間は清にとって至福のときで、家でも職場でも、空き時間は設計に時間を潰(つぶ)した。犬小屋が完成したのは夕方だった。綿密に練った構想と図面があるから、工作はすべて順調に進んだ。リュクを真新しい犬小屋に入れて、その様子を眺めながら清は缶ビールを飲んだ。清にとってふたたび訪れた至福のときだった。それからしばらく、そうした日が続いた。ところがある日、いつものようにビールを飲みながら犬小屋を眺めていると、清はなぜか物足りなさを感じた。もう少し大きめのサイズ・・そうだな、物置を作ろう…と清は夢を膨らませた。上手い具合に珠代が楽しんでいるガーデニング用の肥料や用具を収納する保管場所がなく、それらは軒(のき)の片隅に保管されていたから、夏場に臭(にお)うと珠代は愚痴っていたのだ。だから、有難がられこそすれ、不満はないだろう…と清には思えた。夕食時にその話をすると、案の定、珠代はOKを出してくれた。今までの流れではマッチ棒の模型からすべてが順調に広がっていると清には思えた。
 ひと月が経ち、清は出来上った物置を前にビールを飲み、悦に入っていた。至福のときだった。それからしばらく、そうした日が続いた。
 ある日、いつものようにビールを飲みながら物置を眺めていると、清はなぜか物足りなさを感じるようになった。ふと、我が家が清の視線に入った。家は買い取った雨漏りがするボロ屋だった。よし! 家を建てよう…と清は思った。清はそれから猛勉強をして建築の知識と技術、技能を磨いた。二年の月日が流れていた。生来持ち合わせた器用さと持久力がそれを可能にした。
 五年後、家が完成し、清と珠代は物置から移った。工事の期間中、生活は物置だった。珠代はもう不満は口にしなくなっていた。清の実績がそうさせたのだった。清は完成した我が家を見ながら美酒に酔いしれた。しばらく、そうした日が続いた。
 ある日、いつものようにビールを飲みながら家を眺めていると、清はなぜか物足りなさを感じるようになった。ふと、遠方のビルが清の視界に入った。その瞬間、構想が広がった。清はビルを建てようと決意を新たにした。
 五十年後、清が眺めていた近くにビルが立っていた。清が建てたビルだった。だが、人の気配はなかった。そのビルのだだっ広い一角に、そこに住むはずだった清と珠代の埃(ほこり)にまみれた遺影が飾られていた。その遺影には蜘蛛の糸が戦(そよ)いで揺れていた。

                   THE END

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2014年8月24日 (日)

短編小説集(27) 特捜部

 ここは泣く子も黙る東京地検特捜部である。
「令状も出た。明らかに収賄だ! 八百熊(やおくま)を拘束しろ!」
 叫ぶ特捜部長、室田の声は心なしか擦(かす)れていた。
 八百熊? 特殊第二班の面々は、誰もが訝(いぶか)しげに室田を見た。
「なにをボケっとしてる! すぐ出動だ!」
「八百熊ですか?」
 第二班の一人、検察官の後藤がニタリとして室田に訊(たず)ねた。
「そうだ! 八百(やお)…俺、なんて言った?」
「八百熊ですが…」
 室田は出がけに妻に頼まれた松茸が頭の片隅にあったせいか、思わず八百熊と口走ったのだ。室田が住む商店街にある八百熊の店頭には毎年、季節限定の盛り篭松茸が並ぶ。この盛り篭は人気があり、店頭に並ぶや僅(わず)か数日で完売となる、しろものだった。どういう訳か八百熊は店頭価格が箆棒(べらぼう)に安く、ひと篭で千円少々、高くて二千円までで産地直送というのだから、それも頷(うなず)けた。昨日の帰りに見たときはひと盛り、まだ残っていた。時間からして、あと一時間が限度だ…と室田は計算していた。その一時間は身をくらませた容疑者である農水省元審議官、山岳(やまたけ)が潜伏可能な時間と一致していた。どちらも一時間以内が勝負だった。山岳が先か、あるいは八百熊の松茸が先か…。ここは、なにがなんでも逃亡を阻止せねばならん! ここは、なにがなんでも売り切れる前に買い求めねばならん! 山岳は八百熊と、つるんでいる…。いや、いやいやいや、それはない! 容疑は大手食品会社への情報提供による収賄容疑である。室田の頭は錯綜(さくそう)していた。もし買えなかったら、泣く子も黙る鬼のような妻の罵声(ばせい)は覚悟しなければならなかった。
「や、山岳だっ! 何が何でも30分以内に身柄を拘束しろ!」
「はいっ!」
 すでに出動準備は整っていた。整然と隊列を組んだ部員達が大手食品会社と情報入手した山岳の潜伏先を目指し、二手(ふたて)に分かれ検察庁を出ていった。室田は焦(あせ)っていた。山岳を拘束すれば、あとの取り調べは副部長達に任せ、すぐに退庁しようと思っていた。
 その頃、どういう訳か潜伏先をあとにした山岳は、室田の街の八百熊で最後に残ったひと盛りの籠松茸を買ってほくそ笑んでいた。

                 THE END

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2014年8月23日 (土)

短編小説集(26) 真似お月見

 名月が煌々と蒼白い光を放って部屋の廊下へ射し込んでいた。廊下の上には小机が置かれ、その上には芒(すすき)が数本生けられた花瓶と団子が盛りつけられた三方(さんぼう)が乗っている。それを前にして、小坂家の三人が十五夜の月を眺めていた。
 小坂家は瓦屋根の日本家屋に住んでいる。その庭と家の外を分かつ簡素な生け垣の向こうには一面の芒の原野が広がり、穏やかな田舎特有の自然風景を四季を通じて見ることができた。そして今は、いい風情の秋半ばである。当然、こうした自然の佇(たたず)まいの中で、多くの野趣あふれる動物が姿を見せては消えたりしていた。この夜、現れた狸(たぬき)の腹鼓(はらつづみ)家の三匹もその一員で、中秋の名月を愛(め)でていた。その距離は小坂家の人々から10mばかり先で近かった。月が蒼白く照らすとはいえ辺りは暗い夜の闇で、腹鼓一家の姿は三人にはまったく見えなかった。だが逆に、小坂家の会話はすべて腹鼓一家に筒抜けだった。
「いい、月夜だわ…」
 小坂家の母が言った。
「シィ~! 十五夜は黙って見るもんだ!」
 小坂家の父が窘(たしな)めた。
「…」
 小坂家の母は頷(うなず)いて黙った。
『いい、月夜だこと…』
 腹鼓家の母狸がそう言って、ポン! と腹鼓を一つ打った。
『シィ~! 十五夜は腹鼓を打たずに見るもんだ!』
 腹鼓家の父狸が窘めた。
『…』
 腹鼓家の母狸は頷いて黙った。
「…それにしても、いい月だな」
 小坂家の父が思わず呟(つぶや)いて腕組みをした。
『…それにしても、いい月だな』
 腹鼓家の父狸が思わず呟いて腹鼓を一つ打った。
「早くお供えの団子を食べようよ!」
『早くお供えの柿を食べようよ!』
 両家の子供達は、そう言った。十五夜の月がニタリ! と笑った。

                 THE END

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2014年8月22日 (金)

短編小説集(25) つかれる人[5] 浸かれる人

 ああ…何年ぶりだ、このいい気分は・・と思いながら本山一郎は浴槽に浸かっていた。
「あなた、着替え、置いとくわよ!」
「ああ…」
 妻の千沙子の声に、なんと平和なんだ…と本山はさらに思った。
 本山は新聞社に依頼され、三年契約でアフリカの某国に派遣された戦場カメラマンだった。といえば聞こえはいいが、その実態は過酷で劣悪な環境にある小さな村々での生活だった。風呂などというものがこの世に存在するのかさえ知らない原住民と本山は三年ばかりも暮していたのだ。悪くすれば毒蛇や蠍(さそり)に刺される危険を孕(はら)んだ家屋での就寝は本山にきつさを感じさせた。加えて高温地帯特有の寝苦しさがあった。いや、それらもピシッピシッではなかったが、ヒューンヒューンと飛び交う流れ弾による死の恐怖に比べれば、まだマシな方だった。
 帰国し、手続きを終え、飛行場を出た。足を一歩、場外へ進めたとき、本山の感情は一気に瓦解した。ところ構わず涙が頬を伝っていた。本山はそれをどうすることも出来なかった。もう嫌だぁ! と叫びそうになる自分がいた。だが、なぜか声にはならなかった。
 ボディソープが泡立ち、シャワーの湯が気分よく身体を流れた。ふたたび浴槽に浸かれば、ふと、泥水で身体を拭(ふ)いたときの光景が頭を過(よぎ)った。あのときは死線をさ迷い、過酷だった…と思えた。ガイドを買って出た村人が流れ弾の巻き添えを食らい、本山の横で死んだ。つい5秒前まで語っていたのに…。即死だった。泥水で身体を拭くガイドの姿、倒れる姿…その光景が甦(よみがえ)った。
 浴室を出ると、冷えたビールに千沙子が作った美味そうなツマミが待っていた。本山は、ここは天国に違いない…と真に思った。テレビが国の防衛に関する座談会を映していた。聞き入ると、政府要人や評論家達が実(まこと)しやかに賛否の意見を交わしていた。本山は即座にリモコンを握り、チャンネルを変えていた。━ そんなんじゃない! ━
 過酷な現実を知らない映像への怒りが、そうさせていた。

                         THE END

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2014年8月21日 (木)

短編小説集(25) つかれる人[4] 突かれる人

 地下鉄(メトロ)は走っていた。幸い、列車内は鮨(すし)づめ状態ではなかったが、それでも混むことは混んでいた。堀田はそんな車輌の中ほどで、新聞を片手に吊革を持ちながら揺られていた。最近はどうも目が霞(かす)むことが多い・・と紙面を遠ざけると案の定、文字が鮮明に見えた。そろそろ老眼鏡か…とテンションを下げたとき背後から肩を二度、指で軽く突かれた。誰だ! と、すぐ振り返ったが、後部に人が立つ気配はない。両横には同じサラリーマン風の男がいたが、後ろには誰もいなかったはずだ…と堀田は思った。やがて駅ホームへ車輌が滑るように減速して停止した。自動ドアが開くと同時に乗客の数人が降り、ホームにいた数人が乗り込んできた。堀田は誰か知り合いが・・と乗降客を注視したが知った顔はなかった。まあ、いいか…と、その場は軽く忘れることにした。
 会社へ着き、いつものように仕事が始まった。昨日の続きの書類に目を通していたとき、突然、背後から指で軽く二度、肩を突かれた。堀田はすぐ振り返った。なんだ、お前か…と思った。同僚の牛川が笑顔で立っていた。
「これ、頼むよ。ラストだ!」
 手渡された書類は最終審査で決定された結果だった。
「ああ…、やはりな。よし! 広報へ回しとくよ」
 堀田は書類に目を通し、笑顔で頷(うなず)いた。俺の予想通りだ…と思えた。そのときふと、堀田の脳裡に今朝の光景が浮かんだ。待てよ…確か、あのときも軽く二度、肩を…と思った。
「どうした?」
「んっ? お前…いや、なんでもない」
「じゃあ、頼んだ」
 牛川は自席へとUターンした。堀田はそんな牛川の遠ざかる姿を見ながら、そんな訳はないか…奴は車通勤だ、と思った。ただ、指で軽く二度、肩を突かれた・・という偶然の一致が僅(わず)かに心へ余韻を残した。
 その後はそういうこともなく一週間が過ぎた休みの日の朝、堀田は街へ買物に出てブラッとするか…と思った。街へ出ると結構、人混みが激しかった。新たに出来た多くのショップを横目に堀田は遊歩道をのんびりと歩いていた。これがショッピングモールか…と思えた。そんなとき、また背後から指で軽く二度、肩を突かれた。今度こそ言ってやろう! と意気込んで堀田が振り返ると、誰もいなかった。もちろん、人の流れは辺りで激しかったが、堀田の背後は無人だった。堀田は、もうどうでもいいや! と思い、ふたたび歩き始めた。そのとき、風がヒュウーと啼くように流れた。目には見えない異次元の何かが通ったような感覚がした。二十年前、急な交通事故で逝った恋人、亜樹の匂いがした。堀田は、そうか…と得心した。

                     THE END

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2014年8月20日 (水)

短編小説集(25) つかれる人[3] 付かれる人

で 牧原由香は今をときめく若手アイドルである。中学一年のとき、偶然、歩いていたスクランブル交差点で声をかけられたのがきっかけで芸能界デビューを果たした。とはいえ、声をかけたのはスカウトマンではなく所属事務所の女性事務員だった。由香はそういう状況もあり、その宮田千沙に、さほど身の危険も感じないままスムースにムーンライズ・カンパニーの専属となったのだ。それ以降、どういう訳か由香はマネージャーがよく変わった。
「君ね! これで6人目だよ。マネージャーをそう度々(たびたび)、変わられたんじゃ、うちとしても困るんだよ。何か言ってるの?」
「私、なにも言ってません! なんか、いつの間にか押し黙って…」
「しばらくすると、必ずここへ来るんだよ。担当を変えてくれってね。そういうの、本当に困るんだよね。なにかあるんだろ? 訳がさ。そうとしか考えられん」
 社長の蓮杖は渋面(しぶづら)で由香に迫った。由香にはまったく心当たりがなく、なにかを言ったという記憶もなかった。
「いえ…」
「そうか、まあいい…。お疲れ! 今日は帰っていいぞ」
「あの…明日は?」
 由香は恐る恐る訊(たず)ねた。
「次が見つかるまで、事務員の宮田君に付いてもらう! 本当に頼んだよ! もう…」
「あっ! はいっ!」
 間髪いれず、由香は明るく返事していた。事務所内では、どういう訳か宮田千沙と由香は相性があった。このとき由香はムーンライズ・カンパニーのドル箱スターとなりつつあった。韓国の女性9名の人気アイドルグループと引けを取らない容貌と体躯を備え持ち、アクション的フリは互角と思えた。そして、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで歌謡部門の各賞を総なめにする存在となっていたのである。だから当然、スケジュールは過密を極めた。由香はメイク室でもウトウトと眠ることが多くなっていた。
「よくご存知かと思いますが今日から担当します宮田です」
 千沙は早朝に由香のマンションを訪れた。
「ああ、よくお会いしますね。最初もあなたでした…」
「そうでしたか? ああ、そういえば…」
 千沙は、しらを切った。だが内心では、そうよ、私は生前のあなたなんだから…と呟いていた。そうなのだ。
宮田千沙は一年後、過労で自殺する牧原由香の死霊(しりょう)が乗り移った存在だった。死ぬことはなかったと、過去の自分に伝えるために千沙は絶えず由香に付いていた。いつも由香のマネジャーの後ろに、もう一人、由香の死霊が乗り移った千沙がいたのである。

                    THE END

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2014年8月19日 (火)

短編小説集(25) つかれる人[2] 憑かれる人

 目眩(めまい)がして三塚は会社を早退した。入社して二十年経つが、こんなことは一度もなかった。俺ももう年か…と三塚は会社ビルを出ながら思うでなく思った。幸い、いてもいなくても変わらない平サラだから、どうも! と愛想いい笑顔の一つも見せ、ペコリと課長に頭を下げれば、あっ! そうなの? お大事に…で了解された。まあ、悪くいえば、存在感がまったくない訳だが、三塚にとっては楽に休めるのだった。とはいえ、ズル休みではなく、目眩は本当なのだ。この日は、別人と自分が思えるほど仕事がはかどり、課長は上機嫌で早退を認めてくれた。そこのところが今一、三塚には解せなかった。三塚はひとまずかかりつけの再入会病院へ行こうと足どりを速めた。
「おかしいですね…。異常な所見はありませんが?」
 神経外科、脳外科など一応、疑われるすべての検査を受けたが異常は認められず、主治医の内科医師、神田は首を捻(ひね)った。
「そうですか…。いや、今までそんなことはなかったもんですから」
「万が一ということもありますから気持は分かります。で、どういった状況で?」
 神田は目眩が起きた状況を訊(たず)ねた。
「それが妙なんです。別に家でどうってことはなかったんですがね。いつも通るバス停までの細道なんですよ」
「はあ…。そこんとこをもう少し詳しくお願いします」
「林の中をバス停に出る一本道なんですが…。先生にこんなことを言うのもなんなんですが、ピカッと目の前がして目眩がクラクラと。いや、立ち眩(くら)み程度で、すぐ治まったんですがね」
「今回が初めてですか?」
「ええ…」
「お疲れなんでしょう、きっと。お薬をお出ししておきましょう」
 その日は、それで終わった。
 次の朝、気分も爽快に三塚はいつもの細道をバス停へと向かっていた。そのとき、また目の前がピカッ! と光り、三塚はクラクラと立ち眩んだ。しばらくして元に戻り辺りを見回すと、いつもの道である。三塚は、ふと思い出した。子供の頃、この森で遊んだな…と。朧(おぼろ)げながら、その光景が脳裡を巡った。この森には古い祠(ほこら)があり、皆で遊ぶ日にはいつも何かをお供えした・・そんな記憶である。あの折りのお礼か…。しかし、あれから何十年、なぜ今になって? と思えた。バス停が近づいた頃、三塚はふと声を聞いた。
『シィ~! 黙ってそのまま歩いて下さい。停留所にいる他の人には私の声は聞こえておりません』
 三塚は声の指示に従ってバスに乗った。
『あなたのお思いのとおり、私はあのときの祠の神です。余りにあなたが不甲斐ないのが哀れに思え、昨日から憑(つ)いて仕事の手助けをさせて戴いておるのですよ』
 三塚は、それを聞いてすべてを合点(がてん)した。その日も昨日以上に仕事は捗(はかど)り、課長の覚えもめでたくスムースに終わった。
 こうして数か月が経った頃、三塚は係長を飛び越え一足飛びに副課長に昇進した。抜擢人事である。すべては、祠の神様のお蔭(かげ)だ・・とは思えたが、あれ以降、神様の声はなかった。
 それから二十年、定年前の三塚は取締役部長になっていた。ああ…今日で会社とも・・と思ったとき、あの声がした。
『ようやく終わりましたね。では、私もこれでお暇(いとま)致しましょう。お元気で! いい行いをすれば、少なくとも悪い報(むく)いはありません。期待されても困りますが、こんな余慶(よけい)もあるということですよ』
「あっ! 待って下さい、神様! これから、どこへ?」
『ははは…それはあなたが、よくご存知のところですよ、三塚さん』
 三塚は森の祠だ…と思った。

              THE END

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2014年8月18日 (月)

短編小説集(25) つかれる人[1] 疲れる人

「どうも身体が、けだるいなあ」
「ですね…。でも、僕なんか、課長に比べれば3倍は、やってるんですよ!」
 不満顔で肩を片手で揉みながら、課長補佐の杉下は戸山に返した。
「ああ、そうだったな、すまん。これも管理職の悲哀か…」
「…ですよね」
「慰め合っていても仕方ない。どうする、勝負は明日(あした)だ」
「ここまでの質問は飛ばない、とは思うんですが…」
「ああ、まあ決算書の数値はかなり細かいからな。ここまで勉強した議員さま方がおられれば別だが…」
「しかし、万が一ということもあります。流用充当の答弁文だけは片づけておきましょう」
「だな。そのときの逃げ筋は必要だ」
「別に悪いことをしている訳じゃないんですけどね。これも、結果として生じた予算の組み替えなんですから…」
 自己弁護するように杉下は正当化して言った。
「そうだよ。俺達に比べりゃ国なんか悪いの一杯いるぜ」
 杉下は頷(うなず)いて笑った。戸山は机から小瓶の錠剤を2粒、手の平に乗せると口へと運び、湯呑(ゆの)みで飲んだ。
「栄養剤ですか?」
 杉下は湯呑みを机へ置いた戸山に訊(たず)ねた。
「ああ、○△薬品の総合ビタミン剤だ。これ飲むと身体が軽くなってな」
「○△薬品? 余り聞きませんね」
 訝(いぶか)しげに杉下はその小瓶を見た。
「ははは…そりゃそうだろ。この前、回ってきたセールスマンにもらった地方製薬の試供品だ。それから病みつきになってさ。君もどうだい?」
 戸山は小瓶を手にすると、2錠だして杉下に勧(すす)めた。
「ああ、有難うございます」
 上司ということもあり無碍(むげ)には断れず、杉下はその2錠を受け取った。
「なんか、身体がフワ~っと軽くなったように疲れが消えるんだ。それも即だ。まあ、騙(だま)されたと思って。言っとくが、違法ドラッグじゃないぜ」
「はあ…」
 勧められた杉下は半信半疑で錠剤を口へと運んだ。飲んだ直後、異変は起きた。身体がアドバルーンのように軽くなり、疲労感が消えた。
「軽いですね!」
「だろ?!」
 二人は笑いながら残りの仕事を片づけた。これで、議会は乗り切れるだろうと思えたところで切りをつけ、二人は職場をあとにした。
 翌日、定例議会が催された。
「おい! 担当課長の戸山君が見えんぞ! それに杉下君も…」
 議長の海渡が不安げに見回しながら議会事務局長の服部に言った。
「それなんですが、疲れたから飛びます・・とだけ電話が」
「誰が?」
「それが、二人ともなんです」
「疲れたから飛ぶ? どういうことだ?」
「さあ? 疲れたんでしょう」
「どうするんだ、君!」
「大丈夫です。答弁用の原稿が机にありましたから…」
「そうか、それならいいんだ。疲れたか…」
 海渡と服部は顔を見合わせ、ホッとした笑みで頷(うなず)いた。
 その頃、戸山と杉下は優雅に空を飛んでいた。雲の下には区役所があった。

                     THE END

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2014年8月17日 (日)

短編小説集(24) 厚化粧

 沙希は今朝もパタパタと鏡台で化粧を始めた。数年前から両目尻にカラスの足跡とか言われる細い皺(しわ)が目立つようになっていた。それを隠そうと、工事的にパタパタと叩(はた)くのだが、一向に成果は得られなかった。もちろん、種々のクリームなどの化粧品は試していた。だが、効果がないと分かると、最近の沙希は鏡台に座るのもテンションが下がるのか、億劫(おっくう)になっていた。鏡台に座る回数は減ったが、座ればパタパタは、その都度、激しさを増した。
「お前な…」
 夫の智也はそんな沙希に、塗らなくても…と言おうとして、思わず口を閉ざした。言ってはいけない禁句のように思えた。これで、「今夜はスキ焼にするわ!」と、快活に言われた夕飯がフイになっては、たまったものではない…と思えたからだ。そうはいっても、皹(ひび)割れしそうな厚化粧は、どう考えても智也には馴染まなかった。いや、むしろ悪寒(おかん)がした。智也は素っぴんの方がまだいい…と、思った。
 あるとき、偶然にも二人で街へ出ることになった。
「店の前まででいいから…」
「んっ? いいよ。ついでにブラッとしようか、久しぶりに…」
 ここ数年、そんなことを夫から言われたことがない沙希は、内心、嬉しかったから、言葉を聞いたあと、ニッコリと無言で頷(うなず)いた。智也はそんな沙希を見て、しまった! よけいなことを…と思ったが、もう遅い。その半時間後、二人は車で走っていた。沙希はルンルンで、智也は……気分である。その低いテンションに輪をかけたのが、沙希の厚さ数ミリの厚化粧だった。そんな厚顔を見たくない智也はサングラスをかけて出た。
「あら? 珍しいわね…」
 沙希は一瞬、訝(いぶか)しげな表情を浮かべた。智也としては、お前の顔な…とは言えない。
「最近、ちょっと目が弱って、眩(まぶ)しいからな」
 智也は我ながら上手く言えた…と満足しながら、沙希を横目に見てアクセルを踏む。スピードを上げ過ぎたとき、運悪くパトカーに見つかった。
『前の車、止まりなさい!』
 仕方なく、智也は道路の片側へ車を止めた。警官が降りてきて、免許証の提示を求め、違反切符を切った。
「…注意して下さいよ。では…!」
 警官はなにを思ったか、沙希の顔を見て大笑いした。沙希としては自分の顔を見られて笑われたものだから、面白くない。
「あらっ! なにか!!」
「いえ、失礼しました!」
 警官は必死に笑いを堪(こら)えながら敬礼し、パトカーに乗ると走り去ったが、その一分後、電柱に激突し、停止した。智也には、なぜかその訳が分かった。で、笑ってはいかん! と思え、身を引き締めた。
「行きましょ!!」
 沙希の鼻息はなぜか、荒かった。

                   THE END

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2014年8月16日 (土)

短編小説集(23) 食欲前線

 海鮮は堀田家の食卓を自分が彩(いろど)るというテーブル上の野望に燃えていた。しかもそれは、飽くまでも楚々として、至極自然であらねばならなかった。そのためには肉盛が邪魔だった。唯一、それが可能となるのは中立の御飯の動向である。御飯はどちらの派閥にも属さず、中立を保っていた。海鮮は肉盛派を切り崩そうと謀(はか)っていた。御飯に連携できる料理を提案したのだ。
『なんといっても、秋サンマにはカボスやスダチ、レモン、ユズ汁。醤油のオロシ大根。で、あなたでしょ? お寿司の新鮮なネタにはシャリ!』
『はあ、まあ…』
 御飯は返事を濁した。肉盛も密かに携帯で御飯に打診していたのである。
『ジュジュっとなった焼き肉に特製タレです。そして、あなたが…。どうです? スキ焼なんかも、いいなあ』
『はあ!』
 御飯は乗り気になっていた。そこへ海鮮の提案だった。御飯は迷って親友の味噌に相談した。
『どうなんだろうね、味噌君。僕はどちらに付いた方がいいんだろう』
『それは君が決めることだ。僕は中立の立場だから、海鮮さんにも肉盛さんにも呼ばれてるんだが…』
『君のように今までどおり中立でいこうかとも思うけど、小麦君が迫ってるからな』
『だよな…。彼は侮(あなど)れない。野菜君の意見も聞いた方がいいよ』
『それは大丈夫なんだ。彼は部下の大根、カボス、レモン、スダチ、ユズを使ってくれ、と応援してくれたんだ』
『でも、レタス君は肉盛派に付いたぞ。焼き肉君を包むそうだ』
『耳寄りな情報を有難う』
 秋の食欲前線たけなわ。堀田家の派閥争いは混沌(こんとん)としていた。
「ママ、今夜は?」
「今日は、時間がなかったから店屋物(てんやもの)。パパは接待で遅くなるしね」
「そうなんだ…」
『…』『…』

                 THE END

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2014年8月15日 (金)

短編小説集(22) 柳の風

 季節が違う…と聖也は思った。幽霊が賑(にぎ)わう相場は夏である。今は? と辺りを窺(うかが)えば、夕暮れで風が戦(そよ)いでいるが、そうは暑くない。いや、どちらかといえば涼しさが幾らか出始めた初秋の夕暮れである。風に揺れる柳、川堀などもあるから、この辺りはとっておきの現れどころなのだ。ただ、季節が少し遅い感じだった。
 聖也は予想外の珍事であの世に逝(い)ったものだから、今一つ死んだ、という感覚がマヒしていた。死んだ途端、なぜか記憶がスゥ~っと途切れ、そしてふたたびスゥ~っと戻ったのだ。変わったことといえば、ただそれだけだった。だから、聖也には死んだ感覚がなかったのである。皆がそうなのかは別として、焼いた餅を喉(のど)に詰めて死んだなどとはダサくて、若い聖也には言えたものではなかった。聖也とすれば、やはりここはバイクを飛ばしガードレールに激突し・・でなければならないのだ。それに風が吹いて柳が揺れたとはいえ、幽霊で現れるなどはもっての外(ほか)だった。聖也がそんな気分で浮かんでいると、後ろから声をかけられた。
『ああ、新人さんですか?』
 驚きはしなかったが一瞬、ギクリとして聖也は声がする方向を見た。ひとりの、ダサそうな老人がひとり、同じようにさ迷っていた。足が消えていたから同類だと思えた。
『あなたは?』
『私ですか? 私は古くからここを塒(ねぐら)にしている者です』
『塒? …ホームですか?』
『ははは…まあ、そのようなものでしょうか。もう、かれこれ百年になります』
『百年!!』
 聖也は、この言葉に驚かされた。余りにも古い。
『はい。誰もこなかったのですが、今日初めて、あなたが現れたんですよ』
 どうも、他の者はいないようだった。
『餅を喉に詰めましてね…。今となれば語れるんですが。死んだ当初は、格好悪くて、とても話せる気分ではなかったんですよ。まあ、話し相手もいなかったのが、勿怪(もっけ)の幸(さいわ)いだったんですが…』
 訊(き)いていないことまでよくしゃべる爺(ジジイ)だ…と、聖也は思った。待てよ! それはそうとして、死んだ原因は俺と同じだ…と聖也は気づいた。
『俺も餅喉なんですよ!』
 ロック歌手の聖也は、格好をつけて喉を指さした。
『私は歌舞伎役者!』
 その老人もまた、格好をつけて歌舞伎風に見得(みえ)を切った。聖也は同じ方向なんだ・・とニタリとして見た。老人もニタリと笑った。二人は風に揺れる柳の回りを舞台に見立て、フワ~っと格好よく一回転した。どちらも少し、間抜けしていた。

                    THE END

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2014年8月14日 (木)

短編小説集(21) 残像

 めでたく新年が明け、遠くの山並みに昇る初日の出を見ながら勇は背伸びをした。この一年、どう過ごそうか…。確固とした計画もなにも立っていなかった。去年と同じで、また無為に一年が過ぎ去るのか・・と思えば、無性になにかしたい気分になった。
 気づけば車を止め、知らない街の繁華街を歩いていた。どう考えても、見た記憶が浮かばない街並みだった。落ちつけ! 落ちつくんだ! と、勇は自分に言い聞かせた。記憶を遡(さかのぼ)ろうと立ち止り、目を瞑(つむ)った。家を出て駐車した車に飛び乗った。…そこまでは、はっきりと覚えていた。住んでいる街を抜けてしばらく走り、隣街へ入った。…確か、そうだった。この辺りの残像はまだ確率が高い、と勇には思えた。ふと、不自然に立ち止っている自分に気づき、一端、瞼(まぶた)を開けると歩道にあるベンチへ座った。そして、また目を瞑った。記憶の残像が、ふたたび脳裡を巡り始めた。そのとき、ふと小学校で習った日時計を勇は思い出した。目を開けて空を見れば、日は中天やや左に昇っていた。冬場だから日の運行は軌道が低い・・とは、知識にあった。家を出たのは7時半頃だった…という残像が幸いあり、今から逆算すれば約4時間は走っていた計算になる。勇は立ち上がると自動販売機で買い求めた缶コーヒーを啜りながら、駐車した車へ戻った。幸い一本道だから逆行して走ろう・・と勇は単純に思った。
 4時間ばかり走ると、どうにか記憶の残像にある街並みが見え始めた。やれやれ、戻ってきたんだ・・と勇は、ほっとした。冬の日没は早い。もう、夕暮れ近かった。
 家の駐車場へ車を止め、家へ入った。朝刊を新聞受けから取り出し、手にして驚いた。日付けは大晦日の12月31日だった。それも、新年を迎えた前の年の…。残像に残った新年は、まだ巡っていなかった。
『旧年中は、いろいろお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします、どうぞ、いいお年を…』
 すっかり暗くなった6時半過ぎ、勇が夕食を食べていると電話が入った。世話をした知人からだった。同じ残像を勇は思い出した。昨日もかかった電話だ…と思えた。勇は新年を迎えるのが、そら怖ろしくなった。もう家を出まい…と、除夜の鐘が鳴る中で思った。だがひと眠りした次の朝、勇の残像は消え去り、初日の出を見たあと、家を出ていた。

                         THE END

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2014年8月13日 (水)

短編小説集(20) ガソリンを飲む男

「今日はもう、帰っていいよ。お疲れさん!」
 所長の下岡にそう言われ、多田は緩慢に席を立った。ようやく一日の仕事が終わったか・・と多田は解放された機械のように思った。やれやれ、これでガソリンが飲めるぞ! と多田は嬉しくなった。下岡経理事務所に勤める多田にはひとつの秘密があった。それは秘密というより、下岡ばかりか誰にも話せない科学を覆(くつがえ)す秘めごとだった。多田がそうなったのには一つの原因があった。その頃、多田は親の脛(すね)を齧(かじ)る学生だった。なに不自由なく学生生活を満喫していた多田は、卒業式の後、打ち上げの飲み会に参加していた。学生生活もこれで最後か・・という気分も多少あり、テンションは高かった。
「イッキ! イッキ! イッキ!」
 チューハイをすでに2杯飲んでいた多田だったが、同期の学生仲間に煽(あお)られ、よし! 飲むか! と一気に飲んだ。酔いも手伝わせていた。そのとき異変が起きた。なんの飲みにくさもなく、水を飲むようにスゥ~っと飲めたのである。しかも、それまでの酔いは完全にどこかへ消え失せていた。その異変を他の者達は、まったく気づいていなかった。ただ、多田が飲み干す余りの早さと、そのスムースな飲みっぷりには驚きの歓声と拍手が上がった。多田は顔で笑ったが、体調の異変に内心では笑えなかった。それ以後、異変が断続的に多田を襲うようになった。無性にアルコールが欲しくなるのだ。酒ならなんでもよかった。それでいて飲むと、酔わなかった。どういう訳か、酒臭さもなく、まるで水を飲んだような感じだった。そして、ついに究極の異変が起きた。
 ある時、仕事をしていた多田は、無性にアルコールが欲しくなった。生憎(あいにく)、いつも鞄(かばん)に隠し持っていたカップ酒を切らしていた。身体はアルコールを求めている。ついに多田は我慢し切れなくなった。
「すみません! ちょっと失礼します!」
 下岡は脂汗を流す多田の異常に気づいた。
「どうした? 腹具合でも悪いか? 顔色が悪いぞ」
「いえ! …」
  立つとペコリと頭を下げ、多田は事務所を走り出た。向かったのは酒屋ではない。もう、その余裕が多田にはなかった。事務所の駐車場の片隅には、万一のガス欠用のガソリンが小タンクに買って保管されていた。多田はそのキャップを開けると一気飲みしたのである。このとき多田は、えも言えぬ満足感を覚えた。いままでのアルコールにはなかった感覚だった。そして飲んだ直後、多田は無性に走りたくなった。いくら走っても息切れしなかった。それどころか自動車並みに走れた。
「君さ、最近、食べなくなったね? 大丈夫かい、身体…」
 昼食も食べなくなった多田を気づかって、下岡が声をかけた。
「あっ! 僕は大丈夫です、ガソリンがありますから」
「えっ?!」
 下岡は耳を疑って、訊(たず)ねた。
「いえ、別になんでもありません…」
 口が滑(すべ)った…と、多田はすぐ打ち消した。しかし多田の身体は、いつの間にか機械人間へと変身していた。さらに怖ろしいことに、この異常現象は多田から下岡へ、そして…感染するかのように地球全体の人類すべてへと蔓延していった。ガソリンなしでは生活できなくなった人々。ついに、ガソリン需要を賄(まかな)えなくなった人類は…、この先をお話しするのは、身の毛がよだつので、やめることにしたい。

                  THE END
 

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2014年8月12日 (火)

短編小説集(19) お粗末感

 人は立て前で生きるものだな…と、大森は思った。大森は立て前が嫌いな性分で、本音で生きてきた男だった。だから、公私ともに随分と損をしてきた。ここは抑えるところだ、と分かっていても、つい口に本音が出てしまうのだった。先だっても、こんなことがあった。
「お前は、よく間違えるな~! 同じところじゃないか! 予算科目も分からんのか! これは、細節だ。いい加減に進歩しろ! 大森の方は…これでいい」
 区役所の課長補佐、田坂は部下の三崎と大森を前に小言を並べていた。係長のときは猫の声だったものが、つい最近、管理職に昇進したのをいいことに管理者風を吹かせていた。嫌な奴・・という思いが大森にはあった。この日も、横の三崎が小言をもらった。
「それは、ちょっと言い過ぎなんじゃないですか?!」
 大森は黙ってりゃいいものを、つい口にしてしまった。直後、しまったと思ったが、もう遅かった。
「なにぃ! 君に言ってるんじゃない! さっさと席へ戻って仕事をしろ!」
 顔を赤くして田坂が怒りだした。返って怒らせてしまった…と、大森をお粗末感が包んだ。俺はいつも、こうだ…なにかいい手立てはないものだろうかと、大森は机上のパソコンを操作しながら、そんなことを考えていた。そして、ある考えが大森の脳裡をふと翳(かす)めた。
━ そうだ! いつも自分をお粗末な男だと思えば、口が止まるかもな… ━
 大森は、よし、それでいこう! と決意した。それには絶えず、俺はお粗末だ…と意識して思っていなければならない。いわば、お粗末感を抱き続ける集中力が必要なのだ。そして、大森がその決意を実行して、ひと月が経過した。
「あいつ、随分、大人しくなったな…。なにかあったか?」
「さあ…」
 課の同僚達からそんな声と小笑いする声が大森に届いた。立て前で生きるくらいなら、人生やめちまえ! と、ふたたび大森の心に本音が浮かんだ。いや、いやいやいや…大森は慌(あわ)てて打ち消した。
 そんなある日、企画会議の席で、ついに大森の鬱積した心が爆発した。
「馬鹿いっちゃいけない! あんたの方針だと、来年からこの課は、お手上げだ!!」
 言われた田坂は立ち上がろうとした。それを課長の下瀬が押しとどめた。
「大森君の言うとおりじゃないか。田坂君、この案は再考だな、ははは…」
 下瀬はそう言って立つと、横に座る田坂の肩を軽く一、二度、叩いて席を去った。
「今日は、これまで!」
 苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような顔で田坂は、そう告げた。よし! 俺は俺だ! 大森の心から、お粗末感が消え失せていた。

                 THE END

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2014年8月11日 (月)

短編小説集(18) 金盗り村

 頃は大正半ばと申しますから、今からかれこれ百年ばかりも前のお話ということになります。実は、このお話、私が祖父から直接、聞かされた本当の話なのでございます。祖父は私が成人になる頃、他界したのでございますが、このお話は私が子供の頃、寝物語に枕元で聞かされたお話なのでございます。
 実名をお話しするのは憚(はばか)られますから、ただ村と呼ぶだけでお話を進めて参りたいと存じます。祖父の話によりますと当時、この村は六十戸足らずの小さな村だったそうでございます。小さな村と申しましても一応、役場もあったそうでございますが、なんとも暮らしにくい村だったと申します。私の祖父は当時、竹細工の小売りをして生計を立てていたそうにございますが、まあそれなりに暮しておりました。本当なら、儲けも程々、あったそうでして、生活のゆとりも出来たはずだったと申しましたが、どういう訳かこの村は村税が高く、祖父は金盗り村だ! と不平不満を私に申しておりました。幼い私は、ただ聞かされるばかりでございましたが、今こうして考えますと、ひどい村もあったもんだ・・と、ただただ呆(あき)れるばかりでございます。しかし、報いはあるようでして、現在、この村は一戸すら存在いたしません。私も一度、この村が存在した所へ行ってみましたが、六十戸足らずの家すべてが廃墟となっておりました。当時の村人がどこへ消えたのか・・怖いお話になりますから、散り散りばらばらになったと考えるのが妥当なのでございましょう。では、祖父達が納めた村税がどこへ消えたのか? この謎(なぞ)は、今も残る金ピカの村人寄合所がそれを物語るだけでございます。金ピカの村人寄合所・・廃墟の家々・・。比較すれば怖いお話でございます。
 このお話、今の時代の箱モノと呼ばれる国の公共事業にも通じるものがあるのでは? と考えさせられた次第でございます。もう少し言わせて戴きますと、豊かな日本の暮し? これに反比例するかのような国の債務の大きさでございましょうか。百年後、この国は? と考えますと、怖いお話でございます。
 そんなことを、ふと想いに浮かべた訳でございます。

                      THE END

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2014年8月10日 (日)

短編小説集(17) 欲

 今朝は妙に冷えるな…と、荻窪一郎(おぎくぼいちろう)は思った。よく考えれば、家の温もりがあるだけ有難いのだ。昨日、通勤帰りで見た路上の浮浪者、川辺の姿が、ふと浮かんだ。川辺は痒(かゆ)そうに首筋を掻きながらニヤリと笑った。寒風を避ける保温用の段ボール一枚で身を纏(まと)うホームレス・・おぞましく思え、目があった瞬間、一郎は川辺から視線を避けるように通り過ぎた。今、思い返せば、一郎は三年前、川辺の横で同じように段ボールで身を包んでいたのだ。それが空き缶を拾い集めに出て偶然、拾った鞄(かばん)。そして、その中の金。一郎は、無欲で警察へ届けた。だが、落としたという届け出は、ついになかった。届け出がなかったのは恐らく汚れた金だったからだ…と、一郎には思えた。笑った浮浪者の川辺は、その経緯(いきさつ)を知っていたのか? そこまでは一郎にも分からなかった。 
 警察から受け取った金で、一郎は身だしなみを整えた。どういう訳か、その後の一郎はトントン拍子に運がよくなった。逆境から這(は)い上がろうとする意欲が彼を人生の成功へと導いた。そして、今の家庭が出来た。すでに、妻と結婚して二年、妻の実父の会社を引き継いだのは、つい一年前のことだった。ただ、あの頃の一郎と違うのは、意欲が失せ、ただ、おぞましい人間の業欲だけが一郎を蝕(むしば)んでいたことだった。昨日、川辺に出会ったのは、欲に迷って出来た女との密会のあとだった。川辺から視線を避けたのは、その気まずさがあったのも確かだった。それを境に一郎は人生から転げ落ちていった。女がいたことが発覚し、家庭は崩壊。会社を追われ、養子に入った家は追い出された。
 一年後、一郎は路上の浮浪者になっていた。よく考えれば自業自得だった。今朝は妙に冷えるな…と、一郎は実感して思った。隣の川辺が痒そうに首筋を掻きながらニヤリと笑った。一郎は、おぞましく思わなかった。

                  THE END

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2014年8月 9日 (土)

短編小説集(16) 冬眠人間

 風が吹こうが吹くまいが、雨に濡れようと濡れまいが、そんなことは関係なかった。冬眠に誘(いざな)われた山村卓巳(やまむらたくみ)はすでに昏々(こんこん)と眠っていた。そこは森の中で、1m以上は積もったと思える枯れ葉が山村のベッド代わりだった。幸い、ひとたび寝入ってしまえば、あとは春先に目覚めるまで待てばよいのだから好都合に出来ている。俺は人間か? ひょっとすると宇宙人? 狼人間? ははは…そんなことがあるはずがなかろう。ただの異常体質さ…と、山村は自問自答したことがあった。何も食べずに冬眠する人間など、いるはずがない。山村は科学的な過去のマスコミ資料を探ってみた。だが、そんなSF紛(まが)いの記事や報道がなされたことはなかった。探る山村自身にも、そりゃ当然だろう…と思えていた。
 ヒューヒューと木枯らしが舞っていた。時折り、枯れ葉の数枚が彼の顔を覆ったが、すでに彼は眠っていた。一本の大樹の下だから、割合と凌ぎよい場所だった。いつの間にか冬となり、雪が足元を覆った。山村は木の葉の掛布に覆われているから終始、暖かさは保たれていた。ただ彼は冬眠していたから寒暖の感覚はなかった。どういう訳か、獣(けもの)、鳥、それに虫や微生物は彼を避けた。それゆえ、彼は少しの害も被(こうむ)ることはなかった。
 春になり目覚めると、山村は川のせせらぎで汚れた身体を洗い、世の物(衣類、背広、財布、時計、身分証、運転免許など)が入ったボストンバッグを隠し場所から取り出して身につけると歩き始めた。冬眠以外、皆と変わりはないさ…と山村は思うことにしていた。
「おはよう!」
「あっ! 社長、おはようございます! 今、帰国されましたか」
 秘書の谷田は山村の姿に驚いたように言った。
「ああ。なにか変ったことは?」
「はあ、これといって…。詳細は副社長に」
「ああ、そうだな」
 冬眠に入る前、谷田には、明日から数か月休む・・と言ってあった。毎年のことだから、谷田も素直に従った。それが去年の11月の末で、今は4月初旬である。その間、社長の職務代理を副社長の小坂に委(ゆだ)ねてあった。事情により行先と連絡は一切、不問とした。だから、なんの心配ごとも山村にはなかった。
「今、小坂君は?」
「はっ! おられます。ご連絡いたしましょうか?」
「そうだな…。帰った挨拶だけでもしておこう。それから今日は早退する」
「かしこまりました…。明日からは?」
「ああ、いつものように自宅へ車を回してくれたまえ」
「はい、お迎えに参上するよう手配いたします。お時間は?」
「そう…8時過ぎだな」
「そのように…」
 山村に動揺の気配はない。しばらくして、副社長の小坂に挨拶を終えた山村は本社ビルを出た。
 乱舞する桜・・春爛漫。いよいよ、1年の3分の1を眠った山村の活動時期が始まったのである。一面に咲いた桜を見ながら山村は両手を広げ背伸びした。一匹の蛙が山村の背広ポケットでケロケロ…と鳴いた。

                   THE END

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2014年8月 8日 (金)

短編小説集(15) あの世駅

「急がないで、急がないで…。今日はあなたが最後です。あなたが乗るまで発車しませんから…」
 急いでいたホームの女は頷(うなず)き、ゆっくりと列車へ乗り込みました。
 私がこの駅に雇われて、そう…もう、かれこれ三年になります。この日も私は、あの世への最後の旅人が乗ると、発車の笛を吹きました。もちろん、あの世名簿を確認したあとです。この日は最後の一人を加え、計28名の旅人が乗りました。列車は静かに駅ホームを離れ、闇の彼方(かなた)へと消えていきました。ここは終着駅でもあり始発駅でもあります。午前0時の10分前には規則正しく到着し、日付が変わった0時には規則正しく発車するのでした。あの世から到着する列車には誰も乗っていません。誰も乗っていない列車とは言いましたが、それは無人という意味ではなく、実は人の目にそう見えるだけで、本当のところを申しますと、生まれる人の霊魂があの世からやって来るのでした。私にも何人の霊魂がやって来るのかは分かりません。そのあの世からの列車は日付が変わると同時にあの世へ向け、発車します。乗る人は死んだ霊魂で、駅の構内だけ生前の姿で乗車するのでした。
 私がこの駅に雇われたのは、ひょんなことでした。三年前、私は仕事にあぶれ、来る日も来る日もハローワークへ通っておりました。失業保険で受ける給付金の嫌味を係員に言われました。ハローワークへ通うのが嫌になっていたそんなある日、私の郵便受けに一通の黒い封書が届きました。差出人の名はなく、中を開けますと黒便箋に白文字で印字された短い文面が一枚、名簿が一枚、それに駅員証明書、駅員バッチなどが入っておりました。名簿とは、先ほど申しましたあの世名簿だったのです。その名簿は以後、毎日、ポストへ投げ込まれるようになりました。それと別便であの世駅員の制服、制帽、あの世筆、あの世懐中時計などが送られてきました。私は怖くなり、警察へ届けようとも思いました。しかし、よくよく考えますと、被害を受けたという訳でもありませんし、返って警官に怪しまれることも考えられます。それで断念することにしたのです。
 さて、文面にはあの世名簿の説明と駅員の身分、給与、駅の場所等が書かれておりました。仕事を探していた私でしたから、ちょうど渡りに舟のいい話だったのです。しかし昼間、下見に行った駅そのものは荒れ果てた野原で、地図では駅があるはずがない場所でした。深夜となり、私は半信半疑のまま制服制帽に身を窶(やつ)し、あの世名簿とあの世筆を持ち11時半過ぎにその野原へと向かいました。野原へ到着しますと、やはりただの野原です。性質(たち)の悪い悪戯(いたずら)に騙(だま)されたか…と、私は腹立たしくその場を去ろうとしました。そのとき突然、辺りに靄(もや)がたちこめ、幻の駅舎が現れたのです。私は恐る恐るその駅舎へと入っていきました。人は誰もいませんでした。駅舎には驚いたことに線路とホームまでありました。それまでただの野原でしたから、私は怖(こわ)くなっておりました。するとしばらくして、一人、また一人と、どこから現れたのか分かりませんが人が駅舎へと入ってきたのです。その人達は自分の名前を陰気に私に告げました。私は、書かれていたマニュアルどおり、あの世筆で名簿にチェックを入れ、改札口を通しました。やがて午後11時50分になり、列車が闇の彼方から到着しました。ドアがスゥ~っと開き、なにかが降りた気配がしました。そのあと、ホームの人々は列車へ乗り込みました。そして、最後の人が乗り込みますと、私はあの世懐中時計を見て時間を確認し、笛を吹いたのです。ドアが静かに閉まり無音で列車が動きだしました。そして列車は闇の彼方へと消えていったのでした。
 これが、お話しする私がこうなったすべての経緯(いきさつ)です。今日はこれで終わりです。後ろを振り返りますと、野原に出現したあの世駅はもう消えてありません。消えたのは、私が駅舎から出たすぐあとでした。私はこれから家へ帰り、ひとっ風呂浴びて軽い酒で眠ることにします。不思議なことに、少しも怖くありません。給与ですか? ははは…ごく僅(わず)かですが、生活に困らない程度の¥が?名義で振り込まれております。給与の文句はありませんが、一日、家を空(あ)けられないのが玉にきずかな…とは少し思えます。

                    THE END

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2014年8月 7日 (木)

短編小説集(14) 一日<最終話>

「なんだ! おいっ! あいつ、点けっぱなしで帰ったのか。消しとけ!」
 不機嫌っぽく垣沼が誰に言うともなく言った。下田は黙ってデスクスタンドをOFFった。それと同時に木本の意識も絶えた。
 次の朝が巡ったとき、木本は車の中で眠っていた。コンコン! とドアガラスを叩かれ、目覚めた。社の駐車場だった。目を擦(こす)ると、ガラス越しに下田の姿があった。
「おはようございます、キモさん!」
 デスクに顔を伏せ眠ったつもりだった。いや、それは夢だったのか…。現実の木本は、やはり家へ戻ろうと車へ乗り込んだ。そこで眠気に負け、意識が遠退いたのだ。そして、夢を見た…と木本はぼんやりと思った。
「早く入らないと、編集長にどやされますよ!」
「あっ! ああ…。今日は何日だ?」
「18日ですが、それが?」
「いや、なんでもない」
 18日に徹夜したから、今日は19日のはずだった。一日が消えていた。木本は急いで車を出ると、下田とともに駐車場を抜けエレベーターに乗った。編集部の中に人の気配はなく、まだ、本郷は来ていなかった。不思議なことに、木本のデスクスタンドは点きっぱなしで、置いたはずの原稿はなかった。そして一匹の蝉がデスク椅子の上で時計回りに、のっそりと円弧を描いていた。

                    THE END

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2014年8月 6日 (水)

短編小説集(14) 一日<4>

どこから入ったのか、一匹の蝉が、木本の椅子の上にいた。その蝉は少しずつ椅子の上を時計回りに円弧を描いて動いていた。下田は恐る恐る、木本の椅子へ近づいた。すると、やはり一匹の蝉が椅子の上を時計回りに円弧を描いているではないか。まさか! とは思えたが、下田はそっと声をかけた。
「あの…キモさんですか?」
 すると、蝉はそれに答えるかのようにミーンミンミンミンミーと小さく鳴いた。その響きは下田の知っている普通の蝉より明らかに低く小さかった。下田はすでに怖(おそ)ろしくなっていた。対面席の本郷は受話器を手にしたままその様子を眺(なが)めていた。
「キモさんの席に…蝉がいます」
『蝉じゃねえ! 俺だ!』
 少し怒れた木本の声は声高(こわだか)になっていた。そのとき、編集室のドアが開き、編集長の垣沼荘一(かきぬまそういち)が入ってきた。その瞬間、下田の前の蝉はスゥ~っと跡形もなく消え失(う)せた。
「おい! どうした! 挨拶がないなっ」
「おはようッス!」「おはようッス!」
 垣沼の声に促され、下田と本郷は放心のまま浮ついた声を出した。
「ははは…なんかおかしいいな、今朝は! まあ、いいが…」
 垣沼は深く追求せず、二人も奇妙な出来事のことは黙秘した。
「おっ? 木本がいないな! まだ来てないのか?」
「ああ、木本さんなら、体調が悪いとかで今日は来れないと連絡がありました」
「そうか…。俺にドヤされるのを恐れて、ズルじゃねえだろうな、ははは…」
 木本にはその声が聞こえている。ある意味で垣沼の言うことは図星だったから、木本は見えないことでホッとした。だがその実(じつ)、この先が不安だった。
「よし、下田! 木本の原稿、お前が書け! あいつを待ってりゃ、一年かかる!」
 決断したように編集長の垣沼の声が飛んだ。木本はクソッ! と思った。徹夜の挙句、やっとの思いで完成した手渡すはずの原稿は、木本の机の上に置かれていた。
「はい!」
 下田は恐る恐る木本の机を見ながら小さく返事した。

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2014年8月 5日 (火)

短編小説集(14) 一日<3>

「そうだな。電話待ちってことで…」
 二人は、互いの仕事をやりだした。そのとき、ふと、木本は浮かんだ。そうだ! 電話だ! と…。目の前の電話を手にした。そして、編集部の番号を押した。すぐ、本郷の席の電話が鳴った。
「おっ! キモさんか…」
 本郷は受話器を手に取った。
『おい、本郷か。俺は、ここにいるぞ!』
 木本のは必死に訴えた。
「ここって、どういう意味です?」
『ここは、ここだ! 編集部だっ!』
「ははは…ご冗談を。今、下田に…。おい! 下田」
 本郷は下田に振った。
「かわりました。キモさん、下田です。どうされました?」
『どうもしてねえよ! 俺は、お前の横にいる!』
「えっ!? 誰もいませんが…」
『いる! 俺は!』
「… …」
 声を失った下田の顔は恐ろしさで次第に青白くなっていった。
「どうした、下田!」
 対面席の本郷は、受話器を握りしめたまま震えて立ち尽くす下田へ声を投げた。下田は震える指で木本のデスクを指さした。
「ああ、キモさんだろ? そのうち電話が入るさ」
 能天気な本郷の声に、下田は受話器を指で示した。
「えっ? なんだ、電話はキモさんからか?」
 下田は黙って頷(うなず)いた。
「どうしたんだよ…。俺が変わる!」
 本郷は自席の受話器を手にした。下田は内線の切り替えボタンを押した。
『本郷か! 俺だ』
「ああ、キモさん。おはようございます。どうかされました? 今、どこです?」
『馬鹿野郎! 俺は、ここにいる!』
「えっ?! どこです?」
『お前の斜め前の席だ!』
「… …」
 本郷の顔の表情が一瞬で変化した。本郷の視線の先にはデスクライトに照らされた誰もいない木本のデスクがあった。もちろん、内線の受話器も置かれたままだった。座ることを忘れた下田は唖然(あぜん)としたまま、まだ立っていたが、ふと、下田の椅子の上を見た。

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2014年8月 4日 (月)

短編小説集(14) 一日<2>

 朝、編集部のドアが開き、後輩部員の下田と本郷和也(ほんごうかずや)が入ってきた。
「あれっ? キモさん、いねえぞ? お前、知らねえか?」
「知る訳ねえだろ! 俺、今、来たとこだぜ」
 本郷が不機嫌な声で返した。 
「それも、そうだな…」
 下田は買ってきた袋を木本の席へ置き、辺りを見回して呟(つぶや)いた。木本はすぐ傍の席にいた。
『おいっ! シカトかっ!? 俺は、ここにいる!』
 木本としては面白くない。冗談半分の完全無視としか考えられなかった。
 確かに、木本は木本のデスクに存在していた。だがその姿は、木本にしか見えなかった。他の部員達の目には空席の木本のデスクが映っていた。
「ははは…、パタン、キュ~~じゃねえか? キモさん、ここんとこ徹夜だろ?」
 本郷が対面席の下田に言った。
「ああ、そうか…。そのうち電話が、かかってくるか。今日、明日、休みます・・ってか? はっはっはっ…」
 笑いながら下田はデスクスタンドの灯りをONした。パッ! と机が明るく映えた。
「待てよ! 怪(おかし)かねえか…」
 下田は木本のデスクスタンドが灯っていることに気づいた。
「なにがよ?」
 俄かに険しい表情になった下田は、木本のデスクスタンドを指さした。本郷も分かったのか、顔を険しくした。
『お前らっ! 馬鹿言ってんじゃねえ! 俺は、ここにいるっ!』
 木本は必死に訴えるような大声をあげた。だが、二人の反応は何もなかった。
「まあ、編集長が来てからだっ!」
 本郷は空(から)元気な声を出した。

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2014年8月 3日 (日)

短編小説集(14) 一日<1>

  夜通(よどお)しは、きついな・・という気分で木本努(きもとつとむ)は欠伸(あくび)をした。誰もいない暗闇の編集部にスタンドの灯りだけが白っぽく眩(まばゆ)い。腕を見れば、すでに二時半ばは回っている。車通勤だから終電が過ぎた心配はなかったが、家まで20分少々を戻って眠ったとしても、七時に起きたとして四時間・・いや、正確にはすぐに寝つけないだろうから、正味は二、三時間も眠れれば、いい方だ…と木本の脳裡はグツグツと巡った。それで、そのまま社へ残ることにして、そのまま机にうつ伏せの姿勢で眠ることにした。幸い、季節はまだ夏の暑気が残る頃で、寒さは感じない。結果、六時過ぎまでウトウトと微睡(まどろ)み、小鳥の囀(さえず)りに薄目を開けると、早暁の明るさが課内を覆い始めていた。昨日も、まったく同じだったから、この椅子に一日、座っていることになる…と、ぼんやりと木本は思った。動いたと考えれば、トイレだけだった。朝は後輩の下田学(しもだまなぶ)が菓子パンと牛乳などを買ってきてくれるはずだった。毎度のことだから、金は先払いにし、釣りはいいという手間賃がわりの条件で話ができていた。昼と夜は前の食堂が出前してくれるから、電話を入れるだけで事、足りた。夜七時まで店は暖簾(のれん)を下ろさなかったから、木本としては助かった。
 明日までに纏(まと)めろ! と編集長に釘を刺された原稿は、どうにかこうにか形になっていた。OKかボツかは別にして、とりあえずは怒られないだろう・・とは思えた。木本はデスクから据え置いた洗面用具の入ったバッグを手にすると席を立った。そして、トイレの化粧室へと向かった。中へ入った木本は、いつものように歯を磨き、顔を洗った。そのとき木本は異変に気づいた。歯を磨いている自分の姿がなかった。完全に消え去って、まったく人の気配がないトイレの内部が鏡に映っていた。しかし、木本は歯を磨いている感覚は確かにあった。自分の姿もはっきり見えていた。ただ、鏡に自分の姿はなかった。そんな馬鹿なことはない…俺、疲れてるな、と木本は目を指で擦(こす)りながら思った。まあ、些細(ささい)なことだ・・と、このときの木本はそう気にせず、タオルで顔を拭(ふ)くとデスクへ戻った。

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2014年8月 2日 (土)

短編小説集(13) 解毒<最終回>

「課長! …係長!」
 二人は眠たげに身体を起こした。
「工藤、戻(もど)ったようだな」
「そうみたいですね…」
 両腕を伸ばし身体を解(ほぐ)しながら、工藤は軽く言った。
「どういうことです?」
 由香は怪訝(けげん)な表情で二人を見た。
「いや、なんでもないさ、ははは…。有難う、席へ戻りなさい」
 由香は自席へ戻った。時間は始業開始前辺りらしかった。少しずつ課員達が出勤してきていた。
「工藤、この分だと、今日は平凡に過ぎ、明日は平林にエントランスで社長と言われるだろうな」
「はい! 僕は専務ですか?」
「ああ、私が言ったサイクルならな」
「ずっと、この繰り返しが続くんでしょうか?」
「それは分からんが…。まあ、運命と諦(あきら)めて気長にいこう」
「僕達二人だけが、なぜなんです?! よりにもよって!」
「興奮するな、工藤。どうにもならんことだ…」
 篠口は工藤を宥(なだ)めた。
「そうですね。どうでもいいんですよね…」
 その思いに至った途端、篠口も工藤もスゥ~っと胸のつかえがとれたように楽になった。神秘な力によって二人は解毒されたのだった。以降、篠口と工藤を襲った不思議な現象は鳴りを潜(ひそ)めた。

   
                  THE END

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2014年8月 1日 (金)

短編小説集(13) 解毒<19>

「そういうな。この世界から抜け出せる手立てが何かあるはずだ」
「だといいんですが…」
 工藤は小さな声で返した。
「そろそろ時間だ。総理役も結構、肩が凝(こ)るな。北方領土とガスのパイプライン共同開発の両天秤でロシアと会談らしい。海洋資源や漁業権は国境なしという話にして欲しいそうだ」
「なるほど…。しかし課長がロシア相手に交渉とは? 」
「ははは…そう言うな。だいぶ慣れてきたからな。アメリカもシェールガスの採掘技術が完成したから、2017年にはロシアを抜いて生産で世界一位の資源大国になるらしい。その点では、我が国への輸入可能が、いつになるかが鍵だろう。要は東西冷戦時ではないから、上手く日本の国益を守りながらやるしかない。詳細は外務大臣がやってくれるそうだが…。しかし妙なもので、別世界の話だと思えば、総理も緊張しないな。君だって、そうだろ?」
「ええ、それはまあ…。どこかで現実じゃないっていう意識が働いてるんですかね」
「それはいえるな。ただ、いつ会社へ戻るか分からんのが怖いな」
「ですね。この前は突然、視界が歪み意識がなくなりました。気づけば会社の係長席でした」
 工藤がそこまで言ったとき、藤堂が近づいてきた。
「総理、そろそろご準備を…」
「ああ、分かった。今、行く」
 藤堂が去り、篠口と工藤は中庭で別れた。
 篠口は会談を軽く終え、あとの外交を外務大臣に任せたとき、急に立ちくらみがした。
「総理! いかがなされました?!」
 篠口の視界は歪み、外務大臣の声も次第に遠退いて意識が途絶えた。
 気づけば篠口は机に前屈みになり課長席で眠っていた。起こされたのは、いつやらと同じ女性事務員の安藤由香だった。篠口と工藤の肩を由香は交互に揺すって起こした。

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