« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月31日 (金)

不条理のアクシデント 第一話  雷

 蒸し蒸しとした夏の空気に、私はアノ雷がまた来るのだろうか、と思いました。アノというのは、実はこれからお話しする一部始終に関係があるのですが…。
  私はその日も都庁の仕事を終え、帰路を急いでいました。
  私の家がありますのは都心から遠く離れた郊外ですので、夏とはいえ自宅に辿り着くと、残業をしない日でも薄闇が迫る頃になっていました。
 通勤は車で近くの鉄道の駅まで行き、と云いましても二十分程度なのですが、そこから乗換えなどもあり、約一時間半で勤務地に着くという塩梅(あんばい)です。
 その日も勤務を終え、寄り道のホオズキ市で買った鉢を助手席に乗せて車を運転しておりました。そして、もう少しで家へ着こうという矢先、あの雷に出会ったのです。
 その日も蒸し蒸しとしていましたが、俄かに空は昼の日照りが嘘のように全天灰色に包まれ、それでいて雨は降らず、ときおり空は白く閃いて、稲妻が鋭いラインでくっきりと流れていました。雷鳴は駅に着いた頃、遠くで微かに鈍く響いていましたが、また一雨来るんだろうな…という感覚だけで、別段、いつもと変わらないようでした。そして私は、月極(つきぎめ)の駐車場から車を走らせ、次第に大きくなる雷鳴にも躊躇することなく、家路を急いでいました。
 大粒の雨がポツリポツリとしますと、ザザ~っと降りだしました。それでも、そんなことは過去にもありましたので、恐ろしいという感覚はありませんでした。
 ところが、辺り一面に大粒の雨が降る激しい夕立となり、暫(しばら)く車を走らせていた頃、俄かに車中が真っ白い閃光を浴びました。その時、私の記憶は一時、遠退いたのです。
 気がつくと、私は職場である都庁の机にいました。時間は? と、腕を見ますと、午前九時頃で、周囲の同僚達は皆、机に向かって仕事をしていました。しかし、机のレイアウトは全く変わっていて、私の机だけが孤独に突出しており、しかも一人だけ隔離されたようなガラス窓近くにあり、その他の席は私の展望の効く前方に、ことごとく位置していたのです。
 私は少しウトウトと眠っていた感覚で、それでいて前後の時間の感覚がなく、少し離れた同僚に向き合っていたのでした。
「今日は何日だい?」
「何、云ってるんですか。今日は浅草のホオズキ市へ行くと、先ほど云ってらしたじゃないですか」
 敬語使いの同僚に、私は動転してしまいました。
「おいおい、何だ他人行儀な云い方してさぁ、俺がそんなこと云ったか?」
 同僚は笑いながら続けました。
「先ほど云われたじゃないですか。部長、どうかされてますよ。それに部長、髪が逆立ってられます。直された方が…」
 瞬間、部長だって…と、私は茫然と思いました。
「… … …」
 無言で頭に手を伸ばすと、確かに頭の髪の毛が一部、逆立っていたのです。
 その後、仕事の書類に目を通しましたが、今までに見たこともなく、それより書類の日付に驚かされました。車を運転して帰宅したあの日の二十年後でした。しかも私は、よく見ると部長席に座っていたのです。
 ホオズキ市は八月の六日から八日で、私は20年後の夏に存在していたのです。
 私の目に入るものは、全てではないにしろ真新しい物ばかりでした。ひとつひとつ、アレはなんだ! コレはどうしてだ! と、訊くこともできず、私は探偵にでもなった気分で辺りの様子を窺(うかが)っていました。
 その一つに、二十年前には未だ販売されていない電送装置がありました。所用で来る都民サービス用の装置で、待ち時間などに希望者がボタンを押すと、即座に欲しいものが取り寄せられ、購入できる装置でした。それが、食事、雑貨、雑誌などの書籍に分類して、それぞれ設置されており、至極当然のように都民が利用していたのです。
 これには驚かされましたが、他人の目を盗んで、チラリチラリと上目遣いで観察しました。そして時間も経ち、トイレへ行きますと、それは単に驚きというものではなく、はっきり云いますと、驚愕するといった感じに変化し、私は今にも卒倒しそうになったのです。と、いいますのは、鏡に映る自分の姿でした。あの雷に遭遇する前の自分の姿は消え、鏡に映った姿は紛れもなく自分ではありましたが、その反面、自分ではなかったのです。老いが迫った白髪の紳士が、そこに立っていたのでした。
 目の前の仕事を取り繕うように、私は戸惑いながらも何とかその日を済ませました。
 勤務を無事終え帰路を急ぎましたが、初めて上京した若者のように、訊きつつ確かめながら自宅へ向かったのです。僅(わず)か10分余りで最終駅に着いた交通の便の変化にも驚かされました。
 雷に出会ったその日と同じように駅へ着き、月極(つきぎめ)の駐車場へ近づきますと、そこには確かに自分の車がありました。しかし、駐車場は荒んでおり、それよりもなにも驚いたのは、埃まみれの私の自動車があったことです。それでもエンジンは、バッテリーも上がっておらず、すぐに始動したのが不思議でした。ただ、周囲の超近代的な車に比べ、明らかに時代遅れの感は拭えませんでした。私は車を走らせました。
 空は、あの時のように昼間の太陽のギラツキは消え失せ、俄かに全天灰色に包まれ、それでいて雨は降りません。時折り、空は白く閃き、小さく鈍い遠くの雷鳴とともに、稲妻が鋭いラインで鮮明に流れていたのです。これは、あの時と全く同じでした。
 助手席には、あの日に買ったホオズキの鉢がありましたが、土塊のみが存在するだけで、僅(わずか)に枯れた茎の名残りを留めるだけでした。
 私は、今となっては20年後になってしまった家路を急ぎました。
  蒸し蒸しとした曇天の薄暗い空に、私はあの雷が、また来るのだろうかと思いました。
 リフレーンするかのように、その現象は、ふたたび起こりました。急に目の前を閃光が白く走り、私の記憶は遠退いたのです。
 気づくと、私は20年前の都庁へまた戻っていました。即ち、私が最初の雷に遭遇した朝に私は存在したのです。時間は午前九時頃で、これも前回と同じでした。
 周囲の同僚は皆、机に向かい仕事をしていました。ただ、私は部長席ではなく、以前の私の席に座っていて、その両隣には、いつもの同僚がいました。
 急に隣の同僚が話しました。
「お前、今日帰りにホオズキ市へ行くって云ってたよな?」
 私は麻痺した感覚から我に帰って、「ああ…」とだけ答えました。目の前の書類は、あの雷に出会った最初の日には、既に決裁へ回した筈のものでした。私は、また同じ仕事をすることになったのです。
 何故、私だけがこのようなハプニングに出会ったのか…それが深い疑問でした。今日はホオズキ市へ行くのをやめようか…とも思いました。しかし何故か、ひとつの時空に閉じ込められたかのように、以前、経験した同じ流れで時間が進行していくのです。なんとか状況を変化させてみようと私は焦りました。このままでは時空に閉ざされてしまうという危機感がありました。焦れば焦るほど、状況は刻々と以前と同じように進行していきました。『そうだ、仕事をせずに決済へ回さないようにしよう。そうすれば、結果は自ずと変わってくる筈だ…』と、単純に考えました。しかし、思考とは逆に、身体が操られるかのように仕事を片づけていくのです。とめられないジレンマに?(もが)きつつ、私は気が変になりそうでした。
『ホオズキ市へは寄らないぞ』と、心に決め、私は帰路に着いたのです。
 前世の因縁か…、この時点で私はそう思っていました。
 私はこれから先を、皆さんにお話ししたくはないのです。でも、話の進行上、やはり話さねばならないでしょう。
 寄り道をせず、あの日のように駅へ降り立ちました。駐車場の私の車に近づき…、その時、私は唖然としたのです。寄ってもいないホオズキ市の、あのホオズキの鉢が…、車のガラス越しに見えるではありませんか。しかもあの時と同じ助手席の上に置かれ、橙色の実をたわわにつけて…。
 私は考えました。もう家には戻れないのだろう。そして、このまま時が進行すると、帰り道であの雷に遭遇し、ふたたび20年先へ連れて行かれ、しかもそれが永遠に繰り返されるのだろうと…。時空ポケットに陥った私、そうなるのが分かっているのなら、真新しい情報を入手して20年後に戻れば、特許、占い師、ギャンブルでの成金も…と、金欲も膨らみ、発想は飛躍していきました。
「フフフ…」と、吹っ切れたかのように無意識の微笑を浮かべ、私は車に乗り込みました。小悪人になった気分でした。
 そして、私が予感したとおり、ふたたびあの雷に出会ったのです。
 白い閃光が走りました。やがて私の意識は案の定、ふたたび遠退いていきました。
 悪い発想をすれば、結果は自ずと惨めになるものです。
「パパ、遅れるわよ」
 妻の声で、目が覚めました。私は夢を見ていたのです。…いや、でしょう。
 横には六才になる長男が寝相悪く寝ていますし、昨日二人で遊んだゲームソフトが枕許(まくらもと)にありました。そういえば、何度も振り出しに戻ったことを思い出しました。暑さで悪夢を見てしまったんだ…と、思いました。
『ハハハ…、そんな馬鹿な話はないよな』と、自分に言い聞かせつつ、夢であった安堵感と久しぶりに得たような開放感で、その朝、私は都庁へ向かったのです。
 そして、仕事を終え帰路に着きました。
 空は、また降りだしそうな薄墨色の空になり、蒸した熱気も夢の続きでしたが、あの出来事は夢だったんだ…という開放感がありました。そうして、漸(ようや)く、いつもの駐車場へ着き、止めた私の車に近づきますと、なんと…、窓ガラス越しに私の両眼に映ったものは…。
 買っていない筈のあのホオズキの鉢が助手席の上に置かれてあり、そして雷鳴が遠くで小さく響き……。

                             完

|

2014年10月30日 (木)

生活短編集 20 もう、いいかい? 

 功太は四人の仲間と、かくれんぼで遊んでいた。魚屋のみっちゃん、乾物屋の文ちゃん、八百屋の良夫君、肉屋の進の四人である。
「もう、いいかい?」
 今日は母親の和江に買物を頼まれていたから、寄り道をせず早めに戻ろうと、功太は買物を済ませたのだが、いつもの遊び仲間に見つかり、つい遊んでしまったのだ。誰も盗らないのが分かっているから、功太は買物袋をベンチの上へ置いて遊び始めた。缶けりから始まり、ケンパ、ビ―球と進み、すでに二時間が経過していた。そして今、かくれんぼである。ジャンケンに負けて鬼になった功太は途中抜け出来なくなっていた。
「ま~だだよっ!」
 目を隠し、声を出した功太に割合、大きな声が複数、返ってきた。これを聞けば、待たざるを得ない。実のところ、功太の心は急(せ)いていた。早く帰らないと和江に何を言われるか分からないからだ。当然、それは叱られることを意味した。だから、気が急いていた。本当は、ケンパが終わったとき、帰ろうとしたのだ。そのとき、進に呼び止められた。進は口が上手く、よいように丸め込まれ、あとは、ズルズルと流されていった。こういう決断力のなさは父親似に違いないと功太には思えた。けれど今は、そんな流暢(りゅうちょう)なことを思っているときではない! と、功太は、また声を出した。今度は一回目より少し大きめにした。
「もう、いいかい?!」
「ま~だだよっ!」
 少し遠退いた複数の声が返って来た。声の大きさからして、もう一回くらいかな…と、功太は思った。
「もう、いいかい?!!」
 しばらくして、功太が三回目の声を出した。
「もう、いいよぉ~」
 功太は、よし! と目を開けて走ろうとした。だがそのとき、功太の目の前には母親の和江の姿があった。
「よかないわよ! 功太!!」
 功太の前には、親鬼の怒った顔があった。功太は隠れようと走り去った。

                          完

|

2014年10月29日 (水)

生活短編集 19 待ってました!

 ここは、とある鉄道の駅前である。一人の男が、どこからともなくやって来て、地面にドッカ! と腰を下ろした。そして、じっと動かず、数時間ばかり佇(たたず)むと、またどこかへ消え去った。この珍事が来る日も来る日も続いていた。初めのうちは見て見ぬふりで放置されていたが、その男は何をしているのか? と不審に思った誰かが駅に通報し、駅側もついに重い腰を上げ、駅員に職務質問させることにした。
「あんたねぇ~、こんなところで何しとるの?」
「… ?」
 男は駅員の問いかけの意味が分からないのか、怪訝(けげん)な眼差(まなざ)しで駅員を見た。
「だからね! あんた何してるのかって訊(き)いてるのよ」
 次第に駅員の語気も強くなった。
「別に何もしてないよ。座ってちゃ悪いかね?」
「… わ、悪くはないさ。悪くはないけどね、ここは駅の出入り口が近いからね」
「近いから、なんなの?」
「だからさ。通る人がね、気味悪がってさ…」
「それはその人の考え過ぎでしょうよ。だいいち、ここは駅の敷地内じゃないでしょ? 業務妨害でもないし…」
「そりゃ、そうなんですけどね…」
「だったら、いいじゃないですか。しばらくすれば、いなくなるんですから…」
「… まあ、いいですがね。早く去って下さいよ。私も、こんなこと言いたくないんですけどね。上から言われたんで言ってるだけなんですよ。悪く思わないで…」
 駅員は這々(ほうほう)の態(てい)で足早に去った。完全な駅員の空振り三振である。男は気分を害したのか、しばらく仏頂面だったが、やがていつもの柔和な笑顔に戻った。そして数時間が経つと、その男は立ち上がって尻に敷いていた風呂敷を畳み、駅前から消え去った。男はその場を去る前に、『来ない…』と、意味なくいつも呟(つぶや)くのだった。
「おい! また来たぞ」
 いつの間にか駅員の間でその男に三公と渾名(あだな)がついた。とても忠犬ハチ公まではいかないや…と失笑された挙句の渾名である。そして、十年の歳月が流れた。
「おい! 七(しち)公が来たぜ…。あいつは感心な奴だ。誰かを待ってるに違(ちげ)ぇねえんだ…」
 十年の間に巷で評判になったその男は、三公から七公にまで渾名が昇格していた。そんな寒いある日、自転車に乗った一人の店員が男のところへ息を切らせてやって来た。手にはラーメン用のおかもちを持っている。
「へいっ! お待ちっ!!」
「待ってました! でも、かかっちまったねぇ~、10年だっ!!」
「すみませんねぇ~、お客さん。つい混んでたもんで、忘れちまって…」
「まあ、いいさ。急ぐ人生でもないしね…」
 そう言うと、男は店員に金を支払った。おかもちからラーメンを出しながら金を受け取った。
「待ってますから、冷めないうちに食っちまって下さいよ」
「寒いなか、悪いね!」
「いえ~、待たせましたからね」
 二人は顔を見合わせ、大笑いした。そのあと、男はフゥ~フゥ~と吹きながら、熱いラーメンを美味(うま)そうに啜(すす)った。遠くで駅員二人が、その光景を眺(なが)めていた。
「やっぱり三公だぜ、ありゃ…」
「いやいや、そこまではいかんだろ」
 二人は顔を見合わせ、大笑いした。

       
                  完

|

2014年10月28日 (火)

生活短編集 18 小判 

「あのう…これなんですが、お幾らくらいするもんでしょうか?」
 とある銀行の窓口に現れた中津登志子は、恐る恐る女子行員に訊(たず)ねた。バッグの中から女子行員の前に差し出したのは一枚の小判である。
「えっ! …ちょっ、ちょっとお待ち下さい。専門の者をお呼びいたしますので…」
 そう言うと、女子行員は席から立ち上がり、足早に奥へと消えていった。しばらくして、男子行員を伴って女子行員は戻ってきた。
「お待たせいたしました。この者に変わりますので…」
 男子行員は置かれた一枚の小判を手にして驚いた。
「あの…失礼ですが、これをどちらで?」
「はあ、実はですね。昨日、年末の大掃除をしておりましたら、蔵から壺に入ったこれが出てきたんですよ」
 登志子は、ありのままを一部始終、説明した。それによれば、この小判が壺にはまだ数百枚、入っているという。鑑定用ルーぺで小判を見る男子行員の顔色が少し変わった。
「驚きましたね。…これは、慶長小判金に間違いありません! お訊(たず)ねの件でございますが、小判は金(きん)としてのお値段と、骨董(こっとう)的価値としてのお値段が異なります。もちろん、骨董的価値の方が相当高うございますが、慶長小判金の場合、市場価格の相場取引では最低でも70万はいたしますでしょうか。むろん、今も言いましたように最低価格でございます。当行では生憎(あいにく)、この手の商品は取扱いをいたしておりません。プルーフ貨幣とかの金貨などは販売、買い取りをさせていただいておりますが…」
「そうなんですか…」
「あのう…お売りになるつもりでございますか?」
「いえ、そういう訳でもないんですけど、家においておきましてもね~。値打ち物なら金庫とかに入れとかなきゃなんないし…」
「お売りがご希望なら、骨董商がいろいろございますから、そちらで…。一度、役所の方とかでもご相談なさっては、いかがでしょうか」
「有難うございます。そういたしますわ…」
 なんと親切な行員だろう…と思いながら、登志子は小判を大事そうにバッグへ入れると、お辞儀をして銀行を出た。
 中津家へ戻った登志子は驚いた。家の表門の前は多くの報道陣が取り囲んでいた。登志子には、その訳が分からない。これかしら? とバッグを見たが、まさか…と思えた。このことを知るものは家族の者しかいない。まさか夫が…とは思えた。その可能性が、なくはなかった。久彦は口下手だから、うっかり洩らしたとも考えられる。そうだとすれば仕方ないわ…と思いながら、登志子は少し離れた横の通用門へと迂回(うかい)した。しかし、そこにも報道陣はいた。
「あっ! 奥さまですか? 発見された壺のことを少しお訊(き)かせて下さい!」
「あの…私は、なにも知らないんです、本当に!」
 登志子は逃げるように家の中へ駆け込んだ。
 次の日の朝、新聞やテレビ各局が中津家の壺の話題を賑やかに報じていた。
「派手に出てるな。俺のせいだ、申し訳ない。つい、口が滑(すべ)っちまったんだ…」
 夫の久彦は新聞を見ながら登志子に謝った。
「仕方ないわよ。一枚70万以上だって。…ってことは、に、2千万以上!! ど、どうする、あなた!」
「どうもこうも…これもご先祖様の助けだ! 建て変えたこの家の住宅ローンが完済できるぞ!」
 数日後、報道陣を前に記者会見が行われた。フラッシュが激しく焚かれる中、壺を挟み満面の笑みで会見に臨んだ二人だったが、壺を開けた途端、中の小判は忽然(こつぜん)と消えていた。そして、壺の中には一枚の紙に炭書が認(したた)められ入っていた。
- やはり、お主(ぬし)らには任されぬものと心得ござさうろふ この金子(きんす)は子孫のため預かりいたすべくさうろふ 借財は自らをもって返却されるべしと思ひ致しさふらふ ━
 二人は唖然(あぜん)とした。候文(そうろうぶん)は後日、口語訳され、一般に公開された。
「こんなことって、ある? 信じらんない!!」
 登志子の鼻息は荒い。
「俺も信じられんが、消えたものは消えたんだ。見つからなかった、と思えばいいじゃないか」
「まあ、そうだけど… …」
 30年後、住宅ローンは無事、完済された。それと時を同じくして、壺の中に、ふたたび小判が現れた。二人はそのことを知らない。

            
               完

|

2014年10月27日 (月)

生活短編集 17 そろそろ 

 宮園家では、世間では到底考えられない古くからの伝統があった。家風として代々、大切に守り継がれてきた行事である。とはいえ、それは神仏とはまったく関係がなかった。
「おい凌翔(りょうしょう)、そろそろ、あの準備をな…」
 すでに隠居して滅多と姿を現さない白髭(しろひげ)を蓄えた凌幻(りょうげん)が今年、古希を迎えた息子の耳元へ小声で呟(つぶや)くように言った。
「心得ております、父上…」
 凌翔も心に留めていたのか、素直に頷(うなず)くと、スクッと立ち上がった。そして、片隅に置いた古い木箱から一足の白い草鞋(わらじ)を取り出した。そして、厳(おごそ)かに両手で頭上におし頂くと、畏(かしこ)まって頭を畳につけ、一礼した。このときから宮園家の古式的行事は始まったのである。
「そろそろ、草鞋も編(あ)まねば…。お前も見ておくとよい」
 一礼を終え、白草鞋を白紙の上へ静かに置いた凌翔に、凌幻が静かに語った。
「父上は、まだまだ…」
「いやいや、もう歳じゃによって、万が一のこともあろうゆえのう」
 凌幻は息子へ諭(さと)すように続けた。そしてヨロヨロと立ち上がると、白紙の上の草鞋を手に取り一礼して両足に履(は)いた。
「家族の者達を呼びなさい」
 凌翔が去り、しばらくすると子供を含む五人が凌翔に続いて現れた。凌幻の妻、凌翔の妻、そして凌翔の三人の子である。それを見届け、凌幻は白髭を撫でながら静かに告げた。
「揃ったようだな…。そろそろ、始めるとしよう。皆、その隅へ座りなさい」
 凌幻に命じられた家族全員は、片隅で一列に正座した。凌幻が両手をパシッ! と叩いたのを合図に、賑やかなロック調のリズムが部屋に響き始めた。音を自動感知してスイッチが入るシステムである。凌幻はもの凄いフリで踊り、やがて胸元から取り出したマイクを片手に絶叫してロック曲を唄い始めた。

                           完

|

2014年10月26日 (日)

生活短編集 16 ご神杖[しんじょう]

 篝火(かがりび)が煌々(こうこう)と焚かれ、村のあちらこちらで火の粉を舞わせて輝いている。霊験あらたかな先万(さきよろず)神社の例大祭である。このお社(やしろ)の例大祭は一週間、夜っぴいて行われる伝統行事だ。ご祭神は一本の杖(つえ)である。洩れ聞くところによれば、昔々、一人の杖をついた老人がこの村へやってきて、神のお告げを言うと杖を残し、たちどころに消え去った・・という言い伝えがあった。それから先、この村では時折り起こる干ばつがなくなり、万物の豊穣(ほうじょう)の年が続いた。村人達は老人が神の化身に違いない、と固く信じた。そして、その老人が残した杖を、ご神杖(しんじょう)と崇(あが)め、御社(みやしろ)を奉納して祭った・・とも言い伝えられていた。
 いつの時代にも心善(こころよ)からぬ者はいるものである。このご神杖である杖の言われをどこで耳にしたのか、一人の男がこの村へやってきた。村人達は最初、不審がったが、悪さをする訳でもなく、交番の巡査も手出しができなかった。その男はホームレスのようにこの村に住みついた。哀れがってその男に食い物を与える村人もでて、月日は流れていった。そして半年後、神社の例大祭がやってきたのである。宮司が祭礼準備でご神杖を検(あらた)めようと御神箱を開けると、中に入っているはずの杖が忽然(こつぜん)と消えていた。宮司は驚愕(きょうがく)し、そのことを村の総代に伝えた。
「ええっ!」
 総代が腰を抜かして驚いたのは申すまでもなかった。それと相(あい)前後して、この村に住みついた男は姿を暗ましたのだった。村人や交番巡査が口惜しがったのは言うまでもない。ところが、男はひょんなことで捕まった。ご神杖を盗んで悦に入っていたその男は、その日以降、眠れなくなったのである。眠れない日々が続き、ついに男は痩(や)せ衰えた挙句、村へご神杖を返しにフラフラと舞い戻ったのだった。
「どうか、眠らせて下さい!」
 交番に現れたその男は、盗んだご神杖を巡査の前へ差し出すと開口一番、懇願(こんがん)するようにそう言ったそうである。この話には後日談がある。捕われたその男は改心し、罪を償(つぐな)ったあと、この神社で宮司の下男(しもおとこ)をしている。男の話によれば、よく眠れるようになった代りに、杖で頭を軽く叩かれる夢をよく見るそうである。夢ならいいと思えるが、痛いそうだ。
 夜も更け、篝火の輝きも一段と際(きわ)だってきた。今年も賑やかな御祭礼が繰り広げられている。下男が篝火の薪(まき)を足している姿が見える。

                         完

|

2014年10月25日 (土)

生活短編集 15 友ちゃん 

 執事の私(わたくし)が申し上げるのも畏(おそ)れ多いのでございますが、皆月(みなづき)友子ちゃんは今年、人生で初めてお金というものをお使いになられました。といいますのは、かねがね一度、使ってみたい・・と思っておられたのでございますが、今まで欲しいものはすべて、お付きの婆や、美苗が買ってくれましたから、その機会には恵まれなかったのでございます。その美苗と友ちゃんは同い年で、今年で96才でございます。あっ! 言わせていただきますが、ちゃん・・呼ばわりは、友ちゃんのかってのお願いなのでございます。ですから私は敢(あ)えて友子さまとはお呼びせず、友ちゃんと言わせていただいておる訳でございます。
 お正月ということもあり、友ちゃんは久しぶりに美苗とお芝居見物にお出かけになられました。といいましても、一般社会の私達とは少し異なりまして、スケジュールのすべては一週間以上も前にすでに決められていたのでございます。決めたのは友ちゃんご自身ではなく、皆月家で企画課長を務める山崎という老人でございました。この辺(あた)りを、もう少し詳しく申しますと、山崎は決裁印を押しただけで、企画立案したのはその配下の五人います企画課所属の若いお付きだったのでございます。では、友ちゃんは何をされたのか? ということになりますが、友ちゃんは、お芝居見物に行きたいわね・・と、婆やの美苗に呟(つぶや)かれただけだったのでございます。美苗は、『ほほほ…左様でございますわね。そのように手配させることにいたしましょう』と答えたのですが、それが、かれこれ十日ばかり前のことでございました。
 もちろん、お芝居見物だけではございません。企画立案されましたスケジュールには様々な行程が分刻みの表に纏(まと)められ、それを実行する責任者として運転手を兼(か)ねた外出課長の川端が命じられたのでございます。誰に命じられたのか? これも詳しく申しますと、友ちゃんのご子息で今年、喜寿を迎えられました長男の文雄さまでございました。行程表には当然、お食事やお買いものetc.の予定も入っておりますから、それはそれは緻密(ちみつ)な企画立案でございました。だから、友ちゃんがお金など使える訳がございません。では、どこで? 何に? という疑問に突き当たる訳でございますが、それをこれから詳しく語りとう存じます。
 賑(にぎ)やかにお正月を盛り上げるお獅子の音曲(おんぎょく)が心憎いばかりの演出でお二人の耳に聞こえております。これも、すべて企画課員による分単位の立案でございました。
「お天気もこのように穏やかに晴れ、ようございました…」
「そうね、婆や…」
 お芝居を見終えられた友ちゃんは、すでにご予約のお手配がされております会員制の超高級レストランへ婆やの美苗と向かわれたのでございます。そのレストランへは、すでに幾度(いくたび)も足繁くお通いになっておられますから、数分ばかりの道中でございますが、いつものことのようにスムースな時の流れが続いていたのでございます。ところがその日に限り、俄(にわ)かに友ちゃんは尿意を催(もよう)されたのでございます。事後に記された外出課長、川端の報告書によりますと、そのとき川端は少し離れた駐車場で待機していたようでございます。これも離れていたという責めが川端にあったのか? を吟味いたしますと、友ちゃんに、『いいわ…』と、お言葉を受けた旨を書き記(しる)しておりますから、強(あなが)ち、過失があったとは言い難い訳でございます。いつも駐車場で待機していたということもございますから、川端を責めるのは、ちと酷(こく)というものでございましょう。で、俄かに催された友ちゃんに婆やの美苗も驚き、慌(あわ)てふためきました。いつもは、左様なことが起こる状況など皆無だからでございます。美苗は、辺りを見渡しました。すると幸い人気(ひとけ)のない草むらが数メートル向こうに見えたそうにございます。歩いておられたのは、川の堤防伝いの小道でございましたから、なるほどと私(わたくし)も合点いたしたようなことでございました。
「見て参ります!!」
 と、言い放ち、美苗は小走りでその草むらへ下りて参りました。しかし、友ちゃんご自身は、すでに我慢の限界が来ておられたそうにございます。上手い具合に自動販売機が近くにございました。友ちゃんはこの時とばかりに、少しの貨幣をポシェットから出されたたそうにございます。友ちゃんは財布を持っておられません。友ちゃんの財布は婆やの美苗が保管しているからでございます。だから、いつの日か一度、お金を使いたい・・と思っておられました友ちゃんは、密かに硬貨を隠し持っておられたのでございました。それが丁度、このとき! とばかりに絶好の機会で訪れた訳でございます。友ちゃんは硬貨でペットボトルを買われますと、すぐに中身を捨て、その中へ用を足された・・ということでございます。婆やの美苗が、「お嬢さま、大丈夫… …?」と堤防を昇り、戻って来た折りには、事はすべて終わっていたと、そのような報告がございました。

                       完

|

2014年10月24日 (金)

生活短編集 14 屋上にて 

 すがすがしい行楽日和となった五月のゴールデンウイークである。連休ということもあり、世間では例年の交通ラッシュが起きていた。田所はそんな世間に嫌気がさし、マンションの屋上で青空に流れる雲を眺(なが)めていた。彼の横には地上に向かって釣り下げられた一本の釣竿があった。糸の先にはドーナツが餌(えさ)代わりに付けられていた。餌は何でもよかったのだが、下から舞い上がる風圧を考えてのことだった。田所は屋上で釣り気分に浸(ひた)っていたのである。この光景は尋常ではない。ただ、辺りに人の気配はなく、田所一人という状況のみを考えれば、強(あなが)ち異常とも言えないものがあった。屋上へ釣竿を持ち込んで地上に向かって糸を垂らそうと、取り立てて妙なことではない。他人がいて、その状況を見れば確かに違和感はあり、まともな者の所作とは思えないのだが、誰もいないのだから違和感は生じなかった。では、田所はどういう気分で糸を垂れていたか・・ということである。彼の頭の想念は鯉幟(こいのぼり)ならぬ鯉釣りだった。
 田所は心地よくなり瞼(まぶた)を閉ざしたが、時折り目を開けては竿の具合を弄(まさぐ)った。だが彼は竿の先は見なかった。想念の邪魔になるからである。想念では、ほどよい大きさの池のほとりにいて、竿を垂れているのだ。水面(みなも)には時折り、鯉が跳ねていた。
「オッ! かかったか!」
 竿がしなる微音に、田所は跳ね起き、叫んだ。次の瞬間、田所は釣竿を握りしめていた。糸の先には、強風に煽(あお)られたのか、切れて飛んできた隣家の鯉幟が引っかかっていた。
 
「こりゃ、大物だっ!」
 田所はニタリと笑い、したり顔になった。

                            完

|

2014年10月23日 (木)

生活短編集 13 でました!

 ここは都会の片隅にある繁華街の裏通りである。時折り、酔っ払いが漫(そぞ)ろに通り抜ける片隅で、吉川は八卦(はっけ)の易者稼業を今夜も続けていた。夜風が袴(はかま)の裾(すそ)を撫(な)で、その冷たさに、今夜はこれくらいにしようかと椅子から立ち上がった、そのときである。フラ~リ・・フラ~リと、どこから現れたのか、酒に寄ったホステス風の若い女が、ドカッ! と客椅子に座った。
「なにっ!? あんた、私じゃ視(み)られないっていうの?」
 吉川は長年の感で、性質(たち)の悪い客に捉(つか)まったな…と額(ひたい)に皺(しわ)を寄せた。外見からして、かなりの酩酊状態である。吉川は、『酒癖が余りよくないようだ…』と、占い師の直感で推断した。
「あっ! そんな、つもりじゃ…。ど~れ、拝見させていただきましょうかな」
 そう言いながら、吉川は慌(あわ)てることなく、ゆったりと、ふたたび椅子へ腰を下ろした。
「分かりゃ、いいのよ!」
 女はそう言うと、サッ! と右の手の平を広げて吉川の前へ差し出した。
「で、何を?」
「私さぁ~、どうも男運がないのよねっ! これさっ! …なんとかなんない! アアッ! 腹が立つぅ~~!!」
 女が急に叫び出し、差し出した手の平を引っ込めた。吉川は、『うわっ! 最悪だ…』とテンションを下げた。
「お客さん、落ちついて!」
 吉川が宥(なだ)め、女は不承不承(ふしょうぶしょう)、まあいいわ…みたいな顔をして落ちつくと、もう一度、手の平を吉川の前へ差し出した。その速さが緩慢になったのを見て、吉川は、『まあ、なんとかなりそうだな…』と思ったが、自分は手相は見ないことに気づいた。しかしまあ、女は酔っている・・と女の手の平を取ると覗(のぞ)き込んだ。手相を見ながら、吉川は筮竹(ぜいちく)は、そのあとでいいか・・と頭を働かせた。
「お客さん… … でてますな。おやっ! 五日後に出逢われる男の方があなたを救う・・と、でている。まあ、私の専門外ですから、当てにはなりませんがな。では、専門の方で…」
「ふ~ん、五日後ね…」
 女は絡まず受け流したから、吉川はホッとした。ここからは自分の専門分野である。女の手を離すと、筮竹を両手に握りしめ、吉川はいつもの呪文めいた気合い言葉を呟(つぶや)いた。
「ウウッ~!! でました! 男運は、あなたに、まったくありません。あなたの男運はすべて暗剣殺!」
「そうか。やっぱ、駄目なのね…」
 先ほどの語気はどこへやら、女は淋しそうに静かに立つと見料を支払って立ち去った。夜風が冷たくヒュウ~~と鳴った。吉川は立つと、小忙しく道具を仕舞い始めた。
 その一週間後の夜、この前の若い女が、またどこからか現れた。酒に酔った気配はなく、表情も素である。
「おや、この前のお客さん…」
 吉川は自分の方から女に声をかけた。
「易者さん、有難う。五日後さあ、素晴らしい男性に出会ったのよ。私達、結婚することになりそう!」
 女は急に快活に微笑むと、軽くお辞儀して立ち去った。吉川は言葉を返せなかった。本職の筮竹の八卦が外れ、適当に言った手相占いが当たったからだった。吉川はテンションを下げ、酒を飲みたい気分になった。

                       完

|

2014年10月22日 (水)

生活短編集 12 勝負なし

 ここは空手道場である。負けても負けても性懲(しょうこ)りもなく稽古に通う年老いた一人の男がいた。名を野真省次郎と言った。名からすれば凄腕の剛の者に思えるが、実際の腕はからっきしで、今までの試合で勝った試しのない男である。しかし、ただ一つ、他の者を凌(しの)ぐ根気強さが野真にはあった。この男、十五の年から空手を始めていたのだが、すでに五十年近くが過ぎ去ろうとしていた。弱いくせに強がって他の者との試合を望んだ。この日も朝早くから道場へ通い、いかにも自分が師範代かのごとく振舞っていた。師範代の寺内も年功のある野真には多くを語れず、一目(いちもく)置いて彼に従った。
「野真さん、今日はどなたと?」
「もうじき来るだろう。いつものように軽く腕を見てみよう…」
 野真は負けても、相手に負けたとは思っていなかった。軽く相手の技を探るため、わざと負けてやった…と、他の門弟達に言い放つのだった。実際は、完全にやられているのである。ところが、「ふふふ…なかなか、やるのう…」と、こう野真は嘯(うそぶ)いた。野真の心中は勝負なしの気分なのだ。誰が見ても、あんたが負けだろ? という散々な結果なのだが、彼はそう思っていなかった。
 小一時間ほどして、佐々(さっさ)正之助という大男が現れた。今日も野真さん、散々に…と誰もが思い、試合が始まった。
「お願いいたす!」
 声だけならもの凄く強そうな野真が、佐々にお辞儀をした。
「お手柔らかに、お願いいたします」
 佐々も低姿勢のか細い声でお辞儀をし、試合が始まった。結果は約2分で決した。もちろん野真がボロボロに負けたのは言うまでもない。
「なかなか、やるのう…。まあ、今日はこの辺にしておこう」
「有難うございました!」
「おお…。まあ、勝負なし、ということだな、ははは…」
 勝ったはずの佐々が負けたはずの野真に深々と頭を下げた。いつもの光景だから、試合を見守っていた門弟達も、取り分けて不思議がる様子もなかった。
 そしてある日、ついに野真の勝つ日がやってきた。その日も野真は、いつものように相手に対していた。もちろん相手は師範代の寺内でもかなわないと思える剛の者だった。ところが、異変が起こった。野真が構えた瞬間、相手は急におびえ出したのである。そして、野真が胴着に手先を振れた瞬間、相手は自ら、吹っ飛んだ。
「参りました!!」
 ヨロヨロと立ち上がった相手は、息も絶え絶えに野真にそう言った。野真は一瞬、自分の前で何が起こったのか信じられなかったので驚いた。相手の空手に払われて倒れるはずだったからである。それが、勝ったのだ。野真は穏やかな声で言った。
「態(わざ)と負けていただくとは有難い。…まあ勝負なしということで、お願いいたします」
 野真は相手に対し、深々と頭を下げた。

                         完

|

2014年10月21日 (火)

生活短編集 11 そういうことです

 友則は小学生だが、非常に物分かりのよい少年である。1を聞いて10を知る・・的な理知に富んだ頭の切れがあった。昔なら、こういう少年は軍師に取り立てられるのだろうが、現在の文明社会では果(はた)してどうなのだろう。
 ここは友則が通う小学校である。いつものように簡単な小テストの答案用紙がクラスの全員に返されていた。
「池山! …これでは、もう少し頑張らんとな、ははは…」
 教師の隅田が答案を返しながら笑った。
「次! 福崎! … お前には先生が教えてもらいたいくらいだ。皆! 福崎は今回も満点だ!」
 答案を受け取る友則に、クラスの誰彼となく拍手がわき起こり、激しい響きで高鳴った。
「そういうことです…」
友則は、照れながら自席へ戻った。物分かりがいいからといって、友則は惚(うぬぼ)れるということがなかった。自分が物分かりがいいのは、天が自分に授けてくれた天分だと思っていた。それは物心ついた頃から始まり、今も変わっていなかった。謙遜(けんそん)しているという意識もなく、自然とそう思えているのだから態(わざ)とらしさも表だって現れなかった。そんな性格からか、クラスでは浮くこともなく、クラス委員や生徒会長のポストに至極、当たり前のように推されたが、彼は快く引き受けた。
 友則が他のクラス仲間と違ったのは、全員に敬語を使うところだった。彼は自分が物分かりがいいことを他の者達より自分が一歩、程度が低い・・と思えていた。だから、天が自分にそういう才能を与えたのだと…。こういう考えの持ち主だったから、友則は自宅でも当然、両親には敬語で話した。
「お帰り! 今日は、少し遅かったわね」
「はい、分からない問題を教えてくれとクラスの戸上さんに言われたので、教えてあげていました。…そういうことです」
「ああ、そうなの…」
 こうした、日々が続いた。ある日、友則の学校に火災が発生した。
「皆さん、こちらへ逃げて下さい!」
 友則は瞬時の判断で、生徒達に逃げる方向を指して叫んだ。階下の家庭科用調理室から発生した火災の煙は瞬く間に噴き上がり、友則達の教室へ迫っていた。友則は校舎の構造を熟知していて、煙道がどうなるかを即断したのだった。結果、友則は煙道と反対方向にある非常階段へ生徒達を誘導し、教師を含む全員が無事にグラウンドへと退避出来た。息を切らして最後にグラウンドへ駆け下りた教師の隅田が教師の隅田が福崎に駆け寄った。
「さすがは福崎だ! 偉いぞ。風向きで分かったか?」
「そうじゃないんです、先生」
「じゃあ、なぜだ?」
「煙道を考えたんです」
「煙の通り道か?」
「そういうことです…」
「お前は大した奴だ! 大物になるぞ」
「いえ、僕はならないと思います。なる人を手助けすることはあると思いますが…」
「影の存在だな」
「そういうことです…」
 二人は互いの顔を見て笑った。火災は幸い、調理室を焼いたのみで鎮火した。

                       完

|

2014年10月20日 (月)

生活短編集 10 うたた寝

 関谷は星を見ながら、うたた寝をしてしまった。今日で三日、新星の発見に余念がない。余念がないのはいいが、それがもとで、まったく眠れていなかった。新星を発見したのは三日前だった。関谷の目に、はっきりとその姿が捉えられたのだ。もちろん屈折望遠鏡を通しての姿だが、関谷はその瞬間、やった! と思った。だが、10分後、その新星は関谷の目の前から消え去っていた。それ以降、今日で三日、その新星を捉えられていなかった。
「風邪、ひくわよ…」
 妻の美里に起こされ、夜の冷気で関谷は目覚めた。美里が肩にかけたダッフルコートが暖かかった。すでに明け方近くの四時にはなっている星達の輝きだった。関谷の頭の中には星の運行図が完璧に記憶されていた。その記憶でいけば、ちょうど四時頃の星座の位置だった。
「ああ…」
 関谷が定点観測に入ったのは、もう三年ばかり前である。当時はまだ天体観測が出来る機材を友人から借りて観測に明け暮れていた。家の離れに小ぶりながらも小屋仕立ての天体観測所を、うたた寝しながら自前で作り、完成させたのが七年前だ、その頃から、勤めと観測で、うたた寝する日が続いていた。学者でもない関谷がそこまでのめり込むのには理由があった。天体観測の楽しさを教えてくれた親友の池崎が三年前、世を去ったのだった。その今際(いまは)の際(きわ)に枕元で関谷に星図を渡し、いい残した言葉が新星観測の引き継ぎだった。だから、関谷にはうたた寝してでも新星を発見しなければならない心理があった。
「食べないで、体に毒よ。はい、これ…、置いとくわね」
 魔法瓶に入れられた特製ポタージュスープは、いつも関谷を元気づけた。
「ありがとう…」
 言葉とともに、申し訳ない気分が関谷の胸に訪れた。二人の生活を犠牲にしている償(つぐな)いは、いつか返さねばならない…とは、つねづね関谷が美里に対して抱(いだ)いている感情だった。
 美里が小屋を出て数分後、徐(おもむろ)に覗(のぞ)いた望遠鏡の中に、消えたはずの新星の瞬(またた)きがあった。関谷は小躍(こおど)りした。
 数日後、新聞には華々しく新星発見の記事が掲載され、テレビ各局でも賑やかに報道された。ただ、新星名は関谷の嘗(かつ)ての願いで池崎新星と名づけられ、関谷の名が世に出ることはなかった。
 テレビが新星発見のニュースを報じていた。関谷は妻と座る久しぶりのテーブルで、うたた寝をしていた。その寝顔の中に、安堵(あんど)した笑みがあった。美里は何も言わず、その寝顔をただ微笑んで見続けるのだった。

                          完

|

2014年10月19日 (日)

生活短編集 9 話 

 妙なもので、話には尾ひれがつきます。例えば、こんな遊びがあります。まず、数人ずつがA、Bの2チームに分かれます。続いて最初の人に一枚の絵を見せます。そして、その絵をA、Bの最初の二人に記憶させ、それぞれ口移しであとの人へ伝えていくのです。終わりは、最後に聞いた人が、その絵を描きます。勝ちチームは、もちろん、最初の絵に似せた絵を描いた方のチームです。その優劣はA、Bのチーム全員で判定します。このことで分かるのは、話が伝わる途中でプラス、マイナスの尾ひれがついて歪(ゆが)むという事実です。要は尾ひれがつかず、そのまま伝わればいいのですが、人間生活の中では、そう上手くいかないのが現実のようです。
 ここは、朝の鴨田家です。
「やあ、おはよう。昨日さ、おとなりの山川さんの奥さんに聞いたんだが、下坂さん、引っ越すそうだな?」
「えっ? そんなことないでしょ。引っ越すのは下坂さんのおとなりの田鍋さんだって聞いたわよ」
「誰に?」
「大木さん」
「ふ~ん。じゃあ山川さんが間違って聞いたのかな?」
「そうよ、きっと…。この団地、そそっかしい人、多いから、ふふふ…」
 鴨田の妻、葱江は、そう言って含み笑いをしました。
 ここは、朝の大木家です。
「田鍋さん、お引っ越しだって」
「ほお~、そうか。俺は田鍋さんに鴨田さんって聞いたがな。お前、誰に聞いたんだ?」
「下坂さん」
「ふ~ん、そうか…」
 新聞を読みながら妻の里美の言葉に頷(うなず)いた大木は、突然、大笑いをしました。
「ははは…そりゃそうだ。田鍋さんと鴨田さん。鴨田さんの奥さんが葱江さん。すると! 鍋に鴨、葱がそろって、鴨鍋か。美味(うま)そうな話過ぎるよな」
 大木はそう言いながら笑い声を大きくしました。本当は引っ越しする人は誰もいないのですが、あるとき、婦人会で誰かが引っ越しするかも知れない・・という話に尾ひれがついたのでした。誰が言い始めた話なのかは分かりません。でも、引っ越しという先入観がありますと、ふと、他人の家の様子を見てそう思え、その家が引っ越しをすると誰かに言ったとしても不思議ではありません。そのことを、誰かに聞いた・・と話に尾ひれををつけて話せば、話がより一層(いっそう)、変化しますよね。だから、話は正確に伝えるように話したいものです。

                         完

|

2014年10月18日 (土)

生活短編集 8 いやだいやだ!

 太陽は輝きながら、宇宙空間を眺(なが)めた。その先には地球があった。自分の系列ではあの星だけ生物がいて、人間という一番、頭のよさそうな生物が偉そうに威張っているそうだが、ああはなりたくないぞ…と思った。そして、疲れた体を震わせながら、ああ、いやだいやだ! と、コロナを左右に舞わせた。
 その太陽の暖かい光を燦々(さんさん)と浴びながら新聞を読んでいた人間は、新聞が読みづらくなった…と思った。そろそろ老眼鏡か? ああ、いやだいやだ! と、誰もいない部屋で一人、新聞を畳みせながら首を左右に振った。
 春の陽気に誘われたのか、部屋窓のカーテン越しに一匹の蝶が舞っていた。蝶は忙しそうに蜜を吸い、ああ疲れた…と思った。もう歳か? ああ、いやだいやだ! と、誰もいない菜の花の上で一匹、ふたたび蜜を吸いながら首を左右に振った。
 菜の花の根元には一匹の蟻が歩いていた。蟻はこれも小忙(こぜわ)しそうに食べ物を探していたが、ふと立ち止まると、ああ疲れた…と思った。もう歳か? ああ、いやだいやだ! と、誰もいない土の上で頭を左右に振った。
 土の下では腐葉土を分解する一匹のバクテリアがいた。バクテリアは暖かさで活発に動き回っていたが、ふと、停止すると、ああ疲れた…と思った。もう歳か? ああ、いやだいやだ! と、誰もいない土の上で先端を左右に振った。
 そのバクテリアの片隅に宇宙があった。宇宙空間は膨張を続けていたが、疲れたなと…と思いながら、ああ、いやだいやだ! と、自分の中の銀河系星雲を見た。
 銀河系星雲も相変わらず宇宙をさ迷っていたが、行方の定まらぬ旅に疲れ果て、ああ、いやだいやだ! と自分の中の太陽系を見た。
 太陽は輝きながら、宇宙空間を眺(なが)めた。その先には地球があった。自分の系列ではあの星だけ生物がいて、人間という一番、頭のよさそうな生物が偉そうに威張っているそうだが、ああはなりたくないと思った。そして、疲れた体を震わせながら、ああ、いやだいやだ! と、陽炎を左右に舞わせた。

                          ∞

|

2014年10月17日 (金)

生活短編集 7 一寸先

「ははは…一寸先が分かりゃな」
 ハズレ馬券を握りしめた一人の男が、もう一人の馬仲間に、そう呟(つぶや)いた。
「お前はハズレてもよく買うよなぁ~」
「俺は馬が好きなんだ。買うったって、一枚きりさ。馬を見てると元気になるのさ」
「変な奴だな、お前は」
「ははは…なんとでも言え」
 競馬場で馬を楽しむ男は優(すぐる)といい、優の馬仲間は唯男(ただお)である。優はある種の開放感を得るために競馬場へ足を運び、唯男は、ただ勝つために足繁く競馬場へ来て、馬券を買う男だった。むろん二人とも、一寸先は読めなかった。
 ある日、優は官庁を退庁し、馴染みの蕎麦屋へ寄っていた。ここのつけ麺仕立ての辛み蕎麦は絶妙で、優の好物だった。
「あらっ! またハズレたよ…。宝くじは買うもんじゃないねぇ~」
「ははは…親父さん、夢を買うんだよ、夢を。まあ九分九厘、無理だからさ…」
「そりゃ、そうなんですがねぇ~」
 テレビが宝くじの抽選会場を映し出していた。カウンター越しに手を動かしながら蕎麦屋の親父が腕組みする。優はその対面で蕎麦を啜りながら、付け合わせの天麩羅を口にした。
「親父さん、一寸先が分かったらどうする?」
「ははっ! そんなことが分かれば、もちろん、くじなんて買いませんよ。馬券か競輪、競艇で一攫千金!」
「やっぱり、そうなるよね」
「ええ、そうなりますよ、誰だって」
「俺は違うんですよ。金とか出世は興味がないんで…」
「おや? そうですか。優さんは変わってるねぇ~」
「俺は生活充実派だから、自分が満足出来りゃ、それでいいんです」
「そんなもんですかねぇ~。私なんか一寸先、分かりたい派なんですが…」
 二人は爆笑した。そのとき優はふと、宝くじを無理やり友人に引き取って買ったことを思い出した。その宝くじが一枚、背広の内ポケットに入っていた。徐(おもむろ)に優はそれを取りだした。ちょうど、テレビ画面は当選番号を告げているところだった。優の手にした宝くじは見事、当たっていた。優は顔色一つ変えず、その券をカウンターへ置いた。
「親父さん、お勘定!」
「へいっ! いつものとおりで…」
 優は財布を出し、きっちりと勘定をカウンターへ置いて立った。
「ははは…一寸先は分からないもんだねぇ~!」
 優は急に笑えてきた。
「どうかしましたか? 優さん」
 親父が訝(いぶか)しげに優を見た。
「いやぁ~、ちょっと思い出したことがあってさ。じゃあ…」
 優は暖簾(のれん)を上げ、店を出た。
「毎度~! また、ご贔屓(ひいき)に!」
 優の後ろから親父の元気いい声が飛んだ。カウンターの上には優が支払った勘定と一枚の当たりくじが置かれていた。

                        完

|

2014年10月16日 (木)

生活短編集 6 僕は何?

 精一杯を生きよう! とは、卒業記念に担任の室月(むろづき)先生が僕達に残した言葉でした。先生は理論家で、黒板へ図式を書いてそのことを説明しました。それは、次のような図式でした。


        生まれ落ちた星の下
         ↓     ↓
        ハズレ   当たり

     ハズレの場合         当たりの場合
     ↓    ↓            ↓    ↓
   大ハズレ おしいハズレ  まあ、当たり  大当たり

 ○大ハズレ  =生まれ落ちたのが不思議なほどの大ハズレ
            生まれられたことに感謝し、奇跡を起こす
            くらい精一杯生きれば、当たりへと変化す
            る可能性を残すハズレ


 
○おしいハズレ=当たらなかったが、それなりに当たりに近
             い残念なハズレ
             当たった人を妬(ねた)まず、ハズレたこ
             とに落ち込まず、コツコツ努力すれば当た
             りへと変化する可能性を残すハズレ

 
○まあ、当たり=かろうじて当たったのだから、当たったこ
            とを自慢するほどのことでもない努力を
            必要とする当たり
 

 ○大当たり  =完全な当たりだが、馬鹿当たりとも言え
            危険を孕(はら)んだ当たり


 この図式を示しながら室月先生はお話をしました。結果として、君達は精一杯生きよう! と結論づけられました。小むずかしい話は分かりませんでしたが、生まれ方というのは籤(くじ)運に似てるなあ…と思えました。
 帰って、僕は何? かを考えました。父さんは、それなりのサラリーマンです。母さんもそれなりの普通の主婦です。ですから、先生の話によるところの、まあ、当たりくらいか…と思え、ひとりニヤリと笑いました。食事中でしたから、母さんが、「なによ・・おかしい子ねえ」と言って訝(いぶか)しげに僕を見ました。僕は考えるのをやめて食べ終えました。子供部屋へ戻ってふたたび考えました。二人はそれなりの親なのですから、やはり僕もそれなりの普通の子供なんだ…と思えました。期待されるほどの子供ではありませんが、落ち込まれるほどの出来の悪い子供でもないんだ…と思えました。先生に言われた最後の宿題でしたから、そのことをノートに書き終えました。これで安心して冷蔵庫にあるドーナツを美味しいミルクコーヒーで食べらるのか…と思うと、えも言えぬ幸せ感を僕は覚えました。
 

                        完

|

2014年10月15日 (水)

生活短編集 5 優雅な生活

 ホームレスの増町兼造は、かつて大会社の社長だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで事業を拡大させたが、度が過ぎれば、物事は左回りするものである。海外進出企業で俄(にわ)かに起きた需要の衰え[買い控え]により、会社は事業拡大を断念し、資本撤退に追い込まれた。追い討ちをかけるように反転攻勢に晒(さら)された会社はリストラ等による規模の縮小を余儀なくされ、ついには会社再建法の適用を申請し、倒産したのである。管財人による資産処分がされ、大幅な赤字は完済されたが、その事後に残った増町の財は何も残っていなかった。所有資産は、ことごとく抵当権の対象となり、不動産、貴金属、預貯金、家屋…などは、ことごとく没収されたのである。その結果、増町は今のホームレス生活を続ける破目に陥(おちい)ったのだった。
 大会社の社長、楢崎治郎は、かつて路端のホームレスだった。拾っては集め、また拾っては集めた挙句、ついにある日、ゴミ袋に包まれた草むらの二億円を拾った。金に執着心がなかった楢崎は、その大金を警察へ届けた。落とし主は現れず時効となり、その大金は楢崎のものとなった。楢崎には生れ持った商いの才覚があった。楢崎はそれを元手に小商いを始めた。それが馬鹿当たりし、楢崎の店は会社へと発展した。そしてさらに飛躍発展し、今の大会社社長の椅子へ座ったのだった。
 二人の違いは優雅な生活への関心にあった。増町は優雅な生活を続けたいと望み、楢崎は取り分けて思わなかった。その二人の違いが、どういう訳か裏目に出た。
 二人は幼馴染(おさななじみ)だった。だからよく遊んだ。二人は、あるとき、河原で石拾いをした。増町は楢崎が拾った石を見て欲しくなり、交換してくれないか、と楢崎に頼んだ。楢崎はどうでもよかったから、増町の交換に応じた。その二人の発想の違いが人生を分けた。 
 二人の優雅な生活は無の中に存在した…という、ただそれだけの逸話である。ただし、これを読まれる方々がそのように真似て心がけられても、そうなることは保障し得ない。

                          完

|

2014年10月14日 (火)

生活短編集 4 雨

「それは違うよ! 雲の絨毯(じゅうたん)の上は晴れてるから…」
 悌次はシャワーのように降る雨の空を見ながら明にそう言った。
「まあ、それはそうだな。確かに、晴れているだろうけど…」
「もちろん、僕も実際に見た訳じゃないし、科学的に紐解いただけだから断定はしない」
「雲海の上で寝そべってみたいもんだ」
「ははは…下から先生に尻を引っぱ叩かれるぞ」
 二人は視線を落として、また勉強を始めた。算数の教科書に出ている問題について話していたものが、いつの間にか外れてしまったのだ。気づいた二人は慌(あわ)てて教科書の練習問題をノートへ写し、やり始めた。教師の川田はテスト成績が最悪だった二人を放課後、教室に残し、もう一度、教えていた。15分ほどで戻るから、それまでに練習問題を解いておきなさい・・と指示し、職員室へ戻ったのである。川田が教室を出ていったあと、5分ばかりして雨粒が落ち始めた。それが瞬く間に本降りとなり、ザァーザァ~…と喧(やか)しくて仕方ない。明が突然、切れて、やかましぃ~! と喚(わめ)いて、二人の話が始まったのだが、もちろんその間、練習問題は手つかずで放置されていた。教室の時計が川田が戻って来るまであと5分少々を示していた。焦(あせ)る二人だが、
っから勉強嫌いの二人に、すぐ解ける訳がなかった。
「よく降るな…。どうだ、出来たか」
 川田が教室へ戻り、二人のノートを覗(のぞ)き込んだ。
「先生! 雲の上は晴れてますよね?」
 問題が解けていないのをカムフラージュするためか、明が突然、川田に訊(たず)ねた。不意打ちを食らった格好の川田は怯(ひる)み、ノートから視線を外した。
「…そりゃ、晴れてるだろうな。先生も見たことがないから分からんが、そう思うぞ…」
「父ちゃんは山の上で雲海に昇るお日さまを見たって言ってましたよ。お日さまは、まだ寝てたそうですが…」
「ご来光、直前だな、そりゃ」
「なんでも、その日の下界は、どしゃ降りだったって…」
「まあな、そういうことだ…」
 なにがそういうことか分からない二人だったが、問題が出来ていない負い目もあり、頷(うなず)いた。
「よし! もう帰っていいぞ! 問題は出来れば家でしておけ。ははは…それにしても、良く降るなぁ~」
 川田は二人の問題が解けてないのは先刻、承知だった。勉強だけが人生ではないことを川田は知っていた。川田は働きながら夜間大学を卒業し、代用教員から本採用となった苦労人だった。雨にも負けず、雲の上へ這(は)い上がった男だった。川田は勉強よりもそのことを教えたかった。

                         完

|

2014年10月13日 (月)

生活短編集 3 変化

 30年前は…と斎藤は家周辺の景色を見回した。ちょうどアルバムを眺(なが)めていたのだが、当時の家周辺を撮影した写真が偶然、目に入ったからだ。写真と今の風景を比較するように首を上げ下げすると、かなり変化しているのが観てとれた。
━ ああ、あの建物はなかったな…。この写真だと山並みに昇る日の出が見られたんだった… ━
 斎藤が思ったとおり30年前に高層ビルはなく、家の二階から、いや、二階といわず家の方々で日の出を見ることが出来たのである。今は? といえば、殺風景なドでかい高層ビルが何も語らず、ただ立っているのだ。景観が変わると、こうも気分が変わるものか…と斎藤は思った。他には…と少し角度を変えて眺(なが)めれば、あったはずの酒屋が消えていた。ここでは駄菓子も売られていたから、子供時代の斎藤は何かにつけて重宝した。懐かしい気分が、ふと込み上げ、斎藤の胸を熱くした。だが今は…と現実に戻れば、その酒屋も消え、コンビニの姿があった。そのコンビニも、よく考えれば三度変わり、今は店が撤収して空き店舗の寂れた箱ものになってしまっている。いずれは、それも取り壊されるか変化するんだろうな…と斎藤は冷めて思った。さらに角度を変えて眺めれば、二つ…三つと田畑だったところに小屋とかの建物が立っている。さらに道も広がり、車の走行も激しさを増している。平穏でゆるやかな田園地帯の景観は、いつしか消滅していた。いや、物ばかりじゃないぞ…と斎藤はまた思った。知っている人もいつしか消え、随分と目変わりしているのだ。
「まあ、いいさ…。俺にゃ、どうしようもない」
 斎藤は諦念(ていねん)した。そのとき、斎藤は耳鳴りを覚えた。その耳鳴りは激しさを増し、やがて奇妙なことにピタリ! と止まった。斎藤は、やれやれと安堵(あんど)した。テレビで昨日、観た病気予防の番組で、その手の前兆を言っていたことを思い出したのである。だが、そうではなかった。もう一度、見上げた斎藤の視線の先に30年前の原風景があった。嘘だろ!? と斎藤は思い、目を指で(こす)擦るともう一度、見た。やはり、前方に広がる風景は30年前のあの風景だった。建物も何もない原風景である。斎藤はしばらく、じっとその景観を見続けていた。今は改装されてなくなった古い窓に映る山並みに朝日が昇った。不思議なことにもう一人の斎藤がいて、今はもう亡くなった家族と語らっていた。斎藤の頬(ほお)に、なぜか涙が伝った。そして、ふたたび耳鳴りがした。その耳鳴りは最初と同じように激しさを増し、やがて奇妙なことにピタリ! と止まった。朝日が昇る山並みは消え、いつも見る冷たいビルが斎藤の前に立ちはだかるように、そそり立っていた。斎藤は、これが今を生活する俺の現実だ…と淋(さび)しく思い知った。

                        完

|

2014年10月12日 (日)

生活短編集 2 結果 オーライ!

 田上新次郎はボクシングの世界チャンピオンである。数年の下積みを経て希有な才能が花開いた数少ないボクサーの一人だった。その田上が世間の爆笑に翻弄(ほんろう)されていた。彼は先天的な生理上の問題を抱えていた。これは問題視されるような病的なものではなかった。彼は対戦中、あることで緊張したとき、必ず尿意を催すのだった。それは突然やって来た。対戦相手と打ち合っているときであろうと、ラウンドが終わりゴングでコーナーへ戻ったときであろうと関係なくやって来るのだった。
 解説席では、アナウンサーとゲスト解説者のボルテージが、かなり上がっていた。アナウンサーが訊(たず)ねた。
「もう、そろそろ出ましょうか?!」
「ええ! 間違いないでしょう! ダダ漏れアッパー!!」
 解説者は興奮気味に返した。リング上の両コーナーでは対戦者が分かれて座っている。
「よし!! その調子だ!」
 ベンチサイドは田上を見ず、観客席をそれとなく見渡した。偶然を期待する密かな視線だ。ゴングが鳴り、マウスビースを口に入れられた田上はチェアーから勢いよく立ち上がった。そのとき、観客の一人が腕組みをした。田上の両眼は無意識にその男を見た。その瞬間、田上に異変が起きた。急激な尿意に襲われたのである。すでにファイトは始まっていた。尿意は小刻みの一定間隔で激しさを増した。田上は相手のジャブをガードし続けた。少しフットワークが変則気味になりだした。
「あっ! これは…」
 アナウンサーも固唾(かたず)を飲んで話すのをやめた。
「出ますよぉ~~!!」
 解説者の声が高まった。もう駄目だ! と思ったとき、田上はリング上で失禁していた。それと同時に相手はダウンし、気絶していた。失禁と同時に田上のカミソリアッパーが炸裂(さくれつ)したのだった。田上が得も言われぬ生理的な解放感に包まれ我に帰ったとき、レフェリーのカウントする声が聞こえた。
「2! … 3! … …」
 レフェリーは挑戦者が気絶していることを確認すると、試合を停止した。ゴングが激しくなった。その瞬間、田上とレフェリーの目があった。レフェリーは笑顔で両手を広げジェスチャーし、手で床(フロア)を指さした。さも、汚いねぇ~、あんた…とでも言いたげなジェスチャーだった。
「出ましたねぇ~~!! ダダ漏れアッパー!!」
 アナウンサーも興奮していた。
「期待どおりでした!! しかし、笑える試合は、彼だけでしょうねぇ~!」
 解説者が言うとおり、場内は拍手と爆笑の渦になっていた。田上はグローブをはめたまま、後頭部を掻いて苦笑した。数人の係員がモップで床を拭きまわる。
「やりましたね!」
「ええ、また掃除させてしまいました!」
 リング上の勝利者インタビューに、ふたたび観客の大爆笑と拍手が起こった。
「いやいや、メンテナンスされる方も生活がありますから…」
 アナウンサーの嫌味に益々、爆笑のボルテージは高まった。

                         完

|

2014年10月11日 (土)

生活短編集 1 凡太の憂鬱(メランコリー)

  いつの間にかウツラウツラとしてしまい、しくじったか…と、私は思った。それで、咄嗟(とっさ)の勢いで目覚ましを掴(つか)む。昨晩、眠気を封じるためにコーヒーを啜ったのがいけなかった。結果として、夜が更けても寝つけず、ええい、もう朝まで起きていてもいいや…と自棄(やけ)気味な発想に及んだのだが、人間の生理的欲求というのは妙なもので、いつしか微睡(まどろ)んでしまったのだ。起こされたのは凡太によってである。無意識でアラームを止めていたのか、空が白々と夜明けを主張しているのに、私は目覚めてはいなかった。
 凡太は家(うち)の飼い猫である。今年で三齢になる雄猫だ。ミャーミャー(アメリカだとミューミューなんだろうが…)と呼ぶ声は朝の餌を求めていたのだろうが、私にとっては至極、幸いであった。彼が目覚ましの代役を立派に果たしてくれたからだが、私には期待していない出来事だった。それは、特に休日の場合だが、私が、ぐっすり寝入っていると、彼もまた深い眠りの中にいる。それが、である。
「……、……!」私は、ガラス戸を両前足の爪で掻きながらミャーミャ-と啼く声に、はっ! と目覚めた。目覚ましは七時半を既に回っている。何もかもを半散らかしにして、私は慌ただしく着替え、台所へ行く。
「あらっ? あなた…、今日は休みじゃなかったの?」と、威風堂々、家の主(ぬし)とでも云えそうなカミさんが、私を怪訝(けげん)な目つきで見る。「……」思わず私は、停止した時計となった。アッ! 何のことはない。今日は土曜だったのだ。昨日は…と辿ると、明日は土、日の休みだからというので寝つけぬまま調べ物をして…、つい寝入ってしまった。そうそう、そうだった。
「凡ちゃんの食事、お願いね。今、手が離せないから…」と云いつつ、カミさんは朝食の準備をする。
 先ほどまで寝室のガラス戸を相手に爪研(つめと)ぎをしていた凡太だが、今はもう、うざったい表情で、台所の片隅で毛繕(づくろ)いをしている。
  このグルーミングという行為は、私が買い求めた動物飼育本によれば、猫本来の重要作業の一つだそうである。家(うち)の凡太も例に漏れず、片足を上げた妙な姿勢で毛並みをナメナメしている。この仕草が私は好きだ。思わず愛しくなったりする。
  凡太が捨てられていたのは、凍て尽くした外気が肌を刺す、厳寒の夕方だった。その日、私は外套の襟を立てながら勤めの帰路にあった。漸(ようや)く我が家の外灯が見える。疲れからか両足の運びも重く、しかも垂直に落下する砂状の粉雪が、冷たく体のあちこちに纏わりつく。雪は好きだからいいとしても、疲れた身体に、冷えは流石(さすが)にきつい。
 玄関へ回ると一つのダンボール箱が置かれている。誰かの悪戯(いたずら)か…とも思えたが、とにかく中を開けてみた。すると、中には一匹の子猫が蠢(うごめ)いていた。小さくニャーと愛想を振り撒(ま)く。彼? にしても必死なのだ、と思えた。局所を確認して彼であり、彼女ではないことが判明した。
 雪はサラサラと、無言に降っていた。
「おい! 今、戻ったぞ…」
 いつもより、やや大きめの声で、私は帰宅を告げた。
「お帰りなさい。あらっ? どうしたのよ、それ…」
「いや、俺もな、それを訊こうと思ってさ。外に置いてあったんだが…」
「捨て猫? まあ嫌だわ。態(わざ)と玄関に捨てたりする? 普通」
 私は黙ったまま、中途半端に頷(うなず)いていた。
 白く蠢(うごめ)く物体は大人しく鳴りを潜(ひそ)めている。真っ白な外観に、雪の落とし子か…と、淡い思いが、ふと浮かんだ。
「これも何かのご縁だ。なあ、飼ってやろうや、俺が面倒見るからさぁ」
 そう私が云うと、「私は別にいいわよ、猫は嫌いじゃないし…」とカミさんは、あっさり応諾した。
「じゃあ、これで決まりだ。よかったな、おい」
 小さく人差し指でつつくと、またニャーと可愛い声で微かに鳴いた。
 こうして私達夫婦と、か弱き子猫一匹の生活が始まったのである。
 名前の由来は、彼が一齢になった頃に遡(さかのぼ)る。それまで名前がなかったのか? という疑問に敢えて答えれば、あることはあった。それも、カミさんの命名、私の命名が、とっ換えひっ換え、実に数度にも及んだのだ。一年が巡った頃、他愛もないことが理由で、彼は凡太として華々しくデビューすることになった。
 動作に敏捷性が全くない。最初は子猫の所以(ゆえん)かとも思ったが、「ニャーニャーよく鳴くわりには動きが鈍いわねぇ…」とカミさんが愚痴り、「猫ってのはそんなもんだよ、なあオイ!」白い物体にそうは云ったが、目と目が合って彼はニャーと云うだけで、まったく要領を得ない。
「ボーンとしていて、風格があるじゃないか。凡太ってのはどうだ?」
「ボンタ? さあ、どうかしら…。なんか猫らしくない気もするけど…」
「いいじゃないか、凡太。平凡の凡に太るで凡太。いい名前だ…」
「どうでもいいけど…。この子もさ、いつまでも名無しの権兵衛じゃ可哀想だし…」
「そうだよ、今度こそ決まりだな」
 という訳で、彼は凡太と名乗ることになったのである。
 彼にはお気に入りの場所がある。その場所というのは裏手にある庭の一角なのだが、彼はそこが大層ご満悦なのだ。私とカミさんが口喧嘩していると、彼は良からぬ雰囲気を未然に察知して身の逃避を図る。そして、裏手へ回ると、まず間違いがない程の確率で、庭のその隅の一角にユッタリと座り瞼を閉じる。やがて私達の喧嘩が終わると、何故それが分かるんだ…という正確さで、また部屋へこっそり戻ってくる。
 去年と同じように、厳寒の冬がやって来た。凡太は? というと、寒さが気にならぬ風情で、冷気が舞う中、例の場所にドッカと身を委ねている。まあ、幾分か風除けのような窪地ということもあるのだが、彼がそこに存在するときは、一定の法則めいた決まりがあることに初めて私は気づいた。彼は四齢になろうとしていた。
 ハイテンションの彼は、ミャーミャーと愛想を振り撒(ま)くのだが、ロウのときは、ひと声も発せず寝入っている。近づくと、気配を察知してか、スクッと立ち上がり、例の場所へと去ってしまうのだ。つまり、例の場所というのは、彼が安楽を得るのに好都合の場所だ、ということになる。そこでロウをハイにしているのかは定かでないが、とにかく彼はそこへ行く。
「…、心地いい場所ですか? それは人にもあるでしょう。猫だって同じですよ」
 凡太が食欲不振に陥ったとき、動物病院へ連れて行ったのだが、そこの先生に訊くでもなくそう云うと、先生は笑いながら、そう答えた。
「四齢といえば、人間なら三十は、いってます。まあ、ストレスも出てくるでしょうしねぇ」
 付け加えて先生はそうも云ったが、私からすれば、彼にストレスを与えたこともなかったし、また彼がストレスを溜めているようにも思えなかった。
 粉雪が、また直下している。上空からサラサラと篩(ふるい)で粉を落とすように…。
 凡太は例の庭角(すみ)の窪地に身を委ね、毛繕いをしている。幸い、雪はかからないのだが、寒いことに変わりはないだろう。なにせ、屋外なのだから…。
「 あらっ、お隣のミーちゃんだわ」
 カミさんが、不意に口にしたのを、偶然にも私は小耳にした。急いでガラス戸へ近づくと、確かに隣の三毛猫だ。カミさんがミーちゃんと呼ぶのだからそうなのだろうが、それまで私は彼女に一面識もなかった。二匹は何やら猫語でニャゴニャゴとやっている。
「随分、仲がいいじゃないか…」
「あら、あなた知らなかった? 私は、ちょくちょく見るんだけど」
「凡太もなかなかやるじゃないか、彼女を通わせるとは…」
 凡太は白の一毛だが、ミーちゃんは蕪(かぶら)猫と表現できる、ふっくらした容姿の三毛である。
 これが、全ての疑問を一度に払拭する出来事となった。
  何のことはない。要は、凡太がストレスを発散していた例の場所とは、二匹のデートの場所だったのである。テンションを下げた彼が、単に例の場所で憩(いこ)ってハイに戻ってきたのも得心がいくし、私が何故だろう…と、疑問に思っていた点も頷(うなず)ける。つまりは、ミーちゃんと会っていたのか…と思えて、凡太の方をチラッと垣間(かいま)見た。彼は注視されていることなど気にも留めず、器用に手をナメナメし、その手を顔に擦りつけて男前になる。
「親の責任ってのは、どうなんだろうねぇ。放っておけば、ミーちゃんも孕んじまうんじゃないか?」と、テレビに釘付けのカミさんに云うと、「仕方ないじゃない、それはそれで…。凡ちゃんが悪い訳でもないし、ミーちゃんが悪いということもないんだから…」と、返された。私は、「……」である。
  また雪が舞いだしていた。庭は、既にうっすらと白いベールに覆われている。いつのまにか主役の凡太は部屋へ戻ってきていて、温風ヒーターの近くで心地よい寝息を立てている。
  宅のミーになにを! ってなことに、ならなきゃいいがなあ…と私は馬鹿馬鹿しくも思った。世の中それだけ平和だってことか…、有り難く思わにゃいかんな…、と私はまた思う。凡太はゆったりと毛並みを揺らして寝入っている。カミさんは煎餅を齧(かじ)りながら、テレビに見入っている。私はガラス越しに深々(しんしん)と降りしきる粉雪を眺(なが)めている。
                     完

|

2014年10月10日 (金)

短編小説(特別寄稿) 微かにクリスマスソングが聞こえる[5]

  微かにクリスマスソングが聞こえる

[5]

 井郷千一郎は田所進の斜め向かいの病室ベッドで酸素マスクを装着し、眠っていた。井郷に身寄りはなかった。幸い病状は回復の兆しを見せ、医師は「峠は越しました…」と女性介護士の新谷へ静かに告げた。井郷はウトウトと浅い眠りの中で夢を見ていた。そんな井郷の夢の中で、微(かす)かにクリスマスソングが聞こえた。妻・・子・・家族が笑ってキャンドルが灯るケーキを囲んでいた。その中に若い井郷もいた。事故は一瞬だった。車はガードレールにぶつかり、転倒。生き残ったのは井郷一人だった。
---------------------------
「大丈夫でしょうか、先生?」
「ははは…峠は越したと言ったじゃないですか。朝には意識が戻りますよ」
 医師は新谷へ静かに告げた。井郷の意識はすでに戻っていた。井郷は夢を見ていた。
「ありがとうございました」
 医師は軽く頭を下げると出ていった。
---------------------------
 翌朝、井郷は射し込む陽の光で目覚めた。
「気がつかれましたか。もう大丈夫ですよ」
 傍らには看護師と新谷がいた。看護師は静かに酸素マスクを外した。
「私、…眠ってたんですか?」
「えっ? はい、まあ…。昏睡状態で来られたんですが…」
「そうでしたか…」
 それ以上、井郷は返せなかった。夢を忘れたくなかった。亡くした家族に会えた素晴らしい夢だった。天からの無形の贈り物に思えた。
---------------------------
 その一年後、井郷は病院近くの街並みを歩いていた。どこからか、微かにクリスマスソングが聞こえた。聞き覚えがある曲だった。
「…あの曲だ」
 夢で聞いた曲だった。井郷は一年前の夢を想い出していた。瞼を閉じれば、家族がいた。少し、幸せな気分がした。

                  THE END

 ※ 五話完結のオムニバス短編小説でした。
 

|

2014年10月 9日 (木)

短編小説(特別寄稿) 微かにクリスマスソングが聞こえる[4]

   微かにクリスマスソングが聞こえる

[4]

 三塚浩次は工事現場にいた。
「おい、終わりだっ!」
 現場監督が浩次の後ろから声をかけた。浩次は手に持つ重機のドリルを置いた。ヘルメットを脱ぐと、ザラッとした砂塵の感触がした。浩次は解放されたように首をぐるりと
回した。それまでの凛と張りつめた緊張感は失せ、疲れだけが残った。汚れた耳に、微(かす)かにクリスマスソングが聞こえた。俺の人生はこんなものか・・と、心の底の声がした。二年前、勤めていた会社が倒産し、それ以降、浩次の生活は乱れた。再就職も思うに任せず、頓挫した。同程度の会社を望んだが、不況にそう世間は甘くなかった。気づけば、小さな建設会社の工事現場にいた。
 浩次は作業服を脱ぐとシャワーし、現場を離れた。空腹に気づき、ラーメンでも食うか・・と思った。
---------------------------
 
 谷村美里は派遣社員の事務を終え、上司の課長に軽く礼をするとロッカールームへと消えた。身体は軽かったが、心には鬱屈した疲労感が潜んでいた。正社員の先輩に日々、嫌
味を言われ、かなり参っていた。だが、学生時代の部活で鍛えられた泣き言を言わない精神がそのプレッシャーをはね退けた。かつて美里は陸上部で長距離選手だった。
 社外へ出
ると辺りはもう、薄暗かった。美里は両手を広げてアァ~! と叫んだ。憂さを晴らす心の叫びともいえた。どこからか、微かにクリスマスソングが聞こえた。イブだが、何の予定もなかった。美里は何か食べて帰ろうかな…と、街路を歩きだしていた。
---------------------------
 
 スクランブル交差点で二人は接近した。サンタの衣装に身を窶した中年男がサービス券を配っていた。男は二人の行く手をクロスするように遮った。
「そこのお二人、はい、どうぞ…」
「…」
「どうも…」
 浩次と美里は言われるまま、その券を受け取った。サンタの派手やかな衣装が二人を従順にさせた。
「今日、開店の特別ご招待! お二人でどうぞ!」
「はは…俺達、赤の他人ですよ」
「ええ」
「まあ、いいじゃないですか、イブなんだし…」
 二人は少し、はにかんで歩きだした。
「ははは…ああ、言われちゃ。・・どうです?」
「いいですよ」
 二人は連れ立って券に書かれた店の方向へ歩き出した。
---------------------------
 一年後、浩次は二流ながらも失業前の同業種の会社へ再就職した。そして、イブの夜、美里と教会で結婚した。遠くか
ら、微かにクリスマスソングが聞こえた。 

                  THE END

|

2014年10月 8日 (水)

短編小説(特別寄稿) 微かにクリスマスソングが聞こえる[3]

 微かにクリスマスソングが聞こえる

[3]

 田所進は病室のベッドで眠っていた。ここ数日、午後の時間帯は睡魔に襲われることが多かった。消灯後、看護師達に怒られながら読み続けた本のせいに違いなかった。ふと目覚めると、窓際の病床から街灯りがチラホラ見えた。外はもう夕闇が迫っていた。どこからか、微(かす)かにクリスマスソングが聞こえた。
「検温ですよっ!」
 ニコッと微笑んで看護師の竹井和美が入ってきた。進は少し緊張し、窓に向けていた視線を戻した。和美は進に体温計を渡した。
「今日はイブよ。残念だわね、足折らなきゃね」
 快活に話す和美に進は返せず、体温計を受け取って苦笑せざる得なかった。その通りなのだから仕方なかった。二人は黙り込んだまま、階下に広がる街の夜景を眺めた。
「今日は、どうするの?」
 しばらくし、進が唐突に訊ねた。
「どうするのって、どうもしないわよ。少し飲み食いする程度かしら」
「なんだ、そうか」
「あら、偉い言われようじゃない」
「いやあ、そんなつもりはないよ。デイトとかさ、相手いるのかって思ってさ」
「そんなの、いる訳ないじゃないの、私に」
「ははは…、俺にもまだ脈があるってことか」
「脈はあるわよ、そりゃ。脈がなけりゃ、ご臨終」
「上手いこと言うな」
 進は笑いながら、体温計を脇から取り、返した。和美も笑った。そのとき、指と指が触れた。二人は素で見つめ合った。
 その一年後のイブの夜、二人は教会で結婚した。遠くから、微かにクリスマスソングが聞こえた。

                  THE END

|

2014年10月 7日 (火)

短編小説(特別寄稿) 微かにクリスマスソングが聞こえる[2]

   微かにクリスマスソングが聞こえる

[2]

 二浪の尾山博は家賃が三万八千円の安アパートでカップ麺を啜っていた。予備校の学費は、半ば本業として働くメンテナンス会社のパートの稼ぎだった。カップ麺を啜り終わったとき、外はもうすっかり暗かった。片隅に置かれた目覚ましを見ると、すでに六時半ばを回っている。今年もこの程度のクリスマスだな…と博は思った。卑屈な気持ではなく、錆びついた諦めの感情だった。窓ガラスに街灯りのイルミネーションが反射し、色彩を変化させた。遠くから、微(かす)かにクリスマスソングが聞こえた。いくらなんでも、こんなクリスマスはない…と博は自分が惨めになった。そして気づけば、アパートを飛び出していた。
---------------------------
 進藤碧は予備校へ通っていた。この季節、志望校の選択を余儀なくされ、去年落ちた大学は避け、別の学部を受けよう・・と思っていた。学費は半分方は親からの仕送りで、残りはアルバイトで補っていた。今度落ちれば就職しようと碧は決心していた。特別授業のチャイムが鳴り、教師が教室を去った。学生は疎らに椅子を立つと教室を出ていく。碧もその一人で、疲れた肩を片手で揉みながら予備校の門を出た。腕を見れば六時半ばを回っていた。どこからか、微かにクリスマスソングが聞こえた。このまま一人のクリスマスか…と碧は淋しく思った。
---------------------------
 風が冷たく戦いで風花がフワリと舞った。博は街路を歩いていた。碧も同じ街路を歩いていた。店頭に飾られたイルミネーションが美しく瞬いている。博は思わず立ち止り、その瞬きを見つめた。しばらくすると反対方向から碧が歩いてきた。LED電球の美しい瞬きに碧も何げなく立ち止った。二人は横並びで見上げていた。しばらく時が流れた。
---------------------------
「待ち合わせですか?」
 横にいる碧に気づいた博が、声をかけた。
「いえ…」
 碧は小さく言った。風花がふたたび舞い、博はコートの襟を立てた。
「冷えてきましたね。よかったら、茶店で温まりませんか?」
「はい…」
 イルミネーションが碧をロマンチックな気分にしていた。断る理由がなかった。
「学生さん?」
「ええ、あそこの予備校に通ってます」
「なんだ、そうか…。僕もです。あっ、あの店が、いいや」
 博が指さす先には、暗闇に浮かぶ猪豚と書かれた灯りが輝いていた。碧が思わず笑った。博は訝しげに横を歩く碧を見た。
「フフフ…面白い名」
「んっ? …ははは、イノブタか。こりゃ、いいや」
 爆笑の渦となった。ドアベルがチリ~ン! と鳴り、二人が店へ入ると、店内はパーティ会場のように賑やかだった。だがそれは、店内を流れるBGMで、店に客は誰もいなかった。
「あの! …誰か、いませんか!?」
 しばらくすると、豊満な体躯のオネエ風の男がトレーに水コップを二つ乗せて現れた。
「あらっ! カップルね? 何にしましょう?」
 男は女言葉で話した。顎の剃り残した毛が目立った。博は思わず笑っていた。
「どうかされました~?」
「えっ? いや…。僕はミルクティ。君は?」
「同じでいいです…」
 剃り残しオネエは品を作って笑うと、歩き辛そうに楚々と去った。姿が消えると、二人は大笑いした。
 その後、このことがきっかけで、二人は付き合うようになった。そして数年後、二人は就職し、出会ったイブの日に結婚した。どういう訳か、喫茶・猪豚の剃り残しオネエの姿もあった。遠くから、微かにクリスマスソングが聞こえた。

                  THE END

 
[2]は、少し推敲して面白くしました。ご了承ください。^^

|

2014年10月 6日 (月)

短編小説(特別寄稿) 微かにクリスマスソングが聞こえる[1]

  微かにクリスマスソングが聞こえる

[1]

 忘れ去られた公園に朽ちかけたベンチがあった。瀬山里沙は、その冷え切ったベンチへ腰を下ろした。凍てつくほどではなかったが、外気の冷えは手先を悴(かじか)ませた。どこからか、微(かす)かにクリスマスソングが聞こえた。里沙は、ダッフルコートのポケットへ両手を忍ばせ、見回すようにその聞こえる方角をさぐった。ああ・・こっちだわ。そう思えた方角から初老の男、戸崎英一が近づいてきた。射す外灯の斜光が男の輪郭を鮮明に映し出した。身の危険。里沙が一瞬、躊躇して立ち去ろうとしたそのとき、戸崎が声をかけベンチへ座った。
「誰か…お待ちですか?」
「いえ…」
 腰を上げかけたが、里沙はそのやさしげな声に座っていた。
「いやあ~、冷え込んできましたね」
「ああ、はい…」
 ベンチの両隅に戸崎と里沙はいた。
 - - - - - - - - - - - - - - - - 
 一時間ほど前、事務所の里沙の携帯が鳴った。
「俺さ、ちょっと今日は行けなくなった。…ごめんな」
「そうなの? …仕方ないわね。じゃあ…」
 言葉は快活に返したつもりが、里沙の顔は笑っていなかった。不満が鬱積していた。秀人と里沙は二年ほど前に、とある街角で出会った。それからの付き合いだったが、数カ月前、その出会いは秀人の仕掛けだと分かった。ほろ酔いの秀人自身が、気の緩みから暴露したのだ。それから二人の仲は、ぎくしゃくした。そして・・クリスマスの夜がきた。
 - - - - - - - - - - - - - - - - 
 一時間ほど前、街路を歩く戸崎の携帯が鳴った。戸崎は配送会社で最後の伝票を書き終え、帰途の途中だった。今夜は久しぶりに別れた妻の美咲と食事をする約束をしていた。上手くすれば元の鞘に・・と、戸崎は将来に僅かな望みを持っていた。だが、離婚後の美咲は堕落し、水商売にドップリと浸かっていた。
「ごめん、行けなくなったわ。お客がシツコイのよ、ごめんね~。また、この次ねっ」
 美咲のほろ酔い加減の声がした。
「もういい!」
 戸崎は怒りの返事で携帯を切った。美咲に腹が立ったというより、望みを抱いた愚かな自分が無性に腹立たしかった。戸崎と美咲は社内結婚をし、一時は人も羨む幸せな結婚生活を送った。それが数ヶ月前、ひょんなことで美咲に男が出来た。それから二人の仲は、ぎくしゃくした。そして・・クリスマスの夜がきた。
  - - - - - - - - - - - - - - - -
「よかったら、お茶でも飲みませんか? 私も一人なもんで…」
 戸崎は遠慮気味に里沙へ声をかけていた。
「えっ!? ああ、いいですよ」
 鬱積した里沙の気持がOKを出した。二人は静かにベンチを立つと街明かりの方角へと歩き出した。
 しばらく二人が歩いていると、前方にモンブランと書かれたネオンが瞬いていた。そのとき里沙は何を思ったのか、フフフ…と笑った。戸崎は訝しげに里沙の顔を見た。
「ごめんなさい。私、モンブランが好物なんです」
「モンブラン…ああ、スイーツですか」
「ええ。偶然ってあるんですね」
「ははは…。ですね。この通りは初めてでしたか」
「そうなんです…」
 二人は、いつの間にかすっかりうち解けていた。賑やかな人の群れがクリスマスを楽しんでいた。酔っ払いや二人連れ、それに家族連れの姿もあった。二人はモンブランの入口を潜った。偶然なのだろうが、他に客は、いなかった。
「何にしましょう?」
 店内に女気はなく、髭モジャの店主兼店員が一名いるだけだった。髭モジャは水コップを二つ置くと低い声で訊ねた。
「ああ・・僕はアメリカン。君は?」
「カフェオレを…」
 髭モジャは頷くとニタリと意味深に笑い、去った。
「なんか勘違いしているようですね」
 戸崎は髭モジャが誤解して、二人のよからぬ関係を思ったんじゃ…と思った。
「ですよね…」
「今日、本当は飲みたい気分なんです」
「えっ? 私も…」
「そうなんですか、ははは…。実はツレにヒジテツくらいましてね。ほんとなら今頃、楽しんでるんでしょうがね」
「私もヒジテツなんです。待ち合わせてたんですが…。もう別れるから、いいんです」
 里沙はふっ切ったように言い切った。
「ははっ、同じだ」
「お待たせ…」
 髭モジャが割って入るようにやってきて、アメリカンとカフェオレを置いた。
「ごゆっくり…」
 髭モジャはレシートを置くと、また意味深に笑って去った。戸崎は軽く咳払いをすると、話を続けた。
「いや~、偶然ってあるんですね。それに、こう重なると少し怖いですよね」
「はい…」
 里沙は戸崎に運命的なものを感じていた。戸崎もまたそうだった。
「よかったら、またお会いできませんか」
 里沙には断る理由がなかった。
 その一年後・・クリスマスの夜、二人は教会で結婚した。どこからか、微かにクリスマスソングが聞こえた。

                        THE END

|

2014年10月 5日 (日)

短編小説集(50) とりあえず

 いや、間にあわないことも考えられる…と、寝床で藤木は時刻表を睨(にら)みながら思った。とりあえず、そうなる失敗を避けるためにも一本前の6時の列車に乗ろう…と、決めた。そうすれば心に余裕も生まれ、ゆったりとした快適な旅の始まりが約束されるはずだ。時間はもう深夜域に入ろうという午後10時である。藤木は目覚ましを5時にセットし直し、両目を閉ざした。そのとき、また雑念が浮かんだ。鞄(かばん)に詰めた忘れものはないだろうか…もう一度、確かめておこう、と。布団を撥(は)ね退(の)け、藤木は枕元に置いた鞄を開けた。下着類、靴下…と確認し直す。まあ、ひと通りは間違いなく入っているようだ。藤木はそのときまた、おやっ? と思った。財布はどこだ? 確か…出がけに背広の上着に入れようと、とりあえず鞄に収納したつもりだった。いや、確かに収納した…と藤木は思った。その財布が見つからないのだ。これは偉いことになったぞ…と、藤木は些(いささ)か慌(あわ)てた。財布の中には前もって買い求めておいた切符やカードも入れていたから、事は重大だった。見つからないと、いくら早く目覚めても完璧(かんぺき)にアウトだ。藤木は、はて? と思いあぐねた。あれこれとそのときの状況を思い浮かべ、しぱらくして漸(ようや)く藤木は閃(ひらめ)いた。あっ! そうだ…鞄に入れたことを忘れるといけない、と思い直して、とりあえず上着へ戻したのだった。藤木はホッ! と安心し、溜息をついた。そして布団へ、ふたたび潜(もぐ)り込んだ。目覚ましは11時近くになっていた。もうこれで熟睡できるだろう…と、藤木は目を閉ざした。夜泣き蕎麦屋のチャルメラの音が遠くに聞こえた。藤木は俄かに腹が減っていることに気づいた。そうなると、もう寝つける訳がない。チャルメラの音がやけに喧(やかま)しく腹立たしかった。藤木は起き上がると、とりあえず何か食べようと台所の戸棚からカップ麺を出した。保温ポットの湯は、まだ十分にあった。湯をカップ麺に注ぎ、しばらくして食べたが、まだ硬かった。それでも食べ終えると、少しほっこりした。もうこれで眠れるだろう…と藤木は思った。食べ終えたカップをゴミ箱へ捨て、藤木は口を漱(すす)ぎに洗面台へ行った。洗面台で口を漱いでいると、髭(ひげ)を剃っていなかったことに気づいた。出がけにバタバタするのは嫌だから、とりあえず剃っておこう…と藤木は髭を剃った。洗面台の掛け時計の針が11時半を指していた。藤木は少し慌(あわ)てた。剃り急いだ藤木は頬を切った。血が滲(にじ)み出て、頬を伝った。藤木はいっそう慌て、ティッシュを取りに小走りした。小走りしたのがいけなかった。敷居で躓(つまづ)き、しこたま腰を打った。大丈夫だろうと立ち上がると片足が痛かった。捻挫(ねんざ)していたのだ。まあ、シップすれば、とりあえず、なんとかなるだろうと藤木は思った。幸い、薬箱にはシップ用の貼り薬があった。頬をティッシュで拭(ぬぐ)うと、血はもう止まっていた。藤木はもう何もしないで大人しく寝よう…と思った。とりあえず、これで心配事はなくなったんだ…と思えた。藤木は再々度、布団へ潜り込んだ。ようやく眠気が訪れ、藤木は寝入ることができた。
 5時になった。目覚ましが、けたたましく鳴り響いた。藤木は飛び起きた。そのとき、昨夜、シップした足に激痛が走った。見ると赤くはれ上がっていた。軽い捻挫ではないようだった。藤木は旅することを断念し、とりあえず病院へ行くことにした。歩かないと痛まないから、もう少し寝よう…と、藤木は、とりあえず布団へ潜り込んだ。そのとき、枕元の鞄が、ははは…と笑ったような気がした。藤木が見上げると、枕元は静まり返っていた。気のせいか…と藤木は思い、とりあえず目を閉ざした。だが確かに、鞄はクスクスと声を潜(ひそ)めて笑っていたのだった。

                    THE END

|

2014年10月 4日 (土)

短編小説集(49) 変わる 

 久しぶりに出会った大学同期の篠崎と下川は大学に向かって歩いていた。
「あれっ? ここは平塚ビルじゃなかった?」
 下川が首を捻(ひね)った。
「ははは…、いつのことを言ってんだ。半年前から元山クリニックじゃないか」
 篠崎は上手に出て笑った。
「あそこも変わってる…。嶽地(たけち)煙草屋だったけどな」
「ああ、今はメイド喫茶だぜ。こんな近くに出来て勉強できんのか? ははは…」
「だな…。あの世の冥土じゃなくメイドか、ははは…。よく、OKでたな」
「まあ、風俗系じゃない喫茶だからさ」
「そうか…。ご時世ってやつだ。まあ、二十五年前と今じゃな」
「ははは…そういうこと」
 二人は笑いながら大学正門を入った。
「あれっ? 校舎は?」
「変わったって、この前、年報に出てたろ?」
「年報に? 見落としたか…。跡地は駐車場なんだ」
「ああ…。俺は大学職員だから、構内のことは何でも訊(き)いてくれ」
「そうだったな」
「付近も大部分は分かる!」
 自慢げに篠崎は言った。
「そういや、お前も変わったな。単位ではあれだけ小心者だったお前がなあ~、ははは…」
 今度は下川が笑って上手に出た。
「氷は溶ける。建物も変わるし、人も変わるさ…」
 篠崎は危うく踏んばった。
「ああ…。変わって欲しくはないけどな」
「新しいものでも古いものでも、いいものはいいし悪いものは悪い」
「変わるのは、悪いものであって欲しい」
「そうだな…。飽くまで理想だが…」
 二人は食堂の椅子へ座った。篠崎と目が合った賄いの寿子がニコッ! と笑って頭を下げた。篠崎も笑いながら会釈した。
「少し老けたけど、おばちゃんは変わらんな」
「ああ…」
 気づいた下山も笑顔で会釈した。その瞬間、食堂から見た外の風景が一変した。黄色く色づいた銀杏(いちょう)の葉が、取り壊されたはずの古い校舎にハラハラと舞い落ちていた。二人は目を疑った。

                     THE END

|

2014年10月 3日 (金)

短編小説集(48) 点数 

 すべてがすべて上手(うま)くいくもんじゃない・・と邦夫は思った。今日の数学のテストは残念ながら65点だった。去年の算数のときは80点だったから随分、成績は下がったことになる。これでは母さんには見せられない…と、邦夫は瞬間、感じた。なぜ下がったのか・・と、邦夫は巡った。やる勉強は小学校のときと同じようにやっている。それには自信があって、今後も続けていくつもりでいた。戸山先生は点数はどうでもいいって言ってたけど、母さんには通用しないな…と邦夫には思えた。邦夫は子供部屋の勉強机で思い耽(ふけ)った。

 数学教師の戸山がクラス全員に話していた。
「お前たちに言っておく! 点数なんぞで、くよくよするな! 満点でも零点でも先生は、いいんだ。ははは…、まあ、零点は少し拙(まず)いがな!」
 その言葉で教室内は笑いの渦となった。
「まあまあ、抑(おさ)えて抑えて…」
 戸山は騒然とした雰囲気を鎮(しず)めようと両腕で制した。少しして、教室内に静けさが戻った。
「出来るに越したことはない。しかし、出来なくてもいいんだ。考えることが大事なんだ。考えることが、社会へ出たときのいい肥やしになる。要は脳を鍛えること! それが大事だということだ。頭、頭!!」
 そのとき、邦夫は急に手を上げた。
「先生! 頭は鍛えられるんですか? アホはアホだと思うんですが…」
 ふたたび、教室内はドッ! と笑いの渦になった。邦夫は、なぜ皆は笑うんだろう? と不思議でならなかった。
「邦夫、先生が言うのは、な! 点数はどうでもいい、ということだ。そりゃ、アホはアホだからどうしようもないさ」
 教室内の笑いの渦はいっそう増し、騒然となった。
「よし!! 終わり、終わり」
「先生! 僕は出来なきゃ困るんです! T大に入らないとママに怒られます!」
 突然、立ち上がった秀才の功太が叫んだ。
「それは、それでいいんだぞ、功太。出来るに越したことはない、と先生、言ったじゃないか、ははは…」
「起立!!」
 クラス委員の実が颯爽(さっそう)と立った。それに釣られ、全員が立った。
「礼!!」
 戸山も礼をすると教室を出ていった。

『邦夫! ごはんよ!』
 遠くから母親の沙代の声がした。
「はぁ~~い!!」
 まあ、先生が言った通り点数は関係ないって言うか…と、邦夫は舌を出して立ち上がった。

                 THE END

|

2014年10月 2日 (木)

短編小説集(47) 越える

 また! …と里香は思った。ヘアサロンへ行ったまではよかったが、どうしても先を越されるのだ。今度こそは! と意気込んで出かけた今日も、やはり先客が二名いて、優雅にカット中であった。この前も見たおばさん世代の顔ぶれだ。決してこの客達が憎いということではないが、こういつも先を越されると里香の鬱憤(うっぷん)も相当程度、溜(た)まり、心は澱(よど)んでいた。二人が、さっき食べた揚げパンに見えた。食らいついてやろうかしら…などと思え、余計に自分が惨(みじ)めになった。
「これはこれは! 里香ちゃんじゃないか。随分、大きくなったな!」
 里香が腹立たしく舗道を歩いていると、突然、後ろから抜き去った中年男が声をかけた。興奮気味の里香は多少、冷静さを欠いていた。
「あの! どちらさま? 心当たり、ないんですけど…」
 怒り気味の声で、里香はつっけんどんに言い放った。
「俺だよ俺!」
 オレオレ詐欺じゃあるまいし、俺だよ、俺はないでしょ! と、また怒れた里香だが、それは言わず、心に留めた。
「そうか、そりゃ分かんないよな。あの頃は2才…いや、3才だったかな」
 そう言われて、里香はその中年男の顔をジッ! と見つめた。そういや、どこかで見た憶えのある顔だったが、どこで出会ったのか、名前も何も浮かばなかった。
「耕一だよ。母さんの弟の…」
「あっ、耕一おじさん?」
 外国で暮らす伯父(おじ)がいる、は聞かされていた里香だったが、もの心ついてからは、一度の面識もなかった。その伯父に偶然、逢えたのだ。先ほどまでの怒りは消え、里香の心は俄かに和んだ。里香は怒りの峠を越えていた。
「これから、家へ行くところだったんだ。まあ、立ち話もなんだ。歩こう」
 そう耕一に言われて、里香は耕一に続いた。そのとき、さきほどヘアサロンにいた揚げパンが二つ、いや、おばさんが二人、里香と耕一を賑やかに話しながら抜き去った。里香は、また怒れてきた。
「どうした? 里香ちゃん」
「おじさん、あっち行きましょ!」
 道は左右に分かれていた。里香は右の近道を選んだ。
「んっ? ああ…」
 耕一は里香に従った。数分、歩くと、左右に分かれた道は一つになった。10mばかり後ろに揚げパンおばさんが二人、見えた。家はすぐそこだった。もう、追い越されることはない。腹立たしさも消えていた。里香は越えたのだ。
「おじさん、お腹、空(す)いてない?」
「ああ、そういや、まだ昼、食ってなかった」
 家に買い置いた揚げパンが残っていたことを里香は想い出して笑った。
「んっ? どうした?」
「いえ、別に…」
 揚げパンおばさんが二人、愛想笑いして里香の家の前を通過した。里香は大笑いしながら家へ入った。耕一は訝(いぶか)しげに里香を垣間(かいま)見た。その頃、里香の家の棚では、買い置かれた揚げパンが二つ、冷蔵庫で何やら話し合っていた。

                  THE END

|

2014年10月 1日 (水)

短編小説集(46) 風邪

 今年こそ勝つぞ…と元気は思った。名前はいいのだが、毎年、寒いこの時期になると必ず風邪をひき、全敗の元気だったからだ。かといって、虚弱体質ではない。というか、体格は小学二年のクラスでも群を抜いた健康優良児で、ダントツ[断然、トップ]の一位だった。その元気が風邪には、からっきしなのだ。
 クリスマスがひと月ほど先に近づいていた。元気が密かに思い描いた今年のサンタへの願いごとは風邪をひかないようにしてもらおう・・というものだった。形がないものだから、サンタが果して自分の願いごとを聞いてくれるかは不確かだったが、それでも元気はその願いごとにしよう・・と決めていた。
 クリスマスが近づいた中旬、ママの恵美が例年のように、それとなく元気に訊(たず)ねた。
「今年は何をお願いするの?」
「んっ? ああ、クリスマス? 今年は何もいらないんだ」
「えっ!? どういうこと?」
「物じゃないの。風邪をひかないようにしてもらおうと思うんだ」
 恵美は困り顔をした。パパの義則が会社への出がけに聞いとけよ・・と囁(ささや)いたのだ。恵美は内心、弱ったわ…と思った。恵美は会社帰りの義則にそのことを話した。
「そうか、風邪をひかないようにな…。確かに難しい。よし! 俺から、それとなく訊(き)いてみよう」
 鍋を囲んで家族三人の夕食が始まった。
「クリスマスだな。元気は何が欲しい?」
「今年は何もいらないんだ。風邪をひかないようサンタさんにしてもらおうと思って…」
「そうか…難しい注文だな。サンタさん、聞いてくれるといいな」
「うん!」
 クリスマスイブが巡り、次の日の朝になった。元気のベッドの上には銀リポンで飾った赤いサンタ靴が置かれていた。中を確かめると、一枚の紙と手作りの小さなお札(ふだ)、それにクリスマスチョコがひと箱、入っていた。元気は、お札? と首を傾(かし)げながらそれらを出した。紙には、『風邪(かぜ)退治(たいじ)。このお札を肌身(はだみ)はなさず、もっていなさい! サンタより』と書かれていた。
 元気は、ふ~ん…とチョコ粒を箱から出し、口へ放り込んだ。
 その後、元気は紙に書かれたように、そのお札を肌身はなさず持つようにした。すると不思議なことに、その後、元気は一度も風邪をひかなくなった。

                        THE END

|

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »