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2014年11月

2014年11月30日 (日)

不条理のアクシデント 第三十一話  下剋上[げこくじょう]

「また、変わったか! あいつは先が読めんな!」
 田口は、げんなりとした怒り口調で、反対に歩道を曲がった新藤を見ながら呟(つぶや)いた。
「毎度のことですよ。ノー天気と言うじゃありませんか、部長代理…」
 課長の矢島は、熱くなりかけた田口を言葉で冷やした。
 会社へは駅を出て徒歩で十五、六分の距離である。全員が、ほぼ100%の確率で会社への同じ歩道を進む。ただ、五分内外歩いたところで歩道は二方向へ分岐していた。その誰もが通らない片方の歩道は迂回(うかい)路で、会社へは二十分弱かかるのだ。その歩道を新藤は今日も進んだのである。後方を歩いていたのが運悪く、管理職の田口と矢島だった。二人は別れた新藤を横目に反対の歩道を歩んだ。
「ああ、まあ君が言うとおりだが…」
 田口は、この春の異動でワンランク昇格したからか、偉ぶった口調でそう言った。部長代理は課長の上だが部長補佐の下で、まだまだ出世の道は遠い。部長がいないときだけ部長気分が味わえるというもので、他の日は矢島と同じ課長待遇なのである。そういう出世レースが嫌で、新藤は我が道を行く・・という会社人生を歩んでいた。誰も通らない歩道を選んだのも、意図してではなかったが、そんな天邪鬼(あまのじゃく)的な気持がそうさせたのだ。
 会社で一人浮いた存在の新藤は、周囲の目などまったく関知しない態で、日々の自分のノルマを果たすと会社を定時に退社した。当然、田口や矢島を含む管理職には評判が悪く、煙たがられていた。
「田口君、去年並の業績回復まであと少しじゃないか。会社の双肩は君にかかっとるんだからね、よろしく頼むよ! 私も海山部長にそう言われてな、ははは…」
 田口と同じく、この春の異動で部長代理からワンランク昇格して部長補佐になった貝塚が、少し余裕のある笑顔でそう言った。人間とは妙なもので、この春までは田口と同じように怒り口調だった貝塚が昇格とともに人変わりしたように柔和になったのである。
「はい! 部長補佐の仰せのとおり、努力いたします…」
 新藤には怒り口調の田口も、貝塚の前では借り物の猫で、えびす顔よろしく平身低頭だった。
 部長補佐の貝塚はある日、会社の通路で二人で話すヒソヒソ声を耳にした。声は使われていない会議室から聞こえていた。耳を澄ませば、どうも部長の海山だった。もう一人は誰だかよく分からなかったが、口調からすれば海山よりも上司に思えた。
「もう少し、よろしくお願いします! 家内には内緒にしてあるんですから…」
「それはいいが、こちらの金回りの都合もあるからな。早めに頼むぞ、海山君」
「はい! 分かりました、新藤さん」
 貝塚はギクリとした。新藤? 部長代理の田口がいつも愚痴っているあの新藤なのか…と半信半疑になった。だが、社員ではどう考えても、その新藤しか思い浮かばなかった。その平社員の新藤が部長の海山に注文をつけていた。
「…」
 貝塚は下剋上(げこくじょう)を思った。

                            完

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2014年11月29日 (土)

不条理のアクシデント 第三十話 天上にて

 天上の雲を絨毯(じゅうたん)にして、心地よく主神は寝そべっておいでになりました。下界では日夜、人間どもが慾深く、自分達の主張をしております。
『ふ~む…どうも正義は旗色が悪そうじゃのう。隅のほうで小さくなっておるわ。威張って我がもの顔をしておるのは地界より遣(つか)われし悪の者どもじゃ…。困ったことよ』
 霞を食べ、今まで心地よく笑っておられた神の顔は幾らか悲しげになりました。そうなりますと、ほんのひと握りの雲の絨毯は、俄(にわ)かにその大きさを増し、雲海のように広がったのでございます。そして、瞬く間に下界を見えなくしたのでした。
『地界は、かなり送り込んでおると見える。下界で平和に暮らす者どもには済まぬが、地界からの者どもを駆逐するには、やはり下界が争いとなろうのう』
 主神は深々と溜息をつかれました。その溜息(ためいき)から生まれたのが、嘆きの葉でございます。溜息はたちまち一枚の光り輝く葉に変わり、主神が二本の指をお立てになり、なにやら呪文を呟(つぶや)かれますと、その輝く葉はスゥ~っと雲の下へと消えたのでした。それを合図にお日さまがどうかしたの? という顔で訝(いぶか)しげに姿を見せられ、輝きをお増しになります。主神は、かくかくしかじか、どうのこうの、どうたらこうたらと詳細を報告され、お日さまはああ、そう…と余り興味がないご様子でお聞きになっておられました。といいますのは、光のエキスとなるいい話や素晴らしい話には興味を持たれるのでございますが、こうした悪い話はご自身の光を減じる因となりますから聞かぬ態で興味をお示しにならないのでございます。というようなことで、ひととおりお聞きになりますと、あなたにお任せしますわ、それじゃ、これで…と、そそくさとお消えになってしまわれました。こうなれば、主神としてはどうしようもございません。両腕を深々とお組みになられますと、微動もせず瞑想に入られたのでございます。その途端、雲の絨毯は光り轟き雷鳴を響かせ始めました。主神のお身体は全身が光と変化(へんげ)し、虚空のあちらこちらから光の筋が主神のお身体へと吸い込まれていきます。いよいよ、天上にて下界掃除の準備が始まったようでございます。

       
                   完

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2014年11月28日 (金)

不条理のアクシデント 第二十九話 損ばかり

 世の中でことごとく自分の思うようにならず損ばかりして生き続ける男がいた。名を木之下正吉郎という。名からすれば半ば、いや、ほとんどが出世するだろうと思う名だが、実際は真逆の世界を寂しく生き続けている男だった。いつの間にか誰が呼び始めたのかは分からないが、木之下は社内でザンさまと陰(かげ)で囁(ささや)かれるようになっていた。もちろん、残念のザンである。木之下は今年で四十半ばだが、そんな裏事情もあり、畿内物産、営業課内の窓際族を一手に務めていた。
「いや、君に頼もうと思ったんだが、上手い具合に得意な黒多君がいたからね。いや、別に木之下君をどうのこうのというんじゃない。気を悪くしないでくれたまえ。この前は岳中君だったな。偶然は重なるよな、ははは…」
 課長の斎塔は、部長の尾田への手前、仕事が確実にできる人選をしていたのだ。木之下はその点では失敗が確定的だったから斎塔の頭の中では論外だった。だが、そうとは本人に言えず、笑って暈(ぼか)した。
「ザンさま、かわいそうよね…」
「そうね。今回も残念残念の巻か…」
  木之下を遠目で見ながらOL二人がピーチクパーチクと雀になっていた。
 あるとき、そんな木之下にも絶好のチャンスが巡ってきた。というより、会社の休日で、忘れ物を取りに会社へ立ち寄ったのだが、木之下以外、誰もいなかったという訳である。木之下が課内の自分の机から忘れ物を出し、課を出ようとしたときだった。課長席の電話が激しく鳴った。出なければいいものを、人のよい木之下は受話器を手にした。その相手は、よりにもよって会社の取引先で、しかも一番お得意の三星商事だった。うっかり、会社の休みを間違えた電話だった。
「すみません! 会社は今日、休みなんですが…」
「ああそう。…んっ! その休みの会社にいる君は誰?!」
「ああ。私はこの課の木之下です。ちょっと、忘れ物を取りに立ち寄っただけなんです。もう出ます」
「まあいいよ、そんなことは…。誰かいてよかった! 三日以内にさ、君の会社は偉いことになるぜ。それを伝えとこうと思ってね」
「あの…どちらさまで?」
「私かい…私は三星だよ」
「三星! あの三星商事の三星さまで?」
「そう、その三星…そんなこたぁ、どうだっていいんだよ。斎塔君かと思ったんだ。まあ、君でもいい! 一応、伝えたからな」
「はあ…。で、私にどうしろと?」
「そんなことは君や君の会社の考えることだ。私の知ったこっちゃない」
「会社の偉いことって、なんですか?」
「小会社の朝井食品が竹田商事の浅倉食品に吸収合併されるって話だ」
 朝井食品は木之下が勤める畿内物産の営業収益の大半を占めており、もしこの話が本当なら、畿内物産は倒産する危険もある一大事だった。三星の電話はすぐ切れた。誰に話したものか…と木之下は弱った。話したところで、今まで会社の誰もが、まともに木之下の話を聞いてくれた試しがなかったからだ。ともかく、木之下は直接上司の斎塔へ電話した。携帯番号は知っていたから、上手く斎塔がでた。
「ははは…木之下君、冗談は大概にしてくれよ。今日はゴルフコンペなんだ。ああ…、詳しいことは明日、会社で聞くから」
 斎塔は木之下の話をまともには聞かず、すぐ切った。やはり、駄目か…電話に出たばっかりに今日も損をした、と木之下は思った。
 次の日、会社で木之下は昨日の電話の詳細を課長の斎塔に話した。
「朝井食品が?! 分かった分かった! 一応、聞いておくよ」
 斎塔は木之下の話を軽く聞き流した。だが、その話を斎東から聞かされた部長の尾田は密かに木之下を部長室へ呼んだ。
「朝井食品が竹田商事に? それが事実なら我が社は偉いことだ。詳しく聞こうじゃないか、木之下君」
 話の詳細を木之下から聞いた尾田は、万が一を考え、先手を打った。朝井食品の資産凍結である。直接取引銀行が動き、一歩寸前のところで朝井食品の吸収合併話は白紙撤回された。それとともに、極秘裏に画策した主導責任により、朝井食品の経営陣は一掃された。それにともない、損ばかりしていた木之下は、やっと得をした。朝井食品の経営陣の一角に抜擢されたのである。畿内商事の誰もが耳を疑う抜擢人事だった。
 一年後、専務取締役に就任した尾田の後任として、木之下は畿内商事へ呼び戻された。社内では木之下をザンさまと呼ぶ者は、誰もいなくなっていた。

                       完

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2014年11月27日 (木)

不条理のアクシデント 第二十八話 くり返し

 昨日がまた、今日もくり返される。そんな単調な毎日に、境田勇一は、いささか嫌気がさしていた。そうはいっても、日々の生活や将来のことを思えば、やはり、社会の中で歯車の一員として這いつくばって働くしかないのか…と思った。
「あんた! どこ見て歩いてんだっ! 気をつけろ!」
 年の頃なら勇一より遥かに年下と思える若者が急ぎ足で対向から勇一に迫り、肩をぶつけた弾みにそう吐き捨てると通り過ぎていった。
「あっ! すいません」
 その男の後ろ姿に、勇一はそう返していた。よく考えれば、もの想いに耽(ふけ)っていたとはいえ、ぶつかったのは若者の方なのだから、勇一が謝る必要などなかったのである。20年も前なら、勇一も言い返していたに違いなく、恐らく殴り合いになっていたのかも知れない。それだけ俺は枯れたのか・・・と勇一は思った。だが、なんか今日は新鮮だな…と、勇一は思った。嫌な気分になるはずが、返って気分が晴れるのは合点がいかないのだが、単調でなかったからか…と、勇一は日々の同じくり返しにはない変化があったことに気づいて得心した。
「課長補佐、それコピーしといてもらえると助かるんですが…。ちょっと目が離せないお得意さんが来られるんで…」
「あっ! そう…。いいよ!」
 遠慮しがちに一応、部下の中堀がそう言った。課長でもなく、そうかといって平ではない境田が一番、手頃で、使いよい…と見られていなくもない。課長補佐になったとはいえ、勇一の年からすれば、もう副部長くらいになっていてもおかしくはないから、完全に出世遅れといえた。中堀にすれば、そういう勇一が手頃だったのだ。危なそうな新入社員よりは間違いない勇一の方を選んだのだから、むしろ喜ぶべきなのだろうが…。勇一は心善く返事したあとコピーをしながらそう思った。なんか気分もよかった。毎日のくり返しではなかったからだ。単調に一日を終えた日は、なんか気分が晴れないのは俺だけなのか…と、仕事が終わったとき、勇一は辺りを見回した。数人の残業者以外の課員は全員帰り仕度を始めていた。
「どうです! たまには…」
 勇一より五つほど年下の課長、牧畑が手でジェスチャーをしながら笑顔で言った。
「ああ、いいですね」
 くり返しは嫌だと思っていた矢先の勇一は、牧畑の誘いを即答で了解した。勇一にすれば、なにか変化があれば、それでよかったのである。二人は居酒屋で適当に串カツを摘まみながら生ビールを飲み、小一時間後に別れた。勇一はほろ酔いで、気分よく帰宅した。
 次の朝が巡り、また単調な朝が始まった。いつものように送り出され、勇一は駅へと向かった。やはり、社会の中で歯車の一員として這いつくばって働くしかないのか…と、昨日と同じことを思った。
「あんた! どこ見て歩いてんだっ! 気をつけろ!」
 昨日、勇一にぶつかった若者が、肩をぶつけた弾みにそう吐き捨てると通り過ぎていった。勇一は次の瞬間、ゾォ~っと寒気を覚えた。まったく昨日と同じ一日をくり返している自分がいた。

                       完

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2014年11月26日 (水)

不条理のアクシデント 第二十七話 湯気

 井坂基也は昨日に続き、今日も口を大きく開け、医療用加湿器の湯気を喉(のど)へ当てていた。というのも、風邪をひいたからである。こんなことは基也にすれば珍しいことで、例年なら風邪などひく基也ではなかったのだ。原因を探れば、どうも一昨日(おととい)、冷気が籠るまま勉強を続けてしまった・・という凡ミスが考えられた。通常、クーラーか小型の電気ストーブで暖を取りながらやるのだが、その日に限って妙な難問に引っ掛かり、よせばいいのに意固地になってやり続けたのが原因だった。当然、脇目も振らず状態で、暖房を入れることすら忘れたのである。結果として、部屋の温度は下がり冷気が基也の周囲を包んでいった。いつもは暖かいので、薄着で勉強を続けているから、服装も当然、薄着だった。そこへ冷気が、じんわりと基也を包囲したのである。
 加湿器の湯気を喉に浴びながら基也は思った。冬場は湯気にかぎる…冷気は敵だな。湯気は味方だ…と。加湿器の湯気は思った。こんなことで、仕事をする羽目になったか、ああ嫌だな…と。湯気を取り囲む冷気は基也に風邪をひかせたから、したり顔である。隙(すき)があれば基也をもっと冷やして寝込ませてやろう…と密かに画策していた。
『基也君、危ないですよ! 冷気が狙っています!』
 基也は俄(にわ)かに聞こえた声に辺りを見回した。人の気配などあろうはずがない。両親はすでに深い眠りの中に違いない真夜中である。
『私は加湿器の湯気です』
「えっ!」
 基也は驚き、加湿器から口を離した。加湿器が話した。そんな馬鹿なことはないと基也はすぐ全否定した。基也は片手を額(ひたい)へ宛(あて)がった。しかし、そう熱があるようにも思えなかった。
『ははは…湯気は見えるでしょ。それが私です。私はこうして語りますが、冷気は口が裂けても語りませんからご注意を! 奴(やつ)は密かに忍び寄って、あなたを寝込まそうと画策してるのですから』
「それは困るよ。二日後は大学入試センター試験だから…」
『そうでしょうとも。私はあなたの味方ですから、そんなことは奴にさせません!』
 湯気は断言した。
「有難う…、心強いよ」
 常識では存在し得ない相手と基也は話していた。次の瞬間、基也は急に眠気を覚えた。そして、気づいたとき、加湿器は止まっており、白々(しらじら)とした夜明けの空が窓ガラスに映っていた。基也は夢を見たか…と思った。不思議なことに、風邪による喉の痛みも体のだるさも消えていた。
 その夜と次の日、基也は室温に注意して最後の勉強の締めくくりをした。そしてセンター試験の前夜、試験の持物を確認し、基也は眠ろうとした。そのとき、ふと加湿器が眼に入った。ははは…そんな馬鹿なことはないよな、と否定しながらも、基也はもう一度、医療用加湿器のスイッチを入れていた。しばらくすると、蒸気がシュ~~! と勢いよく噴き出し始めた。
『私はいますよ、基也君。明日の成功を祈ります。では…』
 基也はギクッ! としてスイッチをすぐ切った。
 大学入試センター試験の出来は上々で、その年の春、基也は希望の大学へ合格し、正門をくぐっていた。

                          完

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2014年11月25日 (火)

不条理のアクシデント 第二十六話 紙垂[しで]祭り

 春半ば、今年も村の鎮守の笛太鼓が人々の心を和(なご)ましている。紙垂(しで)祭りと呼ばれるこの地で古くから伝わる例大祭で、数多くの細長い白紙が風に棚引き、雪のような美しい情緒を醸(かも)しだしている。この村には伝わる謂(い)われがあった。
 今を遡(さかのぼ)ること数百年前、老宮司の頼定は古式にのっとってご神刀の懐剣を抜くと、俎(まな)板の上で白紙を鮮やかに切り刻み始めた。式部(しきべ)の家に代々伝わる紙垂作りの作法である。数十年に渡って紙垂を作り続けてきた頼定の腕は冴え、小半時ほどの間に白雪の山ほどの紙垂が出来上っていた。頼定の子、頼国は、遠退(とおの)きに父が作る姿を眺(なが)めていた。生憎(あいにく)、頼国は不器用で、父の後を受け継ぐだけの才覚に恵まれていなかった。頼定は終始、そのことを案じていたのである。
「頼国! 何が違うか、分かるかっ?!」
 紙垂作りの神事を終えた頼定が、静かに言葉を発した。
「いえ、いまだ…」
「そなたには、気が入っておらぬ。器用不器用ということではない…」
 頼国には父が言う意味が理解できなかった。
 その夜、頼国は夜半に起き、一人、紙垂づくりの修練を始めた。深々(しんしん)と辺りは冷気を蓄え、頼国の凍える手先は時折り震えた。頼国が自分の懐剣を抜き、俎板の上の白紙を刻みだしたそのときである。冷気が一瞬、フ~ッ! と流れた。
『お前は頼定を越えるであろぉ~~』
 頼国はその小さく響く声にハッ! と手を止め、辺りを見回した。辺りには誰の姿もなく、漆黒の闇が広がるばかりである。頼国は空耳か…と思った。そして、手先に目をやると、不思議なことに、それまでの手先の震えはピタリ! と止まっていた。そればかりではない。頼国の両手は神々しく黄金(こがね)色に輝いているではないか。頼国は唖然(あぜん)とした。しばらくすると、両手の輝きは失せたが、頼国は、どこか今までとは違う手先の感覚を感じた。ふたたび、懐剣を引き抜き、白紙を刻めば、なんと、手先が滑らかに自然と紙垂を刻んでいくではないか! 頼国は信じられなかったが、手先に操(あやつ)られるまま僅(わず)か四半時ばかりですべての紙垂を刻み終えた。そのとき、頼国はハッ! と我に返った。これぞ、神の手よ…と、頼国は自分の両手を押し頂いて頭(こうべ)を垂(た)れた。
 次の朝が巡ったとき、頼定は眠るように事切れていた。これも神のご神託か…と頼国は思った。
 頼定を忌む神葬祭も済み、春半ば、頼国の刻んだ紙垂による紙垂祭りが無事、執り行われた。これが室町末期からこの村に伝わる謂(い)われである。
 今年も村の鎮守の笛太鼓が人々の心を和まし、紙垂祭りが賑やかに繰り広げられている。数多くの細長い白紙が風に棚引き、雪のような美しい情緒を醸しだしている。

       
                  完

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2014年11月24日 (月)

不条理のアクシデント 第二十五話 ところてん

 時は江戸中期と申しますから、話はかなり以前へと遡(さかのぼ)ります。
 とある長屋でございます。ここに寝ては食い、食っては眠る…これは少々、大袈裟ではございますが、それほどの、ところてん好きがおりました。名を仙太、通称を仙公と申します。
 この男、それほどのところてん好きでございますから、ところてんを欠かすと体調を崩すという、なんとも奇っ怪な病(やまい)を患(わずら)っておりました。そんなことで、この仙太、とうとう、ところてん屋に奉公することに決めたのでございます。そうなりますと、居ても立ってもいられない性分でございますから、話はトントン拍子に進みます。数日のうちに美濃屋(みのや)という店を見つけ、勤め始めます。月日は流れ、瞬く間に三年ばかりが過ぎ去ったのでございます。
「お前も、そろそろな! 一度、やってみなよ」
 それまでは雑用一切をやっておりましたものが、初めてご主人の多助からお許しを得た仙太、へいっ! とばかりに意気込んで、手筒のところてんを押し出します。するとこれが太いの細いのと波打って筒先から出て参ります。
「ははは…だめだだめだ! ちと、早かったか。どれ、かしてみろい!」
 多助は仙太が手にした筒を取り上げます。 
「こうだ、仙太!」
 やはり、年季の差は歴然でございます。多助の押し出すところてんは波のように滑(なめ)らかで、終始、その細さが同じように器へとそそがれます。程よいところで、黒糖の甘酢蜜をかけます。
「よしっ! お出ししろ」
 さすがは親方! と横で眺(なが)めておりました仙太、器を盆に乗せますと、あたふたと客へ運びます。
 まあ、こんなことが何度も続き、やがて仙太も一人前となります。お礼奉公も勤めあげ、晴れて暖簾(のれん)分けの運びでございます。これでやっと、心おきなくところてんが食える…と仙太、喜びます。浮かれ気分で店を出しましたのが、本所は深川、富岡八幡宮さまの近くでございます。幸い、店は賑わいまして繁盛いたします。そうなりますって~と、仙太、益々、ところてん三昧(ざんまい)でございます。商売が先か、食うのが先か…好きこそものの上手なれ・・これはちと、違うと存じますが、なにはともあれ、働きますからお店は繁盛を続けます。さて、そうこうするうちに、ここへ足繁く通う芸者の華奴(はなやっこ)というのが仙太を見染めます。仙太もぞっこんとなり、一、二度の出会いで二人は恋仲となります。華奴も根っからのところてん好きでございまして当然、話は噛み合います。いつの間にかコレのコレのコレコレと子連れの所帯持ちへと発展して参ります。今でいう発展リーチのパチンコ台でございましょうか。いずれにいたしましても、ところてんが取り持ったご縁、というやつでございましょう。出来た子供もやはり、ところてん好きでございます。ですから、ところてん三昧の日々が一家にその後も続いて参ります。聞くところによりますと、ある日、客が店へ入りますって~と、ところてんがところてんを作っていたと…まあ、これは、やっかみの作り話でございましょうが、そのようなことがあったそうにございます。ところてんだけに、クニャリクニャリしたお話でございますな。おあとが、よろしいようで…。

                         完

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2014年11月23日 (日)

不条理のアクシデント 第二十四話 採点

 大学受験まっただ中の早春、無精髭に着古したボロ学生服に身を包んだ荻沼健太郎は今年も受験のため、とある大学の門を潜(くぐ)っていた。自慢にもならないが今年で40回を越えているから、試験官の江川とはすでに話し合えるほど親しい仲になっていた。
「今年もですか…、ご苦労さんです」
 あんた、よく飽きもせず…と内心では思っていても、さすがにそうは言えない江川は、軽くお辞儀すると試験用紙を配布し始めた。会場は受験番号順に一定数で区切られ別たれていたが、荻沼の教室にはある頃からか江川が入るようになっていた。大学職員の江川は、ふとしたことがきっかけで毎年見る荻沼の姿に興味を持ったのである。二浪、三浪とかはあるが、さすがに二十三浪はいないぞ…と、荻沼の校門を潜る姿を見て気づいたのが、ことの起こりだった。あの若かった荻沼が、今では白髪混じりの男になった…と思いながら自分の薄くなった髪の毛に手をやり、江川は人ごとじゃないなと苦笑した。
 昼の休憩を挟(はさ)み、試験は滞(とどこお)りなく終了した。受験生達が雑然と会場から去る中、荻沼は感慨深そうに教室を見回して、まだ座っていた。その席へ江川が近づいてきた。
「どうでした?」
「まあ…」
 毎年、繰り返される二人の決まり台詞(ぜりふ)が交わされた。聞いた瞬間、江川は今年も駄目か…と、瞬時に思った。その思いが顔に出た。
「いや、今年は分かりませんよ! 私も、そろそろ…」
 江川は、かつて聞いたことのない荻沼の言葉を耳にした。ひょっとすると…と、思えた。
「ですよね! 合格を祈ってます!」
 二人は会釈し、笑顔で別れた。
 数週間後、掲示板に合格者番号が張り出された。掲示板の前には多くの人だかりがあった。その中に荻沼の姿もあった。荻沼は132012を探し、順に番号を追った。132008…132010…132013。やはり、今年も駄目か…と荻沼はガクリと肩を下げ、地面を見た。やはりな…と思い直し、Uターンして歩き始めたそのときである。
「み、皆さん~~!! 待って下さい! 採点ミスがありました! 繰り上げ合格者を今、貼りますっ!」
 どこかで聞いた声だな…と荻沼は立ち止り、振り返った。掲示板の前には試験官だった江川が掲示板に追加の紙を画鋲で貼っていた。荻沼はその小ぶりの紙へ静かに近づいていった。114053…126091…132001…132012…。えっ! 132012! 荻沼は目を擦(こす)った。
「あ~~!!」
 荻沼は人目も憚(はばか)らず叫んでいた。そして知らず知らず、涙が頬を伝った。
「ああ! 荻沼さん、ありましたか! よかったですね!」
 江川が笑顔で声をかけた。荻沼は流れる涙を拭(ふ)きながら、ただ頷(うなず)き続けた。大学側の採点ミスにより繰り上げ合格となったのは7名だった。
 桜が咲き乱れる校門を無精髭を落とした背広服の荻沼が入った。そこには江川が立っていた。
「おめでとうございます。今日は入学式の係員です!」
「そうですか…」
「長いお付き合いになりそうですね!」
「はあ、よろしく! たった一問の採点で拾っていただきました!」
「いやあ~、あなたの実力です! 採点で人生は変わるんですから、この世は恐いですね」
「はあ…」
 二人は笑って話しながら、会場の大学講堂へと歩いていった。

                          完

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2014年11月22日 (土)

不条理のアクシデント 第二十三話 妖精の誘[いざな]い

 風が流れて拓馬の首筋を撫でた。陽気も少し緩(ゆる)んだから、そう春も遠くないようだ…と、拓馬は思った。窓ガラスの下を見ると、去年植えた桃の若木に、もうチラホラと淡いピンクの花が咲いていた。拓馬にとって去年やってきたこの地に身寄りはなく、知り合いも僅(わず)かな仕事仲間以外はほとんどいなかったから、これらの自然が拓馬にとって唯一の慰めだった。
 二階から下り、拓馬は小さな庭へ出た。すると、先ほどまでいなかった少女が立っていた。少女は拓馬を見て二ッコリと微笑(ほほえ)んだ。一面識もない少女に、拓馬は少し気味悪さを覚えて訊(たず)ねた。
「あの…失礼ですが、どちらですか?」
 拓馬は敢(あ)えて怒らなかった。人によっては、誰だ!人の庭で…と、凄い剣幕で捲(まく)し立てるのだろうが、拓馬にその感情はなかった。少女の姿は軽い会釈のあと、スゥ~っと消え去った。拓馬は幻覚を見たのか…と思った。よく考えれば、そんな少女が庭にいる訳もなく、二軒、近くに隣家はあったが、そんな少女を見た覚えが拓馬にはなかった。そして、その日は事もなく終わった。
 数日後、拓馬はいつものように勤務地の霞が関にある庁舎へ向かっていた。ここ数年、仕事は泣かず飛ばずで、昇格人事の恩恵には浴していなかったから、なんとなく拓馬の足は重かった。その日もいつもと変わりない繰り返しの時が流れ、拓馬は庁舎を出た。毎日が機械的に動いてるな…と帰リ道の舗道を歩きながら思っていると、対向から少女が近づいてきた。次第に近づくにつれ、おやっ? どこかで見た少女だ…と拓馬は思った。もう少し歩を進めると、少女の姿ははっきりした。どこかで見た少女だった。ただ、まだ誰かまでは分からなかった。そして、すれ違いの直前、少女は会釈をした。拓馬も無意識に同じ仕草を返していた。その日もそれで終わった。
 二度あることは…というが、拓馬がその少女に三度目に出会ったのはファミレスだった。自炊はしていたが、生憎(あいにく)その日は冷蔵庫が空だったから拓馬は外食ですまそうとファミレスへ行ったのだった。店に入ると、遠くにその少女の姿があった。オーダー待ちのようで、少女は側面のガラスに映る外の景色を眺(なが)めていた。陽が長くなったせいか、6時過ぎだったが、辺りはまだ十分、明るかった。少女は拓馬を見ていた。拓馬は席に着き、何気なく店内を見回し、おやっ? と思った。自分を見つめる少女の姿に気づいたのである。三度目の出会いだから、拓馬にはいつかの少女だとすぐ分かった。ただ、どこの誰かまでは、やはり想い出せなかった。今日もこれくらいで何もなく終わるだろう…と拓馬が思った瞬間である。少女はスッ! と立ち上がると、早足で拓馬の席へ近づいてきた。拓馬はギクッ! とした。少女の顔が柔和な笑みに満ちていたことだけが恐怖心を和(やわ)らげ、拓馬には救いだった。
『また、お会いしましたわね…』
「はあ…」
 頭は一応、軽く頭を下げたが、拓馬には正体不明の相手に変わりなかった。少女はUターンせず、そのまま出口のドアから出ていった。拓馬は始めてこの少女の異様さに気づいた。オーダー待ちなら席へ戻るはずだし、食べ終えたあとなら器とかがあるはずなのだ。だが、少女が座った席にはコップ、食器などは一切なかった。
「あの…、あそこにいたお客さん、何も頼まなかったんですか?」
 通り過ぎた店員に拓馬は思わず訊(たず)ねていた。
「えっ?! 誰もいませんよっ!」
 店員は変なことを言う客だな…と怪訝(けげん)な顔つきで返した。拓馬はその瞬間、またゾクッ! と寒気がした。誰もいない…そんな馬鹿なことはない。現に声をかけられたじゃないか…。オーダーした品が運ばれ口へ運んだ拓馬だったが、茫然(ぼうぜん)とただ食べるだけだった。
 少女との四度目の出会いはなかった。だが、十日ばかり経った頃、拓馬は不思議な夢を見た。その夢の中へ少女は現れた。
『私は妖精です。あなたを好きになりました。あの宮殿でともに暮らしましょう…』
 夢の中の少女は輝く太陽を指さした。妙なことに太陽の眩(まばゆ)い輝きはなく、それでいて明るく輝く光輪の中に、その宮殿はあった。
 次の朝が巡ったとき、拓馬の姿は忽然(こつぜん)と家から消滅していた。

                       完

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2014年11月21日 (金)

不条理のアクシデント 第二十二話 どうなる?

「どうなるって? ははは…私がお訊(き)きしたいくらいのものだ。それが分かれば、死ぬことなど、怖くもなんともない!」
 戸山はそう言うと、グイッ! とグラスの酒を飲み干した。その左隣に座る新貝は腕組みをしながら、それも一理あるな…と頷(うなず)いた。
「分かる人などいないということですね…失礼」
「どうなるかは分からないが、私は夢を見たことがある。もし、そのとおりなら、死後の世界はあるのかも知れない」
 戸山は一年前、夢を見た。目覚めたとき、その夢は鮮明に戸山の脳裡に残っていた。
 死んだはずの兄が戸山に金を返そうとしていた。場所は部屋の玄関前だった。戸山は、いいから貰っておいて欲しいと片言で話していた。そういや、思い当たることがあるぞ…と、戸山は思った。
 戸山が住む近くの龍神沼には龍神を祭る鳥居があり、水の中に浮かんでいた。その沼には昔から伝わる話があった。沼岸から鳥居の中へ貨幣を投げ入れ、それが通り抜ければ願いが叶(かな)うという言い伝えだった。幼い戸山は金をもっていなかった兄に金を渡した。兄は見事に鳥居を通過させた…。ふと、戸山はそのことを思い出したのだった。
 ダウンライトのオレンジ光が戸山にグラスに反射した。戸山は静かにカウンターのグラスを手にし、酒を口に含ませた。
あのときの金を兄は返そうとしたんだ…と戸山には思えた。その話を新貝にしたのである。
 カウンター越しにグラスを拭(ふ)くバーテンの顔が見えた。二人の会話は当然、バーテンにも聞こえていたが、バーテンは聞こえていない態で拭き続けていた。
「どうなる? フフフ…どうかなりますって…」
 聞いていないはずのバーテンがグラスを拭く手を止め、戸山の空グラスにウィスキーを加えながら急に二人を見た。戸山と新貝は驚いたようにバーテンの顔を見た。
「私は二十日前に死んでますから…」
 バーテンは慰めるような目つきで二人にそう言った。
「ええっ!!」
 二人は同時にグラスをカウンターへ置いた。そういえば、バーテンの顔は蒼白く、店内には誰も客がいないことに二人は気づいた。二人の酔いは一気に醒(さ)めた。

                           完

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2014年11月20日 (木)

不条理のアクシデント 第二十一話 占い師

 池山は運勢というものをまったく信じない男だった。というのも、すべての予想がことごとく外(はず)れていたからである。
「どうだ、明日は?」
 同じ職場の瀬川がオフィスの窓ガラス越しに空を眺める池山に訊(き)いた。
「降りそうだな…」
 池山は朴訥(ぼくとつ)に答えた。
「ということは、晴れか…。よし! コンペは大丈夫だな」
 瀬川の言葉に池山は敢(あ)えて返さなかった。ほぼ100%の確率で自分の逆になることが池山には分かっていた。だから、無言で池山は頷(うなず)いたのである。
 こんなことが続いたあるとき、ふと池山にアイデアが浮かんだ。
『職場で運勢占いをやったらどうだろう…。真逆に出る現象を利用しない手はない。見料は一人につき一回、100円でいいだろう…』
 池山は発想を深めた。自分が思う逆を言えば当たることは目に見えていた。
 食堂で軽く昼食を終えた池山は、屋上へエレベーターで昇り、昼休憩を利用して占いをやり始めた。池山が占いをしていることは、口コミで社内に知れ渡っていた。
「はい、いらっしゃい! 深津さんはなんですか?」
 同じ課のOL、真理を前に、池山は折り畳み椅子に座って、そう訊(たず)ねた。これで120人目か…と、池山は手に持った手帳へペンでメモをした。
━ 120 深津真理(人事課) ━
「あの…好きな人がいるんです。上手くいくでしょうか?」
『駄目だな…ということは、近く深津君も結婚か…』
 と、池山は直感で思った。
「大丈夫! あなたの恋愛運は上っています。近く成就するでしょう。相手に熱い視線を送り続けることです」
 池山は占い師の口調で思う真逆を適当に言った。
「有難うございました…」
 真理は百円硬貨を一枚、池山に手渡すと去った。見料を知っているところをみると、社内でかなり好評のようだ…と、池山は思った。
 そうこうして、半年が過ぎた頃、池山は専務の海堂に呼び出された。瞬間、池山は怒られるのか…と思った。
『社内規定では、そんな条文があったような、なかったような…』
 不確かだったが、池山に不安が走った。
「いや、どうこう言ってるんじゃない。ヒューマン・リレーションズだ。人間関係が密になり、大いに結構なことだ。ははは…どんどん、やってくれたまえ。ところで、君を呼んだのは他でもない。ちょっと家内には内緒なんだが、コレとの旅行、どうだろう? バレないか」
 海堂は今までの威厳はどこへやら、俄(にわ)かに相好を崩し、ニヤけた顔で小指を立てた。
「はあ…」
 池山は一瞬で、上手くいくな…と閃(ひらめ)いた。ということは、真逆でバレるということだ。池山は一瞬、本当を言うべきか…と躊躇(ちゅうちょ)した。なにせ、上司の取締役である。下手なことを言えば、首が飛ぶだろう…と思えた。
「おかしいですね…分かりません」
「んっ? どういうことかね?」
「いや、こんなことは初めてなんです。
専務の先が読めないんです」
 池山はとうとう、バレますとは言えず、暈(ぼか)して専務室を出た。専務室のドアを閉じ、池山はとりあえずホッ!とした。
 時が流れ、一年後、池山は真理と結婚していた。真理の意中の人は、なんと占った池山だったのだ。池山は教会のチャペルで同僚社員達に祝福されながら、俺は不幸になるな…と、感じた。そこには専務の笑顔もあった。その笑顔に一年前と同じ、専務の先の幸せが予見できた。
 半年後、海堂専務は産業スパイとの浮気がバレ、それがもとで平取締役に降格された。その後も、池山は自分の不幸を予見しながらコツコツと占い師を会社で続けている。

                       完

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2014年11月19日 (水)

不条理のアクシデント 第二十話 嘘[うそ]

 快晴のある日、石崎は欠伸(あくび)をしながら何げなく空を見上げた。快晴なのだから当然、雲一つない青空が広がるだけである。だがそのとき、空の一角から俄(にわ)かに人の腕が現れた。UFOならよくありそうな話で納得もいく。だが、石崎の目に見えたのは明らかに人の第二関節までの片腕だった。しかもその巨大さといえば半端ではない。外観からすれば、どうも男の手のように石崎には思えた。だが、常識では完全にあり得ない事象なのだから、目の異常か…と瞬間、石崎は眼科へ行こう…と思った。目を擦(こす)ったが、いっこうにその巨大な腕は消えそうになかった。しばらくすると、その腕はゆっくりと動き始めた。それは恰(あたか)も水の中へ入れられた腕が水をかき回す動きに似ていた。要は、石崎が水中で見ている構図なのである。そんな腕が見えること自体、すでに異常なのだが、現に石崎の目に見えているのだから否定しようもない。石崎は視線を落とし地上の風景を見た。無視(シカト)すれば、消えるんじゃないか…と単純な発想で思ったのである。そうこうして、しばらく庭の剪定作業をやっていた。
「あなた~、お昼よ!」
 妻の智子(さとこ)が石崎を呼んだ。
「ああ!」
 石崎は剪定をやめ、空返事(からへんじ)の声を出した。腕時計を眺(なが)め、そんな時間か・・と思った。空の腕のことはすっかり忘れてしまっていた。
「さっき、腕が空にあった…」
 食事の途中、石崎はふと、さっきの妙な出来事を思い出し、口にした。
「えっ?!」
 智子は、この人大丈夫かしら? という怪訝(けげん)な眼差(まなざ)しで石崎を見た。
「嘘じゃないよ。本当に腕が空に…」
「疲れてるのよ、あなた。少し横になった方がいいわ…」
 智子は完全に疑っている…と、石崎には思えた。だが、これ以上、嘘じゃない! とは言えず、「ああ…」と素直に頷(うなず)いて、石崎は食事を済ませた。
 食事が済み、立ち上がった石崎はガラス戸越しに見える庭を徐(おもむろ)に眺(なが)めた。そして、少しの恐怖感を秘めながら徐々に視線を空の方へ上げていった。空にはやはりグルグルと手首でかき回す腕があった。
「おい! あれ!!」
 石崎は思わず智子へ声を投げていた。
「なに?」
 洗面台で食器を洗っていた智子が振り向いた。石崎は空に浮かぶ腕を指さした。
「えっ? なに? なによぉ~」
 智子は洗い物の手を止め、石崎に近づくと石崎が指さす空を見た。
「嘘!!」
 智子にも巨大な腕が見えたのである。二人は出会う人すべてにその話をした。しかし誰もが、その科学では到底、説明できない事象を嘘だと断言した。これ以上は世間に変人と思われる恐れがある…と、二人は思った。真実は、この世では嘘…。
 それ以降、二人はその話を人前で話さなくなった。

       
                   完

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2014年11月18日 (火)

不条理のアクシデント 第十九話 任[まか]せる男

 怠(なま)けてはいないが、どうもアグレッシブに動かない坂巻という男がいた。正月があと10日先に迫っていた朝、この男は埃(ほこり)だらけのマンションで九時だというのにスピ~スピ~と寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた。生理学的な喉(のど)の渇きからか、坂巻はハッ! と目覚めた。それもその筈(はず)で、いつもは入れる加湿器のスイッチを忘れて眠っていたのだ。だから、喉は乾いていた・・と、まあこうなる。なぜ彼に加湿器が必要だったか・・は解明されていない。坂巻は目を開けると身体を動かさず左の足指を伸ばした。足指が触れたのは、カラクリ仕掛けの第一ボタンだった。坂巻がそのボタンに触れた途端、ゼンマイ仕掛けの糸が動き始め、その先端の金属皿を動かした。傾いた金属皿の上には金属球が乗っていて、コロコロと滑らかに転がり落ちて別の皿の上に入った。その皿は梃子(てこ)仕掛けで回転し、棒を動かした。棒の先には二股の自動式バネ金具がついていて、その片方が伸びてガスコンロに火を点(つ)けた。コンロの上にはフライパンが乗っていた。もう片方のバネ金具の伸びにより油がフライパン注がれた。中には昨日の夜、坂巻が眠る前に割り入れた卵があり、ほどよい火加減で目玉焼きを作り始めた。坂巻は右手のハンドルを押した。すると、折り畳み式のベッドがほどよい高さまで上がり、坂巻は上半身を起こした形となった。だが、この男はまだ腰を上げようともしなかった。次に坂巻は側面のボタンを押した。自動でハブラシにチューブの歯磨き粉がセットされ、坂巻がハブラシを口にに入れると、これも自動でシャカシャカと歯を磨き始めた。磨き終わるとハブラシは引っ込み、変わって水の注がれたコップが坂巻の前に飛び出してきた。坂巻はそのコップで口を漱(すす)いだ。すると、コップは引っ込み、洗面台に繋(つな)がった自動吸引機付きの漏斗(ロート)が現れ、坂口はその中へ漱いだ水を吐いた。そんなことが続き、坂巻は何もしないまま、洗顔、朝食を終えた。
 坂巻は腰をようやく上げると、またボタンを押した。すると自動でクローゼットが開いた。その中から今日着て出る靴下、ワイシャツ、ネクタイ、背広などを好みで選択した坂巻は、あるボックスへそれらを入れると、自分も入った。坂巻が入ると同時に、その機械は自動で坂巻に衣類を身に着けさせ始めた。衣類が整った坂巻は、背広の中の手の平サイズの機械を取り出し、そのボタンを押した。しばらくすると、パタパタパタ…というような音が次第に大きくなり、どこから現れたのか、自動制御の無人飛行物体が一機、坂巻のマンションの前を旋回し始め、坂巻が見る窓ガラス前で飛びながら待機した。数分後、坂巻の姿も飛行物体の姿もマンションから消え去っていた。坂巻は異次元の職場へ移動出勤したのだった。坂巻がどういう人物・・いや、どういう生物だったかも、いまだ解明されていない。

          
                 完

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不条理のアクシデント 第十八話 並[なみ]

 鰻(うなぎ)専門の老舗(しにせ)高級料亭、粽(ちまき)の店内である。
「いやぁ~、ここのはねぇ…」
 それ以上は言わず、末川はなんともいえぬ美味そうな笑顔で中山に微笑(ほほえ)んだ。末川がそう言うのも尤(もっと)もで、この店の格付けは他店を完全に凌駕(りょうが)していた。レストランなら三ツ星クラス以上の店として全国的な客を集め、連日、湧き返っていた。当然ながらその来店は予約制で、立ち寄り客はお断りの店だった。末川と中山は、時折りこの店へ行きたいと話していたが、話が煮詰まってようやく予約が取れたのだった。距離的には日帰りで行けず、二人は旅行気分でホテルを予約し、出かけたのである。
「ここの白焼きは食べてみたかったんで、楽しみなんですよ」
「ははは…君は食通だからな」
「そう言う末川さんだって、かなり魯山人(ろさんじん)風じゃないですか」
 魯山人とはあの食通の魯山人のことを語っているのは疑う余地がなかった。二人は鰻のフルコースを予約していた。ネタを仕入れる関係からか、粽ではオーダー内容も来店予約の際に言うシステムが採られていた。
「ここの並(なみ)って、他の店ならどうなんでしょう?」
 訳の分からないことを朴訥(ぼくとつ)に中山が訊(たず)ねた。
「ここの並? この店で並ってあったかな? すべてが一品って感じなんだけどね」
「それは、そうなんですが、例え…例えですよ」
「一番、低価格の鰻丼で、他店の超特上!!」
 末川は自信ありげに返した。中山は来店経験がなかったが、末川は過去一度、外務省の先輩に連れられ、来店したことがあった。そのときは鰻重だったが、その味が忘れられないでいた。というのは、その後すぐ、この地方へ異動したからである。
 二人か鰻談義に花を咲かせていると、そこへ和服の女店員が鰻を運んできた。まずは白焼きである。そこへ銚子が二本、添えられていた。二人は適当に飲み食いを続けた。呼んでいた綺麗どころも数人、加わり、三味線に踊りが始まった。急に小部屋が華やいだ。
「まあ、並? よりは上か? …だな」
 少し赤ら顔になった末川が話すでなくニタリとして呟(つぶや)いた。
「はあ?」
 中山は意味が分からず訝(いぶか)しげに末川の顔を見た。末川は杯の酒を飲み干して、踊る綺麗どころを小さく指さした。そして、その指先を白焼きの乗った膳へと下ろした。
「これは並な訳がない。超特上!」
 中山はその意味は解せたのか、ニンマリと頷(うなず)いて白焼きを美味そうに頬張った。

                        完

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2014年11月16日 (日)

不条理のアクシデント 第十七話 人間OFF 

 鴨田洋二は家の書棚から要(い)らなくなった本を選選んで抜き出していた。というのは、少し俄かの入り用で螻蛄(オケラ)になったから、古本買取店へ行って本を売り、少し金を得ようという腹づもりなのだ。そう高くは売れないだろう…とは思えたが、それでも少しの足しにはなるだろうと思ってのことだった。
 小一時間後、適当な本が十冊ばかり選び出された。鴨田はそれを手提げの紙袋に入れると、何食わぬ顔で店を出た。過去にも一度、行った店だったから、そう緊張感はなかった。
 鴨田は店へ入ると、袋ごと受付へ置いた。店員は若い男だった。鴨田は売りたい旨を店員に言った。店員は頷(うなず)くと、袋から本を取り出し、査定し始めた。
『ミステリー・サスペンスが2点、歴史・時代小説が3点、あとは普通の小説が外国も含めて5点ですね…』
 店員も一度、見た顔だ…と鴨田を思ったのか、馴れた口で話し出した。鴨田は黙って首を縦に振った。しばらく値踏みをした店員は電卓を二度、叩(たた)いて確認した。
『結構、いい値が入ってますね。合わせて一万二千五百円です。明細を言いましょうか?』
『いや、いいです…』
 鴨田は店を出て数分したところで財布をポケットから取り出し、手に入れた金を確認した。そして、思ったより多かったな…と少し得した気分に浸(ひた)った。というのも、二束三文の本だろうから、首尾よくいって数千円だろう…と自分の値踏みをしていたからだ。まあ、これで家賃を支払って空(から)になった自分の金がふたたぴ復活したから、年は越せる…と思えた。アルバイトの金が振り込まれるのは五日後だった。そう贅沢(ぜいたく)は出来ないが、普通に使えば一万二千五百円で五日はいけるだろう…と鴨田は思った。
 歳末の舗道をニンマリした顔で歩きながら、少し正月らしいものを買おうか…と、鴨田はリッチ気分になった。鴨田がしばらく歩いていると、知らない店が出来ていた。一週間前には確か、なかったが…とは思えたが、まあ、新しい店が出来ることは、よくあるな…と、鴨田は店の前で立ち尽くした。不思議なことに、繁華街で今まで自分の周りを歩いた人の姿が消えていた。店名を見れば、━ 人間OFF ━ と書かれていた。ふ~ん…と、鴨田はそれほど気に留めず、好奇心で店へ足を踏み入れた。
『いらっしゃいませ! お売りですか!!』
 偉く客当たりがいい店だな…と瞬間、鴨田は思った。
『いや、ちょっと入っただけなんですが…』
 すると、年老いた店員は鴨田を注視しながら電卓を叩き始めた。
『お客さんですと…この値ですね』
『えっ?』
 鴨田は受付へ近づき、その老店員が差し出した電卓の数字を見た。電卓は、8700の文字を蒼白く浮かび上がらせていた。
『いろいろ、いらっしゃいますが、お客さんだと、この売り値ですかね』
 老店員はニタリと笑ったあと、鋭い眼光で鴨田を睨(にら)んだ。鴨田は急に恐ろしくなり、店を出ようと出口へ向かおうとした。だが、足は金縛りをかけられたように動かなかった。鴨田の額(ひたい)に冷や汗が流れた。
「パパ、ママがお夕食だって!」
 鴨田は肩を揺すられて目覚めた。目の前には娘の麻奈がいた。選んで売ったはずの本がフロアの下に置かれたままになっていた。どうも眠ってしまったようだ…と、鴨田はホッと安堵(あんど)した。
 家族三人での賑やかな大晦日の食事が始まった。なにげなく置かれたテーブルの上の電卓が8700の蒼白い文字を浮かび上らせていた。

                            完

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2014年11月15日 (土)

不条理のアクシデント 第十六話 二講山[にこうさん]神社の怪

 弘前(ひろさき)は山歩きで疲れていた。二講山(にこうさん)の峠を越えればなんとかなるだろう…と歩き始めたのだが、すでに小一時間が経過していた。だが、いっこう峠には出られず、益々、木々が生い茂る山深い奥地へ引きこまれようとしていた。弘前が今までに登った山には見られない異様な気配だった。弘前は少し怖くなってきた。いつもは数人の山仲間と登るのだが、この日にかぎり、一人で出たくなり訪れたのだ。
「妙だな…」
 マップを確かめ、磁石で方角を探ると、間違ってはいない。かといえ日暮れが迫っていた。野宿出来る装備は万が一を考え持って出たから心配はなかったが、どうも辺りの気配が不気味で、こんな所で一夜は過ごしたくない…と弘前は歩き続けた。それでも、どんどん日は傾き、やがて夕闇が弘前の周りを覆(おお)い始めた。そんなとき、弘前の前に一人の老人の姿が遠くに見えた。どう考えても老人がこんな山深い道を歩いているはずがない…と弘前は思った。だが、どこから見ても老人である。弘前が足を速めたため、その姿は次第に近づいてきた。
「あのう…もし! ここは二講山でしょうか?」
 目と鼻の先まで老人の姿が近づいたとき、弘前はその後ろ姿に問いかけていた。老人は歩を止め、振り向いた。
「はい、確かに…。お参りですか?」
「はあ?」
 弘前は意味が分からず、問い返していた。
「ですから、御社(みやしろ)へお参りですか? とお訊(たず)ねしているのです。私はこの先で暮らしております宮司の神下部(かみしもべ)と申します」
 弘前はそれを聞いて、すべてに合点(がてん)がいった。どうもこの先に神社がありそうだ…と思えたのだ。そこに住んでいるなら、老人が辺鄙(へんぴ)な山奥を歩いていたとしても、なんの不思議もなかった。
「いや! そんな訳でもないんですが…。どうも迷い込んだようで、峠に出られないんですよ」
「そうでしたか…。こちらへは正反対ですよ。まあ、もう目と鼻の先ですから、寄っていって下さい。さ湯くらいしかお出しできませんが…」
「どうも…」
 弘前は疲れていたこともあり、素直に老人のあとに従った。
 五分ばかり歩くと、老人の足が止まった。
「ここです」
「えっ?」
 老人は片手で前方を指し示した。だが、弘前の目には木立が深々と茂るただの山地にしか見えなかった。
「よ~く、見なさい…」
 老人に、そう言われ、弘前は目を擦(こす)りながらもう一度、前方を見た。すると、不思議にも俄(にわ)かに霞(かすみ)が棚引(たなび)き、鳥居と御社が現れた。弘前は自分の目を疑った。
「では、私(わたくし)は中でお待ち申しております…」
 老人はそう告げると、スゥ~っと消え去った。弘前は怖ろしさで、思わず疾駆していた。
「おい! 大丈夫かっ!!」
 気づいたとき、弘前は峠道に横たわっていた。どうも、疲れから眠ってしまったらしい。起こされたのは二講山を下山中の男だった。弘前は助かったと思った。さっき現れた老人は夢だったんだ…と思った。
「二講山に神社ってあります?」
「んっ? …そんなもんは、ない。さあ! 早く下りないと日が暮れるぞ」
 藪(やぶ)から棒(ぼう)に何を訊(き)くんだ、こいつは…という顔で、その男は弘前を立たせながら言った。
 日没が迫っていた。二人が立ち去った峠道に、二講山神社のお札が一枚、落ちていた。

                        完

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2014年11月14日 (金)

不条理のアクシデント 第十五話 肩コリズム

 定年を数年先に迎える吉野は、この日も残業に明け暮れていた。片方の手で霞(かす)む書類の字に目を凝らしながら、もう一方の手で首筋を揉(も)んでグルリとひと回りさせた。そして、フゥ~~っと、なんとも切ない溜息を吐いた。どうにかこうにか書類は完成したな…と、帰り仕度(たく)を始めた。机の上を整えたあと、鍵をかけ、鞄(かばん)を持って立った。そして、忘れ物はないな…と、吉野はもう一度、机の周りを確認し、凝った肩をグルグルと回した。どうも最近、肩の動作が増えたような気がした。課では、いつの間にか自分が一番、年上になっていた。課長も吉野に対しては尊敬の念で敬語を使った。というのも、吉野は現場が好きだった。管理職になれたものを固辞(こじ)し続け、この年になっていた。社長や取締役さえ自分より年下になった…と、吉野はやや気弱になっていた。年老いたとはいえ、仕事は人並み以上に熟(こな)していたから苦情は出なかった。その吉田が最近、肩こりに悩まされていた。だが妙なもので、肩がこると不思議なことに仕事が捗(はかど)り、結果が出た。契約もOKとなり、上層部の覚えもよかった。逆に肩が凝らないと結果が悪かった。吉野は、肩こりは嫌だが結果は出したいというジレンマな気分に苛(さいな)まれた。
 ある日、若手社員の関谷がしきりに肩を揉(も)み始めた。
「どうした、関谷君! 入社して二年目の君が…」
 吉野は関谷の席に近づき、軽く元気づけた。
「ああ、吉野さん。どうも肩が凝って困ってるんですよ」
「おおっ! 課長に言われた企画書は出来てるじゃないか!」
「そうなんですよ、それが不思議なんです。スラスラと企画が湧いて仕上げた途端、コレです」
 吉野は肩を片手で叩いた。そのとき、吉野は妙なことに肩がいつもより軽く感じた。俺の肩こりが関谷に? …そんな馬鹿なことはないな、と吉野は含み笑いをした。
「吉野さん、どうかしました?」
「いや、べつに…」
 関谷の問いかけに、吉野は軽く返した。
 それ以降、吉野の課では、誰彼となく肩こりが伝染するかのように課員達に移っていった。ただ、その前兆はなく、突然、現れた。それと同時に肩こりに襲われた者の仕事は100%の確率で結果を出した。いつしか、吉野の会社はこの現象を肩コリズムと名づけるようになった。

                           完

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2014年11月13日 (木)

不条理のアクシデント 第十四話 蛸の足

 省吾は走っていた。あと2㎞にゴールは迫っていた。去年もその前の年も、省吾は故障で出場できなかったのである。だから、なにがなんでも今年は出場するんだ! と意気込んで、やっとレースに出れたのだ。だから、それだけで十分だった。しかし、周囲の目はそうではなかった。省吾のそれまでの実績がオーバーヒートしてマスコミに報じられたのだ。県体でも国体でも優勝した実績が過去にあった。それが返って仇となった。省吾の足が速いのには訳があった。
『私の足を食べなされ。そうすれぱ、あなたの足は速くなりますぞ。心配なされずとも、この足はまた生えますでな、ご安心を…』
 ある日、省吾は夢で蛸の国へ招待された。蛸の国王は省吾を歓待し、土産に自分の足を数本、切り、省吾の手土産にした。
『あ、有難うございます…』
 省吾は蛸が好きだから、これは酢醤油で食べよう…などと考えた。ただ、夢のお告げだから・・と、自分の足が速くなるとは考えもしなかった。ところがその後、省吾が蛸の足を食べると、驚くことにそれまで歴代10位だった記録が、文句なしの一位にまで跳ね上がったのである。
「お前、どうしたんだ?」
 陸上部の友人が怪訝(けげん)な表情で、省吾の足を見ながらそう訊(たず)ねた。蛸の足さ、とは口が裂けても言えない省吾だった。だいいち、そんなことがこの世にあろうはずがない。ただ現実に、省吾の足は格段に速くなっていた。
「いやあ、ちょっと特訓で鍛えて…」
 省吾の口からスラスラと出鱈目が出た。友人は半信半疑ながらも、なんとか納得した。
 ある晩、省吾はまた、夢を見た。
『速くなったでしょうが。ファッファッファッ…』
 蛸の国王は身体を微妙に揺らせながら優雅に笑った。
『有難うございました』
『ただね、あなたには申し訳ないんだが、私の足には有効期間がありましてな…』
『ええっ!』
『いや、これは申し訳ない! 有効期限が足一本につき一年でな。え~と、この前、何本お渡ししましたかな?』
『確か、3本だったと…』
『それならば3年ですじゃ。いや、誠に申し訳ない…』
 蛸の国王は頭をグニャリと曲げてお辞儀した。そのとき省吾は、ふと目覚めた。まだ暗い四時過ぎだった。なんだ、また夢か・・とは思えたが、不思議なことに枕元はグッショリと濡れていた。手の指先で確認すると、明らかに蛸の粘液だった。省吾はゾクッ! と寒気を覚えた。
 その後、省吾の記録は急に落ち始めた。ちょうど、最初の夢から3年が経っていた。

                        完

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2014年11月12日 (水)

不条理のアクシデント 第十三話 湧く弁当

 ここは、とある男子高である。
「おい! あいつ、また食ってるぞ。さっき、食ったばっかじゃねぇ~か!」
 よほど腹が立ったのか、同じクラスで悪ガキの首領(ドン)、石田が校庭のベンチに座って弁当を食べている畑口を野次った。その声に教室の生徒達は反応し、全員が校庭を見下ろした。そんなことはまったく知らない畑口は黙々と弁当を食べ続けた。石田が言ったとおり、二時間ばかり前、確かに畑口は弁当を食べたのだった。それが、また食べている。石田には同じ弁当に見えた。ということは、少し食べて、またその続きを食べているんだ…と、石田は単純に、そう思ったのだ。だがその考えは間違っていた。
 授業開始のチャイムが鳴り、皆が席へ着いた。畑口が教室へ駆け込んできたのは数学教師の谷村が教室へ入る直前だった。息を切らして起立し、礼、着席するのが畑口のいつもの日常で、他の生徒達は、またか…程度で、さして気にすることもなかった。ただ、畑口が、なぜそんなに腹が空くのか? という疑問だけは皆の心に残った。畑口の弁当は食べても食べても尽きない食べ物が湧き出る弁当だったのである。畑口は腹が空(す)いて食べている訳ではなかった。食べないと、弁当の蓋(ふた)が増えるおかずや御飯で押し上げられ、鞄(かばん)が食べ物だらけになるからだった。
 ある日、石田が、ある計略を手下二人と謀(はか)った。
「お前は畑口を釘づけにしろ。で、お前は見張りだ。その間に俺は奴の弁当を食べる! いいか、奴を机へ近づけんじゃねえぞ!」
「分かりました…」
 二人は返事をして頷(うなず)いた。
 三時限目が終わるチャイムが鳴った。いつもは教師が出たあと畑口は駆けだし、校庭で弁当を食べるのだ。だが、その日は違った。石田に命じられた手下の一人が畑口を呼び出した。
「お前、職員室で谷村先生が呼んでるぞ」
「有難う…」
 二時限目が終わって少し食べておいたから、まだそう増えてないだろう…と思える心の余裕が少し畑口にはあったから、言われたとおり職員室へ向かった。その隙(すき)に石田は畑口の弁当を小脇に抱え、体育倉庫へ向かった。誰もいないことは調べさせていた。体育倉庫で畑口の弁当の蓋を開けると、驚いたことに手つかずだった。いや、それより幾らか蓋が押し上がっているように思えた。ギクッ! とした石田だったが、腹が空いていたから、まあいいか…と、瞬く間に弁当を平らげ、教室へ戻った。そして、何もなかったように畑口の鞄(かばん)へ空にした弁当を入れた。そこへ、足止めされた畑口が首を傾(かし)げて戻って来た。
「先生、呼んでないって言ってたぞ」
「そうか…おかしいなあ。あっ! 今日じゃなかったんだ!」
 石田の手下は、なんとなく暈(ぼか)して席に着いた。
 昼になった。皆がそれぞれ好きな場所で昼食を食べ始めた。だがその頃、悪ガキ三人は、恐怖の冷や汗を流していた。眼下の校庭には弁当を美味そうに食べる畑口の姿があった。

         
                 完

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2014年11月11日 (火)

不条理のアクシデント 第十二話  来々軒

 仕事仲間で近所の幹夫と健太がいつも寄る風呂屋の湯舟に浸かりながら話していた。
「昨日さ、ラーメン、食ったんだけど、美味(うま)かったな。お前も食ったことあるか?」
 幹夫が赤ら顔の健太に訊(たず)ねた。
「この辺(あた)りの店か?」
「いや、店じゃない。夜鳴き屋台さ」
「夜鳴き屋台? 知らないなぁ…。どの辺で?」
「俺の家の前を出たとこさ。斜め向かいの丸太(まるた)小路」
「丸太小路?」
 訝(いぶか)しげに健太が返した。それもそのはずで、健太の家も丸太小路のすぐ近くだったからだ。
「ああ…。おかしいなあ? お前も来々軒のチャルメラ、聞いただろ?」
「いや、知らない。来々軒っていうんだ」
 健太は、はっきりと全否定した。
「そんな馬鹿な話はない。夜、十時頃だぜ」
「いや、いやいやいや、それはない。その時間ならまだ起きてたからな」
「そんな馬鹿な! お前ん家(ち)と俺の家はすぐ近くだぜ。絶対、聞いてるはずだ」
「いや、聞いてない!」
 押し問答で、切りがない…と、少し逆上(のぼ)せ気味の健太は浴槽から出た。幹夫もこれ以上、言っても仕方がない…と思ったのか、黙って浴槽から出た。
 健太は座ると湯栓を緩(ゆる)め、ジャブジャブと湯を出し、頭を洗い始めた。
「だったら一度、食べないか?」
 横へ座った幹夫は、健太と同じように頭を洗いながら、そう提案した。
「ああ、いいぜ…」
「じゃあ、今夜の十度に迎えに行く」
 話は簡単に纏(まと)まり、二人の話は途絶えた。あとは何もなかったように、二人は頭を洗い終え、もう一度、湯に浸かると上った。衣類を身に着け終え、二人はいつものようにコーヒー牛乳を飲むと風呂屋を出た。
「でも、おかしいぞ? チャルメラ…」
 急に健太が呟(つぶや)き始めた。
「まあ、いいじゃないか。今夜、分かるさ」
 その夜、十時前、幹夫は健太の家の前に現れた。健太も待っていたのか、すぐ玄関から出てきた。
「聞こえるだろ?」
「えっ? 何が?」
「ははは…馬鹿な冗談はよせよ。チャルメラ、鳴ってるじゃないか」
「…」
 幹夫には聞こえ、健太には聞こえていなかった。二人は歩いて、すぐ近くの丸太小路に出た。幹夫の目に来々軒の赤い提灯(ちょうちん)の灯(あか)りが映った。だが、健太の視界の先は僅(わず)かな街頭の灯り以外、暗闇が広がるだけだった。
「ここだよ! な! 俺の言ったとおりだろ」
 こいつは完全にいかれてる…と健太は瞬間、思った。そういや、数日前は徹夜の仕事が続いていた…という思い当たる節(ふし)もあった。しかし、冷静に考えれば、健太だって同じ条件で徹夜が続いていたのだ。幹夫だけがいかれるのは妙だ…と健太は思った。健太はともかく、幹夫に話を合わせることにした。
「親父、二丁!」
『へい!』
 親父の声は健太には聞こえなかった。幹夫は屋台の長椅子へ腰を下ろした。健太には幹夫が空間に座っているように見えた。合わせようと幹夫に続き、見えない椅子に健太は座る振りをした。だが、その必要はなかった。確かに空間に椅子はあった。健太はゾクッ! と寒気(さむけ)を覚えた。しばらくすると、闇の空間にラーメンのいい匂いがし出した。健太の額(ひたい)に冷や汗が吹き出した。
「どうした?」
「いや…」
 幹夫には見え、健太には見えないラーメン。だが、それは実に美味(うま)かった。
「親父、ここへ置いとくよ」
『へい…また、どうぞ!』
 店を出るとき、幹夫が金を支払った。その金がスウ~っと健太の前から消えた。健太は叫びながら一目散に走りだした。

                         完

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2014年11月10日 (月)

不条理のアクシデント 第十一話 不運な男 

 世の中には何をやっても不運な男というのがいる。この男、滑山も、その中の一人だった。不運が重なれば、自(おの)ずとやる先が分かってきて引き気味に物事を停滞させる。滑山もご多分にもれず、いつの間にか停滞し、アグレッシブさが消えた低いテンションの男になっていった。
 あるとき、滑山が会社帰りの電車に乗っていると、運悪く雨が降り出した。今日は降らないと天気予報が言ってたはずだが、また、これか…と滑山は思った。
当然、傘は持っていなかった。電車に揺られながら、駅でやむのを待つしかないか…とも思ったが、やむ気配もなく、雨脚(あまあし)は益々強まり、本降りになってきた。長時間、待つのも嫌だな・・と思え、滑山は駅からタクシーで帰ることにした。運悪く、タクシー乗り場は混んでいたが、それでも40分待ちで、ようやく乗ることが出来た。滑山は後部座席に座ると、ともかくホッとした。
「よく降りますね…」
「えっ!? …はあ」
 滑山は間をおいて返した。
「どちらまで?」
「ああ、あのビルの方向へ」
「? 方向って、あんた…?」
 運転手は困惑し、不機嫌な顔をした。
「だから、あちらの方へ、ともかく走って下さい」
 運転手は渋々、十字路手前でウインカーを点滅させ、その方向へとハンドルをきった。
「で、どの辺りまで?」
 しばらく走ったところで、運転手は滑山に訊(たず)ねた。
「ああ、僕が言うから、そのまま走って下さい」
「…はい!」
 ええ、走りますよ、あんたは客なんだから…というような気分で運転手は返した。滑山は助手席でいろいろと先を考えていた。自分の考えたことが、ことごとく裏目に出る。とすれば、決断した所で、その真逆に動けばどうなるだろう…と。
「次の通りは?」
「右へ」
「はい」
 タクシーは滑山の指示どおりの方向へ進んでいった。滑山は自分で思った逆を口にしていた。右へ・・と運転手には言ったが、滑山の思考は左へと命じていたのだ。そうこうして走っていたタクシーは、ついに工事中で通行止めの標識に出食わした。
「お客さん、Uターンしますか?」
「いえ、ここで結構です」
 そう言うと滑山は料金を支払い、タクシーを降りた。運転手は妙な客だ…と首を捻(ひね)り、訝(いぶか)しげな眼差(まなざ)しで車を反転させた。
 滑山は通行止めの標識を越えて歩いた。すると不思議なことに、その先には滑山の自宅があった。滑山は帰宅していた。それ以降、滑山の不運は、ことごとく消え去り、幸せに暮らしたそうである。

                         完

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2014年11月 9日 (日)

不条理のアクシデント 第十話 変な人 

「あんたねっ! 勝手すぎるんだよ! もう少し、待ってくれてもいいだろ! ほんとに、もお~! 足が早いんだから!」
 山裾(やますそ)に沈もうとしている秋の夕陽を見ながら、勘一は呟(つぶや)いた。それを隣家の嫁、民江が窺(うかが)い見ていた。
「また、話してるよ、勘さん…。ほんと、変な人だよ。アレさえなけりゃ、いい人なんだけどねぇ~」
 そこへ旦那の芳三が顔を出した。
「どうした?」
「ああ、お前さん。ほら、アレ、見てごらんよ」
 芳三は民江が指さす方向を見た。勘一は山裾に半ば姿を隠した夕陽に向かって、まだブツブツと小言を垂れていた。
「大丈夫かねぇ~、あの人!」
「勘さんか…。まっ! アレだけだからなあ。見て見ぬふりでいいだろうよ」
「そうだね、いつものことだから…。でもさあ、なに言ってんだろうね?」
 民江は首を捻(ひね)った。
「さあなあ~? なにか、願いごととかだろうよ、きっと…。さあ、飯(めし)にしてくれ、飯に!」
「あいよっ! いい人なんだけどねぇ~」
 二人は奥へ姿を消した。隣では勘一が、まだ、ブツブツと話していた。
「そうでしたか…。忙しいんですね、あなたも。こっちの都合で語っちまって、申し訳ない…」
 芳三夫婦だけではなく、誰が見ても勘一は変な人だった。だが、真実は変でもなんでもなかった。太陽は勘一と語っていたのだった。
『いいえ、では…。また明日!』
「あっ! おいでに?」
 勘一は明日も晴れると確信した。

                          完

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2014年11月 8日 (土)

不条理のアクシデント 第九話 アウト 

 いつも他人から浮いている二郎という男がいた。二郎自身は、一度も他人がいる場で浮くようなことはしていない…と思っていた。それが、ことごとく浮いてしまうのだった。人々は、またあいつが来たぞ…と、いつの間にか二郎を避けるようになった。和んでいた場が彼が入ることによって、一瞬のうちに氷のように冷たく沈滞してしまうからだった。誰となく二郎をアウトと呼ぶようになっていた。
「あっ! アウトか…。じゃあ、話の続きはメールする」
「分かった…」
 二郎がテラスのベンチへ近づくと、それまでベンチで話していた二人はすぐ立ち上がって去っていった。毎度のことだから、二郎は腹立たしくはなかった。いや、返って清々していた。誰かがいて、自分に嫌な顔をされることもないからだった。嫌な顔をされ、それを見るのは流石(さすが)に二郎も嫌だった。
 二郎は自分がアウトと呼ばれていることを知っていた。アウトか…なかなか、いい響きだ。少しかっこいいしな・・くらいにしか二郎は思っていなかった。しかし、自分が加わると、なぜ浮いてしまうのかは二郎に分からなかった。実は、二郎には隠された秘密があったのである。彼の実態は宇宙人だった。生まれたのは未知の∞星だが、∞星の滅亡前に家族とこの地球へ移り住んだ経緯があった。家族はそのことを二郎には知らせず育てた。家族がなくなった今、そのことは誰も知っていなかった。二郎自身も知らないのだから、当然といえば当然だった。その∞星人は特殊な磁波を放出し、それが地球人をネガティブ思考へと変化させた。二郎自身の出来の問題ではなく生理的な問題だった。
 ある夜、二郎はついにこの星と別れるときがやってきた。∞星滅亡の危機が去り、迎えがやってきたのだった。寝入っていた二郎は死んだはずの家族に肩を揺すられ、目覚めた。
「起きなさい、二郎。そろそろ出発ですよ」
「… … ええっ!?」
 二郎は絶句した。目を開けると、目の前に死んだはずの母がいた。
「あなたが驚くのは当然です。私達は∞星人なのです。死んだのではなく、一人ずつ星の再建に帰っていたのですよ。今夜は、最後のあなたを迎えに来ました」
 何も知らされず育った二郎には、俄かにその話が信じられなかった。すべてが夢の中だと思えた。
「もう、この星で嫌な思いはしなくて済むんだ、二郎!」
 父がそういい、祖父や母も頷(うなず)いた。夢の中なら従うしかないか…と二郎は思った。二郎は起き上がり、皆が歩く方向に続いた。
 次の日の朝、二郎は∞星で目覚めた。家族全員がいた。
「ここが、∞星?」
「なに言ってんの!」
 台所に立つ母は、笑って二郎にそう返した。そういや、建物もちっとも変っていない。夢だったんだ…と、二郎は思った。父も祖父も揃(そろ)い、家族の朝食が始まった。二郎は夢の話は黙っていようと思った。二郎がいつものように職場へ出勤すると、皆がやさしく話しかけてきた。二郎は、もはやアウトではなかった。やはり、ここは∞星だった。

                     完

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2014年11月 7日 (金)

不条理のアクシデント 第八話 なりきる 

 健次郎は借りてきたVTRの時代劇を観ていた。ちょうど、佳境に入ったところで、いよいよ悪党どもが正義の主人公に斬られる見せ場である。健次郎は思わず片方の拳(こぶし)を握りしめ、もう片方で煎餅(せんべい)を掴(つか)もうと菓子鉢へ手を伸ばした。ところが菓子鉢には、もう煎餅は残っていなかった。無意識に手が伸び、いつの間にか全部、食べてしまったのだ。健次郎は仕方なく、リモコンのスイッチを一時停止にして立ち上がった。立った途端、主人公になりきっている自分を感じた。感じるだけで、まだ自分だという意識は残っていた。それでも、かなり辺りが気になりだしていた。ひょっとすると、悪党どもが部屋の物陰やキッチンの机下から現れ、斬りかかってくるんじゃないか…という緊迫感に襲われた。
「う~む、殺気はねえな…」
 健次郎の話し方や仕草は、さっき観た瓦版屋風になっていた。だが、話し方が妙だ…と思う深層心理は、健次郎にまだ残っていた。辺りに気を配り、台所の戸棚からすばやく菓子袋を出すと、健次郎は茶の間へと戻った。茶の間のテレビでは、今にも主人公が悪党達の一家へ入ろうとする入口の場面で停止していた。主人公が入口の戸へ右手をかけようとする瞬間である。健次郎は菓子袋を破って菓子鉢へ入れたあと、リモコンのスイッチを解除した。途端、主人公は動き出し、戸を開けた。いよいよかっ! と、健次郎は固唾(かたず)を飲んでパリッ! と菓子の一枚を齧(かじ)った。その瞬間、悪党達全員の視線がカメラ目線となった。
『誰だ! でかい音を出しやがったのはっ! 静かに観てろいっ!!』
 健次郎は仰天したが、思わず「どうも、ご迷惑を…」と、瓦版屋になりきって言った。
『分かりゃ、いいんだ。静かに観てろい!』
 親分肌の悪党の頭目(とうもく)がカメラ目線で画面から健次郎に言った。健次郎は素直に頷(うなず)いた。すると、主人公が『ははは…そなた、謝ることはないぞ。こ奴らは拙者がすぐに斬り捨てるゆえ、安心めされい!』と言い放った。
 主人公がそう健次郎に言ったあと、壮絶な斬り合いが始まった。主人公が言ったようにバッタバッタと悪党どもは斬られて倒れ、ついに、頭目を残し数人となった。一歩、また一歩・・主人公が悪党どもに迫る。悪党どもは背水の陣となり、テレビ画面には迫る主人公と悪党どもの背中のアップが映りだされた。次の瞬間、悪党どもはテレビから消え、健次郎が観る目の前に突如として現れたのである。健次郎は卒倒し、一歩、下がった。そして、主人公もテレビ画面を抜け出して健次郎の部屋へ現れ、悪党の頭目に刀を振り下ろした。
『ウウッ!!』
 悪党の頭目は、叫び声とともに健次郎の前へ崩れ落ちた。健次郎はギャ~~! と叫んで後退(あとずさ)りした。残った悪党はテレビ画面の中へ一目散(いちもくさん)に逃げ込んだ。
『お怪我はござらぬか。これは些少(さしょう)じゃが、ご迷惑料!』
 そう言うと、主人公は健次郎に小判を一枚、手渡して画面へ戻った。嘘だろ! と健次郎は思った。画面に戻った主人公はカメラ目線で健次郎に品を作って微笑むと立ち去った。画面に「終」の、どでかい白文字が現れ、VTRは切れた。その瞬間、悪党の頭目は、スゥ~っと健次郎の前から消え去った。健次郎は暫(しば)し茫然(ぼうぜん)としていたが、ようやく我に返った。すべてが夢の中の出来事に思えた。しかし、健次郎の手には一枚の小判が握られていた。健次郎の手は震えた。
 後日、健次郎がその小判を鑑定してもらうと、紛(まが)いもない本物だった。いつしか、健次郎は心身とも瓦版屋になりきっていた。髷姿(まげすがた)の健次郎を世間は変わり者と見たが、都会のファッション街ではそれが流行(はや)りとなっていった。いつしか、違和感なく時代劇言葉が若者の間で話されるようになった。

                      完

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2014年11月 6日 (木)

不条理のアクシデント 第七話 テクシー

 道彦は歩くのを常としている。ジョギングなどと世間でもて囃(はや)されるその手の行動ではなかった。飽くまでも手段として・・なのである。長閑(のどか)に辺りを散策していると、なぜか気分が落ちつくのだ。無心でゆったりと流れる風景を眺(なが)めていると心地よくなる・・その感覚を大いに気に入っていた。世の中への迎合で運転免許も取ったが、使わないのに更新料や写真代が無駄に思え、二十五年ばかり前に返上した。自分ではタクシーの運転手気分でテクテクと歩いている。だから、家を出るときはテクシーを始動します・・と、心に言い聞かせるのが常だった。テクシーで家を出て、駅に着く。少し離れた会社への通勤は、もっぱらこの手である。休日は当然、テクシーで、あちらこちらとブラリ旅を決め込む。腹が空けばテクシーを駐車場へパーキングした気分で止め、適当な店へ入るのだ。自分は運転手気分なのだからお客さんが乗る可能性もあったが、道彦はそう気に留めていなかった。そんなことがある訳がない・・と深層心理が働いていたからに違いない。ところがある日、異変が起こった。その日は会社の休日で、道彦はいつものように適当な額を財布へ詰め込み、テクシーを始動した。
 長閑な小春日和で、寒からず暑からずの快適さである。
「あっ! すみません! 麻布十番までお願いします!」
 急に後ろから声がかかり、道彦はギクッ! と振り返って止まった。一人の笑顔の中年男が立っていた。
「? …」
 道彦は首を傾(かし)げた。
「だって、空車なんでしょ?」
「ええ、まあ…」
 道彦は心を見透かされているようで、薄気味悪くなった。
「じゃあ、お願いします」
「分かりました…」
 一列縦隊で歩くテクシーが始発した。
「いい天気ですね。もう長いんですか? このお仕事」
「ええ…。もう、かれこれ二十五年やってます」
「と、いえば、大ベテランじゃないですか」
「ははは、まあ…」
 二人はしばらく、歩いた。やがて麻布十番へ近づいてきた。
「お客さん、どこで降りられます?」
「ああ、その辺で結構です」
 中年男は前方に近づく信号を指さした。
「ありがとうございました! お金は結構ですよ。うちのテクシーはお足がいりません」
「歩いてますから、お足がいらない…上手い!」
 信号の前で二人は止まった。
「それじゃ、お元気で!」
 中年男は笑顔でそう言った。二人は信号で二手に別れた。そのとき道彦は異変に気づいた。道彦は制帽を被り、タクシー運転手の服装で歩く自分の姿に気づいた。

                        完

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2014年11月 5日 (水)

不条理のアクシデント 第六話 電磁バリア

 2065年・・日本は海域及び空域に完璧な防衛網を敷いていた。国会は紛糾し、一時は改憲論も出た憲法九条も危ういところで逆転ホームラン的勝利となり守られたが、それから早くも30年が経過していた。さて、そうなれば、国防の根幹と領土の保全を如何なる観点に求めるかが論議の対象となった。
「馬鹿言っちゃいけない!! ウッ! …」
「…だ! 大丈夫ですか!? 先生!」
 委員会の質問の席で、ある国会議員などは余りの剣幕で卒倒し、病院へ担ぎ込まれる事態も起きたりした。しかし、結果として与党は野党側との五分の折衝で防衛大綱の改定とそれに伴う法改正を実現し、国会で可決成立させた。野党側も譲るべきところは譲り、政府与党も妥協すべきところは妥協した挙句の成立であった。
 ここは、衆議院、本会議場である。白富士首相は施政方針演説で熱弁をふるっていた。
「防衛でございます。我が国を今風で言うところのシールドで守ります。電磁バリアであります。電磁バリアは目に見えない訳でございます。日本列島をドーム上のシールド、すなわちバリアでスッポリと囲む訳でございます。いつぞや隣国と物議を醸(かも)し、揉(も)めたこともあります海空の識別圏を線(ライン)といたします。この中へは、一発のミサイル、一機の航空兵力、一艘(いっそう)の軍艦、一匹の怪獣をも進入できなくする訳でございます。陸上の防衛力は自然、地震等の国土及び生活保安等の組織を除きすべて海空へ移管いたします。今般、国家行政組織法の改変整備に伴い、設置されました防衛保安省内の三組織、すなわち航空、海上、陸上保安庁、特に海、空保安庁の充実を図って参る所存でございます。怪獣に日本は屈しないのであります」
 議場のあちこちで、野次ならぬクスクス…という笑声が湧き起っていた。
 
 
「むろん、日米同盟は堅持し、両国の関係をより密にする努力を怠ってはなりません。集団的自衛権の行使につきましては、2020年に解決いたしました憲法の許容範囲内での後発支援、すなわち軍事物資、軍事燃料補給等の戦闘の危惧が及ばない範囲での支援による自衛権行使の方針を堅持して参る所存でございます。我が国は怪獣に食われる訳には参りません。また、食うことも出来ません。平和に越したことはございませんが、♪身に降ぅるぅ~~火の粉はぁ~払わにゃならぬぅ~~♪なのでございます」
 白富士首相が得意の喉(のど)で唄い、演説を終えた。議場は爆笑の渦となった。
「静粛に願います!!」
 大仏(おさらぎ)議長の声は掻(か)き消され、効果がなかった。いつしか、議長も笑いの渦に引き込まれ、笑っていた。


                                         完

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2014年11月 4日 (火)

不条理のアクシデント 第五話 スバラシイ!

 朝早く、会社へ出勤すると、開口一番、部長から呼び出されました。そして、「君ねぇ、来年からさ、浜松の出張所の方へ行って貰おうと思ってんだが…」と、言い渡されました。
「浜松? …」と、一瞬、私の脳裏は真っ白になりました。
 実を云いますと、私の会社というのは、東京に本社を持つ大手企業系列の関連子会社なのですが、最近は企業競合の荒波に押され、事あるごとに業績改善、業績改善と社内で叫ばれている時期でもありました。
 私は企画部総務課の課長代理でして、と云いましても課員数が十数人なのですが、代わり映えしない日々を、鳴かず飛ばず勤めておりました。
 そう、今振り返れば、そうした日々は感動がないと云いますか何と申しますか、胸に突き上げるような喜びがない、いわば、働き甲斐のある職場ではなかったのです。そして、世渡りが下手、また運もなかった…いえ、実力がなかった所為(せい)もあったのでしょう。十数年の間に、出世していく同僚社員を仰ぎながら、本社からリストラでこの子会社へ派遣されたという粗忽者なのです。
 その無感動の一場面をお見せしましょう。
 お茶を淹れて盆の上へ置き、それぞれのデスクにはこんでいる女事務員の姿が見えます。彼女の姿は、机上の書類に目を離し、顔を上へ向けた刹那、私の視線に飛び込んだのです。
 机に湯呑みを置きながら、なにやら話しているのが小さく聞こえてきます。
「ホントはねぇ、お茶汲み、なんかしなくってもいいんだけどさぁ…、なんか習慣になっちゃってるのよねぇ」
 話し相手の男性社員は、たしか同期入社組だったと思うのですが、笑って頷(うなず)いています。
 私はというと、机上の書類に目を通していたとはいえ、実は眠気でウトウトしていたのが事実でして、事務員の話す姿が見えたのは、まどろみから目覚めた、すぐ後だったのです。
 結局のところ、私の会社での立場といいますのは、その程度のものでして、大した役職を与えられている訳でもなく、課長代理という名ばかりの肩書きを与えられ、かといって、疎んじられているというのでもないのですが、昼行灯の渾名(あだな)をつけられておる、いてもいなくても影響力のない存在でした。
 話を元に戻しましょう。
 目覚めた私は、大きな背伸びをして両腕を上げ、欠伸をひとつ、うちました。そして、呟くように、「ああ、つまらん…」と漏らしたのです。
 今思うと、この時が異変の始まりでした。云った瞬間、課内全員の視線が私に集中し、しかもそれは睨むような殺気がありました。そして一同は声を揃えて、「つまらん?」と、私の顔を窺(うかが)ったのです。
 私は過ちを犯したような申し訳ない気持になり、思わず、「ス、スバラシイ!」とドギマギ吐いたのでした。そうしますと、全員が納得したようにニッコリして、ふたたび声を揃え、「スバラシイ!」と唱和しながら笑顔で私のデスクへ集まってきたのです。
 今までは課員達から疎(うと)んじられていた私でしたが、何だか急に人気者になったようで、悪い気分はしませんでした。
 それからの私は、ピンチに陥るごとに、「スバラシイ!」と連発して、それまで乗り切れなかった数々の苦境を脱していったのです。そして、いつのまにか課員達の人気者になり、課長のポストを与えられ、そればかりかリストラ対象者からも除外されました。更に、いいことは続き、本社へ呼び戻され総務部長に抜擢されたのです。トントン拍子に運がよくなった訳でして、ついには取締役に、そして社長にまで昇りつめたのでした。
 それから20年が経過し、私も白髪が混ざる好々爺(こうこうや)になっておりました。
 しかし、よいことは続かないものです。社長席の椅子で油断していたからでしょうか。つい、うっかり、「つまらん」と口に発してしまったのです。社長室の中は私一人ですから、まあ、大丈夫だろう…と、口を噤んだのですが、聞こえていない筈が、どういう訳か社員全員に聞こえたようで、その瞬間から内線ホーンの呼び出し音が続き、ついには私がいる社長室へ社員たちが殺到したのです。そして、「つまらん?」と、怒りの表情で異口同音に訊ねるのです。私は気が遠くなっていきました。
 ウトウトと微睡(まどろ)んだようでした。
 気づくと、なんと私は、20年前の未だリストラで飛ばされていない浜松の出張所におり、社員ではなくメンテナンスの清掃員として、休憩室に存在していたのでした。
 服装といえば、社長の姿とは比べるべくもない惨めな清掃員の姿でした。そして、老いを感じさせる皺だらけの手に一本のモップを持ち、椅子に佇んでいたのです。
 私は、愕然としてしまいました…。全てが夢だったのでしょうか? 未だに私には分かりません。

                           完

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2014年11月 3日 (月)

不条理のアクシデント 第四話 ゴミ人間

 朝起きると、何だかいつもと状況が違うのに気づいた。
 どこかザラツいた感触なのだが、それでいて気分は心地いい。
 もう、勤めに出ねばならないから、そろそろ床を離れねばならない。だが、今日は目覚ましが鳴らなかったようにも思える。前夜の疲れで熟睡していた為だろうと、その時点では思っていた。
「… …」と、無言で寝ぼけ眼(まなこ)を薄く開けると、目の前の視界が塞がれている。それどころか、ベッドに寝ていた筈が、シュラフにでも寝ている感覚で、しかも身体の位置が不安定だ。よく見れば、薄い黒ビニール袋の中に自分がいる。
 徐(おもむろ)に身体を立て直そうとすると、自由が利かず、窮屈この上ない。着ているものはというと、確か昨夜に着替えたパジャマであるから、これは怪(おか)しくない。
 ?(もが)いて袋を突き破ると、急に朝の冷気が身体を包む。辺りは早朝の静けさが覆い、通る人の姿もない。場所は? といえば、見慣れた通勤途中の風景が展開する道筋だ。私は訳が分からなくなり、一瞬、途方に暮れたが、我を取り戻して、とり敢えず袋から出た。
 ふたたび、よく見れば、靴下も履いていないし靴とてない。冷えが足下から鈍く伝わってくる。夏とはいえ、早朝なのだ。当然といえば当然である。
 仕方なく裸足のまま、ウロウロと、その場所を逃れた。その、というのは、勿論、ゴミを搬出する置き場所である。時計を見ると、まだ四時半近くだった。もう数時間すれば、間違いなくパッカー車がゴミを回収にやってくるだろう。私はその光景を、通勤途上でよく目の当たりにしている。
 なんという情けない格好で歩いているんだろう…と、思いつつ、両足は確実に我が家の方へ向かっている。何故、あんな所にいたのか? こんな状況になったのは何故なんだろう? と、不可解な事実に対しての様々な疑問が脳裏を交錯した。
 幸い、家からはそんなに離れていなかった。これには助かった。早朝で人の動きはないのだが、出来るだけ人目を避けようと、足早に歩き、とにかく家へ辿り着いた。
 家族はまだ寝静まっているようだった。起こさないよう、静かに二階へ上がり…、そうだ、これも不思議なことなのだが、玄関の鍵は施錠されていた筈なのだが、妙なことに開いていた。
 ベッドに横たわると、これも妙なことに温かみがある。夢遊病にでもなって辺りを徘徊していたのだろうか…と、寝つけぬまま、つまらなく考えた。だが、そんな風でもないようだった。
 その日は別に変わったこともなく、いつものように会社へ出勤した。
ただひとつ驚いたのは、例のゴミ置き場の前を通りかかったとき、私が入っていた黒のゴミ袋は綺麗に整っており、しかも破れた痕跡が全く残っていなかったということである。私が?(もが)いて破り、そこから出たのだから、当然、辺りはゴミが散乱している筈なのだが…。
 会社へ着き、デスクで考えると、そのゴミ置き場の辺りで思い当たることといえば、煙草の吸殻を投げ捨てたことぐらいであった。
『そんなことはある訳がない…』と思い、夢を見たんだ…と、自分に言い聞かせた。それでも、裸足で家へ帰ったという記憶は残っていた。
 その後、数日が経過していったが、これといった異変はふたたび起こらなかった。
 次にその妙な出来事が起こったのは、私が意図的に吸殻を投げ捨てたことに起因する。勿論これは、その後、異変が起こらなかったから、敢えて思い当たる行為をしてみた迄なのだが、その愚行の背景には、私自身がこの出来事を真実とは捉えていなかったという節もある。そして、その日も就寝する迄は何事も起こらなかった。いや、だった筈である。
 次の朝、目覚めると、やはり例のゴミ置き場に私はいた。
 時間は? というと、前回の時間よりも遅く、六時半近くであった。そして前回とは違い、人の気配も少し、し始めていた。状況は前回の経験則で理解されているから、避難しようと素早くその場を離れ、今度は小走りでその場を離れた。
 家へ戻ると、妻が起きたようだった。キッチンで物音がしていたからだが、気づかれぬよう、泥棒足で二階へ上がった。そしてその日も、その後は何事もなく過ぎていった。
 二度あることは三度ある、とはよく云うが、私は半分、依怙地になっていたのだろう。元来の負けず嫌いの性格が、ふたたび私を挑戦させるかのように、その異変に立ち向かわせた。
 次の日の朝、私は通勤途上の例のゴミ置き場で立ち止まり、意識的に煙草を投げ捨て、しかも靴で踏みつける仕草で火を消した。
 その日の夜は起こるであろう異変に備え、パジャマに着替えず床に着くことにした。
  ウィスキーをストレートのオンザロックで飲み、ベッドへ横たわる。緊張感からか眠気が訪れない。そこで、ステレオのジャズを聴いて気を紛らわせる。そして漸(ようや)く深い眠りへと吸い込まれていった。
 気づくと、音楽を耳に感じた。だが、昨夜のそれではない。しかも、自動車のエンジン音すらする。そして、妙にざわついた動きを感じる。
 危機一髪であった。奏でられていた音楽は、パッカー車のカーラジオの音だった。
 車から降りてきた二人の清掃員が、私のいる近くのゴミ袋を車中へ放り込んでいる。私は必死で袋を突き破り、脱出した。
 急に袋から現れた人間に、二人は一時、唖然としたが、ホームレスとでも思ったのだろう。
「なにやってんだ! こんな所で。…危ねぇじゃねえか!」と、私を一喝した。
「すいません…」と、縺(もつ)れた足で足早にその場を抜け、走り去る。そして、一目散にひた走った。
『何故、自分だけが…』という想いが、脳裏を駆け巡っていた。
 家へ着くと、なんと! …家がない。私の家がないのだ。そこは巨大なゴミ捨て場と化している。そして、そこには巨大な立て札が…。
━次は貴方を捨てますよ。ゴミを馬鹿にしてはいけません。━ …と。

                         完

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2014年11月 2日 (日)

不条理のアクシデント 第三話 抜け穴

  「今帰ったよ…」と、私は云いました。
 しかし、誰がいる訳でもありません。闇の空間が広がるばかりの私の部屋。というのも、あの猛暑の夏も去り、季節は木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夕暮れ時でしたし、日は既に夏の同時刻より、その傾きを早くしていました。
 私は、とり敢えず靴を脱ぎ、電灯のスイッチを弄(まさぐ)りました。やはり、部屋の立体は存在するものの、家族は消えていたのです。消えていた、という表現は、皆さんに不可解な印象を与えるでしょう。そこで、今に至るまでの経緯を述べることにします。
 私には、妻、そして二人の子供がいました。皆さんは信じないでしょうが、家族は殺害された訳でもなく、事故で死んだ訳でもありません。ただ、…消えたのです。云っておきますが、失踪したのでは増してなく、忽然と消えたのです。
 こういうふうに云うと、皆さんは信じられないでしょうし、何故だろうという興味と疑問をもたれることでしょう。そこで次に、その成り行きを語りたいと存じます。
 私の家は、通勤に便利な、と或る山村にあり、茅葺屋根の古い家屋であったものを、今風に建て替え新築したのですが、そのことが起こったのも、そう…忘れもしない、あの日でした。
 帰宅した私を迎えたのは、妻と二人の子供でした。
「パパ、お帰りなさい」
 この妻のひと言で、仕事の憂鬱感も薄れ、疲れもとれました。まあ、こう書きますと、いいマイホーム・パパをやっていたことになりますが…。
 その日もいつもの日課のように着替えをして風呂に入り、その後、ビールを飲みつつ食事となりました。二人の子供は戯れながら食事をしています。まだ四才と二才のやんちゃ盛りです。団欒の会話の中、ふと妻が思い出したように云いました。
「パパ、私もかなり辛いから、この前云った簡易水道のこと、真剣に考えてね」
「ああ…」とだけ、新聞に目を泳がせながら暈して、何げなく私は答えました。
 そう、私の家には茅葺屋根の頃から井戸があり、寒露な味を捨てがたいものがあって、今も昔ながらに飲食用に供されていたのです。江戸時代にあった長屋の共同風ではないものの、やはり滑車を利用して汲み上げる仕組みでした。洋風の佇(たたず)まいの中では、その場所だけが、やはり違和感がある存在でした。
「本当に危ないのよ。今日も二人で覗き込んでるから、『ここで遊んじゃ駄目よっ!』って、叱ったんだけど…」
 私はまた、「ああ…」とだけ相も変わらず暈して、聴いているような、いないような曖昧な返事を返しました。妻は続けました。
「それにね、可笑しいこと云うのよ」
「ふ~ん…」と、私は濁しました。
「地球は思ったより雲が多いんだね、とか…」
 その時、「だって、見えたんだもん…」と、四才の長男が呟いたのです。
 その呟きで、ふと我に帰った私は、新聞を隣の椅子に置き、やっと会話に加わろうとしました。
「家の屋根か何かが見えたんだろ?」と、長男を窺(うかが)うように見ました。
「だって、地球だったよ…」
 私は笑って聞き流しました。
 実は、このときの会話が、全てを狂わせる前兆だったのです。
 この後に起こった事柄については改めて述べますが、話の都合上、もう少し皆さんに解説しますと、実は井戸が太陽であり、子供がその下に見た地球は、天国と地上を結ぶ空間次元の扉だったのです。そして、その見えた地球の中には、違う次元に生きる別の自分が存在し、この自分とは見えない空間で繋がっていたのです。ということは、下の地球から見た太陽は、実は我が家の井戸の穴だったことになり、現時点では私も理解できますが、その時、通常の理性的判断では、非科学、非論理な馬鹿な話の何物でもないと感じました。
 その数日後、いつものように仕事を終えて帰った私は、家のドアを開け、茫然と立ち尽くす妻の姿を見たのです。
「おいっ! いったい、どうしたんだ?」
 やや興奮気味に私は靴を脱ぎ、慌てて妻のところへ駆け寄りました。
 妻は暫(しばら)く、放心状態で立っているばかりでした。そして数十分が経過していきました。
 やがて、妻が解き放たれたように、突然、口走りだしました。
「消えちゃった! 消えちゃったのよ、貴方!」と、取り乱した声でした。
「いったい、何が消えたんだ?」
 冷静さを装って、私は静かに云いました。
「二人が…、井戸の中へ…」
「なにっ! 井戸へ落ちたのか? 病院だ、いや、すぐに救急に電話だ!」
 私の声も、上擦っていたようです。
「違う、違うのよ。フワッと消えたのよ、覗き込んだまま…」
「そんな馬鹿な話があるか! お前どうかしてるぞ、SFじゃ、あるまいし…」
 畳み掛けるように云いながら、私は井戸の方へ向かいました。
 井戸は不気味な静けさを映すだけで、覗き込んだ彼方には、闇の空間と鏡のような水面が存在するだけでした。しかしこの時点で、動転していた私は、水面に映る地球を見逃していたのです。というより、その光を電灯の輝きだと錯覚していたのでした。
 暫(しばら)くしますと、私も冷静さを少し取り戻しましたので、日常の動作を無意識にしておりました。しかし、その動きはどこか、ぎこちなく、心は空虚で真っ白に凍結しておりました。その凍結の延長線には、今後の対応をどうしたものかと考える心もあったようです。
 妻も、自分の意識を落ち着かそうとしているようでした。いつもなら、テーブルの椅子に座って飲むお茶を、立った状態で、ぎこちなく飲んでいました。二人の会話は閉ざされ、互いに無言で対応を模索しておりました。
 その後、私は妻に事に至った詳細を訊ねました。その内容からは、警察へ届けるといった手段も憚(はばか)られ、ましてや、救急を呼ぶというのも奇妙だという事実に、只々(ただただ)、空白の時間を費やさざるを得ませんでした。
 これは後になって少しづつ思い知らされたことなのですが、私達が知識として持つ宇宙は、全てが科学の名のもとに作り出された夢だったのです。スペースシャトル、人工衛星、宇宙ステーション等も、全てがこの井戸から少し昇ったところで、恰(あたか)も孫悟空が観世音菩薩の手のひらで飛び回っていたのと同じなのです。星雲、大星雲さえも、私の井戸にある石垣の石ひとつひとつ、だったとは、誰が想像できるでしょうか。
 さて、話を戻すことにしましょう。
 常識では理解できない事態に直面して、二人は思いつく解決法を模索していました。
 小一時間ほどが経過していたでしょうか。どちらからともなくテーブルを立ち、気づけば井戸の前に二人はいました。
「パパ、煙が流れているわ…」と、妻が口にしました。そのとき私は、無造作に煙草に火をつけていたのに気づきました。
 妻にそう云われて、視線を手の煙草に移すと、確かに紫煙の流れは井戸の方へと吸い込まれていました。やはり、井戸の中へ落ちたのか…と、私は思いました。しかし、これも後になって分かったことなのですが、井戸へ吸い込まれて落ちたのではなく、井戸の中の次元へ次元を移動した、つまりるところ、消えたというのが真実だったのです。
 それからの日々は、私達二人にとって辛いものになりましたが、或るきっかけが、解決への糸口となったのです。
「おいっ! お前、この頃どうかしているぞ」
 同僚の不意の声に、ギクッと我に帰った私は、虚(うつ)ろな眼(まな)差しを彼に向けました。
「…、そうか?」
「この書類、先月の見積もりだ。もう、発注済みだぜ。今月のが欲しいんだよ…」
「ああ…、悪い」
「何かあったのか?」
「いや、別に大したことじゃないんだが…」
 私はボールペンを訳もなくカチカチと押しながら、暈しながら云いました。
「その話は昼休みしよう。課長が、こっちを見てるぞ」と、同僚は慌てて机上の書類へ目を落としました。
 会社から少し離れたビルの地下には、行きつけのカフェレストランがありました。
 カウンタ-で食べるB定食も何となく味気なく、食欲自体も余りありませんでしたが、それでも無言で喉に通していました。同僚は既に食べ終わっていて、ウエイターに、セットに付いている食後のコーヒーを注文しました。そして、注文を終えると私の方を向き、呟くような小声で話しだしました。
「なっ、相談相手にはならんだろうが、心配事があるんだったら云ってくれよ」
「いや、云ってもいいが、信じないだろ?」
「まあまあ、ともかく云ってみな」
「……、実は、子供のことでな…」
「病気か?」
「いいや、それだったら、いいんだが…」
「事故か?」
「でもない…」
「勿体ぶらないで、云えよ」
「…、消えたんだ」
「何が消えたんだ」
「だから、俺の子がさ」
「誘拐か?」と、同僚の顔が、先程とは、うって変わりました。私は、「いや…」とだけ否定しました。
「どういうことだ?」
 理解できないというような、怪訝(けげん)な表情で、同僚は私を窺いました。
「やっぱりね信じてくれんだろうな…」
「と、いうと?」
「だから俺も、最初は、『そんな馬鹿な話しがあるか!』って、家内に云ったんだが…」
「ん…」
「うちに井戸があるのは知ってるだろ? そこに落ちたのなら、別に妙でもなんでもないんだ。家内が消えたというから、話がややこしくなってきた」
「消えたというと?」
「だから消えたんだよ、スゥーっと。これは飽くまでも家内の話なんだが…。信じられんだろ?」
「ふーむ、信じられん。奥さんさぁ、精神的に疲れてんじゃないだろうな?」
「いいや、そういう風にも見えんのさ」と、私も食後のコーヒーをオーダーしながら小声で云いました。
 その時、同僚が腕を見ながら、「もうこんな時間か…、一度休みにお前ん家へ行くよ。俺もちょいと、ややこしくなってきた。今日はこの辺にしておこう」と席を立ったのです。
 この話は、一応ここで途絶えたのですが、先程も云いましたように、これが解決への、きっかけとなったのでした。
 月は地球の衛星であると、科学では説明されています。私もそれが当然の思考だと思っていました。しかし、ここに大きな抜け穴があったのです。
 井戸が、もし我々の住む銀河系宇宙だと云えば、貴方は私を狂人だと思われるでしょうし、腰を抜かされると思いますが…。
 さて、話を元へ戻しましょう。
 昼食を終え、二人は会社で仕事を続けました。その後も、私は平静さを保ちましたし、同僚も何も訊かなかった風に仕事を続けておりました。ところが、勤めを終えて家に帰宅すると、また異変が起きていました。妻も消えてしまっていたのです。
 もう私は、精神錯乱の一歩寸前といった状態に陥り、『私だけが、何故こんな不幸に見舞われるんだ!』と、いった怒り、失意、そして途方に暮れる気持などが入り混じった状態となり、何をしようという気持も失せたのです。只々(ただただ)、何時間も椅子に座り氷結しておりました。それでも時折り、無意識に日常の雑事で動くことは、しておったようです。事実、私はその後も会社を休まず出勤しておりましたので…。
 それから、数日が経過していきました。
 仕事を終え、通勤電車に揺られ、今となってはもう慣れてしまった、静けさが漂う家へ着きました。すっかり諦(あきら)めきった心境で、夕食用にコンビニで買い求めた弁当、缶ビール、それに僅(わず)かな食品をテーブルへと置きました。そして、肩を揉みながら背広を脱ぎ、ハンガーに吊るし、ネクタイを無造作に緩めました。この時点では、妙に落ち着いておりました。『先に風呂にするか…、いや…』と、誰もいない部屋で自問自答しながら、結局、私はバスルームに向かいました。
その時、ピピピッっと携帯が鳴りました。同僚でした。
「実は、友達から連絡が入ってな。どうも、お前と同じらしい。家族が消えちまったって、云うんだが…」
 電話は続きました。
「そいつの家にもお前の家と同じように、井戸があるそうなんだが…。ところがな、話にはまだ続きがあってな。奴も数日前に消えちまったってことだ。近所じゃ、夜逃げでもしたんじゃないかと噂になってるそうなんだがな」
「そうか、…有難う。その話は会社でゆっくり聞くよ」
「お前の家で、ゆっくり話そうと思ったんだが、結構、いろいろあってなぁ…。余り気落ちすんなよ、じゃあな」と、慰めを云い、同僚は電話を切りました。
 次の日の昼過ぎ、私と同僚はいつものカフェレストランで食事を取っていました。
「奴も消える前に、お前と同じようなことを云っていたんだ。『馬鹿なことを云うな!』って、一応は聞き流したんだが、その数日後、奴は消えちまった。余り気分のよい話でもないしな。それで、お前が云ってたことを思い出して、電話したって訳だ」
 後になれば、そうした内容も得心が行くのですが、この段階では他人に話せない不可解な話なのです。異次元への入口が私の家の井戸以外にも幾つかあって、それには一定の法則めいた事実が存在するということでした。
 私が、アチラの世界に住むようになって気づいたことなのですが、このように申しますと、皆さんには意味が分からないとは存じますので、結論だけを端的に申します。その事実の法則めいた共通点とは、まず第一に、家族構成が妻と数人の子供のいる家庭で、第二として、南方の斜め前に柿の木があるということでした。この共通点がどういう関連性をもっているのかは分からないのですが、アチラの世界からの幾つかの条件をクリアーした家族だったということです。同僚の友人の家族も、偶然、そうした条件に合致していたのでしょう。
 その日、同僚から話の内容を聞いた後、いつもと変わらず勤めを終え、帰宅しました。家に入ると、数ヶ月前の生活が脳裏へ去来して想い返され、私はつい、「今、帰ったよ…」と、呟いていました。しかし妻と子供は、やはりこの空間には存在せず、空虚な佇まいの中で動く自分に気づかされました。
 抜け穴に召されるその日まで、私は何をよりどころに生きていけばいいのか…と、途方に暮れるばかりでした。だが、その一方で、なんとかせねば…と思う自分もいました。それが徒労であることは、自分にも分かっていたのですが…。なんの解決の手立ても持たない自分が滑稽でした。
 それからまた数日が経ったある夜、突然、私は宇宙の真っ只中にいるような妙な感覚に襲われたのです。それでも私は、無心に食後の食器を洗い続けていました。食後は、井戸を見にいくのが日課となっていた私ですが、その日も井戸の方へ無意識に足は動いていました。
 その日の井戸は、いつもと様子を異にしておりました。と、云いますのは、私にも見えたのです。子供達が、そして妻が見たと云ったあの地球の姿を…。
 水面は透明な表情を変えず、その水面の奥深くに、薄暗く、しかし明確な円の輪郭をもって、それは存在していたのでした。ほんの僅(わず)かではありますが、それは揺らいでおりました。無意識の内に、思わず私は、妻と二人の子供の名を叫んでいたのです。その刹那でした。私の周囲に真っ白の光が輝き、私の意識は遠ざかっていきました。
 気がつくと、いつもと変わらない、出来事が起こる以前の家族の風景がありました。それからのことは、夢といえば夢なのでしょう。私には事実だとは明確に断言できません。確かに妻は夕食の準備をしておりましたし、私は会社休みの日なのか、リビングで寝っ転がっていました。
 起き上がると、無邪気に遊ぶ二人の子供がおりました。二人の子供は、テレビゲームに夢中になっていました。
「もう夕食よ…」と、妻の声がしました。そうです、妻も二人の子供も存在したのです。
 しかし…、「私の家が選ばれてよかったわね。あちらの世界とは全然、生活感が違うわ」と、妻は口にしたのです。
 私には、妻の言葉の意味が、どうしても分かりませんでした。それにね家の佇まいが少し妙でした。以前の私の家のものではない不思議なものが存在したのです。暫(しばら)く私は思考感覚が麻痺していましたが、それでも現実を直視しようと、見て歩いていました。
 何事もなかったかのような家族の様子に、私は本の少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも、今の状況を冷静に受け止めようと思いました。そのとき、妻がふと云ったのです。
「貴方も、こちらへ来られてよかったわ」
 そのひと言が全てを理解させてくれたのです。私も異空間に来たのだということを…、しかもそれは、夢ではなかった、ということをです。
 でも私には、もうどうでもよかったのです。家族さえ存在してくれるなら…。
 もう少しお話しすることもありますが、これが抜け穴に導かれた私達家族に起こった事の顛末(てんまつ)です。現在では、人間世界では考えられない苦のない世界で、家族四人が幸せに暮らしております。
 この話を信じる信じないは、貴方のご勝手ですが…。

                           完

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2014年11月 1日 (土)

不条理のアクシデント 第二話 空蝉[うつせみ]

 今年の夏も、雑木林から蝉の大合唱が聞こえてまいります。
 私が住まい致しますこの辺りは、未だに所々、雑木林が建造物に遠慮する形で残っております。と、申しますのは、都市開発地域から外された形で残されたのが主因かと思われるのでございますが、私としては齢(よわい)八十のこの歳で、今更、都会の雑踏には住みたくもなく、好都合に思っておる次第でございます。
 さて、お話と申しますのは、敢えて書き綴るほどのことでもない訳でございますが、私にとりましては一世一代の珍事、いえ、不思議な出来事でございましたものですから書かせて戴いた、というようなことでございます。
 それは、今、響き渡る蝉時雨(せみしぐれ)にも似て、そう、夏の暑い盛りでございました。
 何年前のことでございましたか…、思い出せないくらいでございますから、随分と遠い夏のことのように思える訳でございますが…。
 当時、私は大学の助教授、今で云う准教授でございました。
 恐らくは八月の初旬だったかと記憶しておりますが、大学の方も夏期休暇ということで教壇に立つ必要もなく、割合、ゆったりとした日々を過ごしておりました。
 そうしたある日のことでございました。朝の散歩をするのが日課でございましたもので、夏とはいえ、気持ちよい早朝の冷気を感じつつ、私は歩いておりました。
 暫(しばら)く歩き、木漏れ日の射す雑木林にさしかかりますと、そこに今にも成虫になろうかと脱皮中の蝉が一匹、大樹の幹に見えたのでございます。蝉の脱皮などというものは、別段、珍しくない訳でございますが、実は、私が見たこの蝉といいますのは…、信じる信じないは貴方様のご勝手ではございますが、正確に表現を致しますと、白光を放っておったのでございます。最初は私も、木漏れ日の反射光か何かだろうと思いつつ歩き進んだのでございますが、近づきますと、益々その光は眩(まばゆ)さを増し、私の目を捉えたのでございます。
 この当時は、私も未だ若輩でございまして、気味悪く思えたものですから、早々にその場を退散したのでございます。
 家に帰り、「妙なものを見たぞ…」と、家内に申しますと、「また、からかって!」と、一笑に付されたのでございますが、私としては真実だと思っておりますから、仔細を語った訳でございます。家内は私の健康を逆に案じまして、特に目を気遣ったのでございます。
『こりゃ、駄目だな…』と、思ったものでございますから、それ以上は諦めの感にて、胸に留め置いた、というようなことでございました。しかしながら私の胸中には、その不思議な光景が残像として鮮明に記憶されており、床に着きましても、なかなか寝つけぬ態にて、翌朝を迎えたのでございます。
 日課でございますから、当然の成り行きとして散歩は致します。いくら寝不足だからと申しましても、人間の習慣とは恐ろしいものでございまして、身体が自動制御され、勝手に私を散歩に連れ出すのでございます。これには流石に私も、辟易(へきえき)と致しました。なにせ、自分の意志で身体の動きをコントロールできぬのですから…。
  で、別段、犬を連れて散歩している訳ではありませんが、割合と早足でいつものコースを歩み続けたのでございます。そして昨日の場所に至ったのでありますが、なんと奇怪(きっかい)なことに、あの蝉は脱皮を終えた状態で神々(こうごう)しく未だ幹に留まっているではありませんか。
 私は己が目を疑いましたが、やはり昨日と同様の白光を放って眩(まばゆ)かったのでございます。恐る恐る近づいてみますと、確かに現実に一匹の蝉が存在しております。なにげなく捕えようと致しますと、これも不思議な現象なのでございますが、パッと飛ぶと思いきや、スゥーっと消えたのでございます。そして暫(しばら)く致しますと、私の数メートル先に、ふたたび眩い光となって現れたとお思い下さいませ。
 私は、怪しげな悪霊にでも誑(たぶら)かされたのでは…と、思ったのでございます。火の玉と人は申しますが、この場合はそんなヤワじゃあございませんで、もっと峻烈(しゅんれつ)な光を放ちつつ、そうですなあ、なんと申しますか…、恰(あたか)も大空にある太陽の輝きが森の中を、さ迷い飛ぶといった感じでして、勿論、太陽の光ほどは眩(まばゆ)くなかった訳でございますが、梢には蝉の抜け殻が、それもまた白い光を放って輝いておった、というようなことでございました。
 私は、やおら、その蝉の抜け殻を採取いたしますと、一目散に家へ戻ったのでございます。
 家に着きましても、この話を妻にする気力も失せておりまして、疲れからか、朝にもかかわらず寝入ってしまったのでございます。
 暫(しばら)眠って起きますと、私はその蝉の抜け殻を、大事そうに自分の机の隅へ収納したのでございます。妻に見せれば得心して貰えるじゃないか…と、お思いの方もいらっしゃるとは存じますが、その時の私は、なにか見えざる力に影響されていたと申しますか、或いは大事な宝物を隠す幼子の心境でありましたものか…、孰(いず)れに致しましても、極秘裏に保存した訳でございます。
 それからというもの、数日に一度、それを取り出して眺めるのが、私の至福のひと時となりました。その空蝉(うつせみ)の白光は、衰えることなく輝き続けたのでございます。
 それからの我が家には、幸運としか云いようのない慶事が重なったのでございますが、最初のうちは、そういうこともあるのだろうと思っておった私でございますが、度(たび)重なりますと、流石に白光を放つ蝉の抜け殻の所為(せい)ではないかと思うようになったのでございます。
 大学の教授に推挙されたのも、この頃でございました。私としては、やはりこの栄誉ともいうべき自体に、内心、有頂天になったことを記憶しております。
 さて、こうして私の幸せは続いていった訳でございますが、私だけが何故このような珍事に遭遇したのか? という疑問は消えなかったのでした。
 私の家屋の裏に広がります雑木林は、古くから、そう…、私の幼い頃にも当然ありましたが、幼友達と遊び痴れた林でございました。四季折々に木立たちが描く造形の美には、どこか人を和(なご)ます風情というものがございます。そういった自然が織りなす環境の中で育った私でございますから、換言すれば、自然に育(はぐく)まれた私でございますから、悪人になろう筈がございません。と、云いますと、聊(いささ)か誇張には相成りますが…。
 さて、古きよき時代を思い出しつつ、この得体の知れぬ原因の一端を模索(もさく)致しましたが、ひとつだけ心に思い当たる出来事があったのでございます。と、いいますのは、やはり子供時代に遊んでおった記憶なのでございますが、幼友達が何匹もの蝉の幼虫を採って遊んでおった光景でございました。貴方様も、よくご存知だと思いますが、蝉という生き物は、地中で暮らす期間の方が、地上に出て暮らす期間よりも、ずっと長いということでございます。ということは、つまり幼友達が無邪気に採っていた行為は、大人の目で観察を致しますと、蝉に対してかなりの虐待を行っておったと、まあ、こういうことでございます。私はその折り、別段、意味もなく、というより訳も解(わか)っておらず、ただ可哀想と感じたという理由で、友達の籠から蝉を出し、また地中に埋めるという行為をしたようでございます。すると、当然の成り行きで、友達と喧嘩になりますが、事実、その時もそうなったようでございました。
 私の記憶に現在、残っておりますのは、その幼友達に勝ち、結果として蝉達を守ることが出来た、という記憶でございます。
 そんなことで、鶴の恩返し、ではありませんが、このような奇怪(きっかい)な出来事に遭遇しようとは、夢にも思っておらなかったのでございます。しかし現実には遭遇し、生活は幸運に導かれていったということでして、とても貴方様には信じられないことでございましょう。しかしながら、その幸運かつ順調な生活といいますものは、案外あっけない形で幕を閉じたのでございました。
 人間には様々な欲というものがございます。幕引きの事の発端は、やはり私の欲だったのでございましょうか…。
 ある時…、その時と申しますのは、奇怪(きっかい)な出来事が起こりましてから数年の歳月が流れておったのでございますが、なにせもう、その頃、私の幸運はいろいろな形で現れておったということでございまして、私も少なからず天狗になっておったようなことでございました。今、振り返りますと、それが災いした、としか申し上げようがございません。それで、そのことの発端なのでございますが、私が知己である同僚の教授に、そのことの顛末(てんまつ)を語ったことに始まるのでございます。
 私は当然、天狗になっておりましたから、自慢げに語ったように記憶しております。詳しく申し上げますと、少し誇張したような物言いをしておったようでして、相手としては益々、好奇心を募らせていったということでございます。
 語り終わった後の結果でございますが、同僚の友人である教授は、「それじゃ次の日曜にでも、君のご自宅へ失敬させて貰うよ」と返した訳でして、内心、『しまった!』と思いましたが、後の祭りでございます。不承不承、その教授を家へ招く破目になった、というようなことでございました。
 話はここから本筋へ入るのでございますが、その前に、少し私の家の有り様について語らせて戴きたく思う次第でございます。
 私の住家と申しますのは、祖父の代からの古家でございます。とは、云いましても、祖父は財閥の総帥として一代を築いた創始者でございまして、当時と致しましては、かなりの金額が注がれ、私が申すのもなんでございますが、それ相応の重厚な構えの豪邸でございます。私の口から斯(か)く申しますと、少し口幅ったい感が否めないのではありますが、父に訊いたところによりますと、そのようであったということでございました。私にとりまして、この家は住み慣れておるということもございましょうが、これでなかなか心地よい気分に浸(ひた)れるのでございます。
 さて、お話の続きでございますが、知己の教授である友人が、私の家を訪(おとな)ったと、お思い下さいませ。
「随分と風流な暮らしをしているじゃないか…」
 開口一番、我が宅を訪れるやいなや、彼はそう口走ったのでございます。
「いやぁ…、それほどのこともないさ」と、お茶を濁した訳でございますけれども、内心は、満更(まんざら)でもない気分でございました。
 家内に丁重なもてなしをするよう命じておきましたので、豪華とまではいきませんが、それでも一応は来客用の食事などで寛(くつろ)いで貰ったというようなことでして、友人も満足しておったようでございます。
「で、君が云っていた例のヤツなんだが、拝見させて戴けるかな、そろそろ…」
 恭(うやうや)しく笑みを浮かべて、友人はそう云ったのでございます。こちらとしては、その言葉がいつ飛び出すかと冷や冷やしておりましたから、返って問題が解決したような安堵感を得たのでございます。
 私は友人を書斎へと導きました。そして、大切に金庫へ保管しておりました木箱を開けますと、なんと! 中は空虚な箱があるばかりでございました。
「なんだ、何もないじゃないか」「… …」
 返答できぬ恥じらいが、私を襲ったのでございます。私ですら予期せぬ事態でございましたもので、それは当然といえば当然であったと考えられるのでございます。
「いや、君を騙した訳じゃあないんだ。確かにこの木箱の中へ…」
 私は弁解に努めた訳ではありますが、友人は一笑に付して帰っていったのでございます。後味の悪さも残り、私は暫(しばら)くの間、書斎に茫然と佇んでおったように記憶を致しております。
 それからというもの、あの幸運はどこへ行ってしまったのか…と思えるほど、何一つとして、いいことは訪れませんで、しかし、そうかといって悪い不祥事が起こるということもなく、まあ普通の暮らし、所謂(いわゆる)、あの奇怪(きっかい)な空蝉に遭遇する以前の生活に戻ったという、ただそれだけのことでございました。
 私が貴方様に語ることも、あと僅(わず)かになって参りましたが、最後に一つ云えますこと、これは人間の欲についてでございます。それは、人間の愚かさ、或いはどうしようもない本能の虚(むな)しさとでも申せましょうか…。
 人間が自らの希望や夢を追い求める過程で生み出す慢心、優越心、欲心でございます。これを食い止める手立てはなく、あるとすれば理性のみでございます。それで、私が何故、白光の空蝉を無にしてしまったのかと申しますと、欲心のひとつ、顕示欲とでも申せしましょうか…、そうとしか考えられぬのでございます。それも、恐らくは邪心が少しあったが為と思えております。
 貴方様も、もしこのような奇怪(きっかい)な出来事に遭遇されましたなら、是非、こうした点に注意を注がれ、よき人生を邁進(まいしん)されますよう、心よりお祈り申し上げます。
 今年の夏も、また暑い日々が続くようでございます。

                          完

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