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2015年1月

2015年1月31日 (土)

不条理のアクシデント 第六十三話  のんびりしたい

 山熊は今年で五十九になる定年前の中年男である。彼はすでに生活に疲れていた。生憎(あいにく)、伴侶に恵まれず、この年になった男である。そんな一人身で日々、家のアレコレに縛(しば)られれば、まあ誰でもそうなるだろう。山熊の場合も例外ではなかった。そして、彼はいつの間にか還暦を迎えようとしていた。そんな山熊だったが、ようやく明日、定年退職する日が近づいたのである。これでいくらか、のんびりできるだろう…と彼は踏んでいた。だが、その読みは甘かった。
「山熊さん、ご苦労さまでしたぁ~!!」
 課長から花束を渡され、山熊はパチパチと課員達から笑顔と労(ねぎら)いの声で送られた。そして会社のエントランスを後にし、自社ビルを見上げた。その瞬間、やれやれ…と山熊は深いため息を一つ吐いた。急にネガティブな脱力感に包まれたが、彼はこれで、のんびりしたい夢が叶うな…と、ふたたびポジティブ感を取り戻し、両手を広げた。空には春を告げる小鳥の囀(さえず)りがあった。ここまでは、よかった。
 半年後、山熊は、やはり生活に疲れていた。新道路の着工で山熊が住むマンションが取り壊され、新たに別の場所へ立て直されることになったのは、山熊が退職して僅(わず)か半月後だった。山熊には寝耳に水の話で、彼の読みは狂い始めたのである。
「とりあえず、配布いたしました仮マンションで生活していただくということで…」
 新マンション建設に伴う住民説明会が行われ、仕方なく住民達は引っ越していった。当然、山熊も引っ越した。人間とは妙なもので、住めば都なのだが、そうなるまでには適応期間が必要なのか、どうも山熊は仮マンションに馴染(なじ)めず、のんびりできなかった。こうした日々が積み重なれば、やはり疲れるのだ。結果、半年後の山熊は生活に疲れていた。のんびりしたい…という山熊の思いは、彼の希望ではなく、もはや切なる願いになっていた。
 一年後、山熊はカプセルホテルで目覚めた。彼にとってカプセルは狭い空間ながらも馴染め、のんびりできた。誰からも束縛されず、のんびりしたい…という彼の夢は、ようやく達成されたのである。彼は大 欠伸(あくび)をしながら両手を広げ、ホテルを出た。外には高級外車が一台、横付けされていた。その中から一人の老齢な紳士が降り立った。
「お迎えに参りました!」
「あっ! ごくろうさん…」
 山熊は、さも当たり前のように薄汚れた背広服で乗り込んだ。彼がこうなったのは、のんびりとできて以降である。のんびりできた途端、急に運が巡り、彼はある人物と遭遇し、見込まれた。結果、山熊はその人物のあとを継ぎ、大金持ちになった。ただ、彼は富を得て以降、またのんびりしたい…と、時折り思うようになっている。幸い、金力により妻子には遅れ馳(ば)せながら恵まれた。今度こそ、のんびりできると山熊は思った。だが、彼の読みは、また甘かった。金などいくらあっても死ねば終わりだ…と気づいたのだ。今、山熊には不安が付きまとっている。不安があれば、のんびりとはできない。だから彼は、のんびりしたい…と思うようになった訳だ。この先、山熊がどうなっていくか…は、読者のご想像にお任せしたい。

                           完

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2015年1月30日 (金)

不条理のアクシデント 第六十二話  では…  

 桃川という腰の重い男がいた。桃川は一度話しだすと自分の意志で話を止めることが出来なかった。要は話にのめり込み、周囲の状況を忘れてしまう性格である。当然、そのまま話し続けたから長居することになり、腰が重くなったという訳である。だから、表向きは別として、どの家でも桃川と話をするのを避(さ)けるようになった。出会えば当然、長引くからだ。桃川としては、では…と話を短く済まそうと思うのだが、夢中になると我を忘れ、どうしようもなかった。気づけば二時間以上が過ぎ去っていた・・という塩梅(あんばい)である。
 よく晴れた初秋の早朝、ようやく暑気が引き、桃川は気分よく川の堤防を歩いていた。夏の間、忘れていた涼しげな風が川面(かわも)から流れ、実に気分がいい。
「おい! 桃川さんだぞ…」
「ああ、みたいだな…」
 対向して進んできたのは同じ町内に住む矢島と加原だ。二人はチッ! と舌打ちをした。だが、堤防上の一本道である。避(さ)ける手立てはなかった。両者の距離は急接近した。そして、すれ違った。二人は笑顔で軽くお辞儀しながら通り過ぎようとした。
「おっ! これは矢島さんと加原さん。…どちらへ?」
 立ち止って振り返り、桃川は声をかけた。どこだっていいだろうが! と矢島は思い、加原はギクッ! とした。どちらも声をかけられた以上、無視する訳にはいかないから立ち止った。
「はあ、まあ…。どこ、ということでもないんですが…」
「そうでしたか。では…」
 桃川は案に相違して割合あっさりと話を切り、お辞儀して立ち去ろうとした。二人は、やれやれと頭を下げ、踵(きびす)を返した。ところが、次の瞬間である。
「あっ! ちょっと待って下さい!」
 桃川は大声で二人を止めた。
 二人は同時にギクッ! 、ビクッ!と驚いて止まった。
「はい! なにか? …」
「あの…今日は土曜でしたよね?」
「いえ、日曜ですよ、確か…」
「ああ、そうでしたか。年をとると、どうもいけません」
 桃川は頭を掻いて笑った。
「ははは…、そういうことってありますよね。私もそうなんです、実は」
 加原が、うっかり桃川の口車に乗ってしまった。言わないでもいいのに…と、恨(うら)めしそうな顔つきで矢島は加原を見た。だが、あとの祭りである。
「矢島さんは、いかがです?」
「ははは…私も時々、ありますよ、そういうの」
 仕方なく愛想笑いし、矢島も桃川の口車に乗った。それから二時間、あれやこれやと談義が続き、三人はいつの間にか堤防の草の上へ腰を下ろしていた。
「あっ! もうこんな時間ですか…」
 桃川が腕を見て重い腰を上げた。すでに昼前になっていた。矢島と加原はやっと解放される…と喜び勇んで軽く腰を上げた。二人は空腹だった。桃川さんは腹が空かないのかな? というのが二人の共通した疑問だった。朝食抜き、だからである。最初はよかったが、すでに二人は話題も尽(つ)き、話し疲れていた。今度こそ! と二人は軽く桃川にお辞儀すると、逃げるように歩き去ろうとした。
「では…」
 桃川も歩きだした。だが、すぐ立ち止った。
「あっ! ちょっと待って下さい!」
 矢島と加原はギクッ! 、ビクッ! ではなく、ドキッ! として蒼(あお)ざめた。

                         完

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2015年1月29日 (木)

不条理のアクシデント 第六十一話  ぶらぶらと…

 奥津は買物 籠(かご)を下げ、少し不思議に思えていた。 
「なんだ? ぶらぶらと…」
 最近は買物籠も持たずに買うでもなくぶらぶらとうろつく人が目立っていた。別にスーパーで籠を持たないと歩いてはいけない! という決まりはない。それに、冷静に考えれば、ぶらつくこと自体、違法でもなんでもないのだ。奥津は意識している自分が嫌になった。食品陳列棚にはいろいろな惣菜が並んでいた。
「あんた! ちょっと、邪魔なんだよっ!」
 突然、奥津の右を前へ歩きながら物色していた中年男が声を荒げた。奥津が視線を右へ向けると、逆方向から流れてきた老人が陳列棚の前で停止して佇(たたず)んでいた。老人は言い返すだろう…と奥津は見守ったが、そうではなく、逆に荒げた中年男の顔を見ると、ニッ! と気味悪く笑った。
「なんだ、こいつは!」
 気味悪い奴だ…と思ったのだろう。中年男は少し下がり、老人を迂回(うかい)して前へ進んだ。奥津もその男に従って迂回して進んだ。
「美味そうだな…」
 そのとき、老人が小さく呟(つぶや)く声が左から聞こえ、奥津は振り返って、ふたたび立ち止まった。だったら、買やいいじゃないか…と、奥津には瞬間、思えた。だが次の瞬間、その老人の姿を見て奥津の思いは変わった。老人は擦(す)り切れたボロ服を身に纏(まと)っていた。買わないんじゃなく買えねぇんだ…と思えたのだ。奥津はふたたび左前へ進みながら、少し老人が哀れに思えた。老人は、両手をボロ服に突っ込み、またぶらぶらと…左へ歩き始めた。
 国や社会は景気のいい話をしている。だが、現実の社会では違う生活の格差がある…奥津はそれを今、見た思いがした。俺は裕福とまでは言えんが、佇まずに流れて買えるんだから幸せと言わにゃならんだろう…と思いながら20円引の値札が付いた肉まんを瞬間、手にして籠へ入れた。いつもなら、見栄や体裁(ていさい)で値引き商品には手をつけない奥津だった。
 次の朝、ラップに包み、電子レンジで温めた肉まんを奥津が頬張ると、それは甘い餡(あん)まんだった。奥津は、あんぐりとした。
 その後、奥津はどういう訳か、ぶらぶらと…歩くようになった。別に生活に困ったからではない。他人には健康のためのジョギングだと銘(な)打ってはいるが、その原因は奥津自身にも未(いま)だ分からない。

                             完

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2015年1月28日 (水)

不条理のアクシデント 第六十話  植えかえ

 そろそろ植えかえだな…と、神里(かみざと)堅太は思った。そんな神里もこの春の人事異動で、管財課から議会事務局へ植えかえられたのだった。植えかえたのは役場である。そんな小さい自分が、より一層小さな植物を植えかえようと思っているのだ。そう気づくと、神里は思わず噴きだした。家の庭で、辺りに人の気配はなかったから、笑い声が聞こえず助かった。これが職場なら、同僚や上司に、こいつ、どうかしたのか? と嫌な目で見られてもおかしくなかったところだ。
 ピートパンに播(ま)いた種が頃合いまで目を出し、ポットへ植えかえの時期だった。神里は次の日曜に植えかえようと思った。そして、その日曜が巡り、今朝である。すべての方法はある程度、パソコンの検索データを収集しておいたから安心だった。
 植えかえは殊(こと)の外(ほか)、スムースにいった。用土はややアルカリ性土にした。植えかえながら、ふと朝の新聞記事が頭を掠(かす)めた。それは新たな海外進出を目指(めざ)す、とある企業の記事だった。神里は思った。そうか! 企業も植えかえられるのか…と。だが、誰が植えかえるんだ? と巡ったとき、それが内部の指導者だ…ということが分かった。内部の指導者とは企業の発展を担(にな)う経営陣である。その発想は人件費が安い海外での工場生産だ。根が伸び過ぎたから小さな日本の鉢から外国という大鉢へか…と神里には思えた。だが神里には分かっていた。いずれは根腐れを起し枯れてしまうということを。植えかえは幹を守るためなのだ。根が腐れば、幹は枯れる。現地へ設備投資で展開した工場は、ふたたび日本へ持ち帰ることは出来ないのだ。撤収すればその国のものになる…。ああ! そんなこたぁ~、どうでもいいんだ! せっかく馴(な)れた管財課だったが、また一から覚えるのか…と神里は少し腹立たしくなった。経営的な事務効率からすれば、なんか無駄に思えた。民間企業なら三日と持たんな…と、また思えた。持たないのは神里ではなく民間企業なのである。
「よかったよ! この器(うつわ)で…」
 植えかえた鉢を手にして見ながら、神里はしみじみと言った。器とは、神里が勤める役場だった。

                            完

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2015年1月27日 (火)

不条理のアクシデント 第五十九話  諦[あきら]める男

 餅塚はすぐに諦(あきら)める男である。ひと月前の大雪の夕方、彼は仕事を終え、会社仲間数人と駅へ出た。雪による交通の乱れは、家を出る前から彼の予想の範疇(はんちゅう)だった。運休が決まりごとのように、駅員が問い合わせる乗客に説明している。当然、タクシー乗り場は長蛇の列だ。彼はすぐ、諦めた。
「じゃあ、僕は、これで…」
「んっ? ああ、そう…」
 会社仲間は当前のように餅塚を見送った。彼は会社で‘諦め餅’と呼ばれ、名を馳(は)せていたからである。契約でも先方の出方で、こりゃ無理だ…と推し量ればすぐ諦め、事前に選んである数社と交渉して成功へ導いた実績があった。
 餅塚は会社ビルへとUターンした。彼の頭の中には、すでに分刻みの綿密な図面が広がっていて、会社へのUターンもその一環(いっかん)だった。朝持って出た寝袋(シュラフ)は自分の机の下へ置いてあった。あとは夕飯弁当を買い、数本の缶ビールと摘(つ)まみで事は足りた。タオルは鞄(かばん)の中に入れてある。これも、とても明日は帰れまい…と早々と諦めた成果といえた。諦めた途端、餅塚の準備対策が始まるのだ。寝袋を出し、タオルを出し…と整え、床(とこ)についた。今朝の出がけは大した雪ではなかったから諦める必要はなかった。
 まず冷えた身体には、ひとっ風呂だろう…と彼は銭湯へ向かった。この発想もすでに餅塚の脳内に組み込まれていたのだが、ビ-ルを買うのが先か、風呂が先か…で迷っていた。そのとき、会社前にビールの自動販売機があったのを思い出し、風呂が優先されのだった。銭湯は幸い混んでいなかったから、餅塚はゆっくりと湯舟で温まった。風呂上がりのコーヒー牛乳を飲むのも彼のお決まりのパターンになっていた。というのも、今日は疲れたな…と諦めた彼は、必ずこの銭湯へ入ってから帰るのが常だった。顔が火照(ほて)ると、もう酔ったか…とすぐ諦め気分に駆られたから、酒は出来るだけ家へ帰ってからにした。精力との関連もあり、妻との親睦の夜は特にそうだった。
 二時間後、会社のデスクで食べ終え、ビールも適度に回り、彼は寝袋に潜り込もうとした。もちろん暖房を入れ、応接セットの長椅子の上で、である。
「あっ! 餅塚さんでしたか…。この雪ですからねぇ~」
 ガチャ! っと、ドアが急に開き、警備員の堀田が入ってきた。餅塚とはもう、20年来の知り合いだった。
「タクシーもホテルも、早々と諦めました。ははは…」
 二人は大笑いした。
「それじゃ…」
 堀田は軽く敬礼すると出ていった。いつもは妻に起こされる餅塚だったが、まあ、起きられるだろう…と早くも諦め、寝息を掻き始めた。
 朝、餅塚は妻に起こされた。そして、ハッ! と目覚めた。自分は会社で眠っていたはずだ。それが今、俺はベッドにいる。そんな馬鹿な! と餅塚は窓ガラスの向こうの庭を見た。庭に雪はなかった。餅塚は妻に確かめようと早足でキッチンへ向かった。
「おい! 雪はどうした!!」
「はあ?! 雪って、今年は降ってないわよ。あなた、どうかした?」
「… いや、なんでもない」
 餅塚は、さっぱり訳が分からなくなった。分からないのだから、どうしようもない…と、彼は諦めた。

                           完

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2015年1月26日 (月)

不条理のアクシデント 第五十八話 まあ、それでも… 

 西暦2031年である。松下次郎が勤務するのは新エネルギー・産業技術総合開発機構という、実に呼び名が長い独立行政法人の内部だ。舌を噛むから? 略称はNEDO(ねど)と呼ばれている。
 松下は最後までやる男だった。その性格は先天的に授かったものと言ってよかった。昼どきなのに彼は今日も励んでいた。とても昼の休憩時間では終わりそうにないのだが、『まあ、それでも…』という不屈の根性で続けていた。とはいえ、松下自身には意識して無理をしよう…という追われた感情はなく、ただ淡々と終わるまで続けるというものだった。
「君ねぇ~。やるのはいいんだけど、もう昼だよ? 私達はとてももたないから、先に昼食、済まさせてもらうよ」
「あっ! もう、そんな時間でしたか。どうぞどうぞ! 僕はこれをやってからにします…」
「そう? 悪いね…」
 先輩、田所と他の者は申し訳なそうに出ていった。今に始まったことではないが、すべてがすべてこの調子だったから、松下は、どちらかといえば職場では浮いた存在だった。
 昼の休憩が済み、皆が戻ってきたとき、彼は執拗(しつよう)にまだ、続けていた。が、全員がよく見ると、松下は片手を器用に弄(まさぐ)りながら見ずにサンドウィッチを口へ運んでは、もう片方でパソコンへデータを入力していた。食べることは食べていたのか…と他の者は、ホッ! と、少なからず安心した。なんか自分達が松下を食わせまいとしているように内心で思えていたからだ。一日、二日なら、そういうことは誰だってあるのだろうが、松下の場合は日常だからである。
「松下君、ご苦労さんだね…」
 田所は立場上、言葉だけはかけておこうと口を開いた。
「あっ! 帰ってらしたんですか。まだ、かかりそうなんですよ」
「ほう、そうか。…余り根(こん)を詰めないようにね」
 田所は一応、先輩風を吹かせて、そう言った。
「ああ、有難うございます。まあ、それでも…」
 語尾を暈(ぼか)して松下は食べつつキーを打ち続けた。それから、数時間が流れ夕刻の6時15分である。
「お疲れさんでした…」
 一人去り、二人去り…、松下もいつものように一応、職場を出たがUターンしてまた職場近くにある行きつけの喫茶店へ舞い戻った。何のために? もちろん、やり残した仕事を続けるためである。まあ、それでも…やってしまおう! と決めた彼の意思であり、断じて時間外勤務ではなかった。
 数年後、松下はその仕事をやり終えた。ついに人類の未来を開く究極の新エネルギー理論を、彼は完成させたのである。

                          完

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2015年1月25日 (日)

不条理のアクシデント 第五十七話 無駄[むだ] 

 週に一度、椋山(むくやま)が通っている料理教室が始まった。受講生は全員で25人だから、そう多くもないが少なくもないといった具合だ。その25人が各班5人ずつの5班に分かれ、それぞれ料理を作る。指導は広崎実夏という30代半ばの美人調理師である。椋山もそうだが、この実夏を花見見物でもするかのように楽しみ通う男も数人いた。5班の男連中である。全員が定年後の余暇を持て余している親父達で、料理作り後の食事を当(あ)てにする、いわば一石二鳥を目論(もくろ)む連中だった。今日の料理は白身魚のムニエルである。広崎の話では、どうもレモン風味仕立てらしい…と受講生は聞き入っている。
「毎回、言ってますが、食材に無駄(むだ)なものなど決してありません。ですから、調理が終わったとき、無駄なゴミが出るということは、調理が不完全だ、ということになりますね」
 ああ、なるほど…と、受講生達は今回も思った。実夏の手際よい見本料理が調理されていく。彼女は驚くほどの手際(てぎわ)よさで、見事にムニエルを完成させ、皿に盛り付けた。全員が一口ずつ味見し、その絶妙な味加減に舌を巻いた。しかも、実夏が作ったあとの調理ごみは一切、出なかった。完璧(かんぺき)に食材を使い切り、無駄を排除したのだった。
 講師の実夏を取り囲む25人のうち5班を除いたあとの4班はご婦人連中で、若いのからお年寄りまで、出来、不出来は別として、各種各様、取り揃(そろ)えられていた。美人の実夏だが、ただ一つ、彼女は滅法(めっぽう)、無駄という行為に拘(こだわ)った。それは料理に限らなかった。事実、彼女は極端に無駄を避けて行動した。その行動時間は、きっちりとメモ帳に書かれていて、分刻みの行動スケジュールだった。
 椋山は料理教室を終えて帰る道すがら、同じ班連中の親父連中と語らって歩いていた。
「ある種のトラウマかも知れませんよね…」
「先生、過去に何かあったんじゃないですか?」
「そうそう、私もそう思いますよ…」
「あんた、暇(ひま)なんだから、その辺り、調べてみなさいよ」
「馬鹿、言いなさんな。素行調査じゃあるまいし。下手(へた)すりゃ、私ゃストーカーで警察行きですよ」
「それは言えます…」
「ああ! 私の友人がその方面の仕事をしていますから、片手間に頼んでみますよ」
 椋山は余り気乗りしなかったが、心当たりがあったから、そう言った。
「そうでしたか…、じゃあ、頼みます」
 話は上手(うま)い具合に纏(まと)まった。その一週間後の帰り道である。椋山は言った。
「この前の話、分かりました。先生は東北出身でした…」
「って、もしかすると…」
「そう、被災者だそうです…」
「…」
 会話は途絶え、沈黙が続いた。
 津波が家族を飲み込み、助かったのは実夏一人だった。津波が引いたあと、すべてが彼女の前から消え去っていた。彼女は生きている・・ということの意味を知った。今まで意識せず消し去っていた過去の無駄を思った。周(まわ)りから生活手段の一切が消え去ったとき、人は原点に立ち返るのだ…と。それ以降、彼女は無駄を一切、排除するようになっていった。そうしなければ生活ができなかった。彼女の無駄への拘りは、決してトラウマなどではなかったのだ。無駄を思う彼女の意識は、人類に対する自然の警鐘でもあった。
                          完

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2015年1月24日 (土)

不条理のアクシデント 第五十六話 古い男

 知り合いなので名は敢(あ)えて伏せるが、一人の古風…いや、はっきり言えば古い男がいた。口ずさみながら格好よく、♪時代ぃおくれのぉ~♪と唄いたくなる、その手の格好いい古さの男ではなく、ただ古かった。だいいち、お相撲さんよろしく、やや長い髪を後ろで束(たば)ね、ちょん髷(まげ)を結(ゆ)っている世間が言う変わり者の考古学者だった。その髪には鬢付(びんつ)け油を溶かしつけていたから、その入れ込みようは誰の目にも尋常ではない…と映ったことだろう。かく言う私も、何度かそのことを指摘したことがあったが、彼は馬の耳に念仏で、まったく気に止めなかった。それが彼のポリシーなのだから、それ以上は私も言えなかった。まあ、百歩譲って、髷を結ってる人は世間に少数だろうが、いることはいるだろう。ただ、それ以外のことでもすべてが古かった。彼の発想からして、古さを求めた男と表現した方がいいだろう。早い話、一切の新しいものに彼は見向きもしなかった。痛めば修理するか、古いものを探した。なければ、我慢したのだ。住み心地のいい家など彼は見向きもしなかった。というか、彼には返って目ざわりだったようだ。古い佇(たたず)まいを求め、彼は幾度となく引っ越しをした。私は住所が余りに変わるから、彼とのコンタクトは電話のみに終始していた。古い男だが、さすがに連絡用の携帯は持っていた。そのときの語り口調は江戸時代の言葉だった。
『おお、さようか…。では、息災にのう! またの出会いを楽しみにしておるぞ』
 これは最後に私から電話したとき聞いた、切れる直前の彼の会話である。
『ああ、じゃあな…』
 私は単にそう返していた。彼の会話に馴(な)れた私だったから、すんなり返せたのだが、馴れるまでは自分が時代劇の登場人物にでもなったような錯覚に陥(おちい)った。彼の時代言葉は引っ越す都度、その住まいの時代風に変化した。
 彼の住まいは時代劇村か? と見間違えるほど完璧(かんぺき)な時代造りだった。それも、引っ越すごとに見た目は、みすぼらしく古くなっていった。見た目と言ったのには訳がある。歴史通の観点で見れば、その都度、時代が遡(さかのぼ)った意味ある構造物になっていたのだ。最後の彼の住まいは江戸時代中期の長屋風で、なんとも貧相だった。だが彼は、それを大層、気に入っていた。すきま風が入り込めば、入り込まないように修理とか工夫することで生活をエンジョイしていたのだ。こういう彼だから、人付き合いは滅法、悪い…というか、ほとんど、なかった。私などは考古学者として彼とコンタクトを取れた三人に一人のメダリストではあるまいか…と、自負している。
 彼が最後の引っ越しをする少し前、電話した折りは大層、喜んでくれた。
『ははは…、今度(こたび)は、どうも出世できそうでな』
 訊(き)けば、新しい住まいの工夫が出来たらしかった。それは当然、古い時代の材料も調達できた・・ということを意味した。ああ…言い忘れたが、住まいは、すべて彼の手造りだった。彼はすべてが古いと言ったが、それをもう少し詳しく言えば、所持するもの、発想など、その対象は有形無形を問わず、ありとあらゆるものだった。
 私が最後に彼に出会ったのは石像に変化(へんげ)した彼だった。世の中に人物彫刻の像は多々あるが、その像は恰(あたかも)も生きながら停止しているような精巧な出来だった。その後ろ姿に、私は思わず語りかけたくらいだ。彼にはそれ以来、一度も会っていない。彼の消息が途絶え、失踪宣告は近親者から出されたが、いまだに彼は生存者扱いである。ひょいと、研究室に明日、顔を出すんじゃないか…と、私は今でも思っている。

                         完

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2015年1月23日 (金)

不条理のアクシデント 第五十五話 お馬鹿さん 

 数十年前、端山(はしやま)は一流大学に晴れて現役合格し、鼻高々だった。なんといっても、これで人生、食いっぱぐれる心配はない! と思えたからだ。だが、端山の読みには大きな誤算があった。聡明(そうめい)な彼の計算にどういう誤算が生じたのか、その辺りから話を始めたいと思う。
 合格した端山は、浮かれつつ大学構内を歩いていた。ともかく大学卒業だ…と大学正門を潜(くぐ)る彼の意気は盛んだった。桜の花びらが暖かな風に吹かれ乱舞し、端山の肩や頭に舞い降りた。快晴の春うららである。端山の気分は、実によかった。
 それから四年の月日が瞬く間に流れ去った。その間、端山は脇目も振らず、卒業への単位修得に精を出した。
「君は真面目(まじめ)によく頑張ったな!」
 卒論指導の宮間教授は端山を前に笑顔で言った。
「はあ。これも偏(ひとえ)に、先生のお蔭です!」
「ははは…私のお蔭じゃない。君の努力の成果だ」
 教授の言葉を端山は『その通りだ。すべては自分の読みどおりの結果だ』と馬鹿にも思った。事実は確かにその通りだった。だが彼は、卒業しようと勉学に明け暮れた結果、肝心の就職活動を馬鹿にも忘れていた。公務員試験、一流企業・・はすべて、夢のまた夢となってしまった。端山は卒業して馬鹿にも思った。『まあ、いいさ…卒業は出来たんだ。一年くらい、就職しなくったって構わない。来年があるさ!』と…。彼は馬鹿にも、悠長(ゆうちょう)に構えた。幸い、恵まれた家庭に生まれ育った端山にとって、生活の心配は皆無だった。借りているマンションへは月々、困らない額の仕送りが実家からあった。そして、一年が流れた。端山はまた就職活動を忘れてしまっていた。端山は馬鹿にも思った。『いいさ…。もう一年くらい就職しなくったって構わない。来年がある!』と…。
 数十年の歳月が流れ去った。端山はすでに老いを迎えようとしていた。彼は馬鹿にも、『いいさ…来年がある』と、まだ思っていた。彼の周囲は、『おい、お馬鹿さんが来たぞ!』と、端山を密かに嘲笑(ちょうしょう)した。彼はそれが分かっていたが、一向、気にならなかった。『自分は一流大学出だ、来年がある!』と端山は思った。
 春爛漫(らんまん)、桜の花びらが暖かな風に吹かれ乱舞し、一年に一度、大学構内を潜る端山の肩や頭に今年も舞い降りた。 

                           完

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2015年1月22日 (木)

不条理のアクシデント 第五十四話 高級レストラン 

 高級レストラン嫌いの白餅(しらもち)が、久しぶりに高級レストランへ入った。彼が高級レストラン嫌いなのには訳がある。最初、入ったときの感じが彼には馴染(なじ)まなかったのだ。以降、そのことが白餅のトラウマになっていた。
 白餅が初めて入った高級レストラン当時へ話は遡(さかのぼ)る。ミシュランの三ッ星レストランの店内である。
「こちらでございます…」
「あっ! どうも…」
 楚々としたウエイターに誘導され、予約席へ白餅は腰を下ろした。白餅自体が予約したのではなく、大学時代の先輩、甘酒(あまざけ)からの招待である。高級官僚の甘酒は外務省の審議官だ。人生の悪戯(いたずら)からか、出世コースでは甘酒と雲泥の差がついてしまったが、白餅は別に気にしていない。ただ、自分にこの場所は不似合い…とだけは感じられた。そんなこともあり、白餅は緊張感からか氷の彫刻のようにジッ! と、時折り目だけを左右上下に動かしながらテーブル椅子に座っていた。
「あの…さきほど甘酒様からご連絡がございまして、生憎(あいにく)、急用で来店出来ぬとのことでございました。これが、メールのコピーでございます…」
 相変わらず楚々とした態度で、顔色ひとつ変えず、ウエイターは白餅が座るテーブルの隅へ折り畳まれた小さな紙を一枚、置いて去った。去り方も態(わざ)とらしくなく、さりげない。さすがは三ツ星…と白餅には思えた。白餅は紙を開いた。
━ こちらから呼び出しておいて、誠に申し訳ない。機会はまた作らせてくれ。いやなに…久しぶりに会いたいと思っただけだ。気にせんでもらいたい。支払いは済んでいるから、ゆっくり食べて帰ってくれればいい。また、連絡させてもらう 甘酒 ━
 読んだ白餅は、これは弱ったことになった…と瞬間、思った。高級料理のマナーなど、まったくと言っていいほど知らなかったからだ。フォークは左手、ナイフは右手に、外から取る・・ぐらいは知っている白餅だったが、さてどうしたものか…と思い倦(あぐ)ねた。テーブル上には、セッティングされた食器類がゴチャゴチャと、これ見よがしに置かれている。まあ、男は度胸! と白餅は覚悟を決めたとき、一端、下がったウエイターがトレーに乗せた料理を片手に現れた。態度は、やはり楚々としている。料理がテーブルに置かれた。
「あっ! どうも!!」
 白餅は思わず貧乏性からか、ウエイターにお辞儀した。ウエイターは少し微笑んだ。前菜が済み、スープも無事、済んだ。食事は事もなく、進んでいきそうだった。
「舌平目のムニエルに黄トマトのジャムと柚子(ゆず)の香りを閉じ込めた水牛のモッツァレアをアンサンブルにしたものでございます…」
 魚介仕立てのメインディッシュが置かれた。『はあ?』と内心では意味が分からなかった白餅だが、外面(そとづら)は、ああ、そう…とばかりに知ったかぶりをして頷(うなず)いた。このとき、白餅の心には、一つの別の疑問が芽生えていた。大皿の割に料理が小さい…と。確かに皿中央に申し訳ない程度に小さく盛りつけられた料理だ。これでは、食べた気がしない。
「あの…これは、お代(か)わりできるんですか?」
 白餅は思わず訊(たず)ねていた。
「はあ?」
 妙な客だ? とばかりの怪訝(けげん)で虚(うつ)ろな表情をウエイターはした。
「申し訳ございません。これだけのものでございます…」
 ウエイターはお辞儀をすると、そそくさと去った。これだけのものか…と、白餅はガックリした。白餅は腹が減っていた。瞬間、脳裡に大きな肉まんが頭に浮かんだ。それ以来、高級レストランは白餅のトラウマになっていた。
 今日、白餅は相変わらず、氷のように動かず椅子へ座り、レストランで甘酒を待っている。そのとき、白餅の前の食器類が賑(にぎ)やかに踊りだしたのである。白壁は目を擦(こす)ったが、やはり食器類は踊っていた。青ざめた白餅は、席を立つと駆けだした。
「あっ! お客さまっ!!」
 店を出た白餅の足が向かったのは? 私もその行き先は知らない。

                        完

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2015年1月21日 (水)

不条理のアクシデント 第五十三話 おつり 

 桃川は冷蔵庫を開けた。しばらく買いに出なかったせいか、中の食材は、ほとんど尽きていた。気づいた以上は仕方がない。買い出しに出るか…と半(なか)ば思いながら、桃川は外出をした。一歩外へ出たのはいいが、アレとコレ! と買う品を決めている訳ではない。まあ、中で選んでもいいか…と桃川は雑念を切り捨て、スーパーへの道を急いだ。
 俄(にわ)かの寒の戻りは予想外で、背筋がゾクッ! と冷え、桃川はレザーの襟(えり)を立てた。
 桃川が常連とするスーパーは殊(こと)の他、混んでいた。桃川は人波に紛(まぎ)れ、適当に買物をしてレジへ向かった。レジには、最近よく見る可愛い女子店員がいた。別に意識してではなかったが、列の空(あ)き具合でそこへ並んだ。
 店のマニュアルなのか、女性店員はまず、「袋はお持ちですか?」と訊(たず)ねた。桃川は「あります」と、すぐ返した。続いて女子店員は「カードはお持ちですか?」ときた。うっかりカードを出していないことに気づき、桃川は慌(あわ)てて財布からカードを出し、手渡した。カードを受け取った女子店員は手を動かし始めた。バーコードリーダーが次々とカートの中の品を読み取っていく。日本は親切だ…と桃川は思った。海外で暮しているときは待たされるのが嫌で自分でバーコードを当てて支払っていたからだ。
 すべての読み取りを終えると、女子店員は合計金額を告げた。崩しておきたい…というメンタル面の気分もあり、桃川は財布から万 札(さつ)を出した。笑顔で「大きいですが…」と恐縮して置くと、女子店員は軽く流し、機械の中へ札を入れた。そして、千円札を出し、おつりを桃川の目前で「1、2、3、4、5、6、7…」と数え始めた。おい! 一枚ずつ置けよ! と少し怒れた桃川だったが、これもまあ、店のマニュアルなんだろう…と軽く忍んで受け流した。千円札でのおつりは、五千円札が不足気味のためらしい…と桃川には思えた。だがどうも、千円札を声を立てられて、これ見よがしに数えられるのは、いい気分のものではない。これなら、無言で自分が数え、「間違いはないと思いますが、ご確認ください」の方がいいのではないか…と桃川には思えた。こうすれぱ、お客の心象風景もよくなるはずだ…と。他にも、外国のようにセルフレジを何箇所か置いてもいい。あるいは、無人状態のレジはセルフ対応へ切り替えられるレジ変換システムを開発してもいいように思えた。
 帰り道、札と硬貨で分厚くなったボケットの財布は、桃川の貧乏症のせいか、少し気分がよかった。
『分厚くなりましたね?』
「んっ?」
 桃川は辺りを見回したが、寒風がヒュ~と吹き抜けるだけで誰もいない。おつりは財布の中でニヤリと笑いながら桃川を慰めた。

                         完

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2015年1月20日 (火)

不条理のアクシデント 第五十二話 軽い人

 矢野は今年で53になった中年男である。職場は、柚子(ゆず)町役場の町民課だ。町自体は人口が300人内外のそう大きくない小ぶりの町で、山間地にあった。だから、どちらかといえば町というより山村(さんそん)に近い感じがしないではなかった。そんな柚子町だが、観光地ではないものの、一応、温泉も湧(わ)いており、町民は無賃で入浴することが出来た。そういうことで、矢野はいつもタオルを持参していることを旨(むね)とし、持って家を出ないことはまずなかった。
「おい! 矢野さんが歩いてるぜ…」
 いつものように町営の湯に浸(つ)かろうと矢野が歩いていると、それを遠目で見ている二人の町民がいた。町営牧場で働く二人だ。
「ああそうだ…矢野さんだ。ははは…あの人は軽い!」
「そうそう、軽い軽い! 軽過ぎて飛びそうだもんな」
「この前なんか、土産持って来てくれたのはいいけどさ、タオル渡して、そのまま土産を持って帰ろうとしたんだぜ」
「ほお、面白い話だ。もう少し、詳しく聞こうか」
「ああ。俺は止めたさ。あのう、これ…ってさ」
「それで?」
「奴(やっこ)さん、『あっ! どうも』って、ペコリと頭さげてタオル受け取ると、出てった」
「土産は?」
「そのまま持って…」
「矢野さん、何しに来たんだ?」
「軽いだろ?」
 二人は顔を見合わせ、大笑いした。二人から遠ざかっていく矢野は町営浴場へ入っていった。
 町営浴場へは、野良仕事を終えた町民が時折り浸かりに来ていた。なにせ、お金がいらないのだから、便利さはこの上ない。しかも、町営牧場の牛乳が飲み放題とあって、矢野は一日に一回は来ていた。
「ああ、どうも、ご精が出ます…」
 矢野が脱衣して湯に浸かろうと木戸を開けると、町長の堀田が木柄の掃除用自在 箒(ほうき)で床(ゆか)タイルをゴシゴシと磨いていた。この作業は町長自ら買って出た専権事項だった。むろん、疲れると湯に浸かり、また磨くという作業の繰り返しだから、当然、丸裸である。女湯の方は、奥さんがやるのが常だった。矢野は無言で別の箒を手にすると、町長に合わせてゴシゴシとやり始めた。
「矢野さん、いいから浸かって下さい」
「いや、町長こそ…」
「そうですか? それじゃ、お言葉に甘えて…」
 矢野はその後、二時間ばかりゴシゴシと磨き、浴場を出たとき、辺りはすっかり暗くなっていた。何か肌寒いぞ…と矢野が気づいて立ち止ったのは、出てしばらく歩いたときである。とうとう矢野は湯に浸かるのを忘れてしまっていたのだった。そんな軽い自分を、ははは…と笑うと、矢野はまた歩き始めた。矢野の身体は、いつの間にかアドバルーンのようにフワフワ浮き始めた。それでも矢野は空気の中を歩き続け、家に向かっていた。

                           完

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2015年1月19日 (月)

不条理のアクシデント 第五十一話 貢[みつ]ぐ謎

 下坂は平凡に勤める一サラリーマンだった。今年、久しぶりの定期昇給が復活し、ほんの少しだが、数千円程度、基本給が上ったのだ。今夜はそのベースアップを祝して、同僚と花見の飲み会へ繰り出し、日頃の憂さを晴らす下坂だった。見上げれば桜花が咲き乱れ、ライトアップされたその美しさは、ほろ酔いも手伝ってか、なんとも気分がよかった。樹々の間の雪洞(ぼんぼり)の橙色(だいだいいろ)も、ほどよく情緒を昂(たか)ぶらせる。
「下坂、お前なっ! …数千円ぐらい当然なんだぞっ! 会社に俺達ゃ、どれだけ貢(みつ)いでると思ってんだっ! 労働力だけでも半端な額じゃない!」
「そうそう、室淵が言う通りさ。…昨日、こいつが取った契約だって2億…」
「7千万! …」
 下坂と室淵の会話へ割って入った田山だったが、酔いに押されて額を忘れ、結局、室淵に救助された。
「まあまあ…。今夜はそういう話は抜きだっ!」
「ははは…、そうそう、花見だ、花見!」
 冷(さ)めて落ちかけたテンションを、下坂は作り笑顔で高めた。二人も頷(うなず)いて、注がれたビールを口へ運んだ。
「よ~く考えりゃ、俺達の会社も貢いでんだよなぁ~~」
 田山が桜を見上げながら愚痴った。
「どういうことだ? 田山」
 下坂が赤ら顔で訊(たず)ねる。
「親会社さ…」
 田山は素(す)で、言い切った。また三人は冷え始めた。
「ははは…また、お前は! 花見だ、花見! まあ、飲めっ!」
「ああ…」
 田山は下坂に慰(なぐさ)められた。暖かい微風にライトアップされた桜花が揺れる。三人はいい具合に酔いが回っている。多くの夜桜見物客が等間隔で少しの距離を置いて陣取り、それぞれ賑(にぎ)やかにやっている。
「いづれにしろ、少し会社が上向いてよかったなっ!」
「それは、そうだ…」
 三人は顔を見合わせ、笑顔で乾杯した。
「はは、ははは…ははは…」
「どうした、田山? お前、笑い上戸(じょうご)だったか?」
「いやいや。だってさ。うちの親会社も国に貢ぐんだぜ! 貢がないと脱税だからな」
「おお! そうだ。法人税…国へな、国へ。ははは…」
 下坂はコップを置いて腕組みをした。そのとき、三人の脳裡を掠(かす)めたのは、『それじゃ、国は?』という貢ぐ謎だった。分からぬまま、小一時間、三人は適当に楽しみ、明日、同じ場で花見をする後輩の舟川と交代してその場をあとにした。舟川は寝袋で寝て、夕方まで、ここで場所取りをする訳だ。
 フラフラと地下鉄へと三人は向かっていた。国が貢ぐ先が虚飾に満ちた繁栄を続ける文明国、日本そのものだと朧(おぼろ)げに気づいたとき、すっかり三人の酔いは醒めていた。

                          完

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2015年1月18日 (日)

生活短編集 50 味噌汁定食

 「えっ!」
 三木は定食屋[おかど]に初めて入って、その品書きに驚かされた。
《 味噌汁定食 百二十円 》
 と、大きく書かれた品書きが、私が主役! とばかりの大きな墨書き札(ふだ)で左右の側壁中央に、ドッカ! と貼(は)られていた。
 この店の売りなんだろうな。まあ、いいか…と、三木は受け流し、見回して他の品書きを探した。だが、壁に貼られた品書きは、主役の左右二枚のみで、脇役札も端役(はやく)札も貼られていない。こりゃ、おかしいぞ…と、三木は思った。
「あの!! すみません! 注文したいんですがっ!」
「は~~い」
 大声とともにフラフラと奥から現れたのは、年の頃なら八十半ばの老人である。呼んですぐに出てきたのだから耳は大丈夫そうだが、目が駄目らしく、三木のすぐ傍(そば)まで近づき、間近(まじか)まで顔を擦(す)り寄せた。そして、ド近眼の、瓶の底のような眼鏡(メガネ)を弄(いじ)り、ようやく三木が客だ…と理解した。
「ああ! お客さん、でしたか!」
 遠目で分かるだろうがっ! と少し怒れた三木だが、そこは抑(おさ)えて、口に出さなかった。
「注文したいんですが…」
「ああ、注文ですか。はい、どうぞどうぞ」
「あのう…、アレしか出来ませんか?」
「はあ?」
「だから、そこに貼ってある以外は出来ないんですか、って訊(き)いてるんですが…」
「ええ、うちは、それだけです。それだけのもんです」
 三木は馬鹿にされているようで腹立たしくなった。
「あのね! 味噌汁定食って、どんなんです?!」
「えっ? 味噌汁定食は味噌汁定食ですよ」
「だから、その味噌汁定食は、どういうのですか?」
「どういうのって? …定食ですよ。お客さん、分からない人だな」
「分からないのは、あんたでしょうよ!」
 三木は少し語気を強くした。
「いやぁ~、分からないのはお客さんでしょ。味噌汁定食は味噌汁の定食です!」
「… … あんた、分からないんだ!」
 三木がそう言ったとき、老人は奥へ素早く戻(もど)ると、トレイに味噌汁入りの椀(わん)と八分目ほど盛った丼(どんぶり)飯(めし)を乗せて、ふたたび現れた。
「お客さん、いいですか! これが味噌汁定食!」
 確かに味噌汁が付いた定食だ…と、三木は文句が言えず、思った。
「あの…オカズは?」
「オカズ? オカズは味噌汁でしょうが。ははは…おかしなお人だ」
「…」
 三木は言い返せず、押し黙(だま)った。

                         完

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2015年1月17日 (土)

生活短編集 49 軽く!

 愛嬌(あいきょう)タクシーの社屋は周囲が土塀で囲われている。その一角にある通用口は上下線通行のトンネル状になっていて、行き帰りのタクシーが出入りをしている。通用口の上には愛嬌タクシーと書かれた大看板がかけられている。通用口を通り抜けると、広い駐車場と奥に小さな社屋が見える。駐車場には、何台もの同じ車体色をしたタクシーが整然と並んでいる。奥の社屋の一角には、この春から採用された新入運転手養成の研修室がある。研修といっても運転技術ではない。客対応へのノウハウ、平たく言えば接遇(せつぐう)、いや、もっと分かりやすく表現すれば、客と話す要領を完璧(かんぺき)に教え込もうというものだ。愛嬌タクシーでは、今年、二人が定年退社し、三人が新たに採用された。三人のうち二人は中年ながらも会社にとっては手頃な人材で、運転技術もそれなりに熟練していて、なんの問題もなかった。ただ、残りの一人、籠井は、免許を返上した方があなたのためですよ…と言われかねない老人で、しょぼかった。会社が彼を雇(やと)ったのには、それなりの理由があった。社長の広江と籠井は小学校の親友だった。同窓会の席で広江は籠井が生活に困っている事実を知らされたのである。広江が、よかったら、うちで…と、冗談半分に言ってしまったのが事の発端(ほったん)となった。
「重い重いっ! どうして、そう重いんです? もう少し、軽く!」
 籠井に客との会話の接遇を指導しているのは教官役の先輩運転手、清水である。
「はあ…」
 籠井は、か細い声で自信なさげに返した。
「じゃあ、もう一度、言って下さい。私は客ですよ!」
 清水がタクシーを呼び止めたところからの設定だ。すでに清水からOKが出た二人は少し離れたところにいて、あきれ顔で腕組みしながら眺(なが)めている。
「駄目駄目! やる気、あるんですか? 籠井さん」
 清水は優しく言った。社長の広江から、よろしく頼むよ! と両手を合わされ懇願された以上、清水は無碍(むげ)に叱(しか)れず、大弱りである。そこへ広江が様子を見に現れた。
「清水君、もういいよ…。籠井さんは私専用の運転手として雇うから」
「あっ! そうですかっ! 分かりましたっ!!」
 清水の返事は明るく軽かった。助かりましたっ! が清水の本心なのだが、そうは言えなかった。
「籠井さんには軽く! 送り迎えしてもらうさ、ははは…」
 広江は皆を見回し、大笑いした。
 翌日、広江はお抱え運転手となった籠井が軽く! 慎重に運転する軽ワゴン車に乗って、軽く! 出勤した。

                         完

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2015年1月16日 (金)

生活短編集 48 食に拘[こだわ]る男

 父の代に創業した町工場を引き継いだ大山だったが、世間からは変人と言われ続けてきた。根っからの美食思考家で、あの有名な北大路魯山人をも凌(しの)ぐのでは…と世間に名を馳(は)せたこともあった。その彼が鉄屑(てつくず)を徐(おもむろ)に新作の機器(マシーン)の中へ入れた。この機器は今世紀最大の発明・・と自負する分子変換装置である。詳しく言えば、ありとあらゆる物質を食品へ変換できる装置だった。苦節22年、大山は完成したこの装置を前に万感、迫るものがあった。そして、指がその装置の駆動ボタンを押したとき、彼の頬にひと筋の涙が伝った。
 鉄屑が食品に? えっ!? 何かの聞き違いだろ…? と、最初、人々は自分の耳を疑った。大山の言葉が本心だと分かったとき、人々は下手な冗談(ジョーク)を言う奴だ、と彼を嘲笑(ちょうしょう)した。そしてついには、こいつは変人だな…と、彼を避けるようになった。工場を閉鎖し、機器製作に没入し21年が過ぎ、やがて22年目が半ば去ろうとしていた。
 ランプの点滅が消え、機器の微動が停止した。大山は静かに機器の出入扉を開いた。そして、白手袋の手で中に入れた容器を取り出した。な、なんと! その容器の中には、ふっくらとした美味そうな食パンが出来上っているではないか…。彼は、それを見ながら静かに笑みを浮かべた。TPP体制崩壊以降、世界各国は自国防衛のため食糧ブロックの経済体制を敷いていた。どこの国からも輸入はままならなかった。そんな食糧危機に陥(おちい)った日本を救える…と大山は確信した。
 それから半年が経過したとき、世界各国の食糧危機は回避されていた。特にアフリカ諸国はその傾向が顕著(けんちょ)であった。大山は変人ではなく、英雄としてその名を轟(とどろ)かせた。やがて彼はノーベル賞を授与され、その功績を世界から認められたのである。

                           完

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2015年1月15日 (木)

生活短編集 47 どうもこうも…

 人間には我慢の限界というものがある。それは肉体的なものと気分的なものに分けられる。この男、浜下は神経がないのか? と他人が思うほど鈍(にぶ)い男だった。別に意識してのことではなく、生まれつきの性分なのだから、誰一人として、彼を怒らせる事は出来なかった。
 あるとき、有名財閥の息子の伊藤が偶然、この男と接触する機会を持った。そんな偶然があるのか…と思えるほどの偶然である。というのも、伊藤には絶えずボディガードが数名付いていて、寸分の隙(すき)なく彼をガードしていたからである。
 浜下はこのとき、とあるホテルへ泊っていたが、単純な新入りホテルマンの手違いで、伊藤の部屋の予備キーを渡され、その部屋に入った。この時点では、伊藤はホテルへ到着していなかったから、なんの問題にもならなかった。伊藤の超高級外車がホテルへ横づけされたのは、その30分後である。到着後、当然のようにボディガードはフロントで手続きやら何やらを簡単に済ませ、部屋へ伊藤を誘導した。いつものことのようで、リッチ気分で鼻歌を唄いながら前後にボディガードを従え、伊藤は歩いた。部屋の前へ到着し、ボディガードはおやっ? と、首を捻(ひね)った。部屋のキーが開いていた。長い経験で、そんな馬鹿なことはないと分かっているからだ。まあ、いいか…と、部屋へ入って驚いた。浜下はバスから出て、いい気分で寛(くつろ)いでいるところだった。
「なんだ、お前は!!」
「あっ! すみません!」
 浜下は訳が分からないまま謝っていた。
「ぼっちゃんの部屋に、なぜお前がいるんだ?!」
「? どうもこうも…」
 浜下はドキリ! としたが、いつもの鈍感さで頭を掻きながら柔らかく返した。
「すぐに出ろ!!」
 浜下は怒ることなく、素直に頷(うなず)くと荷物を纏(まと)めかけた。他のボディガードが内線を手に取り、フロントへ苦情を言っている。浜下は急いで部屋を出た。階下へ降りようとエレベーターを待っていると新入りホテルマンが慌ただしく上ってきて出くわした。
「すみません! 鍵を間違えたようです! お客様はこちらを!!」
 ホテルマンは新しい部屋のキーを渡した。だが、それも間違っていた。国賓待遇のビップクラスがお忍びで御泊りになるという部屋だったのである。
 その一時間後、浜下はまた同じ言葉を口にしていた。
「? どうもこうも…」
 そして、その繰り返しが数度あり、もう明け方近くになっていた。結局、浜下は部屋を取れないまま、ロビーで眠る破目になってしまった。それでも、鈍い浜下は怒らなかった。
「? どうもこうも…」
 ホテルを出がけにロビーで浜下はそう言った。ホテル側は支配人以下が平身低頭で平謝りである。
「誠に申し訳ございませんでした!!」
「えっ?! ロビーで寝違えて、首が少し痛いと言いたかっただけですが…」
「はあ?」
 浜下の鈍さに、ホテル側一同はボケ~っとした。

                        完

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2015年1月14日 (水)

生活短編集 46 落としどころ

 物事には[落としどころ]というものがある。これを逃せば、結果が惨憺(さんたん)たるものになる、その分かれ目だ。
「あいつ、まだ付き合ってるそうだぜ」
「そうそう。もう、かれこれ20年だろ。よく続くよ…」
「ははは…。俺達ゃ数年で落としてるのにな」
「ああ。同期はみな、所帯持ちなのにな。いやぁ~なにか、訳ありなんじゃないか?」
「ああ、それは言える。20年と言やぁ~、ひと世代だぜ。きっと、なにかある」
「ああ…」
 社員食堂で二人が少し離れた一人をチラ見しながら話しては食べている。これは、落としどころを失った恋愛の場合である。食堂を出て階段を降りると、各階の踊り場にトイレがある。男子トイレで大の用を足している男がいる。朝の出がけに子供に先を越された。幸い、便意は遠退いたので出勤したのだが、昼の定食を食べ始めたところで俄(にわ)かに催(もよお)したのである。ウンチや小便の我慢も、ある程度のところで見切り発車しないと、…まあ、こうなる。
『… なかなか出んなぁ~』
 この男、そう思いながら、いきんでいるのだが、固くなってしまったのか、なかなか出づらい。これ以上いきむと、また痔の肛門が切れるから、それもままならず、数十分、格闘している訳だ。[落としどころ]を逃(のが)すと、食べられず、出せずという惨(みじ)めな結果になってしまう。この会社の窓越しに国会議事堂が小さく見える。その中の某委員会の風景である。
「賛成の諸君の起立を求めます!!」
 ドタドタと野党議員が委員長席へ詰め寄り、委員会は怒号、野次雑言が飛び交い、騒然となった。どうも、強行採決に反対する光景のようだ。これは、わざと[落としどころ]を早めた結果、生じたトラブルだ。与党側の委員長は、恐らくこうなるであろうことを予見していたのだろう。その覚悟を背負わされた男の哀愁こもる声が切ない。
「▽◎※! き、起立多数! &%# …よって、本案は…%&”#…可決されましたっ!」
 細く、弱く、小さい声はよく聞きとれないが、そう告げると委員長は、ソソクサと委員会をあとにして退席した。与党委員に守られながらの逃避(とうひ)場面である。そんな国会議事堂をあとにして、街並みを越えると築地(つきじ)である。築地の朝は早い。
 競りが始まっている。
「…###、&&&、”””、&&&、$、$!」
 訳の分からない早口の競り専門語で落札額が決まった。この男は[落としどころ]を心得ている。この築地を離れ、しばらく街並みを迂回する。とある警察署が見えてきた。中の取調室では、若い刑事と年老いた刑事が犯人と思(おぼ)しき容疑者を取り調べている。
「いい加減にしろ! アリバイは崩れたんだっ!!」
 若い刑事が机を叩き、椅子に座って黙秘を続ける容疑者に迫った。
「… …」
「ははは…。お前さん、子供がいたな。父ちゃん、帰ってこないの? って、泣いてたぞ。可哀そうにな…」
 静かなしみじみとした声で老刑事は囁(ささや)いた。次の瞬間、容疑者は机へ泣き崩れた。
「ぅぅぅ…や、やる気はなかったんだぁ~!」
 この老刑事は[落としどころ]を心得ている。“落としの○さん”と呼ばれる警視庁きっての名刑事らしい。犯行は自転車の空気入れを自転車屋から盗んだ単純窃盗だった。
「初犯だっ! まあ、今後は心を改めることだな。ははは…示談にするとさ」
 老刑事が容疑者の肩をポン! と叩く。容疑者は、ふたたび泣き崩れた。さすがは上手(うま)い[落としどころ]である。

                          完

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2015年1月13日 (火)

生活短編集 45 ハリマーの猫

  播磨(はりま)嘉彦は世界的な新発見でノーベル生理学・医学賞を授与され、今世紀における日本きっての逸材となった。彼の発見は、ふとしたことがきっかけで偶然、見つかった。世界は、その新発見を[ハリマーの猫]と呼んだ。猫から導かれたこの発見は、ロシアのノーベル賞受賞者、パブロフの犬をも凌駕(りょうが)する世紀的な発見となった。
 話は彼の発見前に遡(さかのぼ)る。
 うららかな一日が始まろうとしていた。飼い猫のぺチが、どういう訳か今朝は早くから喉(のど)をゴロゴロと鳴らしてご機嫌がよい。はて? と播磨は考えた。思い当たることといえば、きのう買ってやったマタタビだが…、昼前に与えただけだし、今朝は全然、やっていなかった。きちんと戸棚に収納してあるから、可能性は小さい…というより、ほとんどない、といえた。では…と播磨は巡った。そして、あることに気づいた。播磨はぺチの治療で動物病院へ通ったことがあった。
「可哀そうですが、この腫瘍は次第に大きくなります。余りよくないですね」
 川西獣医は播磨にそう告げた。
「そうですか…。私も医師ですからその辺は覚悟しておりましたが…。そうですか」
「はい。抗生物質のお薬は、いつものようにお出ししておきます。少しは増しでしょう」
 播磨は、ガックリと肩を落とし軽く頭を下げた。
 そんな出来事が播磨の記憶にあった。そして、ふと見れば、今、ぺチの腫瘍は消えている。そんな馬鹿な! と播磨は驚いた。考えられるのは…? そのとき播磨の記憶がふたたび甦(よみがえ)った。研究室から持ち帰った、とある物質があった。とある物質は播磨が人体用に研究を進めていた遺伝子操作で生み出された新種のウイルスだった。一週間前、彼はその薬剤をぺチに筋注したのだった。うっかり、そのことを播磨は忘れていた。
 播磨がノーベル賞を受賞したきっかけは、そんな話である。その後、彼は本格的に学会への論文作成と新種ウイルスの治験(ちけん)を進めた。そして、顕著(けんちょ)な薬効と安全性により認可された薬剤は、広く世間で用いられるようになった。それ以降、世界の患者は激減していった。その功績により、賞の受賞となったのである。世界は、その新発見を[ハリマーの猫]と命名したのだった。

                            完

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2015年1月12日 (月)

生活短編集 44 宇宙とは?

 宮野は、今日も空を見上げていた。雨の日も風の日も雪の日も、そして夏の暑い日でも、もちろんその逆の冬の寒い日も、彼は定位置に決めた部屋の一角から見上げていた。一日に一回、見上げるのが彼の日課だった。その時間、ほぼ30分・・これが彼の見上げる時間だった。彼は時間など気にはしていなかったが、体時計がその30分を、ほぼ正確に刻(きざ)んでいた。そして、その日も宮野は見上げていた。
「… まあ…」
 なにが、[まあ…]なのかは分からないが、宮野はポツリと、そう呟(つぶや)いた。彼は考えていたのだ。大学講師で天文学の教鞭をとってはいるが、科学では到底解明できない何かが宇宙には存在している…と。人は慰(なぐさ)めごとのように大気圏を突破し、宇宙ステーションやら人工衛星やらと賑(にぎ)やかに打ち上げ、勝ち誇ったかのように満足はしている。だが、それは単に三次元科学ですべてを解決しようという人間のエゴではないのか…と。そんな疑問が沸々(ふつふつ)と宮野の脳裡(のうり)に滾(たぎ)るのだった。我々は地球上に生息する単なる動物の癖(くせ)に、どうのこうのと知らない宇宙を推断している…と、彼は空を見上げて思った。そのとき、宮野の胸ポケットの携帯が激しくバイブした。着信メールは研究室の上司、中江教授からだった。
━ 陸運局から妙な電話が研究室に入ったんだが、訳が分からない。宇宙人? そんなことはないか。^^ できれば、折り返しの連絡を待つ 中江 ━
 内容を見た宮野はすぐに携帯を入力した。
「陸運局ですか? 僕も心当たりがないんですが…。はい! 詳しくは、明日(あした)」
 その日、宮野は所属のテニスクラブの会合で大学へは出勤せず、会合のあと、早めに帰宅して家にいた。妻は夕飯の準備に余念がない。母は仏壇に座り、いつの間にかミカンを食べながらウトウトしている。そういえば、すっかり陽気が春めいたぞ…と宮野は携帯を胸ポケットへ戻(もど)して思った。
 知らないうちに青空は朱とオレンジ色を含んで暮れようとしていた。夜が間近い。この空の行き着く先に何があるというのか? 宇宙に大きさはあるのか? だとすれば、宇宙の外に何があるというんだ? 宇宙は本当に膨張しているのか? 風船のように? そして、その風船は破れ、ビッグバンを起し…と、学生に教えてはいるが、それは人間の一抹(いちまつ)の慰めなのではないか? 人間は何も分かっていないのでは? つまるところ、何だ! 宇宙とは? いつもの定位置で夕空を見上げながら、天文学者の宮野は、いつも湧く疑問に首を傾(かし)げた。
「Wu~、Wan!!」
 突然、足元のポチが鳴いた。『ご主人、もの好きだわ…』と、宮野には聞こえた。

                        完

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2015年1月11日 (日)

生活短編集 43 燗冷[かんざ]めの与三[よさ] 

 人呼んで、彼を燗冷(かんざ)めの与三(よさ)と言った。本名は与木三男である。彼は何かにつけ、歌舞伎の見得を切った。元は歌舞伎役者を目指していたのだが、事情があって故郷へ戻ったのである。ただ、いつの日か、ふたたび歌舞伎を志そうと、いつも稽古に余念がなかった。ただ、これでは日々の生活は成り立たない。すべてがすべて、歌舞伎仕立てに物事を進めるものだから、手間がかかって仕方がなかった。彼は産業振興部の観光物産課で働いていたが、同僚の職員は彼の存在をなんとも面映(おもは)ゆい目で見るのだった。与木の呼び名のいわれは課で行われる宴会にあった。忘年会、新年会は申すに及ばず、花見など、すべての宴会で残った酒類は、すべて彼の収納瓶に集められた。これはある意味、残飯処理係である。彼はそれで酒代を浮かせ、いつかの日の上京費用に積み立てていたのである。そんなこととは知らない課員達は、彼が事あるごとに歌舞伎の見得を切ることから、誰彼となく燗冷めの与三と呼ぶようになった。
「課長! 与木さん、またやってますよ」
 同じ課の三島が窓口で市民と接遇している与木を見て課長の矢代に言った。
「ああ、与木君か…。放っておけよ。別に苦情も出てないんだから…」
 矢代は半ば諦(あきら)め口調で返した。実のところ、与木の仕事は今一なのだが、市民の受けはよかったのだ。課長の矢代としては市民の受けがいい以上、窘(たしな)めたり叱(しか)ることは出来なかった。公共の福祉が官庁の最優先だからだ。とはいえ、仕事の出来が悪いとなれば、これはもう頭を抱(かか)えて悩むしかない。
「知らざぁ~~言って聞かせやしょう!」
 関係のない市民までが観光物産課の窓口へ集まりだした。
「言って名乗るもおこがましぃ~がぁ! 燗冷めの与三たぁ~・・俺のことよぉ~」
「待ってましたっ! 観光屋!!」
 掛け声もかかり、拍手と喝采(かっさい)である。こうなれば、毎度のことながら与木の独壇場となる。他の課員も楽しそうにチラ見しながら仕事を進めた。与木の評判は朝刊にも取り上げられ、話題はローカルから全国にまで広がっていった。
「ああ…君ですか。私、ご存知でしょうか?」
 ついに、本物の有名歌舞伎スターが姿を見せた。それは、評判になりだしてから半年後のある日のことだった。
「は、はい! もちろん!!」
 むろん、与木はその人物を知っていた。
「君は筋がいいよ!」
 与木の夢は叶(かな)い、その二年後、彼は歌舞伎座の舞台を踏んでいた。

                           完

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2015年1月10日 (土)

生活短編集 42 欲で生きる男

 生れもって富豪のその男は、欲で生きる男である。彼から欲を取れば、何も残らない…と誰もが思うほどの凄(すさ)まじい欲の持ち主だった。男の前には我慢する・・という言葉は存在しなかった。我慢は健康によくない…というのが彼の持論で、必ず発散した。むろん、それは法律で許される範囲内だったが、あるときなど、ギリギリでセーフという事態も起きたりした。その欲の発散のため、男は一時、外国で居住し、発散後、また帰国したこともあった。だが彼は怯(ひる)まなかった。欲だけが男のすべてだったからだ。食欲、色欲、地位欲、名誉欲、金欲、物欲、生命欲…なんでもござれで、欲で生きる彼の糧(かて)となった。彼にはそれを極める天性の集中力が備わっていた。
「ああ、素晴らしい逸品(いっぴん)だねぇ…。12億なら安いじゃないか」
「いかが、いたしましょうか?」
 男は黙ったまま、片手でOKサインをだした。
「かしこまりました…」
 執事は下がろうとした。
「あっ! 今夜はアレにアレだよ」
 執事は止まって、振り向いた。
「はい、分かっております。アレにアレですね?」
「そう。アレのアレじゃないよ。アレにアレ」
「はい、かしこまりました。そのように…」
 軽く頭を下げると、執事はふたたび動き、去った。前者のアレとはアレで、後者のアレはアレである。言っておくが、決してナニではない。
 彼は欲で生きる男だったが、酒池肉林に溺(おぼ)れないある種の弁(わきま)えがあった。それが欲で生きるこの男の原点でもあった。
 あるとき、国連の事務総長が極秘裏に彼を二ューヨークへ招致した。会談は某ホテルの一室で、これも完全なマスコミをシャットアウトした警護態勢で、通訳を介して極秘裏に行われた。
「お願いいたします。是非とも世界の舞台へ!」
「いや、事務総長。申し訳ないのですが、私にはその気がありません。見えずに世界を動かす…それが、私です」
 [私の欲です]と言いかけ、男は慌(あわ)てて[私です]と言い変えた。彼は一度、表舞台で世界を動かしかけたことがあった。だが余りの多忙さが、男にはどうもシックリと馴染(なじ)めず、その欲はいつの間にか消え去ったのだった。
 現在、男の欲はふたたび膨(ふく)らもうとしている。世界で頻発(ひんぱつ)する紛争を未然に消し去ろうという欲がメラメラと彼に燃え始めたのである。久しぶりに彼の心に湧いた欲の胎動である。この欲が満たされるとき、彼が世界の救世主となることは疑う余地がない。
 欲で生きる男は今、静かに世界の動静を見据(みす)えている。

                        完

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2015年1月 9日 (金)

生活短編集 41 嘘[うそ]だろ!

 会社からの帰り道、酔いが回った祐一がフラフラと歩いていると、歩道の一角に茶色っぽい手持ち用の鞄(かばん)が落ちていた。少し暗かったが、街灯の明かりで十分、鞄だとは分かった。祐一が恐る恐る手にすると、ズッシリと重い。チャックをまた恐る恐る開けると、中には札束がぎっしりと入っていた。祐一は、嘘(うそ)だろ! と一瞬、思った。さて、この鞄をどうするかだ…と祐一は巡った。辺りを見回せば、幸か不幸か人の気配はなかった。心の悪魔が、『誰も気づきゃしないさ、そのまま持って帰りな…』と囁(ささや)いた。その一方で、心の天使が、『聞いちゃだめ! すぐ見つかるんだから!』と、可愛い声で呟(つぶや)いた。その声は祐一が見染めたOLの彩香(さやか)の声に似ていた。彩香にメロメロの祐一の足はいつの間にか動き、気づけば交番の前にいた。祐一は交番へ、その鞄を届けていた。
「こりゃ、大金ですね…」
「事件ですかね?」
「さあ~私には…。ただ、その可能性もありますね」
「だとすれば、怖い話ですね」
「はあ、確かに…」
 警官のあんたが怖がってどうすんだい! と怒れたが、そこはそれ、冷静さを取り戻し、祐一は状況説明と手続きを済ませた。交番の警官は、その後、拾得物件預り書を祐一に手渡した。
「3カ月、見つからなかったとき、もちろん事件がらみじゃない場合ですが、その場合は、あなたのものですよ」
 警官は不気味な笑い顔でニヤリと笑った。
「はあ…」
 祐一は少し怖くなった。
「ご苦労さまでした!」
 そう言われて敬礼をされれば、悪い気はしない。
「いや、どうも…」
 祐一の心は明るくなり、帰途はルンルン気分だった。
 数ヶ月が瞬(またた)く間に過ぎ去った。そしてある日、祐一が住むアパートの郵便受けにお知らせハガキが舞い込んだ。落とし主が見つからないから受け取りに来て下さい・・という内容だった。祐一は嘘だろ! と自分の目を疑った。あれだけの大金だから、恐らく落とし主は現れるさ…と祐一は内心、思っていたのである。少し気分が高揚し、祐一は億万長者の気分になった。いつもは飲まないお客用にとっておいた高級ワインを傾け、一気に飲んで咽(むせ)た。急に心が萎(しぼ)み、俺は、さもしい…と情けなくなった。ともかく、今日は早く寝て、明日(あす)の朝一で行こう! と決意し、寝床に入った。
 次の朝、祐一はルンルン気分で朝食を済ませ、ハガキを背広へ入れようとした。ところが、どうしてもハガキが見つからない。躍起(やっき)になって探したが、分からなかった。そうだ! 預り書があったぞ…と机を開けたが、それも消えていた。嘘だろ! と祐一は思った。まあ、交番へ行けばなんとかなるさ…と思え、祐一は交番へ行った。そして、交番へ入ると警官がいた。祐一が事情を話すと、しばらく警官は調べた上で首を捻(ひね)った。
「おかしいですね。そのような物件は預かってませんが…」
「三か月前、確かに…」
「いえ…。いつでしたか?」
「11月の2日です」
「ははは…ご冗談を。今日は9月ですよ」
 祐一は嘘だろ! と思った。そのとき、祐一は意識が朦朧(もうろう)とした。気づけば、路上の片隅で眠っていた。そこは鞄を拾った場所のはずだった。嘘だろ! と祐一は起き上がった。祐一は長い夢を見ていたのだ。

                        完

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2015年1月 8日 (木)

生活短編集 40 冷や汗 

 高崎は冷や汗をよく掻(か)く。その掻きようは世間の常識を覆(くつがえ)し、とても尋常とは思えなかった。滝のような汗とは正にそれで、バケツが一時間ばかりで半分ほどになるのである。そうなれば、当然ながら水分補給を身体が要求する。高崎の周(まわ)りにスポーツ飲料のペットボトルを見ない日はなかった。
「また、あいつか…。桑畑、バケツを用意しとけ!」
 ラグビー監督の小池は遅れてやってきた高崎を目で追いながら、ベンチで鬱陶(うっとう)しそうに言った。
「はいっ! 分かりましたっ!」
 今年、チームに加わった雑用係の桑畑は返事と同時に立ち上がり、疾駆(しっく)してベンチから走り去った。桑畑と入れ換わってグラウンドに入ってきた高崎は、対照的にゆったりと歩いて現れ、少しずつベンチへ近づいた。彼にとって、少しの衝撃は冷や汗を流す・・という生理的な不測の事態に至るからだ。他の選手達はグラウンドでいつもの練習に余念がなく、汗を流している。汗を流すと言っても彼等が掻く汗の量は高崎の比ではない。
「遅くなりました…」
「んっ? ああ…まあ、いいさ」
 小池も出来るだけ刺激を与えまいと言葉を慎(つつし)んだ。バケツが到着するまでは高崎に冷や汗を掻かせられない・・という心理があった。
 しばらくして、雑用係の桑畑がバケツを2ヶ持って走ってきた。小池はそれを見て、思わず笑った。
「ははは…、いくらなんでも、そんなには掻かんだろう。なあ、高崎!」
「はあ、まあ…」
 高崎は小さく返した。そのとき、小池の携帯が激しくなった。
「はい、小池です。えっ! 選抜されましたか。朗報ですね!」
 小池のチームが全国杯に選抜されたのだ。それなりの勝ち星は積んでいたし、前回の国体に優勝した実績からして、ある程度の予想はしていた小池だったが、それが現実となったのである。監督としては、やはり嬉(うれ)しいものだ。その気持が、うっかり口を滑(すべ)らせた。
「いよいよ全国杯出場が決まったぞ! お前も忙しくなるな、高崎!」
 小池は大喜びで高崎の肩をポン! と一つ叩(たた)いた。それが、いけなかった。
「えっ!? 僕、出るんですか?」
 次の瞬間、高崎の緊張の糸はプツリ! と切れたのである。切れると同時に高崎の額(ひたい)から滝のような冷や汗が流れ始めた。小池は、しまった! と思ったが、もうあとの祭りだった。
「バ、バケツだっ!」
 小池は桑畑に叫んだ。桑畑は持ってきたバケツを高崎の前に置いた。
「お、おい、桑畑! ペットボトルだっ!!」
「は、はいっ!!」
 桑畑から手渡されたペットボトルを高崎は一気にグイ飲みした。グイ飲みして、冷や汗を流す高崎・・一つのバケツは、高崎自身が持つ瞬間最大汗量の時間記録を遥(はる)かに凌(しの)ぎ、僅(わず)か20分で一杯になった。ギネスものだ…と雑用係の桑畑は思った。二つ目も4分の1ほど溜(た)まったとき、高崎の冷や汗の出量は、ようやく峠を越した。小池は、やれやれ…と、ひとまず安堵(あんど)して、額の汗を拭(ぬぐ)った。練習しているグラウンドの選手達はベンチがそんなことになっていようとはまったく知らぬげに、長閑(のどか)に練習を続けている。
「バケツ 2(ツゥ~)は正解だったな桑畑。ははは…」
 小池は2ヶのバケツを見ながら苦笑した。

                         完

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2015年1月 7日 (水)

生活短編集 39 インスタント社員 

 岡倉製菓は古びた工場で菓子の製造を行う小さな会社である。株式会社とは名ばかりで、従業員数は全員で40人足らずだ。
「社長! 弱りましたよ。田所が俄(にわ)かな腰痛で休みたいそうです」
「なんとか、ならんのか? 三崎君…」
 社長の岡倉は額(ひたい)の汗を手拭(てぬぐ)いで拭(ふ)きながら手を止めた。炭が赤々と燃えて熱を放ち、網の上の煎餅(せんべい)をほどよく焼いている。
「はあ…、私も、そういったんですが、どうも、いかんようです」
「辛抱強い田所君のことだから、よほど悪いんだろう。まあ仕方がない、臨時社員募集の求人広告を出してくれるか。やっと取れた特注だ、キャンセルはできん。上手(うま)くすると、皆の給料がアップできる! 田所君の持ち場は、とにかく家内にやらせるよ」
「分かりました。では、さっそく広告を!」
 給料アップが効いたのか、名ばかり専務の三崎は走るように去った。
 数日後、新聞に小さな広告ビラが入った。岡倉製菓の求人募集もその中のガイド紙面に掲載されていた。むろん、その大きさは他の広告と同じで、ほんの僅(わず)かだった。
「ほう! 君か。今度、来てくれるのは」
「はい! よろしくお願いします。インスタント社員の神坂です!」
「インスタント社員?」
 岡倉は採用予定の神坂を間仕切りだけで名ばかりの事務室で面接していた。自分でインスタント社員と言う臨時雇いは初めて経験する岡倉だった。これでは、どちらが面接しているのか分からない。
「はい! 私、こう見えて、いろいろと工場を回らせていただいてるんです。お蔭(かげ)さまで、どの工場でも喜んでいただきました、はい!」
「… そうなの? じゃあ、よろしく頼むよ。詳しいことは、あそこでタレ桶(おけ)を回している三崎専務の方から聞いて下さい」
 聞こえていたのか、少し離れたところにいる三崎は笑顔で軽く頭を下げた。
「はい、分かりました…」
「あっ! ちょっと待って! インスタント社員って、どういう意味なの?」
 事務室を出ようとした神坂を岡倉は止めた。
「ああ、その意味ですか。それなりに、なりきれるんですよ、私」
「えっ!? どういうこと?」
「つまり…まあ、明日になれば分かると思いますが、それなりに休まれている田所さんになりきれる・・ということです」
「誰が?」
「ははは…私ですよ、社長」
「今日来た君が、知らない田所君に?」
 岡倉は、妙なことを言う奴だ…という怪訝(けげん)な表情で神坂を見た。
「ええ、田所さんには一度、出会ってきました。それと、いろいろな情報とかも入手しております」
「といってだよ。経験のない君が、田所君のような熟練者と同じツケ焼きは出来んだろ?」
「はあ、同じとはいきません。ただ、一日間は、じぃ~~っとお待ちください。待っていただければ、それなりには近づけられます。だから、インスタント社員なんですよ」
 次の日、社長の岡倉以下、全員が目を疑った。神坂のツケ焼きの姿は、まるで田所そのものだった。焼き上がった煎餅も、ほどほどの仕上がりだったから、誰も文句を言えなかった。岡倉と三崎はインスタント社員の神坂を、ただ茫然(ぼうぜん)と眺(なが)め続けた。

                          完

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2015年1月 6日 (火)

生活短編集 38 尾鰭[おひれ]がつく

 話には、どうしても尾鰭(おひれ)がつく。少し大きく話したいのが人の性分(しょうぶん)なのか、自分の話を他人に注目させて聞かせたい・・という願望なのか、その辺りのところは微妙だが、とにかく人は話す内容を飾り立てる傾向が強い。
 小学校の父兄参観が終わり、二人の母親、沙代と美登里が語らいながら帰り道を歩いていた。
「多田さんの奥様、最近、なんかよそよそしいわね」
 沙代が美登里に愚痴をこぼした。
「そらそうよ。旦那さん、会社で出世なさったそうよ。だから…」
 少し得意げに、美登里が沙代に返した。
「あらぁ~~、そうなの。誰からの情報?」
「蕪野(かぶの)さんの奥様」
「あの情報屋の蕪野さんの情報なら間違いないわね。道理で、よそよそしいはずだわ」
「なんでも、部長から執行役員だって…」
 また得意げに美登里が話す。
「執行役員ってなに?」
「平たく言えば取締役なんじゃないの」
「ふ~~ん、取締役か。偉いんだ…。うちなんか、ようやく課長補佐よ」
「私んちだって課長だから、大したことないわよ」
 いつの間にか二人はお互いを慰め合っていた。
「偉いのよねぇ~!」「偉いのよねぇ~!」
 沙代と美登里は憤懣(ふんまん)やる方ない言い方で、声を大きくした。
 その二日後、沙代と奈美江がスーパーの帰りなのか、買物袋を提(さ)げて歩いていた。
「多田さんの奥様、最近、なんかよそよそしいと思わない」
 奈美江が沙代に愚痴をこぼした。
「旦那さん、会社で出世なさったそうよ。だから…」
 少し得意げに、沙代が奈美江に返した。
「あらぁ~~、そうなの。誰からの情報?」
「美登里さん」
「ふ~~ん。道理で、よそよそしいはずだわ」
「なんでも、部長から執行役員だって…」
 また得意げに沙代が話す。
「執行役員って?」
「平たく言えば社長の下なんじゃないの」
「ふ~~ん、社長の下か。副社長よね。偉いんだ…。うちなんか、ようやく課長代理よ」
「私んちだって課長補佐だから、大したことないわよ」
 いつの間にか二人はお互いを慰め合っていた。
「偉いのよねぇ~!」「偉いのよねぇ~!」
 沙代と奈美江は憤懣やる方ない言い方で、声を大きくした。尾鰭(おひれ)がつき、多田はどんどん出世していった。

                          完

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2015年1月 5日 (月)

生活短編集 37 無駄のない動き 

 人は動物だから動く。植物だって少しずつだが動いている。要は、生物は皆、動く訳だ。ただ、人間はその動き方が緻密(ちみつ)なのである。これは、よく言った場合の例(たと)えである。悪く言えばズル賢(がしこ)い生物…となる。その人間にも幾つものランクがある。先天的レベルの馬鹿、天然に近いお馬鹿さん、世間並み、幾らか又はある程度の賢者、秀才レベルの賢者、百年以上に一人出るか出ないかと言われる天才…と、まあこうなる。これだけランクがあれば、やはりとんでもないことを起こす人も現れる。なんだ、かんだ…どうたら、こうたら…で警官隊と衝突、流血の惨事、激しく車が燃える光景、銃の打ち合い・・など、これはある国で起きている現在の惨状だが、こうした行為は人々が生きていく上で完璧(かんぺき)に無駄な動きだ。破壊の前方に平和や人々の生活の向上はなく、生れるのは悲劇ばかりなのだ。そうと分かっていても集団となれば、人はそれをやる。
『0秒12の差の金メダルです!!』
 テレビのアナウンサーが興奮の声で話している。
「ふ~~ん、0秒12
か…。両手を叩く速度の差だな。それで金と銀か! どっちも金やれよっ!!」
 睦彦が珍しく興奮している。
「私はダイヤの方がいいわ。ねぇ~~」
 妻の照代は天然気味で、しばしば睦彦を困らせた。おいおい! オリンピックの話だ! と言うのも無駄に思え、いや、逆に火に油だ、危ない危ない! …と睦彦は瞬間、口を噤(つぐ)んだ。下手(へた)に返せば、恐らくこの前、強請(ねだ)られたダイヤの指輪を買わされることは目に見えていた。睦彦の頭脳は無駄のない動き・・をしたのである。
「なんだ、もう明日、閉会式らしいぞ…」
 睦彦はリモコンを弄(いじ)ってチャンネルを変えた。緻密で無駄のない動きを頭脳が命じたのである。言動、行動とも自身の気持を少しカムフラージュする行為でもあった。妻の「ねぇ~~」という言動を逸(そ)らして遠ざけたのである。剣道なら、打ち込まれた竹刀(しない)を払い、逆に小手を決める…ような動きだ。
「皆さん、頑張ったわね…」
 功を奏したようだ…と睦彦は、ひとまずホッとした。その直後、照美が手にした袋から昨日、買ったネックレスを取り出した。
「ねぇ~~、似合う?」
「…」
 睦彦は逆に一本とられていた。夫の一瞬の油断を見据(みす)え、天然の妻が放った無駄のない動きだった。

                           完

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2015年1月 4日 (日)

生活短編集 36 人材屋 

 今日も朝から人材屋は大賑(おおにぎ)わいである。
『はあ、さようで! 真言宗ですか…。おっ! ちょうど手頃なのがおります。そうでございますね。今からですと、そちら様へは九時前には着けると存じます! はい! では、そういうことで…。今後とも、ご贔屓(ひいき)に! はい! 有難うございました~!!』
 手配室の電話で客を上手(うま)くあしらったのは人材派遣の店・人材屋の主人で本坂という。本坂は机上のリスト簿を開け始めた。電話では、いると言った本坂だが、実のところ手頃なのは、これから探すつもりなのだ。そして、しばらくして確認した本坂は、すぐ内線電話をいれた。
『おい! 川北君、真言宗だから君の出番だ。先方さんはすぐ来て欲しいと言っておられる。よろしく頼むよ』
『分かりました。すぐそちらへ行きます』
 待機室には手頃な人材が多数、詰めている。医師、教師、家庭教師、弁護士、牧師、僧侶、庭師、理髪師、マッサージ師…など、公職を除くありとあらゆる職業の者、ざっとその数、200人ばかりが室内で出番を待っていた。これだけいると、当然ながらまったくお呼びがかからない者達もいた。彼等は日長、将棋や囲碁などをやっていた。もちろん、教えているのはアマチュアながらプロに引けを取らない有段者達で、職業として控えている連中である。だが、お呼びがかからない者達でも、給料は生活に困らない程度の一定額が支給されていた。中には、数か月、いや一年以上、まったくお呼びがかからない者達もいた。川北は待機室の中で、特に人気がある僧侶の一人で三宗旨を受け持てた。川北は依頼先の詳細と住所を確かめるため、手配室へと向かった。
「ああ、川北君。行ってもらうのはここだ」
 本坂は入ってきた川北に依頼先のデータが書かれた紙を手渡した。
「ほう! 家じゃなくてホールですか?」
「ああ。なんでも知り合いの寺がないそうだ」
「都会じゃそういうの、最近、多いですよね」
「だな…。九時前には行くと言ったから急いでくれ」
「分かりました。では、さっそく」
 川北は手配室を出ると、衣装室へ向かった。衣装はひと揃い、どんな職業のものもあった。衣装室へ入った川北は、帰って来て着替え中の安西と出会った。安西は牧師で、一泊二日で結婚式へ出張していたのだ。
「やあ、ごくろうさんでした! どうでした?」
「ああ、これは川北さん。新郎新婦とも幸せそうでしたよ」
「それは、なによりでした。私はこれから告別式の読経です」
「お気の毒なことです…」
「ははは…人生ですなぁ~」
 二人は顔を見合わせ笑った。人材屋は今日も大賑わいである。

                         完

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2015年1月 3日 (土)

生活短編集 35 一発勝負 

 どういう訳か須藤君は失敗が許されない一発勝負に弱かったんです。それは、彼がメンタル的に弱いということも多分にありましたが、どうもそれだけではないようだ…と、腕組みしながら部活顧問の富岡先生は考えていました。これは、僕が先生から直接、聞かされたお話です。
 須藤君は、その日も部室に一人残り、トランペットを吹いていました。その様子を近くで富岡先生が腕組みして見ているという構図です。須藤君は上手(うま)くいった…と思った瞬間、指先が狂って途轍(とてつ)もない場違いな音を出してしまうのでした。その現象は、いつもぶっつけ本番の演奏で起こりました。練習とかでは上手くいっていたものが、どういう訳かステージとかに上った瞬間、もっと細かく言いますと、観客席に大勢の人がいたときなんですが、そうした場合に限り、必ず起こるというものでした。
「訳が分からんなぁ~。上手く吹けてるじゃないか」
 彼の持ち場の演奏が滞(とどこお)りなく終わったとき、富岡先生は首を傾(かし)げながらそう言いました。
「僕も上手く吹いてるつもりなんです…」
「そら、そうだろう…」
 須藤君は手に持ったトランペットを椅子の上へ置くと、先生を真似るように腕組みして首を傾げました。それを見た富岡先生は、真似をするな! とばかりに、両腕をだらりと下ろし、ズボンのポケットへ入れました。すると、須藤君もすぐ、そうしました。
「妙な奴だ! …まあ、いい。今日はもう遅い。帰りなさい」
「はい…」
 須藤君は富岡先生に一礼し、トランペットをいつもの保管場所へ戻すと部室を出て行きました。発表の演奏日が迫(せま)っていました。富岡先生は、どうしたものか…と思い悩みながら部室の鍵をかけました。
 次の日の放課後、男女のブラスバンド部の連中がぞろぞろと部室へ入ってきました。僕もその中にいて、皆(みんな)とワイワイやっていたのですが、須藤君だけは隔離されたように一人、浮いていました。須藤君が話しかければ話しますし、こちらから話しかけても須藤君は話すのですが、なぜか皆とは違和感があって浮いていたのです。だから、それは誰の責任でもありません。今、考えれば、やはり須藤君がまた発表会でドジるんじゃないかという潜在意識が皆にあったからじゃないか…と思えます。
「須藤! いい方法が見つかったぞ」
 そのとき、富岡先生が息を切らせて部室へ入ってきました。
「お前は、振りをしろ!」
「振り?」
 須藤君は訝(いぶか)しげな表情で富岡先生を見ました。
「そうだ! 吹いた振りだ」
「吹いた振り? ですか?」
「ああ、本番では音を出さずに指だけ動かしてろ。なにせ、一発勝負だから失敗はできん。今度失敗すれば、俺は顧問をやめんといかん。お前の持ち場は一年の増田に舞台の袖(そで)で吹かせる」
「分かりました」
「まあ、お前には悪いが、安全策だ」
 須藤君も自分が迷惑をかけていることは分かっていますから、素直に頷(うなず)きました。
 演奏会当日、須藤君は上手く吹く振りをしました。それが、なかなか上手かったのです。
「お前な。ブラバンやめて、演劇部へ入れ! 言っといてやるから」
「はあ…」
 須藤君は富岡先生の言葉に頷きました。今では演劇部の部長をしている須藤君ですが、なかなかの名演技で好評を呼んでいます。なんでも、劇団試験にパスしたとかで、プロになるようです。演奏の一発勝負では駄目だった須藤君ですが、演劇では上手くいってよかったです。

                        完

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2015年1月 2日 (金)

生活短編集 34 ギャップ

「一毛作になってしまった田畑には菜の花の黄色が一面に広がる光景は、もう見ることが出来ませんでした。そればかりではありません。レンゲ達が賑(にぎ)やかに咲き誇る桃色もです。いったいこの国はどうなっていくんだろう? と少年は不安になりました」
「そこまで…。次は但馬君!」
「はい!」
 小学校の国語の時間である。教室では教科書の朗読が続いていた。教師の山岡の声がして優(すぐる)が座り、健太が立って読み始めた。
「そんなことでもありません。僕がこの前行った田舎(いなか)のじいちゃん家(ち)の前に広がる田んぼは一面、菜の花畑でした」
「どこにそんなことが書いてあるんですか! 健太君」
「先生、すみません。でも、僕は本当のことを言いました…」
 教室内は大笑いで沸き返った。クラスで人気者の健太が夏休みに両親に連れられて帰った田舎の景色だ。山岡は一瞬、おし黙った。
「…。そうなんでしょうが、教科書どおりに読んでください」
「はいっ!」
 健太は優の続きを読み始めた。健太が最初、口にしたことと真逆のギャップがある内容だった。健太は読みながら、こういう所もあるんだろうな…と、素直に思った。
 放課後になり、健太が下校の途中、見える田んぼには、確かに何も植えられていなかった。健太は教科書どおりだ…と思った。そのとき、忘れ去られたように一株、咲く菜の花が健太の目にとまった。そういや、二年前、ここには一面、菜の花が咲いていた…。健太は二年前を思い出した。耕していた俊作じいさんは都会の息子さんに引き取られ、その後、耕す者は誰もなくなり、耕作放棄された田んぼだった。健太の黄色一面の記憶と現実はギャップがあった。今は春先でそれほどでもないが、夏場から秋までは草が生い繁り、通学路まで迫った。健太は現実を忘れようと、頭を激しく振りながら道を駆け始めた。

                          完

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2015年1月 1日 (木)

生活短編集 33 ナッツ石竹の強敵 

 彼は強い。その名をナッツ石竹という。彼はWBC世界ライト級チャンピオンである。彼の繰り出すカミソリパンチの切れ味は抜群で、切れるというよりは斬れると表現した方がいいほど凄(すご)かった。秒殺とは正(まさ)にこれで、彼の繰り出す素早いパンチを受けた者は必ずダウンし、二度と起き上がれなかった。
 この日も、ゴングがド派手に鳴らされていた。試合が始まって、まだ2ラウンドの前半なのだが、挑戦者は彼のパンチを受け、ぶざまにもリング上で大の字になって気絶していた。そんな彼が、まさか破れる日が来ようとは、誰が想像しただろう。相手は強豪とはとても呼べない格下の選手だった。
「えっ? ははは…、勝てるんじゃない?」
 試合前のナッツ石竹のコメントだ。彼自身に少し気分的な奢(おご)りがあったのも事実である。試合後、彼は自らの非を認めるコメントも出している。
「完敗です! やつには完敗です! まさか足の先がムズ痒(かゆ)くなるとは思ってませんでした…」
「… ?」
 その前日、ナッツ石竹は自宅の庭のテラスで寛(くつろ)いでいた。明日は試合だ…という意識はあった。減量は上手くいき、体調は万全だった。テラスの椅子に彼がゆったり座っていると、どこから飛んで来たのか、一匹のアブが彼の足元に止まった。残暑がまだ続いていたから、彼は半ズボンの単パン姿だった。当然、足は裸足だった。アブが美味(うま)そうな足がある…と思ったかどうかは分からないが、チクッ! と彼の足を刺した。痛っ! と、彼は瞬間、カミソリパンチを繰り出したが、敵もさる者、ブ~~ンと素早く飛び去った。彼に嫌な予感が走った。彼はともかく、足を手当てしよう…と薬剤の軟膏(なんこう)を塗り、腫(は)れも引いたことで、安心してしまった。そして、負け試合当日になったのである。
「そんな強い相手とも思えませんでしたが?」
 試合後、報道陣の質問が飛んだ。誰もが彼が負ける訳がないと思っていたのだから尚更(なおさら)だった。
「いやあ~、やつは素早い! 僕のパンチを避けて飛んでいきましたからねぇ~、ははは…」
「はあ?」
 報道陣はナッツ石竹の言葉が、どうしても理解できなかった。彼が同じ相手とのリターンマッチでふたたびチャンピオンに返り咲いたことは申すまでもない。

                            完

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