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2015年2月14日 (土)

不条理のアクシデント 第七十七話  声が聞こえる

 視力を不慮の事故で失った田井中は、スーパーの買物へ行くため、その日も盲導犬のぺスを連れて歩道を歩いていた。ぺスは生後4才になるラブラドール・レトリーバーの温厚なメスである。田井中が住む街は障害者対策に熱心で、都市整備がされていた。至る所がバリアフリー化され、田井中も大層、助かっていた。
 田井中が歩道を歩いていると、ぺスが突然、止まった。当然、連れている田井中も止まったが、いつも通る一本道のはずだから障害物はないはずだった。田井中は、おやっ? と思った。
「どうした、ぺス?」
 ぺスに語りかけたが、いっこうに動こうとしない。田井中は少しリールを引っぱった。だが、ぺスはやはりビクとも動かない。そして、低い唸(うな)り声を小さく出している。田井中には、その声が聞こえた。そのときである。
『あのう、もし…。田井中さんでいらっしゃいますか?』
 急に田井中へ語りかける女の声がした。妙だ…人の気配はなかったはずだが…と田井中はビクッ! と思った。いつもなら、後ろ、対向、左右の横から・・と、人が近づいたとき、田井中は馴(な)れでその気配を感じられるようになっていたからだ。事故後、20年の歳月が流れていた。それが、今日はまったく感じなかったのである。
「あの…、どちらさまで?」
 田井中は、声がした方向を向くと、静かに訊(たず)ねた。
『私です。お忘れになりました? いつやら同じクラスになった石橋です』
 石橋? ああ! ブリジストンか…と田井中は思った。あの頃、クラスでは美人でマドンナ的な存在だった石橋についた渾名(あだな)だった。その彼女の声が聞こえるのだ。だが、彼女は病死したはずだ…と、田井中は少し怖くなった。
「はあ、石橋さんは知っております。でも、あの方はご病気で…」
 田井中は口 籠(ごも)った。
『ええ、確かに死にました。でも、病気じゃないんです…』
 しくしく…と寂しげになくその女の声が田井中の耳に聞こえた。田井中はゾクッ! とした。いつの間にか、ぺスは唸るのをやめていた。
『私、ここで轢(ひ)かれて死んだんです…』
 そういや、石橋と名乗る女の声は若い声だった。田井中と同(おな)い年なら、初老のはずだからである。
「あ、あの私、道を急いでますので…」
 少し震える声で田井中は、そう言った。
『ごめんなさい。お止めするつもりじゃなかったんです。ただ、あなたに死の影が見えたもので…。この先の信号、注意して下さいね』
 そう呟(つぶや)くように告げると、女は押し黙った。そして、冷んやりとした風が田井中の頬(ほお)を掠(かす)めて流れ去った。次の瞬間、ぺスがワン! と大きくひと声、(ほ)吠えて動き始めた。田井中はふたたび、引っぱり動かされるように歩いていた。なんなんだ、いったい…田井中の頭は錯綜(さくそう)していた。恐怖心は幸い、目が見えないことで小さかったが、声が聞こえた薄気味悪さに変わりはなかった。
 しばらくすると、横断歩道があった。信号は田井中には見えなかったが、ぺスの利口さで停止し、また動き始めた。信号が変わった…と田井中は感じた。そのとき、信号無視した車が一台、田井中の後方を掠めて走り去った。もう少し田井中が遅れて渡っていれば、激突死するところだった。間一発で助かったのである。石橋と名乗った同級生の女の忠告は嘘(うそ)じゃなかった…。そう思うと、田井中は信号で両脚が凍りつき立ち止っていた。ぺスがリールを引っぱって田井中を催促した。
『よかった…』
 どこからともなく、女の小さな声が聞こえた。田井中はゾクッ! と身震(みぶる)いし、先を急いだ。

                             完

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