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2015年5月

2015年5月31日 (日)

生活短編集 83 危ない危ない… 

 兼竹豪商に勤める課長補佐の石渡(いしわたり)慎吾は注意深い男である。いや、彼の場合はそんな生半可(なまはんか)な慎重さではなく、いわば一種の病的な臆病さだった。何をするにも三回は確認してからでないとその企画を起こせない慎重さで、課の部下達はそういう石渡を少し煙(けむ)たく思っていた。
「石渡君、これ明日までに頼むよ」
 課長の迷川(まよいかわ)に言われ、預かった企画立案に関する書類だったが、慎重さが災いして、まだ手も付いていなかった。その企画に対する膨大な資料は石渡の書斎の上にうず高く積まれてはいた。ただ、どれも企画書として提出すると失敗する危険を肌に感じ、石渡は企画とはしなかったのである。その企画原案は15以上にも上(のぼ)った。
「いや、これは危ない危ない…」
 そして、今朝、石渡は迷川に呼ばれ、課長席の前に立っていた。
「出来たかね? 石渡君…」
「いや、それが…。考えてはみたんですが、どれも今一、危険性を伴(ともな)うようでして…」
「えっ! 出来てないんだ…」
 迷川は、しまった! と思った。石渡が病的に慎重過ぎる男だということを、ついうっかりしていたのだ。迷川は軽率な判断をした自分を悔(く)いた。だが、時すでに遅し! である。そのとき、石渡の横のデスクに座る課長代理の果敢(かかん)がヒョイ! と立ち、スタスタと歩いて石渡の横へ躍(おど)り出た。
「課長! それ、昨日、聞こえてましたので、念のため考えておきました。これです!」
 果敢は手に持っている企画書を迷川のデスクの上へ置いた。迷川は、助かった! と思った。逆に石渡は危ない危ない…と思った。今まで、果敢の仕事ぶりを見てきた石渡としては、彼の積極的な行動はすべて危うく映っていたのである。事実、果敢の仕事結果は会社に膨大(ぼうだい)な利益を齎(もたらし)たこともあったが、反面、多大の損失を計上したこともあった。概(がい)して、大きなリスクが伴(ともな)う企画となっていた。それに比(ひ)し、石渡は慎重の上にも慎重を重んじたから、結果は必ず出た。ただ、慎重な分だけ時期が遅れ、その利益は軽微(けいび)で、よくても中程度の営業成績となった。
 果敢の企画書を手に取って見る迷川は、その構想の大きさに唖然(あぜん)とした。莫大(ばくだい)な出費を必要とする企画案だった。ただ、成功すれば、その倍の利益は見込めたのである。
「石渡君、どうかね、これ…」
 迷川は課長の風格をチラつかせ、少し偉ぶって石渡に企画書を渡した。石渡は、その企画書に軽く目を通し、すぐ思った。危ない危ない…と。
「…どうなんでしょうか」
 石渡の口から出た言葉は、Yes,でもNo,でもなかった。内心では警報の赤ランプが激しく点滅し、脳裡(のうり)で警報音がけたたましく鳴っていたが、彼は暈(ぼか)した言葉を口から吐(は)いた。
「そうか…。まあ、考えておくよ」
 迷川も果敢に対し、迷って返答を暈した。石渡は内心で危ない危ない…を繰(く)り返した。

                              完

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2015年5月30日 (土)

生活短編集 82 浄水器物損事件?

 いつもは意識せず使っている浄水器から出る微妙な音に彦上(ひこがみ)は、ふと気づいた。蛇口を捻(ひね)ると、浄水器が接続されているから濾過(ろか)された水は当然、浄水器の先端から勢いよく吹き出る。彦上はもっぱら飲料水用として使用していたから、食器とかの洗浄とは区別して使っていた。言い忘れたが、彦上の洗面台の蛇口は2ヶ所あって、片方は洗浄用の普通の水、そしてもう一方が浄水器を接続した飲料用の蛇口となっていた。
 浄水器には濾過された水ホースと、もう一方の排水されるホースがある。彦上が微妙な音に気づき、浄水器を注視した。すると、排水ホースの先端からその音がしていることに気づいた。蛇口は締(し)めてあるのだから、水が出る訳がないのだ。それが、排水ホースの先端から時折りブクッ! と泡(あわ)と僅(わず)かな水が出ているのだった。彦上はおやっ? と思った。以前からこうだったんだろうか…と。もし、そうだとすれば、彦上が気づかなかっただけなのだから、取り分けて問題視することはないのである。ただそれが、他に問題があるなら話は別である。浄水器、蛇口、その他の原因を探(さぐ)らねばならないのだ。彦上は犯人を解き明かす辣腕(らつわん)刑事(デカ)になった気分で洗面台の捜査を開始した。浄水器物損事件? である。
 一時間後、ゴチャゴチャと一応、細かなところは調べたが、めぼしい手がかりは見つからなかった。要は、原因不明でお手上げ状態・・ということである。行き詰(づま)ったか…と彦上は思った。原因が判明しない以上、仕方がない。彦上は気づかなかった態(てい)で意識しないようにしようとした。ところが、である。今度は微細な冷蔵庫の音に気づいてしまった。彦上はふたたび、こんな音、以前したか? と冷蔵庫を眺(なが)めながら巡った。そういや、していたぞ…いや、していなかったーと迷いが生じた。事件? は意外な方向へと進展を見せ始めたのだった。
 彦上がしばらく冷蔵庫のドアを開け閉(し)めしていると、冷蔵室に隙間(すきま)が出来ていることを発見した。彦上は収納物を一端、出して入れ直した。すると、ピタリと音はしなくなった。結果、この一件は割合、早く落着したのである。さてそうなると、残るは未解決の浄水器だった。彦上はもう一度、浄水器を注視し、蛇口に接続した浄水器を外した。蛇口の先端からポタポタッ・・と、水が漏れていた。蛇口内のケレップのゴム製パッキン部分が摩耗(まもう)している…と考えられた。彦上はプライヤー、ウオーターポンプレンチと呼ばれる修理工具を出すと一端、水道の元栓(もとせん)を止め、ケレップを付け替えた。すると、何もなかったかのように浄水器のホースは、先から水を出すことをやめていた。当然といえば当然で、犯人は擦(す)り減ったケレップのゴム製パッキン部分と判明した。なんだ…初めから気づいて付け替えていりゃ事件にはなってなかったのか…と彦上は、あんぐりした。

                                完

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2015年5月29日 (金)

生活短編集 81 やる気

 年金を減らされ、心が萎(な)えたところへ、健康保険料の増額である。春には消費税が上がり、本岡はトリプルパンチの支出増にすっかりやる気を削(そ)がれていた。
「所得税でとればいいのにな…」
 本岡はポツリと呟(つぶや)いた。彼の心には、かねてより一つの思いがあったのだ。どうも国力が萎えているぞ…さ生意気に思った。本岡ひとりで解決できるはずもない途方もなくドでかい発想だったが、本岡は自分の考えは間違っていない…と、確信していた。
 本岡の考えは、こうである。国の人口は次第に老齢化しているという。それに伴う年金支給額も増加しているらしい。結果、財源の捻出(ねんしゅつ)に新たな国債発行に依存せざるを得ない・・となるようだ。国の今の制度は、年金支給対象の老齢者が働けば年金を減らす! としている。ここが間違ってるんじゃないか・・と本岡は発想したのである。老齢化しているなら、①として、老齢の働ける人には門戸を開けて、大いに働いてもらえる環境を作ればいいじゃないか! という怒りの発想である。②は、年金はその人が働いてきた積立金+長年の労働に対する感謝とお礼じゃないのか? 働いたからといって年金を減額するというのは間違っているという怒りの発想である。さらに③は、それに関連した発想で、大いに働いてもらった税は所得税で納めてもらえばいいじゃないか! という怒りの発想なのだ。こうすれば、国民生活も向上し、国の財源も潤(うるお)って国力は強くなる…と本岡は確信していた。藩政を改革し、米沢藩の財政をを立て直した江戸期の藩主でして経済人だった上杉鷹山[治憲]を深く敬愛する本岡は、現在の国の現状をいろいろと考えたのだ。そして辿(たど)りついたのが、この発想だった。
 いつの間にか夕方近くになっていた。本岡は法人税を下げても国力は回復しないぞ…と思う自分がアホに思えた。自分一人の身も処(しょ)せない自分が、考えることではない…という思いに至ったのである。ひとりのことを考えよう…そこから、すべてが始まるのだと…。本岡にやる気が、ふたたび出ていた。意味なく笑え、悟(さと)った思いで湯呑(ゆの)みの茶を啜(すす)った本岡だったが、茶は熱すぎ、舌を火傷(やけど)した。ヒリヒリする舌で、本岡のやる気はまた失せた。

                               完

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2015年5月28日 (木)

生活短編集 80 曇天[どんてん]

 小丸(おまる)が目覚めてトイレの窓から外を眺(なが)めると、梅雨の中休みでもないのだろうが、空は今にも降りそうで、渋(しぶ)とく持ち堪(こた)えていた。さ~て、どうするか…と、小丸は迷(まよ)った。というのも、天気がよければ伸びた枝の整枝作業をしよう…と、昨夜から密(ひそ)かに思い描いていたのである。ところが、今朝のこの空模様である。降るようでもあり、降らずに一日が終わる可能性もあった。こういう中途半端は困るのである。小丸は便秘ぎみの便を出そうと必死にいきみながら、「困るよ、そういうのは…!」と、空を眺めてひとりごちた。
 一時間後、小丸は結局、剪定(せんてい)用の高枝鋏(たかえだばさみ)を握って作業をしていた。朝も食べず、トイレを出て、作業にかかったのだった。心の奥底には、降る前に…という警戒心があった。最初は朝の冷気が残っていたから気分よく作業は進んだが、九時を過ぎると、蒸(む)し暑さが肌に纏(まと)わりつくようになり、事態は一変した。ジトジトと汗が小丸の身体を覆(おお)っていったのである。曇天(どんてん)はコレだから…と、小丸は見えない相手に怒った。
 結局、作業は程(ほど)よいところで中入りとなった。腹が減っていることに小丸は気づいたのである。食べるのを忘れるのは増加気味の体重を減らすには丁度いい作業なのだが、さすがに汗は拭(ふ)かないと風邪をひいて藪蛇(やぶへび)だろう…と図太い小丸にも思えたのだった。ただ、小丸の性格上、途中で作業を放っぽらかしておくのは彼の心が許さなかったから、家の中で他のことをやっていても、なぜか心が落ちつかなかった。
 夕方、小丸はふたたび作業をやり始めた。少し気温が下がり湿気が失(う)せたのと、曇天のまま降らなかったこともあった。ほとんど終わったとき、ポツリポツリと雨粒が落ち始めた。七時前にはなっていたが、まだ充分、外は明るかった。小丸は、空を眺め、「よくやった!」と、持ち堪えた空と自分を褒(ほ)め讃(たた)えた。

                              完

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2015年5月27日 (水)

生活短編集 79 ゾォ~っとする

 とにかく冷えたい…と今里は思った。今年はすでに六月から暑いのである。それも、猛暑日すら出る地方があった。これでは、とても今年の夏は越せそうにないぞ…と、今里は漠然(ばくぜん)と思った。
 今里は氷柱男で、冬場の寒さには滅法、強いのだが、反比例して夏の暑さには、めっきり弱く、解けて痩せ衰える体質だった。その夏日が梅雨も明けないというのに、すでに今里を攻撃し始めていた。日中、30℃を超えた昼下がり、今里はパタパタと怨(うら)めしげに団扇(うちわ)を煽(あお)りながら、部屋の窓から空を眺(なが)めてゾォ~っとした。彼は、今すぐにでもマイナス数十度以下の冷凍庫に入って凍(こお)りつきたい心境だった。今里の額(ひたい)から、氷が解(と)けるように汗がポタポタと滴(したた)り落ちた。今里は腰に下げたタオルで汗を拭(ぬぐ)った。
「上空の気流の蛇行が変化しており、そこへ南からの暖かい…」
 納得が行く理由はあるもので、テレビに流れる気象庁の天気分析では、どうも異常な天気状況が原因のようだった。そんなことは、どうでもいいんだ…と、今里は思った。この現状をなんとかしてくれればよかったのである。こうも暑くては、今日、支給される年金を引きおろしにも行けやしない…と切実に思えた。熱中症にでもなって倒れれば大ごとだ。水筒持参だな…と、今里は水筒を収納棚から出して氷水を入れて出た。玄関を施錠(せじょう)して道路を歩き始めたとき、袋に入れたはずの肝心の通帳が見当たらず、今里はゾォ~っとした。幸い、袋へ入れ忘れたことに気づき、慌(あわ)てて家内へ戻(もど)ってホッとした。ふたたび、袋を持って出かけた。汗は流れるが、これはまあタオルで拭(ふ)けば済むことである。もう、ゾォ~っとすることもなかろう…と、郵便局へ入って、通帳を自動現金支払機に入れた。お金を袋へ入れ、通帳を見たとき、今里はふたたびゾォ~っとした。支給額が減らされていた。

                                完

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2015年5月26日 (火)

生活短編集 78 弱らない男

 池辺はタフな男である。誰も彼が弱った姿を見た者がない。というか、彼の前ではそういった事態は起きなった。池辺が、いとも簡単に熟(こな)してしまうからだった。
「池辺さん、お願いします!」
「おっ! 分かった…」
 池辺が数人前、やってしまうことは工場内の誰もが知っていたから、手に負えない仕事量が舞い込んだときはすぐに池辺にお鉢が回った。その分、池辺は事務所の休憩室で寛(くつろ)ぎながら悠然と休めるのだ。池辺だけに適用された、いわば変則のフレックスタイム制だった。
「ウワァ~~!! すっげぇな! さすがは池辺さんだ…」
 工場の同僚(どうりょう)達から歓声が上がった。池辺が腰を上げ、事務所を出てからまだ十分も経(た)っていなかった。池辺は頼まれた仕事量を終え、悠然(ゆうぜん)と事務所へ戻ってきた。息を切らして疲れる素振りなどは一切なく、元気そのものなのである。
「おい! あの人、人間だよな?」
「そら、人間さ。見てのとおり…。だろ?」
「なんだい、お前も疑(うたぐ)ってんのか?」
「ははは…実のところは、な」
「そうだよな、あの怪力と素速(すばや)さには参るよ。とても人間とは思えん」
「ああ…。プロの格闘技や大相撲なんかで十分、通用すんじゃないか?」
「俺もそう思う…」
 同僚の二人が遠窓越しに池辺を見て言った。池辺の体格は、そう目立った大柄ではない。彼のタフさは幼い頃から両親を驚かせ、将来は大物になるに違いない…と期待させたりもした。だが、弱らないだけで出世できる世間ではなく、気づいたとき、池辺は町工場で働いていたのである。場違いに思えたが、タフさ以外、これといって他人より抜きん出た特技がない以上、相応なのか…とも思わせた。
 そんな弱らない池辺が活躍する場が出来た。
「お前、オリンピック出ないか?」
 池辺は幸か不幸か、運動能力に長(た)けていた。言われるままトライアスロンに出場し、すぐ頭角を現した。そして、訓練と練習によりメキメキと腕を上げ、世界の頂点に君臨したのだった。超人的な池辺を、世界中のマスコミは偉大な人物として書きたてた。だが彼は、そんなプレッシャーにも弱らず、強い男として工員を続けた。

                               完

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2015年5月25日 (月)

生活短編集 77 さて…

 竹川が雑用を終えると、一瞬の間合いが出来た。次にすることを予定していなかったからである。一瞬の間合いは行動を停止させてしまう。瞬間に出来た隙(すき)であり、油断でもある。剣道や柔道…いや、それらに限ったことではないが、その間合いを突かれると、脆(もろ)くも崩れ去ることになる。古くは、油断を突かれた桶狭間の戦いなどが具体例である。
「あなた! 何もしてないなら、お布団、叩(たた)いてよ」
 天気がよいというので、客用の座布団を
虫 干(むしぼ)しがてら干した妻が、停止して座った竹川を呼んだ。
「んっ? ああ…」
 別に先の予定がない竹川は、仕方なく緩慢(かんまん)に立ち上がると庭へ向かった。庭に広げられたビニールシートの上には、何枚かの客用座布団が干されていた。布団叩きの棒も、お願いします! とばかりに、都合よく置かれていた。まあ、よく考えれば竹川には都合悪く置かれていたのだが…。これで叩くのか…と、竹川はウンザリした気分で布団叩きを手にした。叩こうとした竹川は次の瞬間、待てよ…と思った。叩けば、もろに埃(ほこり)を吸い込むことになる。竹川は、さて…と、停止した。マスクは? また部屋に戻(もど)って出さないといけないか…と、竹川は、すっかり気重(きおも)になった。幸い、妻の目は届かないから叩いたことに…と竹川はズルをしよう思った。しめしめ、である。さて…と、ほくそ笑んで中へ入ろうとした竹川だったが、そうは問屋が卸(おろ)さなかった。
「あなた、これ…」
 妻が奥からマスクを持って現れたのだった。敵もさる者である。狙(ねら)った獲物は逃がさないか…と、竹川は観念した。
「あ…、今、取りにいこうと思ってたんだ、ありがとう」
 妻に真逆の礼まで言わされ、さっぱりだ! と、竹川は怒る対象もなく、内心で怒れた。が、仕方がない。竹川はマスクをすると、布団を叩き始めた。妻はそれを見ると、中へ引っ込んだ。とんだ休みだな…と竹川は座布団を一枚ずつ叩きながら思った。
 叩き終えたとき、竹川は、さて…と腕を見た。まだ昼には少し時間があった。竹川は庭の椅子に座り、欠伸(あくび)をしながら青空を見上げた。木漏れ日が眠気を誘った。心身ともに疲れが溜(た)まった竹川は、いつの間にか眠っていた。

                             完

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2015年5月24日 (日)

生活短編集 76 危機感

 鳥淵(とりぶち)は絶えずビクビクしていた。家の中でも、外へ出ても、その心理は変化しなかった。彼にはすべてのものが危うく見えていた。この傾向は今に始まったことではなく幼い頃だったから、周囲の者達にはどうしようもなかった。取り分けて、他人に迷惑をかける性質のものではなかったから、鳥淵はそのまま成人した。心配性なだけで、行動に異常は見られず、一般生活では普通人と何ら遜色(そんしょく)はなかったのである。だが、彼の心理は絶えず混乱していた。
 新幹線に乗れば、まず駅の構内の線路に視線が行ってビクビクした。
『こんな細い線路を時速数百キロで走るなんて…』
 鳥淵には、そんな列車の走行がとても危険に思えた。普通路線の脱線 転覆(てんぷく)事故とか踏切事故などが、すぐ鳥淵の脳裡(のうり)を掠(かす)めるのだ。これなどは極端な例だが、普通に道路を歩いているときでも、鳥淵はビクビクして歩いていた。周囲の人がそういう彼に気づきソワソワしたりした。鳥淵はこりゃ、まずいぞ…と思え、それ以降、外出にはマスクと帽子で完全武装し、表情を悟られないようにした。鳥淵がビクビク危うく思えるのは何も物に限ったことではなかった。人物に対してもそうなのである。話す相手が自分に何を思っているのか、自分をどうしようとしているのか、自分に何を望んでいるのか…と考えれば、ドキドキ感は鳥淵の中で一層、増幅された。だから職場は彼にとって非常に危うい存在だった。人との接触、事物との遭遇…と、鳥淵のビクビク感を助長する対象は、人の想像を遥(はる)かに超える情報量になっていた。そんな鳥淵だったから、一日が終われば、グッタリと疲れた。幸い、大いに食欲はあったから、彼は食べることで救われた。食べると鳥淵は萎(しぼ)んだ風船が膨(ふく)らむように元気になった。鳥淵の元気回復の源泉を加えるなら、食後のテレビ、読書、音楽鑑賞、そして眠るときだった。
 あるとき、鳥淵を危機感が襲った。そのドキドキする心理は、今までのモノとは違い、目に見えない、いわば気配のような悪い予感だった。その危機感は彼の身体を走らせ、人々を退避(たいひ)させようと無意識に行動させていた。鳥淵は街頭(がいとう)に立ち、拡声器のマイクを握りしめ、声を張り上げていた。不思議なことに、鳥淵のビクビク感は微塵(みじん)もなく消え去っていた。それがなぜなのかは鳥淵自身にも分からなかった。ただ、鳥淵は叫び続けていた。ゆったりと歩く舗道の人々は、血相を変えて走る鳥淵を見て、視線を向け、立ち止った。やがて人々は、そんな彼を哀(あわ)れな目で見ながら通り過ぎていった。彼らには鳥淵が変人に思えたに違いなかった。
 夜になっていた。飛び出したのは職場の昼休みだったことを鳥淵は、ふと思い出した。鳥淵自身にもなぜこの危機感が自分に芽生えたのか? が分からなかった。まだ、危機感はヒシヒシと彼の身を包んでいた。
 その一時間後、直下型の大地震が都心を襲った、鳥淵は車を走らせ真夜中の奥多摩の山中にいた。停止させた車の中で、鳥淵は震えながらカ-ラジオが伝える都心の惨状に耳を欹(そばだ)てていた。

                          完

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2015年5月23日 (土)

生活短編集 75 時の人  

 リストラされた宮坂次郎は、仕事にあぶれていた。ハローワークへは足繁く通っていたが、ヒットした仕事がなかった。そんな日々が続いた。ある日の夜、テレビをつけると、芸能人が高級車から降りて画面に映った。
「ははは…、今はこうですがね。その日暮らしで腹ペコの日もあったんですよ」
 その芸能人は少し偉ぶり、インタビュアーの質問に上から目線で語った。それを聞きながら、宮坂は鮭缶にソースをかけて食べた。瞬間、宮坂は時の人になりたい…と漠然(ばくぜん)と思った。そのためには、まず他人に抜きん出た何かが自分に必要だった。宮坂は、ジィ~~っと自分のそれまでを考えたが、これといって他人に抜きんでたところは浮かばなかった。宮坂は、よし! ここは一つ、有名になる努力をしよう…と密(ひそ)かに思った。では、どうするかだ。宮坂は目立とうと思った。だが、よ~く考えれば、宮坂は人一倍、恥ずかしがり屋で、人前に出るのが苦手(にがて)だった。人前へ出るのが駄目では元も子もない。諦(あきら)めるしかないか…と、宮坂の意気込みは一気に萎(な)えてしまった。
 数日後、ふとしたことで、また宮坂は復活した。それは、縫(ぬ)いぐるみの仕事だった。ゆるキャラ全盛の昨今、この手のアルバイトは幾つかあった。宮坂は戸惑いなく、そのアルバイトに決めた。顔を知られることなく人前へ立てる・・という気分が後(あと)押しした。運よく、上手(うま)い具合に宮坂の被(かぶ)ったゆるキャラはどんどん人気が出て、わずか数ヶ月で押すな押すなの人気者になった。テレビも取材に来たりした。声こそ出せなかったが、宮坂は満足だった。そしてついに、ゆるキャラ大会やテレビ番組にもお呼びがかかるようになった。時の人になりたい…と願った宮坂の初期の目的は大方、果たせたのである。ただ、宮坂が予期しなかった苦労も出始めた。人気が出るにつれ、スケジュールの立てこみによる慌(あわ)ただしさが増し始めたのだった。時の人になりたかった宮坂は、少しぐらいは…と当初、覚悟していた。だが一年後、人気に伴う忙(いそが)しさは尋常ではなくなった。
「休みたいんですが…」
「駄目だよ! 明日は重要なイベントなんだから…。君しかいないし、穴は開けられんよ!」
 倒れる以外、休める手段はなかった。二年後、宮坂は時の人を諦(あきら)め、普通の人に戻(もど)っていた。
 

                                完

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2015年5月22日 (金)

生活短編集 74  ラブラブ幽霊

[お囃子(はやし)の中を登場]
 え~落語が、大きく掻(か)い摘(つ)まんで古典と新作に分かれておりますことは、今更(いまさら)申すまでもなく、皆さん、ようご存知の事実でございます。…別に掻い摘ままんでもよろしい訳ですが[少し間合いをおいて微笑(ほほえ)み]、まあ、そのような実態のないモノなんでございます。
 私は、かねがね、その中間のモノがあってもいいんじゃないか…と思っておりました。いわば、古典風新作、あるいは新作風古典と申しますか、そのようなものでございます。本日、ご入場下さいました皆さま方は果報者であられます。と申しますのも、今日はこの高座をお借りいたしまして、その新作らしからぬ古典、古典らしからぬ新作の一席にて皆さま方のご機嫌を伺(うかが)おうと、かように考えておるような次第なのでございます。え~お耳汚しになろうかとは存じますが、なにとぞ最後までお付き合いのほど、お願いを申し上げます。飽くまでも実験でございます。成功するもしないも、お客さま方のお笑い次第と…まあ、そんな大層なものでもございませんで[小さく笑い]、お聞き流しのほどをお願いいたします。
[茶を啜(すす)る]
 以前、私が皆さま方にご機嫌を伺(うかが)いました地獄亡者のどうたらこうたら話でございますが、私自身が申すのもなんでございますが、割と受けがよいんでございますね。え~え~、そうなんですよ。そこで笑っておられるお人なんか、お聞きいただいたのか…と思うんでございますが、特にこれからの季節、暑うなっておりますから、猫も杓子(しゃくし)も三味線も、え~そうでございますよ。皆、冷えたい訳でございます。
[羽織を脱ぐ]
 夏の夕闇でございます。中年の男連れ二人がとある濠(ほり)ぞいを歩いております。
「どやねんな? ここんとこ出んが…」
「アホなこと言いないな。そんなもん、度々(たびたび)出てどうするねん。出たら怖(こわ)いがな~」
「そら、怖いがな。おまはんやのうても、わてでも怖いがな」
「そやろ~。お江戸の時代かららしいな。親父(おやじ)が言(ゆ)うとった。なんか、年季の入った幽霊らしいでぇ~」
「そら、そうや。何百年も出っぱなしなんやさかい」
「休みなしの出っぱなしか…。そら、しんどいわな」
 二人が漫(そぞ)ろ歩きながらワイワイとやっております池濠(いけぼり)の界隈(かいわい)、ここが江戸の昔より出るのでございます。それも恨みと申すものではございませんで、♪逢いたさ見たさに怖さを忘れぇ~♪[唄う]といった色ぼけ幽霊なのでございます。…まあ、幽霊が怖がるというのも、なんでございますが…。
[お囃子の怪談太鼓と横笛が、舞台の袖(そで)で、もの凄く…]
「なんやら、生暖(なまあたた)かい風が吹いてきたでぇ~[少し震えながら]」
「そろそろ、出よるんかいな」
『出ましたでぇ~~。タイムスリップしてますぅ~~』
「ギャア~~!!」「ギャア~~!!」 
 二人は駆け出します。しかし、幽霊は速いですわな。そら、そうです。なんせ、足がおませんよって、瞬(またた)く間(ま)に二人に追いつきます。
『そない怖がらんと、待っとくんなはれぇ~~』
 ひょいと、幽霊が二人の後ろ姿を指さしますというと、二人の身体がピタリ! と止まります。身体は止まっておりますが、足だけは同じところを走っております。二人は前へと走ってるつもりなんでございます。しかし、同じところで動いておりません。
『あんた方を、どうこうするとゆうにゃ、あらしまへんにゃ~~』
 足は動きませんから、幽霊は二人にすぐ、追いついて前へと出ます。
「なんまんだぶぅ~、なんまんだぶぅ~~!」
『あのぉ~、こんなん見やはらしまへんでした?』
 幽霊は女の筆絵を二人の前へと示します。
「ほん! 見たことありますがな、あんさん。これはうちの嫁の妹だ!」
「ああ、そやそや」
 恐る恐る顔を上げた二人は、いつの間にか不思議なことに、怖さを忘れております。
『お義兄(にい)さまぁ~~』
 幽霊は一人の男に擦(す)り寄ります。その男は、ふたたびゾォ~~っといたします。怖いのやのうて、幽霊の凍るような冷気ですな。
「どないなことで?」
『あんさんの、お連れの妹さんは、私がラブラブのこいさんでおますぅ~~』
「ラブラブて…。んっな馬鹿な!!」
『遠い遠い昔の話でございますぅ~~。今からおよそ350年ばかり前ぇ~』
 二人は話に驚きます。
「こいさん! と言わはりますと、お商売関係で?」
『へえ、立売堀(いたちぼり)の御店(おたな)の…』
「そいで、私にどないせえと?」
『どないもこないも、こいさんに、ひと目逢いたいだけでございますぅ~』
「逢わはったらよろしいがな。あんさん、幽霊だっしゃろ? スウ~っと」
『駄目なんでございますぅ~。私、こう見えて人見知りでぇ~』
「幽霊が人見知りて…」
 二人は陽気に小さく笑います。幽霊は陽気にとは参りませんで、陰気に小さく笑います。
 かくして、すっかり意気投合いたしました二人と幽霊、夜っぴいてラブラブ成就(じょうじゅ)の手を考えることになります。え~お話の半(なか)ばではございますが、長(なご)うなりますんでここで一端、席を立たせていただきとう存じます。後半は、一服させていただいたあとで…。えっ? ほら、あんさん、私かて長噺(ながばなし)はしんどいですがな。
[笑いながら軽くお辞儀をし、席を立つと舞台の袖へと消える]

○ 幕間 ○

[お囃子(はやし)もなく、楚々と登場]
 お囃子(はやし)がないと、なんか普通~のおっさんですな。味も素っ気(け)もあらしませんが…[小笑いしながら客席を見回し、間合いを取る]。
 え~前半に引き続き、お付き合いのほどをお願い申し上げます。…どこまでお噺(はな)し、しましたんやろな?[最前列の客に態(わざ)と、伺(うかがい)いを立てる]あっ! そうそう…そうでした![思い出した態(てい)]
 男のラブラブ成就(じょうじゅ)の手を考えようということになりました二人の男と幽霊、立ち話もなんやというんで、…どっちみち幽霊は座れないんでございますが[小笑いし]、静かな暗闇の公園へとやって参ります。幸い、人影もなく、ここならと、二人はベンチへ座り、幽霊はその前へ足を揺らしながら立っております。
「嫁はんに言(ゆ)うて、口実つけて娘さんを呼び出すっていうんは?」
「ほやな、それがええな…。あんさんは、チラ見したら、それでいいんでっしゃろ?」
『へえ。好きやった…とさえ、言うてもろたら』
「告(こく)るんかい!」
『へえ。偉(えら)いすいません。思いの丈(たけ)を伝えな、アチラへ帰られしまへんにゃ』
「江戸時代からでしたな?」
『へえ、タイムスリップしてますぅ~~』
「そこは、英語かい! ハイカラなお人や。まあ、なんとかしまひょ」
「そやけど、娘さんはあんたのこと知らはらしまへんのやろ?」
『あっ! それは大丈夫なんです。あちらでコレを渡されてますよって』
 幽霊は光り輝くオガラの棒を胸元から出します。その長さ、鉛筆程度でございます。
「ほう…それを、どないしなはりますにゃ?」
『このように向けますと、少しの間だけ、前世の記憶が戻(もど)るという寸法でして…』
「なるほど!」「なるほど!」
 二人、腕を組みながら頷(うなず)いて、同時に感心します。
『なにぶん、よろしゅう~』
 話はスンナリと纏(まと)まり、幽霊は二人の前からスゥ~っと消えます。
 さて後日、嫁さんに口実をつけ、娘を呼び出した男、娘をどうたらこうたらと言い含めます。娘は誰かも分からず仕方なく、言われた場所で現れる男を待っております。そこへ、幽霊は蒼白く顔を染め、…ここは幽霊でございますから赤くないんでございますね。で、オガラの棒を娘に向けます。その瞬間、娘に前世の記憶が戻り、幽霊が見えます。
「ああ、あなたは…」
『す、好きでしたぁ~~!』
 数百年のラブラブの思いを伝え、心の丈を晴らした幽霊はスゥ~っとアチラへと消え去り、成仏をいたします…たぶん[ニヤけて]。いや、私もアチラのことは分からしませんのでね、悪(あ)しからず…という落ちでございます[客席に笑顔で軽く頭を下げ]。
 まあ、こういう時代を越えたラブラブ幽霊の噺(はなし)でございますけれど、この幽霊 噺(ばなし)は、もっか編集中でございまして、今度、正式にお披露目させていただくときは、もう少し面白くラブラブに、アチラの時代味も加えて、と考えております。長々と貴重な皆さま方のお時間を頂戴(ちょうだい)致しましたことを深くお詫(わ)びいたします。本日は、不調法をお聞きいただき、誠に有難うございました。
[お囃子に乗り、陽気に舞台の袖へと立ち去る]
 

                             完

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2015年5月21日 (木)

生活短編集 73 忘れた頃に…

 災難と幸運は忘れた頃に…とは、よく言う。この男、七橋(ななはし)は、それを実体験した男だった。
「ははは…いくらなんでも、今日は降らんだろう!」
 確信し、傘を持たず出張先へ出かけたまではよかったが、一時間後、天気は急変して土砂降(どしゃぶ)りとなり、七橋は動きが取れなくなってしまった。それも、先方の会社がある駅へ着いた途端である。駅からは徒歩で十数分だった。近いからタクシーを…と思った七橋だったが、待てよ! という、さもしい発想が浮かんだ。さもしいとは、タクシー代を浮かせ、美味(うま)い肝吸(きもす)い付きの鰻重御膳を戴(いただ)こう…という魂胆(こんたん)の閃(ひらめ)きである。七橋の会社の出張旅費は交通費+宿泊旅費+予備費で構成されていた。交通費は目的地までの運賃+αである。αや予備費を抑えて宿泊旅費へ回そうと、それは個人の自由だったから、七橋はそちらを選んだのである。
 さて、動きが取れなくなった七橋は、駅で使い捨ての傘を買った。ところが、駅を出た途端、雨はピタリ! とやみ、買った傘は用無しとなってしまった。それでもまあ、仕方ないか…と、ブラブラ振り回しながら七橋は無事、先方の会社へ着いた。この会社へは足繁(あししげ)く出張していたから、大方(おおかた)の段取りは把握(はあく)している七橋だった。
「やあ、七橋さん! 今日は、どういった?」
「はあ、今日は…」
 そのとき、七橋は家の玄関へ鞄(かばん)を置き忘れてきたことに気づいた。まさに、災難は忘れた頃に…である。用意周到な七橋としては完全な凡ミスである。いやそれは、心の隙(すき)に芽生えた馴れという油断だったのかも知れない。
「すみません。実は、かくかくしかじか、でして…」
「ああ! かくかくしかじか、でしたか。ははは…そういうポカ、私もたまに、あります。いいですよ! 私と七橋さんの仲じゃないですか。ファクスで内容だけ送って貰(もら)えれば…」
「契約書は?」
「幸い、上手い具合にうちの平田がそちらの方へ明日、回りますので、契約書は、その折り持たせます」
「そうして戴くと、助かります!」
 地獄に仏だ…と、七橋は思った。
 こうして、七橋の災難はなんとか去った。出張目的を果(は)たし先方の会社を出ると、昼前になっていた。残った時間はどう使おうと自由である。腹も適度に空(す)いていた。七橋の頭に鰻重御膳が浮かんだ。七橋はいつも寄る店へと入った。相変わらず手には使い捨ての傘があった。邪魔だったが無碍(むげ)に捨てる訳にもいかず、まあ、仕方ないか…と手に持ち、店へ入ることにした。
「いらっしゃいまし!!」
 店の中にはいつもの写真入りの品(しな)書きが座席の上にあった。七橋が品書きを手にすると、その中に新顔メニューがあった。
「このメニューは?」
「新メニューの鰻丼御膳でございます」
 値段を見れば、鰻重御膳よりは格段に値が安い。だが、写真では鰻丼御膳の方がゴージャスで、品数も多く白焼きさえ付いている。どう見ても七橋には逆に思えた。それでもまあ、安いし…と思え、新顔にした。ところが、である。味がなんとも薄く、ほとんどなかった。七橋は、しまった! と思った。だが、もう遅い。欲を出したのと馴れが招いた災難だった。忘れた頃に…だな、と七橋は思った。味はともかくとして、まあそれでも安くて栄養は取れたさ…と七橋は軽く流してお勘定を済ませた。
 店を出ると、また土砂降りになっていた。手には…不要と思っていた傘がある。七橋は、忘れた頃に…だなと、満足げに傘を開いた。

                             完

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2015年5月20日 (水)

生活短編集 72 梅雨[つゆ]

 梅雨(つゆ)の雨は恨(うら)めしく、幽霊のようにジトジト降るものだ…と浜草は思っていた。ところが、さにあらずだ。昨日なんか、バケツをひっくり返したかのような豪雨で、川向うの家々は床下(ゆかした)まで浸水したのである。こっちが恨めしいわ! という顔で、浜草は灰色に曇る梅雨空を見上げた。幸か不幸か、浜草が住む一帯はジトジト雨で豪雨は降った試(ため)しがなかった。今日も朝からジトジトと降り続いていた。筆が進まず、今日は寝るに任すか…と浜草は少し怠惰に思った。ここのところ少し無理をして原稿を送っていたから、疲れもそれなりに溜(た)まっていたのである。無理をすると、疲れて目が霞(かす)むようになった。若い頃はそんなことはなかったが…と浜草は身体の衰えを感じ、ネガティブになった。
「ムツの味噌漬けを焼きましたよ…」
 妻の小夜子が現れ、応接椅子に寝転んだ浜草をチラ見して言った。浜草が銀ムツの味噌漬け焼きが好きなことは小夜子が一番よく知っている。グデ~ンとしかけたときには効果抜群! ということもよく心得ていた。案の定、浜草は飛び起きた。すでに身体が台所へと向かっていた。浜草の場合、まず味噌漬けの焼けた香ばしい匂(にお)いから賞味するのが手順だった。この匂いは焼けた直後でなければ駄目なのである。しばらくしてからでは、モノが冷えて、肝心のいい匂いを放たなくなるからだった。匂いを賞味しないと食欲も今一となる。浜草は小走りに台所へと急いだ。
 台所には、焼けたての味噌焼きが湯気を上げていた。よし! いい匂いだ…と、浜草は匂いを賞味した。自然と、舌に唾液(だえき)が溜(た)まるのが分かる。食欲全開だ。自然と浜草の手は動き、茶碗に温かいご飯を装(よそ)っていた。
 いつの間にかジトジトと降っていた雨は上がり、梅雨の雲の切れ間より日射しが差し込んだ。浜草は眩(まぶ)しげに梅雨空を眺(なが)め、味噌焼きを口へと運んだ。浜草の心の梅雨は、すっかり開けていた。

                                完

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2015年5月19日 (火)

生活短編集 71 一日

 こんな日があってもいいと、宮坂は深く考えないことにした。少し眠くなったので、まあいいか…と横になったのだが、うたた寝のつもりが、ついうっかりと数時間、眠ってしまい、気づけば外はすっかり暗くなっていた。午前中も今一、アグレッシブになれず、買っておいたインスタントもので済ませてしまった経緯があった。今日一日に限って考えれば反省材料ばかりなのだが、日々、繰(く)り返している一日の積み重ねを考えれば、休息の一日とも考えられた。だから、こんな日があってもいい・・という発想に至ったのである。ただ、今日が繰り返されては、流石(さすが)にそれはよくない…とは思えた。今日の一日は失点だが、繰り返される日々の積み重ねは得点であらねばならない! と宮坂は夜深く、シャワーを浴びながら一人ごちた。ぐっすり眠れたお蔭(かげ)で、疲れは幾らか遠退(とおの)いたようだった。
 宮坂は一日、24時間内に起点を作ることにした。それは24時間内ならいつでもよかった。その起点を中心にして一日を流すのである。例えば、昼下がりにグッスリと眠り、夕方から朝の動きをしてもいいのだ。ただ、仕事に支障があってはならないから、日中の拘束時間以外で考えねばならない。
 とかなんとか考えていた宮坂だったが、次の日になると、また少し眠くなって眠ってしまった。まあいいか…と横になったのだが、うたた寝のつもりが、ついうっかりと数時間、眠ってしまい、気づけば外はすっかり暗くなっていた。午前中も今一、アグレッシブになれず、買っておいたインスタントもので済ませてしまった経緯があった。今日一日に限って考えれば反省材料ばかりなのだが、日々、繰(く)り返している一日の積み重ねを考えれば、休息の一日とも考えられた。だから、こんな日があってもいい・・という発想に至ったのである。ただ、今日が繰り返されては、流石(さすが)にそれはよくない…とは思えた。今日の一日は失点だが、繰り返される日々の積み重ねは得点であらねばならない! と宮坂は夜深く、シャワーを浴びながら一人ごちた。ぐっすり眠れたお蔭(かげ)で、疲れは幾らか遠退(とおの)いたようだった。
 宮坂は一日、24時間内に起点を作ることにした。それは24時間内ならいつでもよかった。その起点を中心にして一日を流すのである。例えば、昼下がりにグッスリと眠り、夕方から朝の動きをしてもいいのだ。ただ、仕事に支障があってはならないから、日中の拘束時間以外で考えねばならない。
 とかなんとか考えていた宮坂だったが、次の日になると、また少し眠くなって眠ってしまった。まあいいか…と横になったのだが、うたた寝のつもりが、ついうっかりと数時間、眠ってしまい、気づけば外はすっかり暗くなっていた。午前中も今一、アグレッシブになれず、買っておいたインスタントもので済ませてしまった経緯があった。今日一日に限って考えれば反省材料ばかりなのだが、日々、繰(く)り返している一日の積み重ねを考えれば、休息の一日とも考えられた。だから、こんな日があってもいい・・という発想に至ったのである。ただ、今日が繰り返されては、流石(さすが)にそれはよくない…とは思えた。今日の一日は失点だが、繰り返される日々の積み重ねは得点であらねばならない! と宮坂は夜深く、シャワーを浴びながら一人ごちた。ぐっすり眠れたお蔭(かげ)で、疲れは幾らか遠退(とおの)いたようだった。
 宮坂は一日、24時間内に起点を作ることにした。それは24時間内ならいつでもよかった。その起点を中心にして一日を流すのである。例えば、昼下がりにグッスリと眠り、夕方から朝の動きをしてもいいのだ。ただ、仕事に支障があってはならないから、日中の拘束時間以外で考えねばならない。
 とかなんとか考えていた宮坂だったが、… … …。深夜、除夜の鐘がグォ~~~ンと遠くで鳴った。年の最後の一日が暮れようとしていた。

                              完

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2015年5月18日 (月)

生活短編集 70 揉[も]みほぐす

 上手(うま)い具合に柔らかくコトを納めるのが人間社会だ。牧園は、つくづくそう思った。というのは、こじれた契約先を宥(なだ)め、無事に契約を獲得できたからだ。コトが激突してこじれ、契約先を怒らせたのも不容易(ふようい)な自分の発言だったことを牧園は知っていた。契約先の凝(こ)った肩を、少しずつ柔らかく揉(も)みほぐすような口八丁で、コトはなったのである。
「なにを今さら! もう、君のとこからは金輪際(こんりんざい)、買わんからな!」
 一度、旋毛(つむじ)を曲げた契約先の毛梨(けなし)は、牧園の話を門前払いにし、禿(は)げて光った頭を横に振って取り合わなかった。
「そこを、なんとか…。この前のことは私の感違いによるものです。どうか、お許し下さい」
 牧園は豊富な毛を蓄(たくわ)えた頭を下げ、平身低頭(へいしんていとう)、謝罪した。
「… そんなことしても、無駄だよ! 私は忙(いそが)しいんだ、失礼する!」
 牧園は毛梨の弱点の情報を入手、分析し、柔らかくコトを収める手立てを考えていた。この手は、実のところ余り使いたくはなかった。ベテランの牧園にしては不容易な誤解で相手を怒らせ、反省していた。怒らせることはほとんどなかった牧園だったが、怒らせてしまった以上は仕方がない。ここは非常手段に出るしかない…と思え、弱点を突く手立てにしたのだ。
「この前、道玄坂を一緒に歩いておられたのは娘さんですか?」
 牧園の話題を変えた唐突な問いかけに、一瞬、毛梨は躊躇(ちゅうちょ)した。完全に縦パス一本からのシュートによる一点である。
「… ああ、そうだ。よく、知ってるな?」
 先ほどの鼻息が萎(な)え、毛梨の声は確実に弱くなっていた。
「毛梨さんには、お嬢さんはいなかったんじゃなかったですかね? 確か…」
 牧園は、毛梨をやんわりと揉みほぐしにかかった。
「おっ? ああ、そうだ! その、なんだ…姪(めい)だよ姪!」
 毛梨の声が狼狽(ろうばい)しだした。
「確か、一人っ子ってお聞きしてましたが…」
 牧園は毛梨の凝ったツボを押すように言った。毛梨は完全にうろたえて困惑した。
「その、なんだ、アレだ…」
 だが、上手い言い訳が口から出てこない。深追いせず、牧園は言葉を緩(ゆる)めた。
「まあ、どうでもいいことなんですが…。ひとつ、よろしくお願いします!」
「おっ? おお! …今の話は、忘れてくれよ」
 毛梨は辺りを見回しながら、さらに小さな小声で囁(ささや)いた。
「分かってますよ! よろしく!」
 牧園はニンマリと笑った。
「ああ…」
 毛梨は牧園によって完全に揉みほぐされていた。

                              完

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2015年5月17日 (日)

生活短編集 69 W杯<3>

 腹が減ったことも忘れ、サッカーフェチの蹴鞠(けまり)は、テレビ画面で躍動する選手達の動きに一喜一憂していた。4日前に行われたコスウタリンカとの親善試合に続き、今日のテストマッチはザンビラ戦である。蹴鞠の応援チームが、全日本の代表選手達であることは言うまでもなかった。
「攻撃は最大の防御・・と、言うからな!」
 画面を見ながら蹴鞠は一人ごちた。ザックバラーン監督が前線の攻撃陣であるフォワードの選手を8名選出したことに、蹴鞠は手ごたえを感じていた。今までの過去のW杯では考えられない攻撃的な布陣である。全選手23名=FW8+MF4+DF8+GK3という布陣だ。
「いいんじゃない…」
 画面を観ながら蹴鞠がそう呟(つぶや)いたとき、腹がグゥ~~! っと、大きく鳴った。ああ、観るのに夢中になり過ぎ、食べ忘れた…と気づいた。蹴鞠は立つとキッチンへ向かい、収納場所から箱買いのカップ麺の一つを出した。
「ゴォ~~ル!!」
 湯蓋(ゆぶた)に熱湯を注(そそ)ぎ入れたとき、蹴鞠は思わず叫んでいた。完全なフェチ状態である。それを自覚し、我に返った蹴鞠は苦笑いした。
 前回の安易な失点と決定力の弱さをいかに克服するかが決勝リーグのベスト8以上に勝ち残る最大の課題であることは、影のサポーターを自負する蹴鞠以外にも分かる周知の事実だった。
━ 決勝でブラジリアとぶつかったとしてだ…果して、メーマワルのあのサーカス芸のドリブルを躱(かわ)せるのだろうか? テレビで特集されたスペーンのチャビ、イエニスターの頭脳連携プレーもスゴい! 他にもアルゼチンのメッシー! オレンダのロッビン、ポットガルのロナウト、それに、あの国の… ━
 蹴鞠はカップ麺を啜(すす)りながら、意味なくフフフ…と小さく笑った。決勝という途轍(とてつ)もなく大きな理想マッチが、蹴鞠の脳裡(のうり)に浮かんでいた。そのとき、テレビ画面から歓声が湧いた。蹴鞠はカップ麺を置き、歓声に合わせて手を小さく叩(たた)いた。弾(はずみ)みでうっかりし、カップ麺が横倒しになって零(こぼ)れた。蹴鞠の気分は微妙な状態へと変化した。

                         完

 ※ 本作はW杯開催前の作で、希望的観測を付け加えさせて戴いております。

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2015年5月16日 (土)

生活短編集 68 ざくざくと

 金は、いくらあっても困るものではない…と巨万の富を前に舌舐(したな)めずりしていた桑木(くわき)だったが、税金の督促(とくそく)状を前にして、考え方が変わろうとしていた。金が齎(もたら)す夢のような快楽だけに浸(ひた)っていた彼だったが、突然、現実の酷(むご)さに直面させられ、金の持つ裏の魔力を感じたからだった。桑木は、この魔力から逃れたい…と、切に思った。
「札束が臭(にお)うようになったな。悪いが虫干しして銀行へ入れておいてくれ…」
「畏(かしこ)まりました、ご主人さま…」
「ああ、部屋の臭気(しゅうき)抜きもな…」
「ははっ!」
 執事は丁重にお辞儀すると、音を立てることなく桑木の前から消え去った。日本銀行の比ではない豪邸の特別金庫室には時価にして数百億以上の貴金属が眠っている。24時間、警備保障会社のガードマン数名が監視しており、さらに警備会社と直結した何ヶ所もの監視カメラによって厳重に守られていた。蟻が這(は)い出る隙間(すきま)もない・・とは正(まさ)にこの金庫室であった。そればかりではない。桑田の寝室の周囲には美術趣向で札束がピラミッド型に積まれ、恰(あたか)も日本建築の床の間に飾られた生け花の色彩を醸(かも)し出していた。むろん、洋間であるから絵画的な装飾の一部なのだが…。
 桑木は机の下に隠された純金製の押しボタン<1>を徐(おもむろ)に押すと、回転椅子をグルリと半回転した。桑木がボタン<1>を押した瞬間、側面の化粧板の一部がスゥ~っと開き、ボタン<2>が現れた。桑木はさらにその押しボタン<2>を押した。すると今度は、フロアの一部がスライドし、さらに押しボタン<3>が現れた。この所作を繰(く)り返し、桑木は深い溜め息をひとつ、吐いた。
「フゥ~~、いつもながら疲れる…」
 愚痴とも取れる呟きを漏らしたあと、桑木は十九度目の押しボタン<19>を押して腕を見た。五、六分は優に過ぎ去っていた。
「やれやれ、これで終わりだ…」
 桑木は、まるで子供がおやつの菓子を貰ったときのようにニタリと微笑(ほほえ)んだ。最終と思える押しボタン<20>が現れた。この押しボタン<20>だけは特大カラットのダイヤモンド製であった。桑木は両の手の平を擦り合わせると、ゆっくりと片手の人差し指でその押しボタン<20>を押した。その瞬間、部屋の側壁全体が少しずつ上がり、奥に別の黄金部屋が現れた。黄金部屋の中には、さらに硬貨の種類別にドアが幾つかあった。それぞれのドアには硬貨の現物が嵌(は)め込まれていた。桑木はその中の一つのドアを開けた。部屋の中には同じ種類の硬貨が、ざくざくとあった。その中にゆったりと座り込んだ桑木は背広のポケットから愛用の布を取り出し、『随分、あるなぁ~』という満足げな顔で一円硬貨を磨(みが)き始めた。

                              完

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2015年5月15日 (金)

生活短編集 67 特務課

 ここは特務課、通称、00[ダブルオー]課である。人事課とは一線を画(かく)してはいるが、ある意味で会社の頂点に存在し、特異な才を持った者達で構成されていた。その中の一人、起長(おきなが)は一度目覚めると、一週間は睡眠を必要としなかった。丸二日、すなわち48時間寝続け、一週間起き続けられるのである。要は、通常の睡眠時間を8時間とすれば、六日分を纏(まと)めて眠れる計算だ。会社は課員の特異な才を生かすため、特務課にだけフレックス・タイム制を採用して出勤時間に巾を持たせていた。
「どうなの?」
 同じ課の先輩、遅田(おそだ)が出勤してきた。彼は押しが強く、狙(ねら)った契約は必ず取る才があった。落としの遅田として、課に君臨していた。
「いやぁ~参ったぜ、奴(やっこ)さんには。ぜんぜん、疲れてないぜ…」
 少し前に出勤してデスクにいた同僚の並山(なみやま)は呆(あき)れ顔でニヒルに返した。並山の頭脳は抜群で、彼の前にパソコンの必要はなかった。
「起長に任せときゃ、仕事は片づくからな。それに…」
 遅田は手の親指と人差し指で丸を作った。
「ははは…、お前だって」
 並山は遅田をチラ見して言った。
「ははは…まあな」
「しかし、起長はよく働く。労基の36、ギリギリだろ」
「だな…」
 労基の36とは、労働基準法36条のことである。会社と組合との間で締結される時間外勤務の協定だが、組合も会社も彼には一目(いちもく)、置いていた。起長は、そういう異質の存在として、会社で敢然(かんぜん)と生きていた。そうは言っても、起長の性格が異常なのか? といえば、少しもそうではなく、むしろ会社の人気者的な陽気さのある男だった。
「あっ! ご出勤でしたか、おはようございます。今、お茶を淹(い)れます…」
「いや、もう構わないでいいよ!」
 遅田が気づいて席を立った起長を止めようとした。
「もう、これで帰りますから…」
 起長は、そのまま厨房(ちゅうぼう)に移動し、ポットの湯を急須(きゅうす)へ注ぐと湯呑(ゆの)みへ淹れた。
「すまないねぇ~」
 並山は一応、紋切型の礼を言った。心から・・という気分で言った言葉ではなかったが、そう思って・・という言葉でもなかった。今年で三十路を越えた女事務員の居岳(いだけ)が出勤してきた。彼女は嫁(とつ)ぐまでの金 稼(かせ)ぎ・・と会社を考える、居るだけの社員だったから、出勤も遅かった。ただ、彼女は特務課へ競合会社の情報を持ち込む情報入手の才があったから、他の課員は彼女に一目(いちもく)置いていた。
「皆さん、お早いですね…」
 居岳は低めのテンションで小さく言った。お前が遅いんだよ! と思った遅田だったが、口には出さなかった。上には上がいて、出勤するだけの特務課長、寝木(ねぎ)は出勤していなかった。寝木はさらに大物で、金融取引の先読みや世界経済、景気動向に明るかった。今朝も好きなミルクセーキを飲みながら、自宅のパソコン前で証券取引所の動きに余念がなかった。
「あっ、俺だ…。いつものように皆、動いてくれ」
 課のスピーカーから、拡声された寝木の電話音が響いた。寝木からの連絡は決まった時刻に入ることになっていた。寝木の声が絶(た)え、各々の動きが始まった。特務課は今日も暗躍(あんやく)し始めた。 

                          完

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2015年5月14日 (木)

生活短編集 66 梅雨[つゆ]モドキ

 モドキとは似てはいるが、非なるもの…の意である。
 古山は降りそうで一向に降らない梅雨空をジィ~と見上げながら、梅雨モドキだな…と思った。
 ようやく梅雨入りしたのは数日前だったが、そのときに申し訳ない程度に降って以降、降雨はなかった。冷静に考えれば、こういう空(カラ)梅雨の年もあったから、これもアリか…とも思えた。ただ、過去の流れでは、梅雨はジトジトと降り続く・・としたものだった。その兆(きざ)しも今年はなかった。そうはいえ、降るところは集中豪雨で降っているのである。
 夜の天気予報で綺麗どころの美人予報士が、「○○地方は梅雨入りしたとみられます」…とか言っていたことを古山は思い出した。そのときは、予報士の衣装を見ながら、今日も違うが、綺麗だな…と、天気以外のことを考えていた古山だった。昼の年老いたニコニコ顔の男性予報士は民放だったが、アレはアレで愛想がよく、また別の意味で結構なことだ…と思いながら、そのときも肝心の天気を聞き逃した古山だった。今は、そんなことはどうでもいいのである。ようやく畑野菜の水やりから解放された古山としては、梅雨入りしたとみられる・・では今一、インパクト不足で困るのだ。ここは、はっきりと梅雨入りしました! と、断言して欲しかった。だが、今の空の感じでは、それも無理か…とも思えた。
 結局、その日も曇ったまま、雨は一滴も降らなかった。降らなければ畑は乾(かわ)くから水やりの必要・・となる。誰が? と考えれば、古山以外にはいない。そういや、エルニー二ョが、どうのこうのとも言っていたぞ…と、つまらないことをこのタイミングで古山は思い出した。古山は先をネガティブに見据(みす)え、深い溜(た)め息を一つ漏(も)らした。予想結果は梅雨モドキではなく、はずれモドキだった。

                             完

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2015年5月13日 (水)

生活短編集 65 確かにあった…

 次山はノートパソコンを弄(いじ)っていたとき、ふと気づいた。フラッシュメモリーのキャップが見当たらないのである。昨日(きのう)は…と記憶を詰めると、確かにあった…と、確信した。家の外へは持って出ていないのだから、家の中には確実に存在することになる。しかも、動かした憶(おぼ)えがない以上、ノートパソコンが置かれた部屋以外へ移動したとは到底(とうてい)、考えられない。家のこの場所で、どういう訳か紛(まぎ)れてしまったことになるのだが、次山は、そのときの場面がどうしても想い出せなかった。朝はあったか? …あった? いや、なかったか? 記憶が曖昧(あいまい)である。次山は、あったという確信が持てなかった。
 行方不明になったキャップは、その後、夕方になってもついに発見されなかった。次山は、『これは、事件だな…』と思った。ひょっとすると、テレビが昨日の夜、報じていた<消えた女子学生事件>と思え、いや、いやいやいや…アレとは違うと、すぐ全否定した。アレとコレとではナニがナニだ…と思えたからだ。アレとはアレで、コレとはコレである。アレとコレを比較すれば、ナニという歴然(れきぜん)とした違いがあるのである。しかし、捜査本部は立ち上げねばならないだろう…と次山は巡った。やはり、退職前の刑事の血が騒いでいた。次山は、さっそく聞き込みを開始した。まず、卓袱台(ちゃぶだい)である。
「この上に、ありましたね?」
『さあ? どうですかね。記憶にありませんが…』
「そうですか…。確かにあったんですがね。何か思い出されれば、ご一報下さい。失礼しました!」
 過去のとある事件の聞き込みの場面が頭を過(よぎ)った。次山は卓袱台に向け、小さく敬礼した。
『はい…』
 次山は物を言わぬ卓袱台に向かって語りかけ、勝手に思っていた。他人が見れば、気が触(ふ)れたと勘(かん)違いされるだろうな…と次山は思った。今度は、卓袱台の下の畳へ語りかけていた。
「このキャップですが、あなたのところへ落ちませんでしたか?」
『いやぁ~、気づきませんでしたね。何か事件ですか?』
「ははは…まあ、そのような、そうでもないような」
『そうですか、それはお気の毒な…』
「何か分かればお知らせ下さい」
 一人で落語のような会話をやり、次山は畳に対しても、小さく敬礼した。
 こうして、今も捜査は続いている。

                              完

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2015年5月12日 (火)

生活短編集 64 W杯<2>

 W杯前の親善試合が行われようとしていた。相手国はコスウタリンカだ。大会本番へ向け、次第にチームのスキル[技量]を高める一過程である。大会本番は、やり直しが効かないあとのない試合の連続だ。そのため、各選手達は個々のメニュ-を熟(こな)したり、ミニ試合によってチーム連携を強化する練習に取り組むことになる。ひと言で言えば、ウォームアップだ。これはチーム全体の団結力アップにも繋(つな)がる。
 チームが大会へ出発する前に話は遡(さかのぼ)る。サッカーフェチの蹴鞠(けまり)は、遠くからサポーターモドキに選手達のウォームアップを眺(なが)めていた。公開練習だったが、選手達の素晴らしいプレーが出るたびに、茫然(ぼうぜん)とただ眺(なが)める態(てい)で両手指の人差し指同士を軽く叩(たた)き合わせて拍手した。蹴鞠の場合、遠目には騒がないただの観客だったが、内心は練習場を選手とともに走り回っていたのである。練習が終わると、蹴鞠は選手以上に疲れていた。外見は他の観客となんら変わらなかったが、彼自身は選手の一員として心の練習場を駆け巡っていたから、グッショリ疲れていた。
 蹴鞠が練習場の外へ出ようとしたとき、どこかで見たような外人に出会った。しかし、どうしても思い出せなかった。その外人も蹴鞠の顔を見て首を捻(ひね)った。やはり、どこかで出会ったような…という態度で首を捻っている。その外人は蹴鞠が内心の練習場で試合をしていたときの対戦相手の一員だった。彼のプレーは早く、蹴鞠は圧倒され続けた。リフティングを試合中にしていた。プレスがまったく効(き)かなかったのである。蹴鞠はテレビのCMでその外人を見たことを想い出した。
━ そ、そうだ! ━
 蹴鞠は気づいた。有名なブラジリアのプレーヤー、メーマワルだった。彼の姿はすでに、どこかへ消え去っていた。

                               完

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2015年5月11日 (月)

生活短編集 63 W杯

 蹴鞠(けまり)が待ちに待ったW杯の開催が迫っていた。
『Uokubo…』
「おおっ! 魚久保か…サプライズだっ!!」
 蹴鞠は選手発表のメンバー23人が読み上げられるテレビ画面に釘づけになっていた。ザックバーラン監督は蹴鞠がまったく分からないイタリア語で流暢(りゅうちょう)に話しながらメンバーの名を告げていた。蹴鞠にも、かろうじてメンバーの日本名は理解できた。
『Iroha…Konya…』
「色波に今夜か…。まあ、そうなるのか…」
 何がそうなるのかは、口にしている蹴鞠自身にも分からなかったが、独(ひと)り言(ご)ちていた。周(まわ)りに人がいる訳でもないのだから、見栄を切る必要はないのだが、なぜか通(つう)の気分を味わいたかったから、蹴鞠は呟(つぶや)いたのだった。
 そして、W杯開催の日が瞬(またた)く間に巡った。蹴鞠はふたたびテレビに釘づけになっていた。<釘づけ>とは、正に蹴鞠のためにある言葉のように思えた。全試合のビデオ録画は申すに及ばず、解説番組、関連番組はほとんど観続けた。おたくサポーターであることは誰の目にも疑う余地がなく、ある種のサッカーフェチに近かった。
 前回のW杯でも予選突破出来た瞬間、三日三晩、一人でクリスマス並みの祝賀会を豪勢にやったくらいで、出歩くと訳もなく笑顔になっていた。通行人が妙な顔で振り返ったりもした。蹴鞠は一向、お構いなしに歩き続けた。それがベスト8へ上がる決勝一試合目で破れると、蹴鞠の周囲は一変してお通夜になった。蹴鞠は三日三晩、泣き続けた。
 いよいよ予選の第一試合が開始された。相手国はコートジイボワールだった。さて! どんな結果が? 蹴鞠を悲喜こもごもにする試合が進行していった。もちろん蹴鞠の準備は万全で、箱買いされたカップ麺を啜(すす)りながら、実況するテレビに釘づけだった。

                             完

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2015年5月10日 (日)

生活短編集 62 国力

 日曜日の朝、川滝はテレビのリモコンを弄(いじ)った。映し出された映像は国営テレビの日曜討論会だった。税制がどうのこうの…どうたらこうたら…と、片書きある国会議員連中により熱く語られていた。川滝は、またやってら…と冷(さ)めて思った。企業の内部留保が増え、国民にはその見返りがないというようなことをキツイ野党議員がキツク語った。川滝は相変わらずキツイな…とは思ったが、その通りなのだから仕方ないか…と、また思った。よく考えれば、物価を2%上げてデフレ脱却とか言ってるが、消費税も上がって国民生活は疲弊(ひへい)してるんじゃないか…と、日本がまだ元気だった昭和40年代の頃を思い返し、川滝はそう思った。俺達の時代は雇用が安定していた。そこが、今とはまったく違うな、と思った。安定して働けなけりゃ、結婚も子育ても出来ない。だいいち、子供も作れないじゃないか! と少しずつ川滝は怒れてきた。少子化の問題点は、実はこの辺りの根本的なところなんじゃないか…と、また思った。退職した俺が興奮しても仕方ないな…と、川滝は茶を啜(すす)って頭を冷やした。そのとき、テレビ画面から『国力』という文言(もんごん)が飛び出した。そういや今は、国力を語るときGDP[国内総生産]という言葉が多用される。あの頃はGNP[国民総生産]だったな…と川滝は、また思った。戦後日本の再建、生活向上が使命の時代だった。結果、今の日本の国力が…と思ったとき、川滝は気づいた。いや、ちっとも向上してないんじゃないか…、今の繁栄は虚飾の繁栄では? と。国は多額の債務発行残高という起債を抱(かか)えている。聞くところによれば1,000兆円が、どうのこうの…どうたらこうたら…らしい。川滝は一日、やりくりする1,000円の心配をしている自分が少し哀(あわ)れになった。
 去年、川滝は働こうとしたが、年金を減らされるということで断念していた。川滝はテレビを消した。そして、これじゃ日本の国力は回復しないぞ! と確信して思った。国の老齢化は益々、進んでいるという。それなら、俺達が働ける場を作ることが大事なんじゃないか…と川滝は思った。年金は今まで働いてきたことへの積立+お礼なんだから、新(あら)たに働くことで年金を減らすというのは間違っている…と、思えた。新たに働いた分は所得税で取ればいいじゃないか! 国力回復は、その一点にある。雇用安定、年金減額反対! 我々にも働かせろ! 川滝は興奮し、思わず叫んでいた。
「あなた、どうかした?!」
 大声に驚いた妻の美登里が台所から飛んできた。
「いや、なんでもない…」
 川滝は我に返り、罰悪く茶を啜った。湯呑みは空(から)っぽだった。

                                完

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2015年5月 9日 (土)

生活短編集 61 早起き

 売れっ子作家の小平は久しぶりに早起きをした。原稿が昨夜、早く上がり、疲れもあって早めに寝たのが早起きの原因だった。いつもよりは優に2時間以上、早かった。五月下旬ということで、五時前だが、外はすっかり明(あか)るかった。小平が庭へ出ると、気分のよい冷気が肌を撫(な)でた。小平が、ここ数年、味わったことのない清々(すがすが)しい冷気で、実に気分がよかった。深呼吸をし、冷気を胸一杯、吸い込んだとき、小平の心には何とも言えない幸せ感が押し寄せていた。それから、いつも起きる時間まで、小平は雑用をすべて熟(こな)し終えていた。日中なら、最近はかなり暑いから、汗が吹き零(こぼ)れて嫌になるのだが、早朝だとそういうこともなく、実に気分がよい。少し火照(ほて)った身体をシャワーで洗い、衣類を変えると、今までとは違った一日が始まった錯覚が小平に生まれた。さっぱりとした気分で衣類の洗濯を終え、軽い朝食で憩(いこ)ったとき、小平の胸中に、ふとある思いが湧(わ)いた。
━ 今朝は随分と得(とく)しているぞ… ━
 昔から早起きは三文(さんもん)の得というが、小平にすれば、そんな少ない得ではなかった。いつも起きる時間が巡ったとき、気分的にはすでに一日が過ぎ去ったような、なんかそんな充実感が身体の奥から漲(みなぎ)るのだった。こりゃ、いいわ…と、小平は思った。その日から小平は早めに原稿を書き終えると眠ることにした。流石(さすが)に身体の馴(な)れでか、疲れていないと眠れない。小平は適当なツマミで軽く缶ビールを一本飲むと、床(とこ)へと着いた。
 次の朝も早く起きられた。そして、そんな日が続いていくうちに、少しずつ得している気分が小平の気分の中で擦(す)り減(へ)り始めた。余り、得してないな…と思えるようになったのである。身体が順応して馴れると安定感が身体を包むから、充実感が薄れるんだ…と、小平は思った。まあ、しかし体調は早起きしてからバイオリズムが整ったからか健康が促進されたようで、いい傾向が続いていった。ただ、昼寝は、よくするようになった。

                                完

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2015年5月 8日 (金)

生活短編集 60 工事

 本山が毎朝、通る通勤路の横で、‎ビルの新築工事が、今朝も喧(やかま)しく執(と)り行われていた。工事は仕方ないとしても、こう、待たされちゃ、嫌(いや)だな…と本山は毎朝、この付近を通るたびに思うのだった。今朝も、前の車が止まってから十分が経(た)っていた。長く待たされるのは渋滞しているからだった。明日からは、もう少し早く出よう…と思っていても、朝になれば、家を出る時間は同じになった。馴(な)れは怖(こわ)いな…と、本山は、その都度、思うのだった。
 車を止めて十二、三分が過ぎた。後続車には痺(しび)れを切らしてクラクションを賑(にぎ)やかに鳴らす者も出る始末だった。本山はそれでも悪びれもせず、車の中でじっと耐える人を続けた。ようやく、前方の車が動き出したのはその直後だった。本山はやれやれと胸を撫(な)で下ろした。官庁の勤務時間には、まだ間(ま)にあう時間だった。
 こんな日が幾日も続いた。そして、ようやくビルは完成し、渋滞することもなくなった。もうこれで、待たなくてもいいな…と、本山は単純に思った。だが、本山の読みは甘かった。新築されたはずのビルは、一向に人の出入りがなかった。確かに完成セレモニーの日は大勢の人だかりだったんだが…と、本山はそのときのビル前の様子を思い出していた。だが、今通ったビルは人っ子ひとりいなかった。本山は不審(ふしん)に思え、調べてみることにした。その原因は案外早く分かった。手抜き工事が発覚したのである。耐震構造に問題があるとかで、建て替えられることになったのだ。おい、おいおいおい! 立ったばかりだぞっ!! 本山は関係なく怒(いか)りが込み上げた。その怒りは、ある意味では正解だった。数日後、また道路が渋滞したのである。事情を訊(き)けば、建て替え工事前の取り壊し工事が始まったという。馬鹿にならない無駄な金が消えていくぞ…と、本山は瞬間、思った。日本が債務まみれになる訳だ…と合点(がてん)も出来た。
 ようやく取り壊し工事が終わり、その返す刀で今度は、新しいビルの建て替え工事が始まった。渋滞はその後、長きに渡り続いていった。
 今度こそ! というビルが完成したのは、すでに渋滞が始まってから三年が経過した頃だった。春三月、本山がやれやれ、これで…と思った頃だった。本山がそう思った数日後、人事異動が発令された。本山は反対方向の道路にある庁舎へ栄転することになった。

                               完

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2015年5月 7日 (木)

生活短編集 59 上からの命令

 OLの美久は暗い夜道を歩いていた。通勤のために自宅から駅へ出るにはどうしても通らねばならない細道だから仕方がなかった。道は長くて暗く、街灯が立つには立っていたが、申し訳ない程度の明るさのものが数ヶ所で、なんとも物騒な道だった。この道でひと月ばかり前、事件があった。引ったくり事件だった。正確に言えばそれは二度目で、一年前にはもっと辛辣(しんらつ)な強盗傷害事件も発生している怖(こわ)い道だった。そのときの犯人は幸い捕(とら)えられたのだが、今回はまだ逃走中だった。心配した父親の寅雄は、どこで買ってきたのか分からないが、防犯グッズを美久に手渡した。スタンガンだった。高圧電流を発して失神させる防犯グッズである。ただ、悪用されれば犯罪にもつながる所持品となり、所持して外出すれば、銃刀法には触れないが、場合によっては軽犯罪法で問題となるものだった。寅雄は大事な娘が襲われでもしたら…との想いで購入したのだろう。美久は父親に感謝し、バッグへ入れて通勤するようになった。
 ある夜のことである。美久は帰宅しようと夜道を歩いていた。
「もしもし…」
 そのとき後ろから声がして、怪(あや)しい人影が後ろから迫ってきた。美久は危険を感じ、早足で歩いた。すると、その人影も早足となり迫ってきた。美久は怖(おそ)ろしくなり、駆けだしていた。人影も走った。美久は小さく叫んでいた。
「あっ! もし!」
 息を切らせながらその人影は美久の前へ立ち塞(ふさ)がった。よく見れば、年老いた巡査だった。息を少しずつ整え、美久は落ちつきを取り戻した。
「不審者を見張っていたもので…」
 巡査は息を整えながら、言った。
「それで、私になにか?」
「いや、上からの命令なんで…。この前の犯人がまだ捕(つか)まっておりませんので、その検問なんですよ」
「ああ、そうでしたか…」
「申し訳ないんですが、所持品を拝見させてもらってもいいでしょうか?」
「えっ? ああ、いいですよ」
「そんなにお時間は取らせませんので…。なにぶん、上からの命令なんで…」
 かなり時間を取られてるけど! と少し怒れたが、美久は口にせず、心にとどめた。巡査はお辞儀して美久からバッグを受け取ると、懐中電灯で照らしながらゴチャゴチャと弄(いじく)った。嫌な気分の美久だったが、それも思うに留(とど)めた。
「すみませんねぇ~~。これも…」
 上からの命令なんでしょ?! と、美久は怒りながら、これも思うに留めた。
「おや? …これは?」
 巡査は寅雄が持たしたスタンガンを手にし、美久に訊(たず)ねた。
「物騒だから父親が『持ってけ』って言ったんです…」
「ああ、そうでしたか。確かに、この道は物騒ですから…。いいでしょう…。いや、私も上からの命令でして…」
 上からの命令に弱い人なんだ…と美久はバッグを受け取りながら漠然(ばくぜん)と思った。
「どうも! お時間を取らせました、もう、結構です」
 巡査は美久に敬礼した。美久は歩き始めた。
「すみません! 上からの命令なんで…」
 美久の後ろから、また巡査の声がした。

                               完

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2015年5月 6日 (水)

生活短編集 58 予報 

 飽くまでも予報であり、外れることも、ままある。それが天気予報というものだ。
━ え~~移動性高気圧は通過しまして、日本海へと低気圧が近づいて参ります。ですから、明日は九州方面から下り坂となるでしょう。所によっては降り出すところも出て参ります ━
 天気予報を語る中年の気象予報官が明るい笑顔で言っている。ほう、そうかい…という気分で津山はテレビ画面に釘(くぎ)づけになっていた。こりゃ、明日はゴルフコンペはやめたほうがいいな・・と消極的な発想が瞬間、津山を襲った。
 翌朝である。空は快晴で絶好の行楽日和となっていた。起きたのは、昨日の発想の続きで少し飲んだから、九時半ばはすでに回っていた。津山は、しまった! と思った。時すでに遅し・・とは、まさにこれである。腹立たしい気分で温めたミルクをガブッ! と、ひと飲みし、ガーリックトーストを齧(かじ)った。テーブル上の朝刊を手にして適当にめくった。いつも見る運勢欄に津山の目はいった。
『なになに…。行動は自らの判断に従え。他人の言を信じるな、か…』
 津山はガラス窓に映る青空を眺(なが)め、当たってるぞ…と思った。
 午前中、こんな日和に掃除かい…と不満に思いながらも、津山は妻に言われた部屋掃除を片づけた。妻の落雷はコリゴリの津山なのだ。
 昼は妻の手料理で満足した津山がベランダへ出てゴルフのクラブを磨いていると空が急に雲で覆われた。津山がおやっ? と空を見上げたとき、パラパラと雨滴が落ちだした。そして、次の瞬間、ザァ~! と俄かに大粒の雨で本降りとなった。こりゃ、やっぱり出なくてよかったぞ…と、津山は退避した窓ガラス沿いの椅子に座って思った。妻がシナモンティーと茶菓子を運んできた。
「出かけなくてよかったわね…」
「ああ。当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦か。この予報は当たったような当たってないような…」
「なに、それ?」
「いや、なんでもないさ…」
 ははは…と暈(ぼか)して笑い、津山は思った。天気予報と八卦は、ある意味、予報で共通した認識だ。確率は相当、天気予報の方が高いが…と。
 津山がそう思った瞬間、雨は急に上がり、快晴となった。津山は呆然(ぼうぜん)と氷のように立ち尽くした。

                                 完

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2015年5月 5日 (火)

生活短編集 57 新曲

 とあるスタジオである。今朝も舞崎揚羽(まいさきあげは)という下積演歌歌手のレコーディングが行われていた。30年ぶりの新曲とあって、揚羽の意気込みは尋常ではなかった。普通の歌手なら、すでに『一日だけ、お願いします!』と、声枯れを理由に休息日を請求するのだろうが、揚羽は違った。というのも、彼女にはもう年齢的な余裕がなかったのである。十代後半で若々しくデビューした揚羽は、今までに出した曲が三曲で、それらはまったくヒットしなかった。ただ、どういう訳か一杯飲み屋では人気があったから、歌手をやめることなく揚羽は頑張ってきたのだった。その彼女も、すでに五十路(いそじ)にさしかかろうとしていた。時折り呼ばれるクラブ出演より内職まがいで勤めるスーパーの収入の方が多かった。というか、ほとんどで、どちらが本業なのか分からなかった。新曲♪雨漏り慕情♪は、恋しい男の帰りを今にも倒れそうなボロ家で待ち侘(わ)びる女の気持を切々と歌い上げた哀愁こもる名曲だった。
「舞崎君じゃないか?」
 クラブで唄い終わった揚羽に声をかけたのは、有名作曲家の水漏(みずもれ)だった。揚羽のデビュー曲を手がけたのも水漏だったが、当時の水漏は作曲を手がけた頃で、揚羽と同じくまったく無名の新人だった。そんな水漏だったが、今では演歌界の大御所的な作曲家となっていた。
「せ、先生! …」
 彼女はクラブの袖(そで)で泣き崩れた。そして、揚羽のその後を知った水漏は、彼女を哀れに思い、新曲を作ってプレゼントしたのである。
「そこっ! 寂(さび)だろ?! 悲しくないんだよ…。もう一度!!」
 水漏の注文は厳(きび)しかった。
「はいっ!!」
 揚羽は最初からまた唄い始めた。
「だめ、だめっ! 君ならゴキブリの辛(つら)さは分かるはずだっ! そのときを想い出して唄いなさい」
「はいっ!」
 そして、その日も虚(むな)しく暮れようとしていた。そのときである。
「よしっ!!」
 ついに、水漏のOKが出た。彼女は金魚鉢と呼ばれるレコーディングのブースの中で嗚咽(おえつ)を漏らしていた。 
 ♪雨漏り慕情♪は大ヒットし、その年の音楽賞・演歌部門を総なめにした。舞崎揚羽は華々しくマスコミに報じられ、有名歌手の仲間入りを果たすことになった。

                             完

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2015年5月 4日 (月)

生活短編集 56 急ぐ

 山村は数十分早く、出張の準備をしようと思っていたが、緊張からか眠れず、二時間ばかりも早く目覚めてしまった。
━ ははは…、今日は余裕だな ━
 山村は、したり顔で、そう思った。決して計算した結果ではなかったが、幸いにも眠れず、早起き出来ただけのことである。したり顔をするほどのことでもないな…と山村は少し反省した。それでも、余裕がある…という気分は残っていたから、出るまでの所作はいつもと同じなのだが、動く速さは鈍(にぶ)くなっていた。
 小一時間もすると、朝食など、ひと通りの所作は終わっていた。山村はこの時点で腕を見た。
━ まだ、一時間以上あるな… ━
 山村は単純に思った。着がえも済んでいたし、毎朝やることは、もうなかった。なにげなく小物入れを開けたそのときである。開閉戸のマグネット止めの片方が破損していたことを、ふと思い出した。片方は固定して大丈夫だから、取り分けて開閉に困るということもなく、そのまま放置しておいたのだ。山村は大丈夫だろう…と即断し、修理することにした。というのも、気分として一時間以上は優にある…という余裕感が潜在していたからだった。山村はボンドを出して接着しよう…と動いた。簡単な修理だったから、その作業は数分で片づいた。山村はふたたび腕を見た。まだ四十分ばかりあった。まだ余裕はある。だが、他にすることはもうない。山村は、少し早いが出かけるか…と考え、玄関を出た。鍵(かぎ)を閉め、ポケットを弄(まさぐ)って気づいた。ハンカチを忘れていた。山村は慌(あわ)ててハンカチを取りに家の中へ戻(もど)った。さあ、出るか! と意気込み、車へ向かうと、いつも入っている車のキーがポケットになかった。しまった! 間違えたんだ…と、山村は気づいた。そしてふたたび、家の中へと取って返した。腕を見れば、三十分ばかりまだあった。ほっとし、今度こそもうないだろう…と、少し意固地に思いながら車のドアを開けた。そして、エンジンキーを挿し込もうとした。だが、鍵穴にキーが入らない。よく見れば、倉庫の鍵だった。なぜ倉庫の鍵が…? と山村は巡った。昨日(きのう)、剪定道具を出すために倉庫を開けた記憶が浮かんだ。その鍵をそのままポケットに入れたのだろう。そのとき、ポケットの中には車と倉庫の鍵の二つが存在していたのだ。それにしても、なぜ? と、山村の疑問は益々、大きくなった。考えられるのは、鍵の収納棚(しゅうのうだな)に戻したとき間違えた・・としか思えなかった。山村は車を降り、家の中へ再々度、入った。向かったのはもちろん、収納棚である。やはり、収納棚には車の鍵があった。山村の足は少し急いでいた。この段階で山村の余裕感は消えていた。腕を見ると、まだ十分あった。余裕感は消えたが、まだ時間はあった。まあ、いいか…と、山村は自分を慰(なぐさ)めながら車へと向かった。そのとき、俄(にわ)かに便意を催(もよお)した。これは困ったぞ…と、山村は思った。よく考えれば、まだ十分ばかりあるのだ。用を足(た)すくらいの時間はあった。山村はトイレへ急いだ。そして、トイレを出たとき、最初予定していた時間を少し回っていた。山村は、余裕なく急いだ。

                           完

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2015年5月 3日 (日)

生活短編集 55 新発明

 苦節20年、早丸はついに新発明を成し遂げた。ある物質の合成により人類の究極の課題、放射性元素が発する放射能を消すことに成功したのだった。
「や、やった…。やったぞ!!」
 ガイガー・カウンターの針の振れが0になった瞬間、早丸は研究室を走り回っていた。
 半年後、論文を完成させた早丸は、公式の記者会見に臨んでいた。その中には、早丸の研究を今まで小馬鹿にしてきた雑誌記者の村木もいた。
「いや、あの節(せつ)は、どうも。私も半信半疑でしたので、失礼なことを申しました…」
 早丸は村木のことを、まったく覚えていなかった。
「はあ? そうでしたか…。全然、気にしてませんから」
 口ではそう言った早丸だったが、実のところ、その男が何を言ったのか、いや、それ以上に、その男が何者なのか・・も思い出せなかった。
「発明した私が申すのも変なのですが、誰か、この物質の名前をつけていただけませんかね。この場をお借りし、公募いたします」
 記者団から一斉に笑声とざわめきが起こった。唐突な早丸の提案にMCのアナウンサーは少し慌(あわ)てたが、すぐ落ち着きを取り戻して仕切った。
「その話は、のちほどさせていただきます。他にご質問は?」
「今世紀最大と言っていい、こんな大発明は、間違いなくノーベル賞だと思いますが、いかがでしょうか?」
「… それは皆さんが判断されることです。私は研究が成果をみたことが、なによりも嬉(うれ)しい。ただ、それだけです」
 一年後、早丸はノーベル賞を受賞していた。だが、その一年後、早丸は新しい研究を余儀なくされた。発明した放射能を除去する物質[ガイノー
]が新たな公害を発生することが判明したのである。
「はやまりました…」
 早丸は記者会見で陳謝し、直立して記者団に頭を下げた。
「そうだと思ったんだ…」
 最前列に座った記者の村木が愚痴るように呟(つぶや)いた。
「あんたには言われたくない…」
 早丸は、頭を下げたまま珍しく呟いて反論した。
 

                             完

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2015年5月 2日 (土)

生活短編集 54 集団的自衛権

 川戸は、なにげなくテレビのリモコンを押した。アナウンサーが集団的自衛権について冷静に語っていた。同じテーブルの横には解説者らしき男が座っていて、アナウンサーの問いかけに熱く語っていた。川戸は、ああ…今日もやってるな、ぐらいに思いながら、美味(うま)そうに出汁(だし)に浸(つ)けた蕎麦(そば)を啜(すす)った。川戸の今日は、午前中、裏山伝いにある畑の野菜の収穫だった。最近は、猪(いのしし)とかが山から下りてきて、作物を荒らすことが多くなっていた。当然、川戸もその対策としてネットを被(かぶ)せたり、周囲に柵(さく)を張り巡らしたり、その他にもいろいろとやってみたのだが、一向にその効果は現れなかった。敵もなかなか強(したた)かで、あの手この手を駆使して進入したのである。そういや、隣の畑の駒石も、昨日、そのことで愚痴っていたのである。川戸と駒石は家も近かったから、ここはひとつ集団的自衛権だな…と、画面のニュースを見ながら川戸は漠然(ばくぜん)と思った。だが、案外早く、その事態は現実に巡ってきた。
 三日ばかり経(た)った朝のことである。駒石が慌(あわ)てて玄関へ踊り込んできた。
「川戸さん! 偉(えら)いことですぞっ! 私の畑もだが、あんたの畑も、かなり荒らされとります!」
「いよいよ、集団的自衛権ですなっ!」
「はぁ?」
「ははは…いや、なに。電流を流す対応策です。少し要(い)りますが、費用とかは折半ということで、どうです?」
「ああ! そういうことですか。この前、言っておられたやつですな。しかし、常時、流すとなれば、費用対効果が…」
「ああ、それもありますな。ともかく、しばらくは集団的自衛権ということで、交互に夜は見回りましょう」
 川戸は最近、覚えた集団的自衛権という文言(もんごん)を多用した。
「? …はあ」
「それにはまず、安全保障法制整備に関する協議をする必要がありますな」
「そんな大げさな…」
「いえいえ、こういうことは、いろいろな場合を想定して、協議しておく必要があります。なにせ、集団的自衛権ですからな」
「はあ…。そういうものでしょうか?」
「ええ、そういうものです。場合によって想定せねばいけません」
 川戸は言い切った。
「はあ…」
 駒石は川戸に圧倒され頷(うなず)いた。その後、始まった二人の協議は一時間に及んだ。
「まあ、この15事例でよしとしましょうか。それじゃ今夜は私、あしたは駒石さんの見回りということで…」
「分かりました、では…」
 駒石は静かに川戸に背を向け玄関を出ようとした。
「集団的自衛権で!」
 川戸は後ろ姿の駒石に念を押した。駒石はギクッ! とした。
「はっ? …はい!」
 駒石は川戸に天然さを少し感じながら表戸を閉めた。

                           完

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2015年5月 1日 (金)

生活短編集 53 慌[あわ]ただしい

 営業一課の邦山は会社のエントランスを慌(あわ)ただしく歩いていた。ジィ~~っと座り続ける彼の姿を、今まで誰も見たことがなかった。
「おいっ! 慌ただしいのが戻(もど)ってきたぞっ!」
 エントランスを対向してすれ違った課員が携帯を手にし、急いで同僚へ電話した。
「分かった! 緊急警報、発令!!」
 課内の課員が携帯に出た。課内に一瞬、緊張が走った。邦山が戻れば、課内をバタバタと動き回るのが目に見えている。営業一課の連中は、一斉(いっせい)に顔をデスクへ向け、視線を書類やパソコンのモニター画面へと向けた。邦山に関(かか)われば、それだけ邦山が課内に留(とど)まる時間が長引く。長引けば、邦山のことだからバタバタと用もないのに、あちこちをウロウロと動かれる・・などと心配する破目になる。そうなれば、小忙(こぜわ)しいから仕事に集中出来ない、という寸法だ。だいいち、狭(せま)い課内を歩き回るものだから、埃(ほこり)っぽくていけない。課内の連中は、誰もがそう思っていた。
 そして今日も、その邦山が外回りから戻ってきたのである。彼の姿を課内で気づいた第一発見者は誰彼なく、『緊急警報、発令!!』と皆に伝える申し合わせが出来ていた。それを知らないのは、邦山、ただ一人だった。戻って来た邦山は、自席のデスクへ座らず、課内をまず、ひと回りし始めた。丁度そのとき、課長の堀田と課長代理の瀬崎が話をしていた。二人は当然、邦山が目に入った。
「課長、どうします?」
「どうしますって、どうにもならんだろう、君…」
「彼は一日中、出歩いていてくれてる方が…。出社と退社のときだけ姿見せてくれりゃ、それで十分です。それとなく課長から、言って下さいよ」
「だな…。その方が邦山君にも好都合だろう」
「ええ、そうですとも…。それに、こちらも助かります」
 瀬崎は課内を歩き回る邦山を目で追いながら言った。
「おい! 邦山君!」
 さすがに邦山も堀田の話を聞くときだけは動かない。その現象は課員もよく知っていた。緊張していた全員が緩(ゆる)んでダレた。邦山は課長席までスタスタと歩き、停止した。誰とはなく、フゥ~っと安堵(あんど)の吐息が漏れた。
「邦山君、君には悪いんだが、こちらから電話で指示するからさ。直接、契約先へ出勤して退社時以外は外を回ってくれ。昼食と休憩は適当に取ってくれりゃいい。伝票は会社回しでいいからさ」
 堀田は腫(は)れものに触(ふ)れるかのように優(やさ)しく言った。
「それがいいよ、邦山君…」
 瀬崎は堀田に追随した。
「はい、分かりましたっ!」
 邦山は一も二もなく同意した。
「それじゃ、出てきます」
「おっ? ああ…」
 あっけない邦山の返事に、二人は唖然(あぜん)として邦山を見た。邦山は満面の笑みで課を出ていった。自(みずか)らの動きを制御できないから、邦山としても好都合だったのだ。
 次の日から営業一課の慌ただしさが消えた。課内はお通夜となり、ただ一人、外回りの邦山だけが慌ただしく華やいで動き回っていた。
 

                          完

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