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2015年6月

2015年6月30日 (火)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<12>

「そう? …」
 事なきを得、里山は靴を脱いで、やっと玄関から上がれた。
『危なかったですね』
「そうだな。小次郎も注意しないとな」
『ですね』
 一人と一匹は沙希代が台所へ消えた瞬間、互いの顔を見合わせ、ヒソヒソと話した。沙希代を刺激しないよう心がけた結果、その後は事もなく無難に推移し、夜になった。小次郎の寝場所や世話をする細々とした決めを沙希代と済まし、一段落していた。土曜の夜ということもあり、里山にはなんとなく気分的な余裕があった。
 風呂を上がった里山は一杯飲みながら夕飯を済ませた。
「外へ出しておくの?」
 沙希代がキッチンの蛇口を開いて洗いものをしながら唐突(とうとつ)に訊(たず)ねた。
「えっ?!」
 里山は水音で聞き逃し、訊(き)き返した。
「だから、外へ出しておくの? って訊いてるの!」
 ああ、そのことか…と里山は思った。沙希代は手芸教室の講師をやっているから、里山が出たあと、家を出る。だから、夕方の五時頃まで家は無人となるのだった。
「その方がいいだろう、こいつも」
 里山は少し離れたフロアで餌を食べている小次郎を見ながら言った。小次郎は小さくニャ~と鳴いて頷(うなず)いた。

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2015年6月29日 (月)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<11>

 コンクリートで囲われた古水道の蛇口裏は小次郎の水飲み場になっていて、里山は空き缶に水を入れて置いていた。里山が水を入れた缶を手にして戻ると、小次郎は律義にも食べずに里山を待っていた。
「あっ! ごめん、ごめん。遠慮は無用、食べていいよ」
『そうですか。それじゃ…』
 小次郎は行儀よく食べ始めた。こんな猫は今まで見たことがない…と里山は小次郎の楚々とした食べ方を眺(なが)めながら思った。
 数日が過ぎ、小次郎は里山の家の門を潜(くぐ)った。
「貧相(ひんそう)な猫ね…」
 開口一番、沙希代は里山の腕に抱かれた小次郎を見ながら、そう言った。小次郎は、そんな言い方しなくても…と思ったが、引っ掻(か)くことは避(さ)けた。ともかく、ここ数日は気に入られるようにしなけりゃ…と愛想(あいそ)をふり撒(ま)くことにし、ニャ~~と可愛くひと鳴きした。
「…まあ、可愛いことは可愛いけど」
 愛想作戦は成功したらしく、沙希代は小次郎の頭をナデナデと撫(な)でた。
『もっと、やさしく!』
 余りの乱雑さに小次郎は小さな愚痴をこぼした。
「あら? あなた今、何か言って?」
「いや、なにも言ってないぞ。気のせいだろ…」
 里山は少し慌(あわ)て、小次郎は思わず唾(つば)を飲み込んで口を閉じた。

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2015年6月28日 (日)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<10>

 着がえることも忘れ、里山はふたたび玄関から外へと飛び出した。背広上下にサンダル、手には缶詰である。その格好を他人が見れば、どこから見ても怪(おか)しく思えた。だが、外はすでに暗闇で、この付近の人通りはほとんどなかった。しかも公園は、里山の家のほん横だったから好都合だった。
 公園の入口で小次郎はのんびりと待っていた。
『そんなに急いで来られならなくても…』
「いや、なに。朗報が一つあって、それを一刻も早く君に伝えてやろうと思って…」
『何でしたでしょう?』
 小次郎は大人びた声で、そう言った。
「実は、家内のやつ、どうも君を飼ってくれそうなんだ。まだ、はっきりと決定はしてないんだが…」
『当選確実! ってやつでしょうか?』
「そうそう。君、上手(うま)いこと言うな」
『その、[君]っていうの、やめてもらえません? 他人行儀な。家族になるんですから…』
「ああ、悪かったな。なんだったか…ああ、そうそう、小次郎君」
『君づけは、いりませんよ。小次郎で結構(けっこう)です』
「ああ、…小次郎」
『美味(おい)しそうな缶詰ですね』
 小次郎は里山が手にした缶詰を手に取るように見つめた。
「そうそう、これこれ…」
 里山は手にした缶詰のプルトップを力強く開け、小次郎の前へ置いた。そして、いつものように水道の蛇口へ向かった。

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2015年6月27日 (土)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<9>

「あら? どうしたの?」
「いや、なに…。ほれ、アレだ」
「おかしい人ね。ナニ、ホレ、アレじゃ分からないわよ」
 煙(けむ)い顔で沙希代は里山を攻(せ)めた。
「朝、出がけに言ってたろ。ほれ、隣の公園の猫だよ」
「まだ、いたの? その猫」
「お前、猫、嫌いか?」
「なに言ってんのよ、嫌いな訳ないでしょ。猫も犬も大好きです」
「なら、いいじゃないか」
「誰が世話するのよ。私は教室でいないんだから…」
 沙希代は手芸教室で講師をしていたから、里山のあと沙希代も出て、家は空(から)になるのだった。
「猫なんて、そんな世話はかからないさ。多めに餌をやっときゃ、いいじゃないか」
「そりゃ、そうだけど…」
 沙希代は声を緩(ゆる)めた。里山は敵陣攻略まであと一歩だな…と思った。そう思えたのには、もうひとつの理由があった。里山が冷蔵庫を開けたとき、沙希代は小声で、「しょうのない人ね…」と呟(つぶや)きながら遠ざかっていったからである。ある種の黙認だ…と里山には思えたのである。
 里山は上手い具合に入っていたシーフードツナの缶詰を手にして、これだな…と冷蔵庫を閉じた。

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2015年6月26日 (金)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<8>

『よろしくお願いします! それじゃ、早くお帰り下さい』
「腹、減ってないの?」
『えっ? そりゃ、もちろん減ってますよ。でも、じっと我慢の子です。合格するまでは…』
「ははは…合格か」
『笑いごとじゃないですよご主人、僕には…』
「ああ、そうだね…」
『小次郎です』
「そうそう、小次郎君だったね、失礼!」
『謝ってもらうと、かえって恐縮します』
「帰ったら、なにか持ってくるよ。じゃあ、また…」
 里山は早足で公園から去った。
「あら! 今日は早かったわね」
 沙希代は里山の姿を見るなり開口一番、いい迷惑だわ…みたいな顔でそう言った。
「ははは…、俺だって、たまにゃ早く帰るさ」
 ここ数年、里山の帰宅は九時以降だったのだ。沙希代の渋面(しぶづら)を見るのが嫌だったからではないが、飲んで憂(う)さを晴らす日々が続いていたのだった。それが、今日に限って俄(にわ)かのご帰還(きかん)なのだから、そう言われるのも当然か…と里山には思えた。
 機嫌よく返事
した里山は冷蔵庫へ直行した。

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2015年6月25日 (木)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<7>

 駅を降りると、里山の足は自然と早まった。そして・・ついに、家が眼前に迫ったのである。必然的にそれは、公園が迫っていることを意味した。
 公園にさしかかったとき、里山はなぜか少し緊張していた。里山に気づいたのか、公園の木々の茂みに隠れていた子猫の小次郎が細やかに速く歩いて里山に近づいた。チョコチョコと近づく小次郎に里山は一瞬で気づいた。
「今、帰ったよ…」
 矢も盾(たて)もたまらず、里山は小次郎に声を投げかけていた。可愛さもあったが、会社で考え続けた今朝の現実離れした出来事を確認したい気持も多々あった。里山の心中の小次郎がふたたび話す期待感は五分五分だった。小次郎は止まると、すぐ近くに立つ里山を見上げた。だが、じっと見つめるだけで、里山に話しかけようとはしなかった。里山は、やはり今朝の俺はどうかしていたんだ…と、鬱積(うっせき)した気疲れによる体調不良のせいにし、諦(あきら)めて歩き出した。瞬間、ははは…猫が話す・・馬鹿げてる! と、自分が変人に思えた。しかし、里山が歩き始めて数歩したときである。
『あっ! ご主人、お待ち下さい!!』
 里山の背後に、朝よりはやや大きめの聞きなれた声がした。里山は、思わず振り返った。
『ええ、ええ…。僕は話しますよ。このことは二人だけの秘密です。それよりか僕を飼ってくれるよう、奥さんによろしくお願いします』
「ああ、それはもう…。近々、必ずなんとかするよ」
 里山は子猫が話すという不可解な現実を確認し、認めざるを得なかった。

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2015年6月24日 (水)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<6>

 退社時間となり、里山は早々に席を立った。課員達が退社するのとほぼ同時で、課員達はもの珍しそうに里山の姿をチラ見した。いつもなら、課員達がすべて退社してから席を立つ里山だったからである。
「お早いですね…」
 嫌味ではないが、道坂が微妙な顔で訊(たず)ねた。いつもは、里山が席を立つ前に「じゃあ。お先に…」と、出ていく道坂だったから、調子が狂ったこともある。
「今日は、ちょっと急ぐんでね…。じゃあ!」
 こういうこともあるんだ…と道坂は、茫然(ぼうぜん)と里山のあとに続いた。
 里山が急いで退社したのには、当然ながら訳がある。朝から仕事がまったく手につかないほど子猫の小次郎のことが気になっていたのだ。里山の脳裡(のうり)にまず巡ったのは、病院で診(み)てもらおう…ということだった。小次郎が人の言葉を話すことなど、まず科学の常識では考えられないことだし、万に一つも有り得ないことなのだ。だとすれば、里山自身の体調不良、取り分け、頭の異常が考えられる。だが、仕事をしていても、これといって発想が異常とも思えなかった。とすれば…と里山は巡った。そして、次に考えたのが、もう一度、事実を確かめるしかない…ということだった。里山がその発想に至った頃、丁度、昼休みは終わっていた。今は、まずい…と里山は落ち着こうとした。退社時間となり、すぐ帰宅すれば確かめられる。なにせ、家は公園の横なんだから…と結論が出ると、里山の仕事は俄(にわ)かに捗(はかど)り始めた。

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2015年6月23日 (火)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<5>

 これは現実ではなく、俺は夢を見ているんだ…と、里山は今の事態が信じられなかった。だが、子猫にしては妙に、しっかりとした物言いをする…と里山は感じた。
『夢でもなんでもないんですよ、ええ…』
 里山は心中を見透かされてるのか…と思え、ギクリ! としながら立ち上がった。
『あっ、早く会社へ! 遅刻されますよ』
 子猫に促(うなが)され、里山は腕を見た。まだ、間に合う時間だったが、余裕のない時間にはなっていた。
「話の続きは帰りに…」
 里山は、いつの間にか子猫が話すことを認めていた。
『そうですね。僕、小次郎と申します。なにぶん、よろしく…』
「ほお、小次郎君か。猫にしてはしっかりした名だ。親御(おやご)さんが付けたのかい?」
 里山 武蔵(たけぞう)は、武蔵(むさし)と小次郎か…と、なにか因縁めいたものを感じた。
『ははは…ご冗談を。僕は捨て猫ですよ。そんなことより、さあ、早く』
「あっ! ああ…」
 里山は早足でその場をあとにした。
 里山が会社へ入ったのは、出社時間の五分前だった。
「おはようございます。課長にしては珍しく遅いですね」
 課長補佐の道坂がニヤリとした笑顔で言った。 
「おはよう! はは…まあ、いろいろあってな」
 それ以上、訊(き)かれなかったのは、里山にしては幸いだった。猫の小次郎と話していてな・・とは冗談でも言えない。といって、適当な作り話が苦手な里山だったから、ほっとした訳だ。

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2015年6月22日 (月)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<4>

 視界には公園と子猫が餌を食べている姿が映るばかりで、辺りに人の気配などは一切なかった。それも当然か…と、里山は気のせいに思え、ふたたび半回転すると歩き始めた。
『私ですよ、ご主人!』
 今度はやや大きめの声が里山の背中から聞こえた。里山は慌(あわ)てて振り向いた。すると、子猫は餌を食べるのをやめ、里山の顔をジィ~っと見つめた。瞬間、子猫の目線が里山と合った。里山は、そんな馬鹿な…と思った。猫がしゃべる訳がない…と、続いて思った。子猫はそんな里山の心中を知ってか知らずか、ニャ~~といっそう愛想いい声でひと鳴きした。そうだよな、そんな訳がない。猫が語るなんて…と思いながら里山は屈(かが)むと、猫の頭をゆっくりとひと撫(な)でしてやった。そのときである。
『有難うございます、ご主人』
 どこからともなく、人の声がした。よく見ると、小猫はまた里山の顔を見ていた。
「ははは…、そんな馬鹿な。なあ! お前が話す訳がないよな」
 里山は子猫に語りかけていた。
『いや、僕は話しますよ、ご主人』
「ええ~っ!!」
 里山は驚きのあまり尻餅(しりもち)を搗(つ)いた。
『そんなに驚かれなくても…。それより、僕を飼って下さいよ。こうして、お話できるのも、何かのご縁(えん)です』

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2015年6月21日 (日)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<3>

 里山は公園前をゆったり通り過ぎようとした。というのも、子猫が現れることが予見できたからだ。数日前・・といっても、もう十日ほど経っていた。里山が公園の通路を三分の二ほど横切ったとき、やはり子猫はヒョコヒョコと幼稚に歩いて近づいてきた。公園の木々の茂みで寝ていたようだ。里山は腕を見た。いつもより数分遅いが、会社へは十分過ぎるほどの時間があった。里山は掃除用具入れ場の隅に隠しておいたドライ・フードを、これも買ってやった容器に入れて子猫の前へ置いた。子猫はミャ~ミャ~と愛想よい鳴き声で数回鳴くと、餌を食べ始めた。
「どれ、水を…」
 里山は錆びついた水道の蛇口を捻(ひね)り、猫用缶詰の空き缶に水を入れて容器の傍へと置いた。この公園は幸か不幸か誰も訪れない廃墟に近い公園だった。というのも、新しい児童公園が新しく出来たからで、それ以降、誰も訪れなくなっていたのである。隣(となり)に住んでいる里山としては逆に有り難かったが、何年もするうちに管理されず見捨てられた公園は荒れ放題となり、ある種、不気味なゾーンとなっていたのだ。
 餌と水をやり終えた里山は、しばらく子猫を見ていたが、そろそろ行こう…と駅へ歩き始めた。そのときである。
『もし、ご主人さま! いつも有難うございます』
 背後から聞こえた声に、ギクッ! とした里山は、誰だ? とばかりに驚いて振り返った。

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2015年6月20日 (土)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<2>

 里山は最近、妻の沙希代の攻勢に、あんぐりしていた。若い頃はあんなじゃなかった…と、懐かしい新婚時代の昔を脳裡(のうり)に浮かべた。そういや、あいつ、動物にも優(やさ)しかったはずだ…と、今の豹変(ひょうへん)ぶりが里山には不思議でならなかった。
「会社、遅刻するわよ!」
 味もそっけもない声が背後から響き、里山はギクッ! とした。
「ああ…」
 腕を見ると、いつも出る時間より数分、遅かった。里山は新聞を畳むと、急いでテーブル椅子から立った。出がけに鞄(かばん)を玄関で手渡すのは、結婚当初より変わっていない数少ない妻の日課である。そしてこの日も鞄を手渡された里山は、勢いよく玄関戸を開けた。
「今日は、少し遅くなる…」
 里山は少し偉(えら)ぶって外へと出た。玄関戸を閉めたとき、ふと里山の心にある思いが湧(わ)いた。
━ 今朝も待ってるだろうな… ━
 そうなのだ。いつの間にか里山は公園の子猫に餌をやっていたのだ。餌は仕事先の近くで買ったドライ・フードである。妻に見つかると具合が悪いから、餌袋は公園の一角にある掃除用具入れ場の隅(すみ)に収納していた。上手い具合に、掃除は滅多にされず、その場所は忘れられたままになっていた。

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2015年6月19日 (金)

コメディー連載小説 里山家横の公園にいた捨て猫 ①<1>

「そんなこと言ったって、哀(あわ)れじゃないか!」
 里山 武蔵(たけぞう)は朝の出がけから妻の続いてい
沙希代と言い争っていた。
「そのうち、いなくなりますよ!」
「そうは言うがな。毎日、前を横切って通勤する俺の身にもなってみろ! ひもじそうにニャ~ニャ~寄って来る子猫を、無碍(むげ)にできるかっ!」
「見なきゃいいじゃない、早足で通り過ぎるのよっ!」
「お前ってやつは…」
 里山は一瞬、なんて不人情なやつなんだ、離婚だっ! と言いかけ、思わず言葉を飲み込んだ。あとが怖(こわ)かったからだ。
 里山が言った公園は、里山の家のすぐ横にある町公園で古くからあった。毎朝、通勤する里山は、その前を横切り、10分ばかり歩いて駅から電車に乗る毎日だった。たまに近所の人と出会い、挨拶を交わす程度で、毎朝の通勤は、なんとも平凡な日々だった。それが、数日前から一変したのである。
 ある朝、公園横を横切っていた里山は、いつもと違う気配を感じ、ふと公園を見た。なんと! 里山の足下(あしもと)に小猫が近づいて来るではないか。里山は動物が嫌いな方ではなかったから、追っ払わずしばらくその場で立ち止まった。すると、ニャ~ニャ~鳴いていた小猫は、この人からは餌を貰(もら)えないな…と思ったか思わなかったのかは分からないが、公園のどこかへ姿を消した。そんな日が、数日続いていたのだった。

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2015年6月18日 (木)

◇特別寄稿◇ 本能寺の変・異聞

 天正十年六月一日夕刻、天下布武がこれほど疲れるものとは…と、信長公は凝(こ)った肩を片手で揉(も)みほぐしながら溜め息をついておられたと聞き及ぶ。その疲れを癒(いや)す茶会も終わり、そろそろ床(とこ)に着こうかのう…と欠伸(あくび)をされたかどうかまでは定かではないが、ご寝所(しんじょ)へと向かわれたことは確かである。そして、よく世に知られた六月二日早暁の本能寺となる。
 明智勢は軍勢およそ1万を桂川手前で残し、およそ3千にて渡河を決行して本能寺へと向かわせた。ところが、亀山の明智勢に不穏の動きあり・・の一報は、すでに忍び衆によって、信長公のお耳に入っていたという。当時、本能寺はすでに堀や土居、石垣、厩(くるわ)などを新しく設(もう)け、城塞(じょうさい)としての改造、今でいうリフォームもなされていた史実は資料として、はっきりと現存する。万一の異変の際には脱出できる地下通路も極秘裏に作られていたらしい。根拠(こんきょ)は、小姓を中心とした僅(わず)かな供回りのみで、百戦錬磨の信長公が本能寺へ宿泊される訳がないという点のようだ。その辺(あた)りの事情は朝倉氏との金ヶ崎撤退戦の辛(にが)い経験によって培(つちか)われたものと推測できるという。変の前の供応の席の後、堺へお立ちになった徳川家康公が旅立ちの前、「くれぐれも、ご油断、めさるな!」と申されたかどうかまでは定かでないが、そのようなことをお話になったことも心中への含みとされた・・とも聞き及ぶ。ただ、真偽のほどは定かではない。
 さて、明智勢の前に、本能寺は猛火に包まれ、焼け落ちた。ところが、信長公のご遺骸(いがい)は、ついに発見されなかったのである。それはなぜか? 理由は簡単明白だという。信長公は「ふふふ、やはりのう…」と思(おぼ)し召されたかどうかまでは定かではないが、そのような気分になられ、密(ひそ)かに脱出されたというのである。その後、信長公は別人の世捨て人になられた。そして、天下の動向を第三者として遠目に観ながら、異国にて優雅にお暮らしになったということである。

                           完

※ 飽くまでも本作は希望的観測に基づいたフィクションであることを、ご了解下さい。

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2015年6月17日 (水)

生活短編集 100 結願[けちがん]

 コングロマーチャント[複合小売業]の総帥(そうすい)を息子に譲り、今や悠々自適(ゆうゆうじてき)の中津(なかつ)諭次郎(さとじろう)は鯛膳(たいぜん)と名を改め、号した。彼の場合の結願(けちがん)はそう大層(たいそう)なものではなく、セコかった。彼はそんなセコい願いごとが生じると、すぐさま彼専用の祠(ほこら)へと籠(こも)ったのである。そして、生じた願いごと、…いわばセコごとを護摩木(ごまぎ)に書き記(しる)し、焚(た)き焼(く)べた。そんな鯛膳だったが、彼が宗教を信心する修験者なのか? といえば、決してそうではなく、ただの俗人だった。ただ、妙なことに、この作法に則(のっと)って焚かれた願いごとは不思議なほど確実に成就されるのだった。それがなぜか? は、当の本人の鯛膳にも分からなかった。ただ、彼はその結願が成就すると、祠へ必ず鯛を塩釜(しおがま)にして奉じたのである。鯛膳の場合、神仏というのでもない自然のオーラに対して奉じたのだった。それが済むと、彼の場合、すぐ直会(なおらい)となる。直会は独(ひと)り勝手にカラオケを唄いながら踊るという趣向(しゅこう)である。そして、塩釜にした摘(つ)まみの鯛を頬張りながら、ニヤニヤと愉快に酒を飲むのである。酒はビール、日本酒、洋酒を問わず、何でもよかった。
 彼が結願の護摩木を焚いてから一週間後のことだった。
「ははは…今回も見事に結願だ!」
 赤ら顔の鯛膳はカラオケに合わせて唄いまくり、踊った。そして、いつの間にか深い眠りへと落ちていった。
 冷えで、鯛膳がふと目覚めたとき、空は白々と明け始めていた。今回の鯛膳は、舌がとろけるような高級肉を食いたいと思ったのだった。結願より一週間後の昼、彼はブランド牛のステーキを一流レストランで食す機会を得ていた。お付きの者達に医師が言う健康上の理由とかで、規制され続けていたのだが、その思いがやっと実現したのである。彼の結願は大人物のわりにはセコくて小さかったが、人生の充実感を与えるものだった。

                              完

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2015年6月16日 (火)

生活短編集 99 開かずの間

 江戸時代、五代将軍の御代(みよ)という。大奥御殿には宇治の間(ま)と呼ばれる、一切の立ち入りを禁じられた開(あ)かずの間があった。天下の将軍家さえ入れないのだから、それはそれは、怪奇(きっかい)な間だったようである。
 そして時は流れ、現代となる。ここ三津葉家でも誰も立ち入らない、いや、立ち入れない開かずの間があり、家庭内はその間への対応問題で紛糾(ふんきゅう)していた。今、世を騒がせている集団的自衛権とは、明らかに異質の問題である。
 家族の者達が、その間へ立ち入れない背景には、それなりの理由があった。先代の三津葉家之助は大の骨董(こっとう)好きで、母屋(おもや)続きの離れにある家之助の間には、ぎっしりと収集した骨董で溢(あふ)れ返っていた。中には物だけではなく、本来は庭などの外に置かれるはずの盆栽も含まれていた。徳之助の死後、家族の者達は徳之助の間へ入ることなく、それらはそのまま放置され続けたのだった。
 さてそうなると、必然的に部屋の内は塵(ちり)や埃(ほこり)まみれとなる。家之助の離れは、かなり古い日本建築で、いつ壊(こわ)れても怪(おか)しくない荒(あば)ら屋だった。そんなことで、ポタポタと屋根瓦が割れた隙間(すきま)から雨水(あまみず)が漏(も)れ、部屋中に滴(したた)り落ちたのである。骨董類はまだしも、盆栽鉢は枯れることなく勢いを増し、中には根が鉢を突き破り、床(ゆか)へ這(は)い出すものも現れた。そして、数十年が経った頃には床は朽(く)ち、盆栽はついに床板下の地中にまで根を張り、成長したのである。もちろん、根だけでなく、鉢を割った盆栽は幹周(みきまわ)りも太くなり、スクスクと伸びて天井板を突き破るまでになった。驚愕(きょうがく)したのは、母屋に住まう家族達である。中には、家之助の人魂(ひとだま)を見たと言う者まで現れ始めた。
「お父さん、見て下さいよ…」
「くわばら、くわばら…。開かずの間へ入るくらいなら、引っ越した方がいい!」
 家之助の長男、忠之助は妻の美登里にそう言うと、ついに屋根瓦を突き破った木の幹(みき)を見上げ、両手を合わせて合掌(がっしょう)した。三津葉家の開かずの間問題は、知らず知らずのうちに怨念(おんねん)を含んだ奇っ怪な大問題へと発展し、三津葉家の面々を悩ませることになったのである。
 だが、悪いことが起これば、いいこともあるのが人の世というものだ。三津葉家の珍現象は、マスコミに取り上げられ、テレビ画面でも流れるまでになった。そして、ついに霊スポットとして、多くの観光客が訪れるようにまでなったのである。三津葉家では、このプームにあやかり、三津葉家・開かずの間グッズを観光客へ販売し始めた。その結果、莫大(ばくだい)な利益を上げることになった。三津葉家では現在、有り難い有り難い…と、開かずの間神社なる神社を建立(こんりゅう)しようという計画が持ち上がっているそうである。 

                             完

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2015年6月15日 (月)

生活短編集 98 エンブレム

 自分なんかが出る幕ではない…と滝口は思えた。地位も名誉も金もない自分が幾ら中学時代の友人の頼みとはいえ、私設秘書官なんて…と、荷重(におも)に感じたのである。
「いや、突然な話だから分かるんだけどさ。滝口君、そこをひとつ頼むよ」
 川餅(かわもち)首相は滝口に懇願するように言った。滝口にすれば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの川餅が自分ごときに声をかけてきたことさえ未(いま)だに信じられなかったのである。
 日本人はエンブレムに弱い。どういう人物か分かりもしないくせに肩書きや実績というエンブレムでその人物を簡単に信用したり尊敬したりするのだ。滝口は出来る男だったが、幸か不幸かエンブレムとは無縁であった。彼はそれも宿命だ…と思って生きてきた。自分から出来る男と思わせるのが嫌で、不器用、無能力者として生きることを(むね)旨とした。別に苦とも思わず、尖(とが)ろうとも思わず、役所の一部署で目立たず楚々と生きてきたのだ。それが、どうだ。何がどう転んだのかは分からないが、急な川餅からの電話だった。携帯を手にしたとき、よく番号が分かったなあ…と不思議に思えた。
「ちょっと戸惑ってるんで…。また、こちらから電話します」
 電話を切った滝口は敬語を使っている自分に気づいた。
「どうしたんだよ、突然。いや~、それにしても久しぶりだな、川餅」
 電話に出たとき、最初に滝口はそう口にしたのだった。電話を切って滝口はエンブレムを思った。総理大臣というエンブレムが自分にそう話させたんだ…と。よく考えれば、川餅は父が元首相というエンブレムをすでに手に入れていたのだ。これも天分なのだから、善でも悪でも、なれるべき者がなれるのか…と思えた。
 結局、滝口はエンブレムを背負う川餅の話を辞退した。だが現在、表立たない秘書官として、極秘裏に川餅を手助けしている。彼にとって影の立役者にエンブレムは無用なのである。…とかなんとか言って格好をつけていた滝口だったが、今は妻の忍というエンブレムにドッシリと組み敷かれている。

                             完

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2015年6月14日 (日)

生活短編集 97 祁魂[けたたま]しい

 早朝からバタバタと慌(あわ)ただしく小学二年になる息子の友也が叫びながら家を飛び出していった。
「おい! 今日は日曜だろ?」
 少し前に起き、朝刊をソファーに座って読んでいた川塚は腹立たしく妻の沙奈に言った。沙奈は炊事場に立っている。
「クラブの練習よ…」
「ああ、サッカーか。W杯が始まってから、偉い熱の入れようだな…」
「僕が出て、仇(かたき)を取るんだって」
「仇ねぇ~。ははは…勝ったチームは危ういんだ。仇取るより技を磨(みが)け! って言いたいな、俺は。結果、勝てんだからさぁ~」
 ニタリと笑って川塚は返した。そのときふと、川塚の脳裡に、ある疑問が湧いた。友也のやつ、叫びながらけたたましく飛び出していったが、けたたましい・・って、漢字でどう書くんだろ? という素朴な疑問である。国語の教鞭(きょうべん)を執(と)る中学校教諭の川塚だが、生憎(あいにく)、その漢字を知らなかった。そんな自分が少し情けなく思え、川塚は朝食もそこそこに書斎へ向かった。沙奈は、いつもと違う川塚の様子を訝(いぶかし)げに見送った。
 検索すると、けたたましい・・という文言(もんごん)に、決まった漢字が無いことが判明した。さらに調べていくと、古今の作家が漢字を当てはめて小説中で使用していることが分かってきた。徳富蘆花(とくとみろか)、生田葵山(いくたきざん)、長塚節(ながつかたかし)、石坂洋次郎(いしざかようじろう)といった有名作家の面々は消魂(けたたま)しいと表記し、尾崎紅葉(おざきこうよう)、小栗風葉(おぐりふうよう)、森田草平(もりたそうへい)は気立(けたたま)しいとし、尾崎士郎(おざきしろう)、田村俊子(たむらとしこ)は気魂(けたたま)しい、大菩薩峠を著(あらわ)した中里介山(なかざとかいざん)に至っては、喧(けたたま)しいと著(あらわ)しているのだった。ならば! と川塚は思った。自分独自の表記を考えてもいいだろう…と。
 川塚は、いろいろと調べ、吟味した。そして数時間が経ち、ついに結論が出た。ある漢字に思い至ったのである。それは、━ 祁 ━ という漢字だった。とても、大いに、さかん…の意を含んでいるらしかった。字体のフォルムもどこか格好よく、川塚は、よし! これに決めた…と満足げに、━ 祁魂しい ━ と、紙に書いた。そして、しみじみ、いい感じだ…と、誰もいない書斎でニンマリした。
「あなたっ!! お昼よ!!」
 沙奈の祁魂(けたたま)しい声が書斎へ響き渡った。

                                 完

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2015年6月13日 (土)

生活短編集 96 天邪鬼[あまのじゃく]

 川渕(かわぶち)六郎は、天邪鬼(あまのじゃく)である。小説を書くことで作家として生計を立てる彼は、ここ最近、ヒット作に恵まれず、出版社から人気作家の連中と一線を画(かく)されるようになっていた。その彼は新進女流作家として華々しく世に躍(おど)り出た山底民江の人気に、ある種の羨望(せんぼう)を抱いていた。要は、自分も世間から、もう一度、チヤホヤされたい…という低俗な願望である。だが、その羨望も半年が経(た)つうちに、少しずつ彼の心の中で萎(しぼ)んでいた。時の流れが心の薬・・とはよく言われるが、まさにそれだった。
 ところが、どういう訳か今朝、思い出したように突然、川渕の心の中でメラメラとその炎がふたたび燃え出したのである。そこへ川渕の内心に潜(ひそ)んでいた天邪鬼の角(つの)が、ニョキリと頭を擡(もた)げた。さて、そうなれば、居ても立ってもいられないのが川渕の性格である。彼は山底の小説が掲載された雑誌リゲルをもう一度、山のように乱雑に積まれた本や雑誌の中から探し出し、手にした。
「これだな…」
 川渕はニタリと微妙な笑みを浮かべた。山底がリゲル新人賞を受賞した記念号である。彼女の受賞作「助かル」が再掲されていた。川渕は血眼(ちまなこ)になって読み漁(あさ)った。男女の情念を上手く描いた作品だな…と、敵ながらあっぱれの感じで読み終えた。そこで川渕は、はたと考えを巡らせた。
 山底の「助かル」は、恋破れ、自殺しようとした女が、とある崖で助けられ、その男と恋に落ちるという筋立て[プロット]である。ところが、話には続きがあり、その男は実は多額の借金を背負っていたのだ。助けられた女は恋に落ち、その男と暮らし始めたが、結局、生活に追われて全然、助からなかった・・という落ちである。川渕は、これが受賞作か…と頭を傾(かし)げた。これくらいなら、俺だって書けるさ…。よし! 俺はその逆を書いてやろう…と、川渕は天邪鬼へと変身した。
 天邪鬼に変身した川渕が運ぶ筆は速かった。瞬く間に100枚を超える原稿の山が出来上っていった。そして、数時間が経過した。
「出来たぞ…」
 川渕が手にした原稿のタイトルは「お陀仏」だった。その作品の筋立ては山底の「助かル」とは真逆で、とある崖で散々、男と遊び尽くした女が、人生と恋に飽きて自殺しようとする。それを助けた男はその女と恋に落ち、二人は一緒に暮らし始めるのだが、結局、男は女に飽き、二人の生活は、お陀仏になる・・という落ちである。
 一年後、どういう訳か、川渕の「お陀仏」は反響を呼び、彼は文壇の頂点の賞の一つ、植木賞を受賞していた。
「いやぁ~、ほんの手慰(てなぐさ)みの愚作ですよ…」
 川渕は受賞インタビューで、また天邪鬼へと変身し、ニタリと微妙な笑みを浮かべた。
 この話にはまだ、華々しい後日談がある。どういう訳か川渕と山底は激しい恋に落ち、二人は崖から海へ飛び込んでお陀仏になったのである。天邪鬼は怖い。

          
                  完

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2015年6月12日 (金)

生活短編集 95 W杯・決勝リーグ

 画面では8強を決める試合が行われていた。0-0のまま延長へと突入し、PK[ペナルティキック]直前の後半終了間際、アルゼチンのメッシーがお膳立て[アシスト]した劇的なシュートがスイスイの堅塁ネットを揺らしたのだった。会場のサポーター達から悲喜こもごもの叫びが響き渡った。これは人生模様だ…と蹴鞠(けまり)はW杯をテレビで観戦しながら思った。ひとつづつのプレーが人生そのものであり、障害物[相手選手]に対して果敢(かかん)に突破(ブレーク・スルー)しようとボールを蹴り、転(ころ)がす…と思えたのだ。
 現地では昼間でも、こちらは深夜の時間帯だった。日が変わった午前1:00の試合開始(キック・オフ)で始まったアルゼチン対スイスイの試合はアルゼチンの二十数本にも及ぶゴールへの波状攻撃シュートでクライマックスを迎えていた。事前に少し眠っておいたのが幸いし、深夜に関わらず蹴鞠は余り眠くはなかった。スイスイには申し訳なかったが、歴史好きの蹴鞠にはスイスイのゴールキーパーが少し落城寸前の城主に思えた。劇的なシュートの瞬間、ああ…ついに落城か、と蹴鞠は思った。蹴鞠は思わず身を乗り出し、反動で首を少し捻(ひね)っていた。首筋に僅(わず)かな痛みが走ったが、ジィ~~っとしていれば痛くはなかった。選手達が蹴られたり、倒されたり、足を吊(つ)ったりしてるのに比べりゃ、こんなものは…と、蹴鞠はW杯に対する影のサポーターを自覚して身を引き締(し)めた。
 次の朝、蹴鞠はベルギンが勝ち、決勝リーグの8強が出揃(でそろ)ったことをネットで知った。破れたチームの選手諸氏にはご苦労さんと言いたい…と蹴鞠は思いながら、なるほど、この国の顔ぶれか…と、それなりに納得した。まあ、どのチームが出揃っても納得する蹴鞠だったのだが…。
 7/5から、いよいよ準々決勝が行われるようだ。ということは、この試合は準々々決勝だったんだ…と、思いながら蹴鞠はテレビを消した。首筋の痛みが消え、シャキッ! とした。

                              完

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2015年6月11日 (木)

生活短編集 94 うすら馬鹿

 何度もキーを叩(たた)き間違えた挙句(あげく)、出来上ったと満足して茶を啜(すす)るのはいいが、その記事がブログにアップされると、必ず入力ミスがあった。そんな自分を阿保(あぼ)は、うすら馬鹿か…と嘲(あざけ)って苦笑した。これだけ間違えれば、昔なら切腹ものだな…と阿保は思えた。ええいっ! 気分一新だっ! とばかり、阿保は外の作業をすることにした。暑くなる朝のうちに…と思えたこともあった。ところが、である。
 阿保は庭木の剪定(せんてい)道具を出そうと小屋へ入った。そして、剪定を始めた。やがて剪定作業は順調に推移し、小汗が滲(にじ)む頃には作業は終了した。ここまではよかった。
阿保は剪定道具を小屋に戻(もど)すと鍵をかけようとした。そのときである。おやっ? と、阿保は思った。置いたはずの窓枠(まどわく)のところに鍵がないのである。はて、おかしいな…と、阿保はズボンのポケットを弄(まさぐ)った。しかし、鍵は出てこなかった。阿保は、まてよ! と思い巡った。鍵を無意識に収納場所へ戻した可能性もある…と思えたのだ。阿保は鍵の収納場所を調べた。だが、鍵はやはりなかった。その鍵の予備キーは収納場所にあったが、見つからないとなると、どうも心が晴れない。阿保はテレビに映るW杯の出場選手のように腕を組み、ポーズをつけて思い巡った。そのときである。カウンター攻撃のような発想が巡った。この出来事は過去にもあった…そのとき買っておいた鍵があったぞ! である。そのときは、鍵は発見され、使わずにしまっておいたのだった。阿保は記憶にあった箱の中をふたたび、弄った。買っておいた真新しい鍵とその鍵のキーがあった。阿保は名札を付けて小屋の鍵を付け変えた。
 事が終わったとき、十時半は疾(と)うに回っていた。フゥ~っと阿保の口から溜(た)め息が漏(も)れた。パソコンのキーの叩き間違えといい、小屋のキーの紛失といい今日はキーの厄日(やくび)だな…と思えた。しかしすぐ、それはキーを使った俺がうすら馬鹿だったせいか…と、阿保はすぐ思い直した。
 夕方、阿保が小屋前でもう一度、探していると、なんのことはない、キーは入口下に落ちていた。阿保は益々(ますます)、自分がうすら馬鹿に思えてきた。

                                 完

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2015年6月10日 (水)

生活短編集 93 あからさま

 会社の一角で、あからさまに生きる男がいた。曽野間雅夫(そのままさお)という、名からして、そのまま生きそうな男だった。彼は内心を決して隠そうとはしなかった。天真爛漫(てんしんらんまん)とは正に曽野間のことか! と、他人をして思わせた。
「あっ! 曽野間君。これ、悪いけどさぁ~、ついでにコピー頼むよ」
「すみません…。頼まれたいのは山々なんですが、僕、これコピーしたあと、すぐトイレへ駆け込みたいと思ってるんです。…そんなことですから、すみません!」
 曽野間はペコリ! と頭を下げて断(ことわ)ると、何食わぬ顔でコピー機の方へ歩き去った。そうなんだ…と、余り期待しない顔で頼んだ下坂は、歩き去る曽野間の後ろ姿を虚(うつ)ろに見送った。普通なら、それくらいのことなら、ついでに出来るだろうがっ! と、すごい剣幕で怒るところなのだ。しかし、下坂は曽野間の言葉に頷(うなず)いた。というのも、下坂に限らず課員の誰もが毎度のこととして腹立たなくなっていたからである。いわば、曽野間に対するある種の無期待感の現れで、頼んでも無駄か…という潜在意識による諦(あきら)めでもあった。
 自分のコピーを終えた曽野間はデスクへコピーした用紙を置くと、その足で課を出てトイレへ向かった。曽野間は万事が万事、この調子だった。
 忘年会が、とある料理屋で賑(にぎ)やかに盛り上がっていた。このあとの二次会は当然のこととして課員達に浸透していた。
「ははは…よし! いつものとこへなっ!」
 課長の臼毛(うすげ)は、決まりごとのように赤ら顔で言った。座はそのひと言で大いに盛り上がった。
「あっ! じゃあ、僕はこれで…。付き合ってる人とデイトがありますので…」
 曽野間は叫ぶように言うと、座を立ち、部屋を出ていった。部屋の中が急にお通夜になった。
「ははは…。まあ、いいじゃないか。曽野間君は毎度のことだっ! さあ、行こう!」
 座を盛り上げようと、臼毛は賑やかに立った。少し明るさが戻(もど)り、皆は課長に続いて立った。
「… なにもなっ。今日の今、デイトすることないだろ? ううっ! …なっ!  なっ! お前もそう思うだろっ! 思ってるはずなんだよ …違うかっ?」
 完全に酔いが回った下坂が臼毛に絡(から)んでいた。下坂は完全に課長と平社員の関係を酔いで忘れていた。
「ああ、そうだな。そうそう…そうです。そうですとも…」
 こいつ酒癖(さけぐせ)が悪いな…と、あんぐりした顔で、臼毛は下坂を宥(なだ)めた。そのときだった。
「お待たせしましたっ! デイトが終わり、彼女を送り届けてきましたので、戻りましたぁ~~!!」
 二次会のスナックへ曽野間が大声で踊り込んできた。全員が唖然(あぜん)として曽野間を見た。
「ああ、そう…」
  課員達から、いっせいに溜(た)め息のような冷(さ)めた声が漏(も)れた。

                               完

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2015年6月 9日 (火)

生活短編集 92 洗濯バサミ

 倉市静二は朝、主夫業に専念していた。勤務先の経営悪化でリストラされて以降、妻の美枝と立場がまったく逆になっていた。美枝はパートで働き、静二の方はもっぱら家事全般を引き受ける日々だった。静二が有難かったのは、そんな日々の連続を美枝が余り気にしていないことだった。かねがね、働きに出たいと言っていた美枝だったから、それも頷(うなず)けた。
 子供達はすでに学校へ行き、美枝も出勤して家を出たから、あとに残っているのは静二ひとりである。しばらく、寛(くつろ)いだあと、静二は日課の洗濯をしようと動き始めた。倉市家の洗濯機は旧式で、自動乾燥しない機種だった。毎度のことでもあり、洗濯は順調に進み、脱水が終わった。あとは、洗濯ものをハンガーに吊(つ)るして乾(かわ)かすだけだった。
 静二が一枚ずつ干し始めた途中に異変は起きた。ハンガーに数多く垂(た)れ下っている洗濯バサミの一つがパリッ! と折れたのである。洗濯ものを静二が挟(はさ)もうと開けた途端だった。こうなっては仕方がない。とりあえずは洗濯ものを他の洗濯バサミに吊るして干し、修理は乾いてからだ…と静二は結論した。
 洗濯ものの乾きは早く、昼前には、すべて取り入れられた。さて、いよいよ、である。修理するとすれば、どうするか…と静二は考えた。そうだ、まずは折れた部分を取り外(はず)そう…と思ったが、面倒くさいとも思え、静二はそのままハンガーを手に家の中へ入った。プラスチックものの修理でよく使うのがハンダゴテである。樹脂部分を熱で溶かし、切断部分をふたたび繋(つな)ぐ手法だ。この手法はボールペンのポケット挿(ざ)し部分が折れたときなどに多用していた。今回も静二はその手法を試(こころ)みた。折れた樹脂部を溶かし、接続は一応、上手(うま)くいった。よし! これでいいだろう…と静二は安易(あんい)に考え、その日の修理を終えた。静二の目論見(もくろみ)は、翌朝には事もなげに洗濯ものを干せるだろう…というものだった。だが、静二が読んだ先の目論見は甘かった。
 次の朝も、昨日(きのう)と同じように家族が家を出、静二ひとりが残っていた。さて、洗濯である。静二はウキウキ気分で洗濯を始めた。なんといっても、昨日の修理した洗濯バサミで挟めるからだ。いい気分で静二が挟もうとしたときだった。ポキリ! と、あっけなく修理部分は脆(もろ)く折れた。接着部分が強力な金属バネの力に耐えきれなかったのだ。またか…と、静二はガックリと肩を落とした。だが、それを静二のいつもの根気が救(すく)った。また、新しい方法でやりゃいいじゃないか…と。静二は昼のカップ麺を食べながら考えた。少しして、そうだ! という閃(ひらめ)きがあった。
 静二は第一段階で釘(クギ)を二本出し、サンダー[自動研磨機]で成形して棒状にした。長かったので、少し短く切断した。第二段階として、折れた部分の側面を昨日のようにハンダゴテで溶かし、そこへ釘を入れた。そして、取っておいた使用済みの強化プラスチックを溶かして上から被(かぶ)せた。丁度、弱った骨の骨折部をプレート上の金属等で固定する手法である。静二は、この作業を反対側の側面にも施(ほどこ)し、念のため、水で冷却して修理を終えた。ハンガーに取り付け、成功したな…と静二はニンマリした。少し天然に思えたが、かなりの満足感があった。だが、その満足感を今、確実なものにしたい…と、静二は思った。そんな静二は、修理した洗濯バサミを開けてみた。上手く折れずに開いた。金属が中に入ったことで接続部の強度が増し、バネの力に勝った瞬間だった。手術は成功した…と、ふたたび静二はニンマリした。

                            完

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2015年6月 8日 (月)

生活短編集 91 絵

 どうも思うような世の流れじゃないな…と並木は思った。だが、よく考えれば、自分以外にも人は大勢いるのだから、社会は自分一人が思うような絵になる訳がないのだ。もちろん、自分の絵になることもあるが、当然、逆の違った絵だって現れるはずである。それが世間というものだ…と、並木は自分に言い聞かせながら選挙の投票を終えた。並木が投票所を出たとき、投票行動を探ろうとする某テレビ局の出口調査員に声を掛けられた。「あっ! 急ぎますので…」と、声にもならない素振りを見せ、並木は解答を咄嗟(とっさ)に回避(かいひ)した。この必要のない絵にも並木は腹が立った。そんなものを先に知ってどうするんだっ! と。他にやることがあるだろうが! と、マスコミの詮索癖(せんさくぐせ)には嫌気がさした。この必要のない絵も並木が思い描く絵とは完全に違っていた。いったい、お前達は世の中をどうしたいんだっ! どこへ流そうとしているんだっ! 並木は自分の考えを歪(ゆが)める得体の知れない力に叫んでいた。この得体の知れないものこそが、自分の絵を歪めている…と並木には思えた。家へ戻(もど)った並木は冷静になろうと努めた。
 昼になり、並木はコンビニ弁当を箸で食べていた。まあ、俺の人生はこんなもんだ…と自分が小さく見えた。その小さい自分が大きな愚痴を吐いている。並木は幾らか矛盾を感じた。それと同時に並木の身体の冷却機能が作用しだした。コンビニ弁当を食べ終えたとき、午前中の熱くなった自分は何だったんだ…と、思えるようになっていた。参事官や審議官のように料亭で高級料理を、さも当然のように食べる仕事も出来ない税金泥棒どもが…という過去に感じた熱さは冷えきっていた。俺は、これだけのもんだ…と思えば、腹が立たなくなっていた。
 夕方になった。空が茜(あかね)色に染まりだしたとき、並木は自分を取り戻していた。偉そうなことを考える自分の虚栄心に自分自身の奢(おご)りを感じたのだった。こういうことは、世に出て偉くなった人が偉そうに考えることだ…と並木には分かった。並木は挽(ひ)き豆ではない安いインスタント・コーヒーを美味(うま)そうに啜(すす)った。

                              完

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2015年6月 7日 (日)

生活短編集 90 方向

 ここは営業第四課である。第一課~第三課はそれなりに成果を出していたが、第四課は鳴かず飛ばずで、社内では『ああ…第四の人達だ…』と、全社員から一定の距離を置いて見られていた。そんな第四課に室山(むろやま)もいた。室山がかねがね狙(ねら)っている方向は彼の中で決まっていた。ただ、首尾よくヒットせず、物事は室山の周辺で空(から)回りするばかりだった。契約が取れないとなれば給料泥棒呼ばわりされても致し方ない。だから、どこか第四課の連中にはビクついた影があった。そんな第四課をなんとかしよう…と、室山はある方向へと舵(かじ)を切り始めた。それは、今までの第四課の流れからすれば奇想天外な挑戦であった。
 いつもと同じ時が社内に流れていた。そして、退社時間となった。
「お疲れさん!!」
 第四課の連中のテンションが急にロウからハイへと変化した。どうすればそんなに変われるんだ?! と、他の課員達が訊(き)きたいほどの大変貌(だいへんぼう)ぶりだった。理由はただ一つ、これから第四課のパラダイス的時間が幕開いたからである。彼等の行き先はお決まりの飲み屋街だった。いわば、彼等は飲むために会社で働いているようなものだった。
「あれ?! 珍しいなぁ~。室さん、帰らないんですか?」
 怪訝(けげん)な表情で後輩の池辺がローテンションの室山に訊(たず)ねた。
「ああ、ちょっとな! しばらくは無理だ…」
「ふ~~ん、そうなんですか? じゃあ、お先に…」
 首を傾(かし)げながら池辺は課を出た。室山には新しく見定めた方向があった。今度はなんとしても第四課としての成果を上げ、他の課を見返さねばならん…と室山は思っていた。彼は一定方向に進む綿密な計画を立てていた。水も漏らさぬ…とは、まさにその策で、契約の緻密(ちみつ)な作戦案であった。
 三日が経ち、ついに室山の作戦案が完成を見た。その日は丁度、日曜で、室山は自宅の書斎にいた。
「出来たぞぉ~~!」
 室山は誰もいない書斎で、雄叫(おたけ)びを上げながら両腕を伸ばして万歳(ばんざい)をした。
 翌朝、室山は自案の実践(じっせん)した。
「おい! 室山君、大丈夫かね?」
 人が変わったようにテンションが高い室山を目にし、課長の浜竹が訝(いぶか)しそうに池辺に訊ねた。
「はあ、最近、室さん、いえ室山さん、妙なんですよ…」
「ふ~~ん? …」
 それ以上、浜竹は訊ねなかった。
 室山が出向いた契約先から浜竹に電話が入ったのは、その二時間後である。
「いやぁ~、実にすばらしい! お宅に決めさせて戴きます。契約の書類は後日! なにぶんよろしく!!」
 何がどうなってこうなったのか? …その契約が取れたプロセスは浜竹にはまったく分からなかったが、とにかく室山は¥数億に及ぶ契約を見事に締結させ、営業第四課に成果を齎(もたら)したのだった。
 その室山が課へ戻ってきた。彼は全精力を使い果たしたように虚脱状態で、テンションは過去最大の低さだった。そのとき、退社時間のチャイムが鳴った。
「室さん! 時間ですよ」
「ああ!」
 室山のテンションが、ふたたびローから少しハイへ切りかわった。

                             完

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2015年6月 6日 (土)

生活短編集 89 あの頃

 心地よい微風(そよかぜ)が裏庭のテラスを吹き渡っていた。リクライニングチェアーの上で取締役会長を息子に譲った憲一郎はウトウトと夢を見ながら微睡(まどろ)んでいた。
 季節はあの頃の夏だった。子供の憲一郎は滾々(こんこん)と湧き出る水の流れの中に浸(つ)かっていた。足の周(まわ)りの冷たい感触が心地よかった。水の流れの中に魚がいた。それは鮎(アユ)であり、追河(オイカワ)だった。どういう訳か、急に場面が変わり、憲一郎は細(ほそ)く澱(よど)んだ川の中にいた。泥色に濁った水の中で憲一郎は竹製のタモ網で川岸の魚を掬(すく)い入れようとしていた。水は濁っているから、当然ながら獲物(えもの)は憲一郎には見えない。力強く掬っては水上へ上げ、網の中を覗(のぞ)き見た。ザリガニ、ゲンゴロウ、泥鰌(ドジョウ)、田螺(タニシ)…と、いろいろ入っていた。憲一郎にとって、その内容は大満足だった。大人なら、なんだ、泥鰌だけか…となって、すぐ次の網を入れるのだろうが、憲一郎はそれらを全部、ビクへ入れた。これでは釣りじゃなく虫採集だ…と子供の自分を見ながら憲一郎は眠っているのだが、どういう訳か夢を見る大人の憲一郎には間違いとも思えなかった。そしてまた、場面が急展開して変わった。子供の憲一郎は泥鰌を天麩羅(テンプラ)にしていた。油は菜種油だった。今ならオリーブ油が全盛だよな…と眠っている憲一郎はニヤけて思った。しかし、あの頃は物が乏しいそんな素朴な時代だったんだ…と、すぐ思い返した。
 カタン! という金属音で、憲一郎は目覚めた。相変わらず心地よい微風が庭を吹き抜けていた。立てかけて置いた小さなショベルが風で倒された音だった。庭土を弄(いじ)ったときに使ったのだが、そのまま仕舞わず忘れていたのだ。憲一郎はリクライニングチェアーからその倒れたショベルを見ながら、ふと思った。確かに、あの頃は戦後の物資が欠乏していた時代だったな…と。だが、長閑(のどか)でゆったりと時が流れるいい時代だった…とも思えた。人の心も今と違い、荒(すさ)んでいなかった。だいいち、あの頃はタバコも両切りで、フィルターなどという洒落(しゃれ)たものもなかった時代だった。だから、ポイ捨てられても雨に打たれれば、いつの間にか消えてなくなった。いや! 拾う人はいたが、捨てる人はほとんどなかったはずだ。バタ屋さんが拾い集め、巻き直していた…。そんな小さな夢の続きを憲一郎は思い出していた。
「眠ってらしたんですか? …」
 妻がテーブルに憲一郎が嗜好(しこう)するシナモンティとクッキーを持って現れた。そして、静かにそれらをテーブルへ置いた。
「ああ…。どうもそのようだ」
 憲一郎の周りに過去の懐かしい時が流れていた。
 心地よい微風(そよかぜ)が裏庭のテラスを吹き渡っていた。お気に入りの草の上で猫のタマはウトウトと夢を見ながら微睡(まどろ)んでいた。
 季節はあの頃の夏だった。子供のタマは滾々(こんこん)と湧き出る水の流れの前で足をナメナメしながら寛(くつろ)いでいた。足の周(まわ)りの冷たい感触が心地よかった。水の流れの中に美味(うま)そうな小魚がいた。どういう訳か、急に場面が変わり、子供のタマは細(ほそ)く澱(よど)んだ川の上にいた。泥色に濁った水の上でタマは小魚を取ろうとしていた。小魚は水の中にいるから、当然ながら獲物は子供のタマには獲(と)れない。だが一応、水中へ腕をつけ、獲ってみようと試(こころ)みた。結果、獲れなかったが、子供のタマにとって、その内容は大満足だった。大人の猫なら、なんだ、それだけか…となって、馬鹿馬鹿しくなるのだろうが、子供のタマはそれで満足だった。これでは狩(か)りじゃなく遊びだ…と子供の自分を見ながらタマは眠っているのだが、どういう訳か間違いとも思えなかった。そしてまた、場面が急展開して変わった。タマは魚を口にしていた。魚は生(なま)だった。今なら缶づめが全盛だよな…と眠っているタマはニヤけて思った。しかし、あの頃は物が乏しいそんな素朴な時代だったんだ…と、すぐ思い返した。
 カタン! という金属音で、タマは目覚めた。相変わらず心地よい微風が庭を吹き抜けていた。小さなショベルが風で倒された音だった。ご主人の憲一郎が庭土を弄ったときに使ったのだが、そのまま仕舞わず忘れられていたのだ。タマはお気に入りの草の上からその倒れたショベルを見ながら、ふと思った。確かに、ご主人は最近、物忘れが激しくなったな…と。以前は、そんな凡ミスはされなかった…とも思えた。だいいち、あの頃は、そんな暇(ひま)もないほど多忙で、お帰りはほとんど深夜だった。だから、ご主人にお出逢いする機会は、ほとんどなかった…と、そんな小さなことをタマは思い出していた。
「眠ってたのニャ~? 奥様がお水を変えてくれたわニャ~…」
 妻のミイが草の上へ横たわるタマに近づいて言った。そして、静かに足音もなく座った。
「ああ…。どうもそのようだニャ~」
 タマは憲一郎の口真似をして言った。タマの周りに過去の懐かしい時が流れていた。

                               完

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2015年6月 5日 (金)

生活短編集 88 継続

 彫刻家の内竹は起きると、一枚の写真を眺(なが)めるのが日課となっていた。もう彼是(かれこれ)、五十年ばかり飽(あ)きもせず眺めている自分に、内竹は、ふと気づいた。
『五十年…もう、そんなになるか…。継続は力なりと言うが、そういやまだ、続いてるな…』
 内竹には思い当たることがあった。リアリティな芸術大賞のトロフィー写真である。内竹は、この賞が欲しかった。それが五十年前だった。そして、月日は流れ去った。毎年、出展してはいたが、その都度、入賞は見送られ、一度だけ佳作になったことを除けば、すべての結果は思わしくなかった。当然、内竹は有名彫刻家の名声を得ることなく、この世に埋没しようとしていたのである。それでも内竹は、そのトロフィー写真を見続けていた。彼の生活は困窮し、バンの耳とキャベツ、マヨネーズの日々が続いた。それでも、内竹は写真を眺めては、彫刻を継続した。
 ある日、内竹は不意にあることに気づいた。自分が刻んでいる彫刻は三次元物である。なのに、この栄光のトロフィー写真は二次元物だ…と。二次元物は面のみの世界で幅がない。そうだ! なんとかして、幅のない彫刻は出来ないものか…。それは、胴板とかを盛り上げたレリーフ彫刻ではなく、塑像として…。内竹はそれ以降、来る日も来る日も瞑想(めいそう)に耽(ふけ)り続けた。もちろん、一枚の写真を眺めながらであった。
 内竹がひと皮、剥(む)けたのは、それから数週間、経(た)った頃だった。彼は、ついにその方法を見出(みいだ)したのである。
『自分の彫刻は新たな三次元物を生み出すことだ。決して二次元物は生み出せないのだ。ならば、彫刻を出来るだけ幅を狭(せば)め、二次元物的に表現できないものか…』
 この発想のもと、内竹の思考錯誤の彫刻する日々が続いていった。そしてついに、内竹は新しい彫刻技法を完成させたのである。人類が未だ創造し得ない新たな二次元的三次元の彫刻物を…。
 新たな彫刻開始より一年、内竹の完成をみた彫刻は、ついに芸術大賞を受賞し、晴れてリアルな現物のトロフィーを手にすることが出来た。まさしく、継続は力であった。

                                完

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2015年6月 4日 (木)

生活短編集 87 腐食

 梅雨だというのに朝から真夏の暑さに松代は辟易(へきえき)としていた。ふと外を見れば、一匹の蜂が様子見に来ているのか、ベランダ越しに飛び回っていた。足長蜂は毎年、コンチワッ! と訪れるレギュラーで、申し訳ない程度の巣を作り、冬にはいなくなった。検索で調べてみると、冬には死んでしまい、その年の巣は二度と使わないから、威嚇(いかく)して近づかなければ安全…と書かれていた。そんなことで、松代はそのまま彼等を見ないことにしていた。そして、何も起こらないまま、年は明けていった。今日の蜂は? と松代が注視すると、大型の蜂である。スズメ蜂に思えた。松代が小さい頃、十年蜂と呼んでいた蜂の類(たぐい)だ。これは、刺されどころが悪いと人でも危うい。松代としては御免蒙(ごめんこうむ)りたい…と、瞬時に思え、追っ払う意味も込めて台所の換気扇の紐(ひも)を引っ張った。換気ファンが勢いよく回転し、その音に蜂は危険を感じたのか、どこかへ飛び去ってしまった。やれやれ、これで一件落着…と思え、松代は紐をふたたび引っぱると換気扇を止めた。そのときである。松代は、おやっ? と思った。確か以前は回転が止まったとき、換気扇の外側についている蓋(ふた)が、パタン! と低い金属音を出して閉じた記憶があった。それが今、外蓋が閉じなかったように思えたのだ。松代はもう一度、換気扇の紐を引っ張った。正常な回転音がし、ファンが回った。松代は回転ファンの部分を注視した。すると、ファンは勢いよく回っていたが、蓋が開いていないではないか。これでは換気扇の意味がないぞ…と、松代は脚立(きゃたつ)を出し、家の外側から調べることにした。幸い、飛び回っていた蜂は飛び去って以降、姿を見せなかったからその安全は確保されていた。
 脚立に登ると、蓋の部分が油でベトベトに汚れていた。三枚ある開閉蓋の一番下の蓋が斜めに外(はず)れている。その開閉部を開けると、開閉部の片方が腐食して千切(ちぎ)れ、外れたことが判明した。松代は、こりゃ、溶接できる厚さではない…と、まず第一感、思った。続いて、ガムテープでは、すぐに風圧で外れるだろう…と第二感で踏んだ。とすれば、針金(ハリガネ)で固定するしかないか…と第三感で結論づけた。松代は針金を探した。細い針金が欲しかったが、捨てずに部品取りをして残しておいた箒(ほうき)の針金があった。松代はそれを使って固定した。ベトベトと付着した油は、これも残しておいた摩耗(まもう)歯ブラシで油洗剤を使って擦(こす)り落とした。終わると、フゥ~~っと溜(た)め息を一つ吐(は)いた。さて! と、家の中へ入った松代は換気扇の紐を再々度、引っぱった。換気扇の回転ファンが回り、開閉蓋は、固定した一枚を残し元どおり開いた。数度、紐を引っぱり、開閉蓋の開閉に異常がないことを確認した。そして、これでひとまず修理は終わったか…と、松代は手を洗った。そのとき、ふと、松代の脳裡(のうり)に腐食した日本の姿が重なった。

                              完

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2015年6月 3日 (水)

生活短編集 86 再利用

 篠川は次の日曜、家の小屋の壁面をペンキ塗装し直そうと考えていた。常々、考えていたのだが、雑用と所用に追われ、延(の)ばし延ばしになっていたのだ。それが、ようやく実行できる運びになったのである。完全な日曜大工の部類だが、気がかりなことをそのまま放っておくのは篠川の性分に合わなかったから、彼はウキウキ気分でテンションを高めていた。
 この手の補修は過去にも経験済みだったから、自信はあった。失敗もあったが、その都度、工夫したりする経験値は高まった。
 朝から始めた作業は順調に捗(はかど)り、昼前には大方は塗装を終えた。さて、昼に…と、刷毛(はけ)を洗おうとしたときだった。裏庭の垣根の杭(くい)が篠川の目に映(うつ)った。それらの杭は先端が雨に打たれ、少し朽(く)ち始めていた。木製の戸にはクレオソート油を適当な時期に塗っていたから、杭にもついでに塗ってはおいたのだ。ただ、杭の場合、切断面が真上になるから、雨滴が直撃して腐食し易(やす)いのだ。はて? と篠川は思い巡った。すると丁度、上手(うま)い具合に、空(から)になった塗装の空(あ)き缶が多数あった。何かに使えるだろう…と踏んで、捨てずに残しておいたものだ。よし! これを杭の先端に被せて、ついでに塗装しよう…と決断し、ただちに実行した。ペンチで空き缶の持ち手になっている針金(ハリガネ)を外(はず)し、すべての杭に被(かぶ)せた。続いて、被せた空き缶を塗装した。腹は減ってきていたが、ハングリー精神で我慢し、乾いた上を二度塗りした。空き缶は再利用され、第二の務めを果たすこととなった。人間も、かく有りたいものだ…と、篠川は、つくづく思った。
『どうも…』
 篠川がドアを閉め、家の中へ戻(もど)った途端、空き缶達は小声で、そう言った。そのことを篠川は知らない。

                              完

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2015年6月 2日 (火)

生活短編集 85 フライパン

 寿(ことぶき)は台所で収納したフライパンを出そうとした。そのとき、異変は起きた。
 寿の家には、ある程度新しい鉄製フライパンと古いステンレス製のフライパンがあった。新しい方はIHクッキングヒーターを電化店で買ったとき、粗品として貰(もら)ったものだ。そして古い方は、かなり昔のステンレス製のフライパンで、こちらは寿の幼い頃からある年季ものである。だが残念ながら、取っ手の硬化プラスチック部分が割れ、接続ネジが取れていた。寿がなんとか接着剤で接着し、もたせておいた物だ。それが、たび重(かさ)なる戸棚(とだな)からの出し入れのため、少しずつ接続部が緩(ゆる)んだのだろう。今日、スポッ! と抜ける異変が起きたのだった。寿は、こりゃ、もう駄目だ…と一端は捨てようと思った。だが次の瞬間、いや、待てよ…と思い返した。小学生の頃の遠い懐かしい記憶が一瞬、寿の脳裡(のうり)に甦(よみがえ)ったのである。それは、家庭科の実習でフライパンを学校へ持って行ったときの微(かす)かな記憶だった。寿は、これは捨てられんぞ…と考えを変えた。ともかく、もう一つの鉄製フライパンを出し、急ぎの調理を終え、その場は終息を見た。
『ふぅ~、危ないとこだった…』
『ヒヤヒヤしましたよ。もう少しでしたね、先輩』
『ああ…』
『でも、よかったです』
『いや、この身、明日はどうなるか分からん。あとは頼んだぞ!』
『ぅぅぅ…先輩!』
 2ヶのフライパンは接触点でチチチ…と微妙に震え合いながら咽(むせ)んだ。そんな寸劇が戸棚の中で交(か)わされていようとは露(つゆ)ほども思っていない寿は、呑気(のんき)にサッカーのW杯を観ていた。
「ハットトリックか…これはすごいぞ!」
 そう独りごちたとき、寿はふと、何かやり残しがあったな…と、思った。だが、どうしてもその内容を思い出せず、試合を観続けた。
 時は流れ、寿が夕飯の準備をしよう…と戸棚を開けた。そのとき、寿はし忘れたことを思い出した。今度は忘れまい…と夕飯準備が終わると同時に、寿は修理を開始した。
『さらばじゃ! あとは…』
『先輩!!』
 こんなフライパン同士の会話が寿に聞こえる訳がなかった。寿は、まずボンド等で、緩んだ部分を固定化し接着しようとした。だが、その第一段階が終わるとともに、すぐフライパンの取っ手はグラついた。これは駄目だ…と、寿は第二段階として針金で固定しようとした。しかし、この策もグラつきは止められず徒労(とろう)に帰(き)した。寿は、サッカー選手のように両腕を組んでテレビポ-ズを作り、しばし巡った。そして、決断すると、木の切れ端を取っ手型にサンダー[自動研磨機]で成形し始めた。第三段階である。ある程度、削れたところで金槌(かなづち)でフライパンに差し込んで叩(たた)いた。あとは接続ネジを2ヶネジ込んで固定するだけだった。だがネジ釘(くぎ)が長すぎた。寿はサンダーで削って短くした。そして、インパクト・ドライバー[自動回転式・衝撃ドライパー]で締め付けた。ついに上手(うま)く固定し終えた。あとは、持ち易(やす)いように軽く角(かど)を成形して丸くし、作業を終えようとした。だが、取っ手の部分が黒だったものが木肌がモロに出ているのが気に入らなかった。寿は黒マジックで付けた新しい取っ手を塗った。そして、まあ、これでいいだろう…と戸棚へ修理を終えたフライパンを戻(もど)した。
『ぁぁ…よかった! お帰りなさい、先輩!!』
『なんとか、帰れたよ…』
『手術は成功したんですね?』
『ああ、そのようだ…』
 フライパン同士は歓喜(かんき)のあまり、微(かす)かにチチチ…と、うち震え、再会を祝した。寿にはそんな会話が聞こえるべくもなく、彼はW杯を冷えたピールを口へと運びながら、観始めた。辺(あた)りには夕闇が迫ろうとしていた。

                               完

※ 本作には後日談がございます。漏れ聞くところによりますと、後日、取っ手の黒マジックの上に、二スが数度、塗られたそうにございます。^^

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2015年6月 1日 (月)

生活短編集 84 間違[まちが]い

 腕を見て田所は、しまった! と思った。車のハンドルを握(にぎ)っていれば、まだ迂回路(うかいろ)を走り、なんとかなったのだ。だが時すでに遅し・・で、鉄道を選択した以上、どうにもならなかった。この時間、その場に着いていないのだから完全な失態で、取り返しようのない間違(まちが)いに思えた。梅雨末期の豪雨災害が災(わざわ)いし、土砂崩れで線路が寸断された。その結果、新幹線に乗り継ぐ駅に出られないまま、田所は列車内に閉じ込められたのである。出がけに携帯を車へ置き忘れていた。そんなことで、取引先との連絡が取れなかった。昼までに取引先の会社へ着かねばならなかった。契約が整った直後で、契約書の受け渡しがあったのである。
「どうなんですかっ?!!」
 田所は客室乗務員に詰め寄っていた。
「どうって言われましてもね…」
 自分自身にも、先の見込みが分からなかったのか、客室乗務員は語尾を濁(にご)して暈(ぼか)した。
「困るんですよ! 昼までに着かないと…」
「ははは…昼は無理でしょ。この状況ですよ」
「あなた! 今、笑いましたよねっ!」
 田所は少しムカッとしたのか、客室乗務員に詰め寄った。
「いえ! 決して、そのような…。どうも、すみません」
 客室乗務員は、嫌な客に当たったな…という顔で謝(あやま)った。
「やっぱり笑ったんだ…。笑えるんですか!!? 今の状況で…」
 客室乗務員は制帽を取って田所にお辞儀した。
「… そこまで、してもらわなくても…」
 田所は怯(ひる)んだ。客室乗務員は、はてっ? と思った。床に切符が落ちていたのを見つけ、腰をかがめたのだ。田所は、自分に謝ってくれたんだと早とちりして間違えたのである。客室乗務員は切符を拾(ひろ)うと背を伸ばして田所に訊(たず)ねた。
「これ、お客さんのですか?」
「えっ?」
 田所は攻め手を失い、客室乗務員が差し出した切符を見た。そして、自分のポケットを弄(まさぐ)った。田所は入れたはずの切符がないのに気づいた。何かの拍子(ひょうし)で落としたか…そういや、さきほどポケットからハンカチを出したことを思い出した。その時、落としたんだ…と思えた。
「はあ…有難う」
「それじゃ」
 客室乗務員は笑顔で敬礼すると歩き去った。今日は間違える日だ…と、田所は、すっかりネガティブになった。そして半日後、田所はようやく、取引先の会社へ着いた。約束した昼は疾(と)うに回り、三時近くになっていた。
「すみません、遅くなりましたっ! …田所です!!」
「やあ、田所さん。どうされました? そんなに息を切らせて?」
「だって、今日は契約を…」
「はあ? 契約は明日ですよ?」
 田所は一日、契約日を間違えていた。

                             完

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