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2017年5月

2017年5月24日 (水)

よくある・ユーモア短編集-28- いつもの…

 甘煮(あまに)は正月休みということで、久しぶりに下町の繁華街へと出た。服装は、この場合は…と決めている和装の着物姿である。鯔背(いなせ)な所作でいつも常連にしている汁粉(しるこ)屋へ入ると、店の主人が笑顔でペコペコと頭を下げ愛想よく現れた。
「へへへ…こりゃ、甘煮さんじゃありませんか。明けましておめでとうございます。今年も、ご贔屓(ひいき)に…」
 そう言われては甘煮も挨拶(あいさつ)をしない訳にはいかない。
「いやぁ~、おめでとうございます。こちらこそ…」
 甘煮がそう言うと、間髪いれず、主人は返してきた。
「いつもの…ですか?」
「ああ、いつもの…」
 二人の会話は、『いつもの…』で事(こと)足りた。暗黙の了解、野球でいえばピッチャーとキャッチャーが交わすサインのようなものである。この場合、二人の合言葉となっている『いつもの…』は、汁粉の大盛りだった。客が注文した普通の椀(わん)汁粉[¥700]に比べ、『いつもの…』で出される椀汁粉は、ほぼ倍の大椀で、値段だけが、どういう訳か倍ではなく少し増した¥900だった。
 出来るまでの所用時間は専門店だけに早く、僅(わず)かに5分内外だった。
「へい、お待ちっ!!」
 気分のよい勇(いさ)み声で置かれては、食べる方も自然と心勇んで気分がよくなるというものである。甘煮は気分よく食べ始めた。
 そしてしばらく時が経(た)ち、甘煮は気分よく食べ終えた。それも、それほどでない短時間である。ダラダラと時(とき)を費(つい)やして食べるのではなく、スイスイと短時間で食べ終えるのが、小粋(こいき)というものである。甘煮は、それを地(じ)でいった。
「いつものとこへ置いとくよ!」
 食べ終えて立った甘煮は、前もって用意していた額をいつもの決めた定位置へ鯔背に置くと店を格好よく去った。
「へいっ! またのお越しをっ!!」
 店の主人も心得たもので姿を見せず、額も確認することなく、鯔背に甘煮を送り出した。まあ、こんなケ-スは余りないだろうが、世の中が[いつもの…]で成り立っていることは善悪は別として、よくある。

                           完

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2017年5月23日 (火)

よくある・ユーモア短編集-27- 対応

 店員にも、いろいろな対応の違いがある。波池が季節違いの今の寒い時期に半袖(はんそで)の上肌着と下肌着のステテコを買っておこうと肌着売り場へ出かけたときのことである。波池は売り場に並んでいる数種類の2枚組製品を適当に物色した。
『ほう…これはいいが、少し高いか。こちらは丸首だ。Vネックの方が…』
 波池は心で語りながら、物色する動作を続けた。
『おっ! こりゃ、ちょうどいいやっ!』
 気に入った首周りのVネックが見つかり、波池はそれを買うことにした。手に取ると、ビニール袋の表面に[L]というレッテルが貼(は)られていた。
『いやいやいや…これは、ちと、でかいぞ…』
 波池は内心でそう思え、手にした[L]袋に入ったVネック上肌着を元へ戻すと、同じ種類の[M]サイズを探した。当然、近くには同じ種類の[M]サイズがあり、波池はそれを買い物カゴへいれた。さて、次は下肌着のステテコである。『ステテコは…』と、波池がその周辺を探していると、当たり前のようにステテコも並んでいた。『まあ、それは当然、売っているよな…』
 当たり前のことを当たり前のように内心で思いながら、波池はステテコを物色し始めた。
『まあ、これにするか…』
 池波は気に入ったステテコを買うことにした。よく見ると、Vネック上肌着と同じメーカーの製品で、手に取ると、これにもビニール袋の表面に[L]というレッテルが貼(は)られていた。波池は『[M]には[M]か…』と、内心で瞬間、つまらなく思った。
『だが待てよ…』
 波池は、手に取りかけた動作を停止した。よく考えれば、汗でステテコはよく破れて痛んでいた。その都度、破れた部分を縫(ぬ)っていたが、縫われた肌着を身につける・・というのも貧乏くさいし捨てるのも嫌な気分がした。そんな縫ったステテコが多くあることをふと、波池は思い出したのである。
『よしっ! [L]にしておこう。大きいと少しでも破れにくいだろう…』
 単純な判断だが、波池にはそれが正解のように思えた。
「あの、これ下さい…」
 レジへ行くと、波池は買い物カゴに入れた2種類の製品を出してレジ机の上へ置いた。
「あの…[M]と[L]ですが? これで、いいですか?」
 売り場の女性店員は、さも『[M]には[M]でしょ!?』と決まったような口ぶりで訊(たず)ねた。波池は怒るでなく、『[M]に[L]、[L]に[M]の客だっていますよっ!』とは思ったが、口にすることなく、思うにとどめた。
「はあ、これでいいです…」
 波池は、そう口にした。対応で勝手に判断されることは、確かによくある。ただ、それに対する言動は、荒くも柔らかくも、人によって異なる。

                          完

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2017年5月22日 (月)

よくある・ユーモア短編集-26- 戻(もど)りたくなる

 何げなく新聞に目を通していた宮氷(みやごおり)は、殺伐とした記事の多さに、思わず読むことをやめた。ふと、宮氷の脳裏(のうり)に去来したのは、数十年前の長閑(のどか)だった頃の田園風景だった。あの頃は、物資はなかったが、皆が輝いていた。この国も輝いていた。だが今はどうだ。文明も進み、手に入れられないものはごく僅(わず)かになった。食べ物も他の物資も・・である。だが、人の心は荒(すさ)み、他人の痛みが分からない人間が増えた。家の前に芥(ごみ)をポイ捨ててなんとも思わない人間以下の生物だ。人間は最低限、そういうことは理性で止め、やらないのだ。宮氷はあの頃に戻(もど)りたくなった。その手の人間が少なかったあの頃に…。これはこの国に限ったことではなく、世界的に起きている物質文明がもたらした弊害(へいがい)だ…などと偉(えら)そうに思えていた宮氷の前に一本の竹輪の皿があった。宮氷が日課にして食べるマヨネーズを詰め込んだ竹輪で、これが宮氷の唯一の楽しみだった。来る日も来る日も・・竹輪の皿が置かれていない日はなかった。宮氷が若い頃からその習慣は続いていた。あれは…と宮氷は最初に竹輪を食べ始めた過去の瞬間に想いを馳(は)せた。あのときは美味(うま)かった! 宮氷は、そのときの味覚を想い出した。今は舌が肥えたのか、さほど美味い! とも思わなくなっていた。宮氷はあの頃に戻りたくなった。

                            完

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2017年5月21日 (日)

よくある・ユーモア短編集-25- 日々の違い

 日々、同じ繰り返しで怠惰(たいだ)に過ごしていると、昨日(きのう)と今日の違いが分からなくなり、プレることが、よくある。学生なら、まだ日々の授業科目も違うし、勤労する社会人場合でも、その日々に起こる仕事内容が違うから、感覚の曖昧(あいまい)さは、まだそうブレない。だが、年老いて退職などをし、社会の第一線から身を引くと、この感覚のプレが大きくなってくる。通勤や顧客といった対人関係が途絶え、昨日と同じような繰り返しの日々が続くようになると、一日の違いの感覚が麻痺(まひ)する訳だ。水際(みずぎわ)の場合がそうだった。
 歯を磨きながら水際はふと、思った。今日は確かに大晦日(おおみそか)だったな…と。さて、多かれ少なかれ正月準備でもしておこうか…と思った水際は、例年どおりの準備を始めようとして、おやっ? と首を捻(ひね)った。これから飾ろうとしていた床の間の畳の上には、すでに三方(さんぼう)に乗った注連(しめ)飾りと重ね餅がお目出度(めでた)そうに存在して置かれていた。水際にすれば、これから! と意気込んでいた矢先だったから拍子(ひょうし)抜けしてしまった。
「ああそうか、済ませたんだった…か」
 飾っていないものが飾られている訳がなく、水際に考えられるのは、ド忘れくらいのことだった。水際はこの時店では、そう深く考えていなかった。あと少しやり残した掃除などがあったが、それらも見回ると、すでに片づいていた。水際はまた、ド忘れしたか…と思った。そして、こともなく夜が更けた。当然ながら水際は大晦日だったから、年越し蕎麦(そば)を食べようと思い、買っておいた蕎麦の生麺(なまめん)と葱(ねぎ)などの具材を冷蔵庫から出し、調理しようとした。だが冷蔵庫を開けたが蕎麦も葱も見当たらない。これは怪(おか)しい…と、水際は動きを止めた。そして、しばらくし、テレビで確認してみよう…と思い立ち、テレビのリモコンを押した。すると、ニュースが報道されていて、アナウンサーが何やら語っている。
『…では250万人の参詣客で』
 水際は自分の耳と目を疑(うたぐ)った。年が明けるどころか、すでに元日(がんじつ)は終りに近づき、早くも正月二日になろうとしていたのだった。いや、いやいやいや…これはどう考えても妙だ、と水際はテレビ画面を見ながら腕を組んだ。まあ、そうはいっても、それが事実なら仕方がない。俺はどこか悪いのかも知れん…と思え、明日にでも医者へ行こうと水際は思った。まあ、カップ麺でも食べて寝よう…と思った矢先、水際は急に眠くなった。気づくと、心地いい昼間だった。手には濡れた雑巾が握られていた。大掃除をしている最中、水際はつい、ウトウトと疲れで眠ってしまい、夢を見ていたのだ。夢の内容は去年の元日で、まだ正月は開けていないようだった。
「なんだ…」
 水際は慌(あわ)てて床の間へ行った。まだ正月飾りは飾られていなかった。そりゃ、そうだろう…と水際は安心した。日々がどう違うかを忘れるほど健康で平和に暮らせることが、なんと有難いことか…。水際は来年から日記をつけよう…と思った。何ごともないと、日々の違いに疎(うと)くなっていることは、確かによくある。

                          完

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2017年5月20日 (土)

よくある・ユーモア短編集-24- 歯車

 人々は多かれ少なかれ、人と接触して生きている。いや、生きている・・などと偉(えら)そうに言えるのはまだその有難味(ありがたみ)が分かっていない人で、正確には存在して生きさせて貰(もら)っている・・ということだ。もちろん、他人に命を狙(ねら)われるとかの心配は、突発ごとにでも巻き込まれない以上、普通、起こらないし有り得ない。まあ、自分によって命を落とす事故の場合は別だが、その事故にしても、バス、鉄道、船舶、飛行機などのように他人の運転によって死に至った場合は、運転、操縦する人と接触したことになる。要は、人と接触する歯車が一つ噛(か)み合わなくなると、個人ばかりでなく、その波紋が大きく広がり、大問題になっていく訳だが、そういうケースは、ないようで案外、よくある。
「あっ! 三鱈資(みたらし)君、今年もよろしく頼むっ!」
「いえ、こちらこそ…。でも、僕は三鱈資さんじゃないですが…」
 訝(いぶか)しげな顔で振り向き、食品物産・営業課の課長の揚麦(あげむぎ)に返したのは、三鱈資の退職後、そのデスクへ異動してきた係長の菓子(かし)だった。
「そうそう…そうだったな。後ろ姿なんで、つい、間違えてしまったよ、すまんすまん。菓子君だったな? アレ、どうなったかね?」
「アレ? アレと申されますと?」
「ははは…分からんかね。ナニだよ君、ナニ!」
 揚麦は、てっきり引継ぎがなされているものだと思い、遠回しに強請(ねだ)った。
「ナニ? ナニと言われましても…」
 菓子は分からず、困った表情で揚麦を窺(うかが)った。揚麦としては当然、退職前に三鱈資から
引継ぎがなされていると思っていたから、菓子の返答が不思議に思えた。
「三鱈資君に聞いてないか? ナニだよ、ナニ」
「はあ…生憎(あいにく)、何も…」
「そうか…、まあいい」
 ペコリと揚麦に頭を下げ、菓子は振り向いていた姿勢を元に戻した。揚麦としては引き下がったものの面白くない。自分の思うどおりにいかず、歯車が狂ったのだ。実は揚麦としては、それを食べないと仕事が手につかなかったのである。ある種の依存症の一種だったが、かかりつけの医者にも原因が分からず、手の施しようがなかった経緯があった。揚麦をそこまで依存させていたもの・・それは老舗・鹿野屋でしか販売されていない一日50個、限定生産されるクリーム入りドーナツだった。揚麦はそれを毎朝、食べないと、仕事に支障をきたしたのだ。揚麦はやる気がなくなり、会社を早退した。
「揚麦君は、どうした?」
 部長の蕎麦(そば)が営業課に入ってきたのは、揚麦が早退した直後だった。
「課長は、先ほど早退されましたが…」
「なにっ!? 君は揚麦君から、何か聞いとらんか? ナニを」
「ナニ? また、ナニですか?」
「んっ? どういうことだ?」
「いえ、何でもありません。聞いておりませんが…」
 菓子は蕎麦に返した。
「そうか…、なら、まあいい」
 蕎麦は仕方ないな…と引き、部長室へ戻(もど)っていった。菓子にそうは言ったものの、蕎麦としては面白くない。自分の思うどおりにいかず、歯車が狂ったのだ。実は蕎麦としては、それを食べないと仕事が手につかなかったのである。ある種の依存症の一種だったが、かかりつけの医者にも原因が分からず、手の施しようがなかった経緯があった。蕎麦をそこまで依存させていたもの・・それは老舗・鹿野屋でしか販売されていない一日50個、限定生産される蜂蜜(はちみつ)入りドーナツだった。蕎麦はそれを毎朝、食べないと、仕事に支障をきたしたのである。蕎麦はやる気がなくなり、会社を早退した。
『蕎麦君は?』
 部長室に内線電話が入ったのは、蕎麦が早退した直後だった。
「はい…生憎(あいにく)、部長は気分がお悪くなったとかで、早退されましたが…」
 美人秘書の派須多(ぱすた)は専務の鵜丼(うどん)にそう返した。
『なにか、蕎麦君から預かってないかね』
「いえ、べつに…」
『そうか、なら、いい…』
 昼過ぎ、食品物産は会社を早退して営業を停止した。このように、ひとつ歯車が狂うと、世の中が狂うことは、案外、よくある。

                            完

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2017年5月19日 (金)

よくある・ユーモア短編集-23- 先を読む

 夕方、帯川(おびかわ)は明日の天気が気になり、テレビを見ていた。気象予報士が明日の天気予報を詳細に語る様子が画面に映し出されている。帯川は明日、屋外の重要な勤務先の仕事を任されていた。だから明日、降られては困るのだ。防水シートを被(かぶ)せれば出来ない作業ではなかったが、降られて困ることに変わりなかった。天気予報では明日、晴れる・・という予報士の解説が実(まこと)しやかに気圧配置図を映し出して語られていた。だが、帯川は疑っていた。というか、元々、帯川は物事には慎重な性格だったのである。ああは言っているが、降るかも知れない。いや、大いにその可能性はあるぞ…と、帯川は疑心暗鬼で先を読んだ。となれば、防水シートの準備は当然、必要となる。現場責任者としては、100名ばかりの作業者達にその旨(むね)を伝えておかねばならない。ポンチョか雨合羽(あまがっぱ)を準備してくるように・・という内容の電話をかける必要があった。俄(にわ)かに帯川は忙(いそが)しくなった。課長補佐の窪池(くぼいけ)に電話し、雨具の持参を連絡するようにと指示した。
『えっ?! だって明日は晴れそうですよ。天気予報もそう言ってますし…』
「甘い甘い! 君は甘いぞっ! そうは言っておっても、たかが天気予報。降るかも分からんじゃないかっ! 降らんと、誰が保証するっ!?」
『…ええ、まあ。それはそうですけど…』
 窪池は、帯川の威圧する電話の声に、思わず流された。
「分かれば、いいんだよ。じゃあ、な行の作業員までは私が電話するから、君は、は行以降の作業員に連絡してくれたまえ」
『はい、分かりました…』
 帯川がすべてに連絡し終わったとき、すでに10時前になっていた。妻の美咲は呆(あき)れて先に寝てしまっていた。帯川は冷え切った料理を一人、冷え切った表情で口にした。だが、帯川には、これで大丈夫だ…という安らぎの思いがあった。
 予想は大きく外(はず)れ、次の日は、天気予報どおりの快晴だった。昨夜の帯川の多忙さは徒労(とろう)に帰していた。だが、晴れ渡った早朝の空を見上げながら、帯川は青空に怯(ひる)まず先を読み、いやいやいや…まだまだ分からんぞっ! と、疑(うたぐ)りの眼差(まなざ)しで、ジィ~~~っと空を眺(なが)め続けた。慎重派が時間切れまで先を読むということは、確かに、よくある。

                           完

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2017年5月18日 (木)

よくある・ユーモア短編集-22- それとなく

 世の中には目立つことを苦手(にがて)とする人がいる。まあ、多かれ少なかれ、人は大衆の中では意識はするものだが、大衆でない数人、あるいは一人の場合でも根本的に人と接することが苦手な人もいるのだ。麦畑(むぎはた)の場合がそうで、それとなく生きたい…と彼は願っていた。それとなく・・というのが味噌で、自分を勘定に入れられたくない訳だ。いわば、透明人間ではなく、いることはいるのだが、存在感がなく生きられる…というのが麦畑にとっての理想だった。それは他人から無視される・・というのではない。
「あっ! 麦畑さん」
「はい、何か?」
「いや! すみません、何でもありません。そこの穂耐(ほたえ)さん!」
 呼び止められた麦畑だったが、呼び止めた村長の高温(こうおん)は、麦畑が鍬(くわ)をバットがわりにして素振(すぶ)りしているのを見て、通りかかった穂耐に的(まと)を変えた。麦畑は別に無視されたとも思わず、鍬の素振りを続けた。すると偶然にも鍬の先が抜け、空中に飛んで森から出てきた一羽の鴨(かも)を直撃した。村長と耐穂は見て見ぬ振りをして去っていった。麦畑は鴨に近づいたが、すでに息絶えていた。麦畑は、こりゃ可哀そうなことをした・・と思うでなく、今夜は美味(うま)い鴨鍋が食えるぞ…と、それとなく思った。そして、その夜はそれとなく、そんな夜になった。満腹になった麦畑は、それとなく美味かったな…と思った。
 翌朝、麦畑は食べた鴨が急に可哀そうになり、それとなく墓をつくって残った部分を葬り、野の花をそれとなく飾ってやった。そして、じぃ~~っと墓を見ながら、まあこれでいいか…と、それとなく思った。

                            完

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2017年5月17日 (水)

よくある・ユーモア短編集-21- 蛸足(たこあし)討論

 テレビ中継された会場では有名評論家、A、B二人による討論が賑(にぎ)やかに繰(く)り広げられていた。
A「あなたはそう言いますがね、私はそうは言わないっ!」
B「ええ、結構ですよ! 別にそう言っていただかなくても。私はそう言っただけです」
 そこへMC[マスター・オブ・セレモニーの略で、進行を任された司会役]が二人の会話に割り込んだ。
「そう言う・・とは、どういうことなんでしょう?」
 素朴な質問に、二人は一瞬、固(かた)まった。
A「…つまり、ほれ。…なんですよ。なんでしたっけ?」
 Aは分からず、Bに振った。
B「えっ? …つまり、そのぉ~」
 Bにも、そう言う・・の意味が分からなくなっていた。つまるところ、討論はすでに本題から大きく反(そ)れ、枝葉末節(しようまっせつ)の蛸足(たこあし)討論になっていたのである。語る二人も意味が分からず、相手に対する反対感情だけで言い返す意味不明な討論だ。お互いに相手が反論するものだから引くに引けなかった。結局、その繰り返しで、二人は完全に意固地(いこじ)になり、敵対意識を剥(む)き出しにした。それを見かねたMCが割って入ったというところだ。MCは二人が二匹の蛸に見えていた。その映像は、二匹が八本の足を互いに絡(から)め合い、激しく攻撃し合うバーチャル[仮想]空間だった。
A「よろしい! 一端、本題へ戻しましょうよ」
B「ええ、構いませんよ私は。それで結構です…」
 Bはスンナリと応諾(おうだく)した。MCには絡まった二匹の蛸足がスルルル…と自分の体の方へ巻き戻(もど)れるさまが、はっきりと見てとれた。
A「…? 本題はなんでしたっけ?」
 Aは本題を忘れ、MCに振った。
「ええ~~~っ!!」
 MCは驚きのあまり、言葉を失った。だらだらと続く討論で結論が出ないどころか本来の議題を忘れて終わってしまう蛸足討論は、確かによくある。

                             完

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2017年5月16日 (火)

よくある・ユーモア短編集-20- 意外

 増毛(ますげ)は契約を成就させる兵(つわもの)として鬘(かつら)物産で名を馳(は)せていた。増毛なしに勝ち目なし・・とは、今や社訓になりそうな勢いで社内に浸透した言葉だった。そんな増毛の存在だったが、彼にも人に知られていない意外な一面があった。まあ、人間にはよくある話で、多かれ少なかれ、人は意外な一面を持っているものだ。
「増毛君、この一件、よろしく頼むよ。どうも禿川(はげかわ)の押しが足らんのか、先方が首を縦に振らんのだよ」
 営業一課では課長の尾釜(おかま)が契約書類のコピーを増毛に渡しながら頼み込んでいた。
「分かりましたっ! 僕でよろしければ、なんとかしましょう!」
「いや、無敵の君しかおらんよ! この一件、助けてもらえると私も助かる」
 尾釜はデスクの上へ両手を乗せ、目前に立つ増毛に深く平伏(へいふく)しながら言った。
 そして、三日がこともなく過ぎ去った。三日前と同じように増毛は課長席の前に立っていた。
「課長、サインもらえましたっ!」
「ははは…そうかそうか。そら、そうだろう。そうなるに違いないと、私は思っとったんだ。いやいやいや、どうも有難う!」
 尾釜は三日前と同じように、また増毛に対して平伏し、頭を深く下げた。内心では、これで部長への顔は立った…と思いながら。ただ、尾釜の内心には、たった三日でどうして契約が取れたのか…という疑問が、沸々(ふつふつ)と沸(わ)いていたことも確かだった。気になった尾釜はついに我慢できなくなり、好奇心を晴らすべく密かに探偵を雇(やと)った。もちろん自費で、会社の誰もがその事実を知らなかった。そしてひと月が経った頃、探偵の報告書が尾釜の自宅に郵送されてきた。尾釜はそれを見て驚いた。
「なにっ! 美味い料理を作って満足させた、だと?!!」
 何を隠そう、増毛は元一流シェフで、コック長を務めた特異な才能をもつ料理人だったのである。その彼がなぜ料理と関係がない鬘物産に入社したのか? という意外な疑問は未(いま)だに解(と)き明かされていない。

                            完

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2017年5月15日 (月)

よくある・ユーモア短編集-19- 常識

 年が暮れようとしている歳末のある日、仲吉(なかよし)は呑気(のんき)に欠伸(あくび)をしていた。吉仲には、なぜ歳末になると世間の人々はバタバタと慌(あわ)ただしくするのか…という素朴な疑問が以前からあった。大晦日(おおみそか)の次の日は元日(がんじつ)だが、何が変わったのかが、どうしても理解できないのである。非常識にそんなことを思う自分は少し怪(おか)しいのかも知れないとは感じるが、感じるものは仕方がない。仲吉は今年こそっ! と意を決して、世間の常識と一線を画(かく)してみよう…という思いを実行することにした。
「ああ、いいお年をっ!」
 知人の一人が、別れ際(ぎわ)に仲吉へそう言った。ここぞ! とばかりに、仲吉はアクションを起こした。まず、言動である。
「ああ、どうも。お疲れが出ませんように…」
「…?」
 知人は妙な挨拶だな? という怪訝(けげん)な顔つきで軽く頭を下げ、去っていった。仲吉は、よしっ! これでいい…と瞬間、思った。仲吉は世間の常識に反論したのである。そして、年が明けた。
「おめでとう! 仲吉君!」
「あっ、どうも。お元気そうでなによりです…」
 正月早々、街頭でバッタリ会った笑顔の上司に、仲吉はそう挨拶した。上司は、君、大丈夫か? という顔で首を傾げながら笑顔を曇らせて歩き去った。仲吉は、よしよしっ! と効果を実感した。そして正月も過ぎ、1月も去ろうとした頃、仲吉は会社の誰もから眇(すが)めで見られたり無視されるようになった。それは、社員にとどまらず、上司も仲吉を避(さ)けた。
「な…いや、町森君! これ、コピーして、専務に渡しておいてくれ」
「はい!」
 町森はデスクを立つと課長席まで歩き、書類を受け取った。仲吉はそれを遠目に見ながら深い溜め息を吐いた。最初のうちはよかった仲吉だったが、効果がないことを知るうちに、少しずつ世間の厚(あつ)い柵(しがらみ)を感じるようになっていた。そしてこの日、仲吉はもう非常識はやめようと思った。そして今、また一年が暮れようとしていた。仲吉は、以前にも増して、すっかり常識人となってしまっていた。世間の荒波を実感し、常識に従うことは、一般社会では業種を問わず、よくある。

                           完

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2017年5月14日 (日)

よくある・ユーモア短編集-18- 縁起を担(かつ)ぐ

 羽衣(はごろも)塗装店は従業員3人[羽衣を含む]、女事務員1人の計4人の小さな店である。羽衣と他の店員は、店から少し離れたところにある会社の塗装作業をしていた。別に羽衣の塗装が上手(うま)く、評判がいいから依頼の電話があった・・という訳ではない。羽衣という珍しくなんともお目出度(めでた)そうな名に興味をそそられた社長の鶴の一声で委託された経緯(けいい)があった。社長にすれば、他にも何か会社にいいことが起こるのでは・・という縁起を担(かつ)ぐ気持もあったようだ。それは羽衣が工事を終えたとき、最後の仕上げを終えた現場で社長自らが話して分かったことである。
「君のところは手作業に拘(こだわ)るね」
「はい! それが私の店のモットーですから…」
「店の名前のよさで縁起を担いでお願いしたんだが、それだけでもなさそうだ」
「いやね、そんなこともないんですが、コンプレッサーなどによる吹き付け用の機械は一切、使いませんから手間取りますが、それがなかなか評判がいいようで、助かってます」
「ははは…うちとしては、綺麗で長く持ちゃそれでいいんだ。それに加えて…」
 社長は語尾を暈(ぼか)した。
「加えて?」
「その…なんだ。縁起をね…」
「ああ、なるほど…。それは私の店だから、どうこうなるという筋(すじ)の話ではありませんが…」
「いや! 羽衣は天女(てんにょ)を連想させ、縁起がいい」
「はあ、まあ…。そういうものでしょうか?」
「ああ! そういうものだっ! 昨今の景気が今一の時代には特にね」
 どうなるのか先が見通せない今の時代、神様、仏様、キリスト様…様と、縁起を担ぐことは、世間、いや、世界でよくある。

                            完

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2017年5月13日 (土)

よくある・ユーモア短編集-17- とんだ迷惑

 世の中には思ってもいない危害を他人から受ける場合がある。何かかかわりがあったのか・・と、よく考えてみても思い当たる節(ふし)がないという場合だ。例(たと)えば、連休の高速道路の渋滞などだが、こんな場合はまだよい方で、飛行機で帰った方が早い・・と即断したお蔭で、思いもよらぬ墜落事故に巻き込まれ、一命を落とす・・などという最悪のケースがある。この場合は、迷惑どころの話ではない。迷惑を受けた…と思う人はすでにこの世の者ではなく、あの世で恨(うら)めしく、乗るんじゃなかった! と歯ぎしりしているくらいのもので、遺族が涙・・泪の記者会見で泣きじゃくる迷惑なのである。まあ、とんだ迷惑も、災い転じて福となす・・といったケースも当然あり、ぶつかって怪我をした男女二人にそれが縁で恋が芽生え、晴れてゴールイン! といったおめでた話に発展する場合もあるのだ。
「チェ! また、ハズれたぜ…」
 売れ残った食品を食べ、競馬場で急に腹具合が悪くなり、トイレに行っている間に買った馬券のレースを見逃した・・と早とちりした初老の男が、競馬新聞を見ながら口惜しがって舌打ちした。
「えっ? それは前のレースですよ。今の重賞は、もう確定が出ます」
 知らない競馬客に耳打ちされたその男は、ああそうか…と思いながら、電光掲示板を見た。すると、見事に予想が当たっていたということがある。売れ残った食品を食べたのは、保健所に…と思うくらいのとんだ大迷惑だが、それを帳消しにする高額配当を当てた結果とを差し引きすれば、まあまあなのかも知れない。まあ、結果の腹具合にもよるが、床に就く、入院・・といった結果なら、やはりとんだ迷惑ということになる。
「いい国ですよ、この国は…今の平和を皆さん、大事にしないと…」
 終戦記念日で100歳のご高齢を迎えられた一人のお年寄りがテレビ画面でインタビューの質問に答える映像が映っている。国民は軍部の横暴で300万以上の死者を出すという、とんだ迷惑を被(こうむ)った訳だが、その結果、敗戦によって世界に冠たる平和を得た・・という皮肉な恩恵もある訳だ。まあ、昨今は薄らぎつつあるようだが、人間が、とんだ迷惑を時の流れで忘れていく・・ということは、よくある。

                          完

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2017年5月12日 (金)

よくある・ユーモア短編集-16- 並ばされる

 本多が乗った地下鉄は俄(にわ)かにトラブルを起こし、目的の駅へ延着した。本多としては予想外だったが、愚痴ってみても仕方がない。急ぐしかないか…と本多は心忙(こころぜわ)しく思った。腕を見れば、発売の時間まであと20分足らずに迫っていた。欲しかったドローンの新型模型である。買えずにドロン! する訳にはいかんぞっ! と、本多は思った。
 ようやく着いた店の売り場前は人の群れで溢(あふ)れ返っていた。すごい人だかりだな…と、長くジグザグに続く列を見ながら本多は思った。俺だけ特別に・・てな上手(うま)い話はないよな。ここは並ぶしかないか…と、本多は諦(あきら)めて列の最後尾に並んだ。並んだというより、並ばされた感がしない訳でもない。本多は長丁場になりそうな状況に、深いため息を一つ吐いた。
「いよいよですなっ!」
 前列に並ぶ年恰好のよく似た中年男が、嬉(うれ)しげな子供の顔で本多に語りかけた。
「ああ、ですね…」
 欲しかった一品だが、本多としては並ばされた感があるから、そう素直に喜ぺる気分ではなかった。本多の内心は、延着した地下鉄の奴(やつ)め! である。トラブルを起こさなければ、最前列に並べる時間には家を出ていたのだ。それがっ! である。怒りが次第に湧(わ)き上がり、本多の顔は紅潮して不機嫌ぽくなった。
「大丈夫ですか? 少しお辛(つら)そうですが…」
「いえ、大丈夫ですっ!」
 本多は慌(あわ)てて否定した。
「そうですか? なら、いいんですが…」
 男は引き、振り返っていた姿勢を反転させて前向きになった。その後、二人の会話は途絶えた。本多としては、やれやれ・・である。男は喜んでいるが、本多は怒れていたからだ。もちろん、本多も欲しいドローンではあったから、楽しみにはしていたのだ。それが列車の延着で気分は台無しとなり、ドロドロしてしまった訳である。本多としては、代金を支払ってスンナリ商品を入手し、格好よくドロン! したかったのだ。それがご破算になってしまった以上、なんとか気分を高揚(こうよう)し、楽しくせねば、この長蛇(ちょうだ)の列を待ち続けられる自信がなかった。本多は鼻歌を口ずさみ始めた。好きな演歌の大御所が作った一曲である。そのとき、待った! が突然、かかった。嬉しそうな顔をしていた前列の中年男だった。
「ドローンに演歌は似合いませんよっ!」
 本多は、きっぱりと怒り顔で窘(たしな)められた。それもそうだな…と本多にも思えた。本多はテンションを下げたまま、並ぶことなく並ばされ続けた。こういうことは、よくある。

                            完

 ※ 漏れ聞くところによれば、無事、ドローンは手に入り、本多さんは子供のように楽しんでいるそうです。よかった、よかった…。^^

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2017年5月11日 (木)

よくある・ユーモア短編集-15- つい、口にしたくなる

 平松は歳末の買い物をして、レジで支払いをしていた。よく買いに来るスーパーだったから、平松の顔は売り子の女店員によく知られていた。後ろに客がいなかったからか、その日の女店員といくらかの会話が弾(はず)んだ。
「今年は暖かいですね」
 女店員が器用にポス・システム[今では当然のようになったレーザー光による感知認識システム]で籠(かご)に入れた商品を読み取りながら、それとなくポツリと口走った。
「そうですね、今年は雪が少ないですから助かります。まあ、2月頃になれば分かりませんがね…」
 平松としては、別に助かる訳でもなかったが、流れでつい、口にしたくなり、そう口走っていた。すると、また女店員から返ってきた。
「去年も1月頃にはよく降って困りました…」
「タイヤは一応、スノーに変えました…」
「そうですか。どこかへ行かれるんですか?」
「いえ、別に…。◎◎へ行ってみたいんですが…」
「ご実家ですか?」
 そう女店員に訊(き)かれ、平松は『そうです!』と、格好をつけてつい、口にしたくなった。
「いえ、そうではないんですが、何度も行ってますから…」
 危うく残し、平松は偽(いつわ)らずに、真実を語った。世の中には、格好をつけて、つい、口にしたくなることはよくある。別に格好をつけず、有りのままを語れば楽なのだが…。

                            完

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2017年5月10日 (水)

よくある・ユーモア短編集-14- 馬鹿な話

 世間には馬鹿な話をして上手(うま)くいく・・ということが、よくある。逆に、当然のように理に叶(かな)っていても、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に正論を振り翳(かざ)した話し方で反発を食らい、ポシャる場合もあるのだ。生意気な奴(やつ)、小賢(こざか)しい奴・・などと煙たがる人もいるからだ。万年次長の富士園(ふじぞの)の場合がそうだった。彼は話しベタで、それがある種のトラウマになっていた。同期で入社した部長の毛浦(けうら)などは、理路整然と流暢(りゅうちょう)に自分の考えを捲(まく)したてるのに、富士園にはそれが出来なかったのである。富士園が話せば、それはまるで講談を聞かされる気分となり、誰もがニヤけるのだった。それは馬鹿な話なのだが、それもアリか…と人をその気にさせる妙な話術だった。
「富士園君、アレはどうなったかね?」
 専務の皺川(しわかわ)がニヤけて言った。
「ああ、アレですか…。それが生憎(あいにく)、まだナニでして…」
「ナニか…。ナニなら仕方ないね。出来るだけアレは早く頼むよ!」
「はい、分かりました…」
「うん! 頼んだよっ!」
 専務の皺川は気分よく快晴で歩き去った。皺川にはアレの意味が分かっていたのだが、富士園には分からず、ナニで誤魔化したのだ。馬鹿な話でその場を終息した訳である。時を同じくして、富士園と皺川が歩いていた廊下を毛浦が通りかかった。
「毛浦君、アレはどうなったかね?」
「アレと言われますと…鳥舟薬品の新薬の件でしょうか?」
「そう、ソレ」
「ソレはすでに禿山(はげやま)常務にご報告し、OKをいただきましたが…」
「なんだって!! 禿山さんにっ! 私が君に頼んだんだぞっ! 私がっ! なぜ、禿山さんなんだっ!」
 皺川は急に天候を崩し、降り出した。
「いや、深い意味は…。ひょんなことで、訊(たず)ねられたもので、つい…」
「もう、いい! 今後、君は禿山さんの指示を仰(あお)ぎなさいっ!!」
 皺川は完全に土砂降りとなって廊下を歩き去った。その顔には赤い稲妻が走っていた。この手の話は、確かに世間でよくある。

                           完

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2017年5月 9日 (火)

よくある・ユーモア短編集-13- 世間並み

 すでに夜の8時を回っていた。クリスマスのイルミネーションが色とりどりに美しい光彩(こうさい)を放ち、瞬(またた)いている。崎柴は今年も歳末だな…と、流行語のクリボッチ[クリスマスに一人ぼっち、という現代の造形語]を演じながら呟(つぶや)いた。崎柴の片手には先に予約しておいたクリスマス・ケーキの箱が、しっかりと握られていた。別に買う必要などなかったが、世間並みにそうしないといけないような気分が思うでなく崎柴をそうさせていた。クリボッチは一人、シャンパンを抜き、侘びしくテレビの番組などを見ながら騒ぐことなく、浮かれることなく、誰も聴いていないのに♪きよしこの夜♪を唄うのである。唄いながら、まあ、これも世間並みか…と崎柴は思った。リモコンを弄(いじ)っていると、外国のニュース報道が映った。戦闘で逃げ惑う人々。ああ、痛ましい…と崎柴は思わずチャンネルを変えていた。よく考えれば、俺は幸せなのかも知れない…と崎柴はまた思った。
 次の日、買い物をしようと、崎柴はスーパーへ出かけた。街には世間並みの歳末風景が、そうしないといけないように展開されている。やはり歳末か…と、崎柴はまた思った。店へ入ると、主婦が世間並みの正月食品を買っていた。崎柴は買う積りもなかったが、いつの間にか正月用の食品の幾品かを世間並みに買っていた。この衝動買いも、そうしないといけないような気分が崎柴を買わせたのだった。
 崎柴は毎年、思うのだ。日本人は世間並みに験(げん)を担(かつ)いで正月を迎える。別に迎えなくても、今日と明日が違う訳でもない。
 そのとき、ふと崎柴は思いついた。ああそうか…一年が過ぎたことを確認したい訳だな…と。なんとなく平穏な日々が過ぎ去ると、一年の感覚が麻痺(マヒ)することを崎柴は知識として得た。今年はやめよう…と思っていた崎柴だったが、世間並みに今年も正月風景を展開することにした。

                           完

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2017年5月 8日 (月)

よくある・ユーモア短編集-12- 噂(うわさ)

 酒蒸(さかむし)が引っ越してきた山あいにある三笠(みかさ)村の界隈(かいわい)では、今、妙な噂(うわさ)が飛び交っていた。その噂は、突然、暗闇から笑いながらペコリ! とひとつ頭を下げて現れ、そのまま何をするでもなく姿を消す・・という風変わりな男に端(たん)を発していた。実害が村人の誰にもなかったことから、交番沙汰になることもなく、事態は混沌(こんとん)として長引いていた。そして、村人の間で男が神がかりに違いない・・という噂が次第に広がり、噂は噂を呼んで、ついに男は町に祀(まつ)られた道祖神の化身(けしん)だ・・という大きな噂にまで拡大してしまった。
「なにか、よからぬことを村の者(もん)がしたからに違いねぇ…」
「んだっ! ここはひとつ、お祓(はら)いをせねばのう…」
「そうだ、そうだ!」
 村の寄り合いでそんな話が持ち上がり、ついに祈祷師(きとうし)が招かれて村の離れの道祖神の祠(ほこら)でお祓いをするという大ごとに至った。酒蒸は村人達からは、よそ者扱いされていたから、それが逆に幸(さいわ)いして、遠目で事態を見守ることができた。酒蒸としては、さて、その男が何者なのか? という素朴(そぼく)な疑問が湧(わ)く。どこに住んでいようと、そうよくある話ではないだけに、酒蒸は興味をそそられた。
 ひと月が過ぎ去った頃、噂は突然、沙汰やみとなり、あとかたもなく消え去った。
「あの話、どうなりました?」
 無性に気になった酒蒸は、ついにある日、村人の一人に訊(たず)ねた。
「ああアレかい。アレはアレだけのものさ、ははは…」
 村人は笑って流した。あとから酒蒸が知った話は、その男は新しく交番に赴任(ふにん)予定の新人巡査で、村人に挨拶していたのだということだった。新人巡査は、酒蒸にもペコリ! と頭を下げ、挨拶した。勘違いは、よくある話である。

                            完

※ ただ、新任の交番巡査が闇に紛(まぎ)れてどこへ消えたのかは、いまだに村人の間で余りない話として語り草になっているという。

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2017年5月 7日 (日)

よくある・ユーモア短編集-11- 繰(く)り返し

 決算審査も済み、今年も予算編成の時期が迫っていた。反腰(そりこし)は、その対応に頭を抱えていた。反腰は長年、生活環境課にいた現場出身で、住民から出た苦情処理で蜂の巣を処理している途中、足を滑らせて転倒したのだ。その結果、半身不随にはならなかったものの、片足に麻痺(まひ)が残り、翌年の人事で財政課へ異動した経緯(けいい)があった。反腰自身も仕方ないとは思っていたが、それにしてもなぜ事務経験がない俺が財政課なんだ? という人事への素朴な疑問は残っていた。そうはいっても、異動させられた以上、やるしかなかった。民間に二年ばかりいて苦労した揚句(あげく)、ようやく地方公務員試験に受かり、今の役所に配属された反腰だったから、民間の厳(きび)しさはよく知っていた。
「まあ、愚痴(ぐち)っても仕方ないか…」
 反腰はようやく馴(な)れ始めたデスクで前年度の予算書をめくり始めた。会計科目は同じで、編成方針にも何ら変更はない。繰(く)り返しのなんと有難いことか…と反腰には思えるのである。課長の曲足(まげあし)も、編成方針には異論を挟(はさ)んでいない。というか、当たり障(さわ)りなく来年の異動を迎えることこそが曲足の目的だった。何も失態を起こさなければ、次の次長ポストは約束されていたのだ。ただ、反腰にとっては有難い繰り返し作業だったが、疑問に思えることも多々、あった。
「昼だぞっ!」
 課の誰かが叫んで、課内のデスク作業が一斉(いっせい)に停止した。
「反腰さんは、いつものとこですね?」
 後輩の肩長(かたなが)が小声で訊(たず)ねた。
「ああ…」
「同じ注文ですね?」
『ああ…』
 反腰は言い返さず頷(うなず)いた。いつの間にか、反腰にも繰り返しの癖(くせ)が染(し)み込んでいた。

                            完

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2017年5月 6日 (土)

よくある・ユーモア短編集-10- 雨が降る

 今日は天気がいいから、車のタイヤ替(が)えは、まあ昼過ぎでもいいか…と元岡は思った。すると妙なもので、時間ができたせいか急に余裕めいた気分が湧(わ)き、別に今日しなくてもいいような雑用を済まそうという気分になった。思いついたことをしよう! と考えるのは誰でもよくあることである。その日の元岡がそうで、積もった落ち葉をいつの間にか箒(ほうき)で掃(は)いていた。掃き終わるまでには、さほど時間がかからなかった。昼にはまだ時間がたっぷりとある。元岡は、このままにしておけば、また風が吹いて飛び散るから燃やしてしまおうと思った。
 幸いにも落ち葉は乾燥していたから、容易に火をつけることができた。当然、防火用の水バケツは準備してからの点火である。燃焼の三要素は、点火源、酸素供給源、可燃物である。こんな危険物取扱試験の基本的な知識をつまらなく考えながら火をつけると、落ち葉は勢いよく燃え始めた。腕を見れば11時過ぎだった。終われば、ちょうど昼のいい頃合いになるぞ…と元岡が誰もいないのにニヤリと北叟笑(ほくそえ)むと、急に空に雲が広がり始めた。とはいえ、それはまだ全天を覆(おお)うものではなく、降り出すような天候ではなかったから、元岡はまだそう気にしていなかった。元岡が予想したとおり、12時前にはすべて燃やし尽くし、水バケツで消火すると家へ入った。レトルトの冷凍ピラフをチン! して食べていると、いつの間にか雲が全天を覆っているのに元岡は気づいた。これは…と急に慌(あわ)ただしく食べ終えた元岡は、キッチンで食器を洗うのをあとに回し、車のタイヤを変え始めた。すると、それに呼応するかのように雨が降り出した。雨が降るのか…と元岡は後悔(こうかい)した。これなら、午前中に済ませておけばよかったのだ。まあ、こういうこともよくある…と自分を慰めたが、いや、余りないぞ…と思えた。あとの後悔、先に立たず・・日本にはいい名言があるな…と元岡は恨(うら)めしそうに、また思った。

                            完

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2017年5月 5日 (金)

よくある・ユーモア短編集-9- 物ごとの帰着

 立川の仕事は実直だ。物ごとを最後の最後までキッチリやらないと気が済まない性分だった。
 つい先だっても、伝票の額と集金額の帳尻が合わず、夜通し計算をやっていたくらいだ。
「やあ立川さん、おはようございます。徹夜でしたか…ご苦労さまです」
「いや、なに…。今日は休み番でしたから、キッチリ合わせておこうと思いましてね」
 立川にすればよくあることだが、他の社員にすれば、よくあることではない。それも、帳尻の額が合えば合ったで、また何回か計算をやり直すという実直な仕事ぶりだったから、夜通しとなるのもやむを得なかった。金融機関への振り込みが未済みの店や会社へ直接、出かけ、集金をする嫌な役回りだったが、立川は悪びれもせず、20年以上、その係をやっていた。
「ははは…アレは立川さん以外には無理でしょう」
 会社のすべての者がそう言うほど、実直思考の立川の仕事は的(まと)を得ていた。彼が足を運べば、まず回収できない金(かね)はなかった。
「いや~、立川さんですからな。ははは…うちも今、そう余裕はないんですが、払えなくもない。ここはひとつ、立川さんの顔を立てましょう!」
 物ごとの帰着がそうなれば、出世できそうなものである。ところが、立川はそうならなかった。会社は立川が有能なだけに、敢(あ)えて上のポストへ出世させなかったのである。会社としては立川が回収係を抜ければ困るのだ。フツゥ~の場合、有能な社員は出世する・・としたものだが、立川のいる会社は、そういうよくある常識を外(はず)れていた。ただ、会社も立川を便利な道具として顎(あご)で使っていた訳ではない。それなりの額などのケアはしていた。まあ、実直な立川だったから、そんなことを目的に仕事をしていた訳ではなかったが…。立川としては、物ごとの帰着さえ、キッチリいけば、気分が晴れたのである。キッチリいかないと、それが僅(わず)かな金額でも、立川の心は萎(な)えて曇(くも)るのだった。
「やっと合いましたよっ!」
「はっ? なんでしたか?」
「いや、10円の儲(もう)けがね…」
「ははは…そりゃ、よかったですね!」
 隣りの席の若手社員は10円くらい自腹で…と内心では思ったが、心に留め、愛想笑いでそう言った。

                          完

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2017年5月 4日 (木)

よくある・ユーモア短編集-8- 頑(かたく)なに…

 池登(いけのぼり)は、世を斜(はす)に捉(とら)えて生きる男である。これを、ある種の達観とか悟りの境地と呼ぶ人もいるが、池登の生きざまは、また少し違った。彼はまったく他の所作を意に介さないのである。こういう男は芸能人向きなのだが、池登の場合は別にそういった目立った存在になりたい…と思うことなく、ある役所で日長(ひなが)、こつこつと同じ繰り返しの生活を送っていた。
「課長、もう時間ですよ…」
 夕刻の退庁時間が疾(と)うに過ぎていた。最後まで残っていたのは二人で、そのうちの一人、課長補佐の滝壺(たきつぼ)が席を立ち、帰り仕度(じたく)をしながら池登に声をかけた。
「えっ? …ああ、もうこんな時間か。君、先に帰っていいよ。私は、これをやっつけてから帰る」
「やはり、やっつけますか…。そいじゃ、僕はこれで」
「あっ! ごくろうさん」
 仕事の切りがつかなければ、普通の場合、明日にするか…となり、すでに心は帰宅したり、一杯飲んでいたりするが、池登の場合は違った。池登は滝壺が言ったとおり、仕事を頑(かたく)なにやっつけてから帰る男だったのである。
 あるとき、急ぎの仕事がなかなかやっつけられず、池登は孤軍奮闘、悪戦苦闘していた。よく考えれば、部下にやらせて決裁印を押せばいいだけのことなのだが、彼はそうすることを忌(い)み嫌(きら)った。というより、自分でやり、納得した書類でなければ池登の性分に合わなかったのである。だから池登は頑なに仕事を自分でやり熟(こな)し、納得した上で帰宅した。こういう話はあまり世間によくある話ではない。そんな池登だったが、彼も人の子、無理が祟(たた)ってついに体調を崩し、ダウン寸前になった。
「ははは…過労です。かなりご無理なさったんでしょうな。一週間ほどゆっくり休まれ、安静にしておられれば、すぐ元気になられます。暖かくして、栄養あるものを…。10日分の薬を出しておきます…」
「どうも…」
 医者に一礼すると、池登は医院を後(あと)にした。過労か…過労はよくある話だな…と、池登はトボトボ歩きながら思った。

                         完

 

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2017年5月 3日 (水)

よくある・ユーモア短編集-7- +α(プラスアルファ)

 よく晴れた朝のことである。川品(かわしな)は所用を思い出し、店に電話した。
『ああ! これからですか? すみません。今日は日曜なんで、店、閉じてるんです』
「そうでしたか…。仕方ありません。では明日にでも…」
『すみませんね。明日の9時以降なら開けてますので…』
「じゃあ、そうさせてもらいます…」
 出鼻(でばな)を挫(くじ)かれた川品は、テンションを下げて電話を切った。まあ、こういうことはよくあることだ、と川品は気を取り直した。さて、何をしようか…とこれからの算段(さんだん)を始めたが、考えていなかった予定がすぐ立つものではない。まあ、いいか…と、お茶を淹(い)れて啜(すす)っていると、上手(うま)くしたもので植木の水やりをしていなかったことを川品は思い出した。そうそう! うっかりしていたぞ…と立ち上がり、水やりをしに川品は庭へ出た。水やりは数分で済んでしまった。ふと見ると植木鉢の棚が痛んでいるのに気づいた。+α(プラスアルファ)である。川品は道具のいくつかを道具箱から出し、日曜大工を始めた。今日は日曜だから、これが本当の日曜大工か…などと浮かんだつまらないジョークに小笑いして棚を修理していると、いつの間にか昼前になった。修理を終わる頃になると、下がっていた朝のテンションは回復していた。+αもいいものだ…と思いながら、川品は昼食を済ませようとキッチンの冷蔵庫を開けた。すると、今朝、収穫したダイコンの葉が目についた。このままでは萎(しお)れるぞ…と思った川品は、軽い昼食を済ませたあと、オヒタシにでもしよう…と熱湯で湯がき始めた。しばらく湯がいたあと、ダイコン葉を絞(しぼ)り、適当な大きさに切ったあと、だし汁て味つけし、小鉢に盛り付けてカツオ節を軽くふりかけた。昼食+αで、一品の完成である。冷蔵庫に入れ、これで夕飯は茶碗蒸しとコレと鰤(ぶり)刺しで整ったな…と思っていると、川品は急に眠気に襲われた。いつの間にか川品は深い眠りに沈んでいた。目覚めると夕方近くになっていた。川品はすっかり朝の所用を忘れていた。昼寝+αだった。

                            完

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2017年5月 2日 (火)

よくある・ユーモア短編集-6- 会食データ

 ここは超一流の高級料理店である。一同が会し、トップ経営者達によるフルコースの会食が始まろうとしていた。経営者達が招かれた名目は懇話会への出席だったが、それは飽(あ)くまでも表向きで、実態は高級料理を味わう会・・とでも言える会食だった。
 優雅な語り口調で、隣の席に座る経営者と横目で会話をするのは、今を時めく花形企業のトップ経営者、須磨帆(すまほ)である。
「ほう…さよですか。私のとこなど高々、連結で今年も20兆ちょっとですよ」
 自慢するでもなく須磨帆はごく自然に話した。
「ええ…そらそうでしょう。いやいや、うちなど、おたくなんかとは、ひと桁(けた)違います。フォッフォッフォッ…」
 しまった! 自慢させたか…と内心で臍(ほぞ)を咬(か)んだのは、それを隣(とな)りで聞かされた経営者の柄毛(がらけ)だった。柄毛は仕方なく、下手(したて)に出て、須磨帆へ返した。
 座る二人の会話をそれとなく真ん中に立って聞いていたのは、ウエイターの羅院(らいん)である。羅院は、『好きに言ってりゃいいさっ!』と、不貞腐(ふてくさ)れ気味(ぎみ)に思いながら、ゆっくりとメインディッシュの肉料理を笑顔で二人の前へ置いた。
「…」「…」
 二人は話すのを止(や)め、正面を向いて動かなくなり、固まった。羅院は内心で『話し続けりゃいいのに…』と内心でまた思った。そういや、誰もがテープルへ置くときには畏(かしこ)まったように固まるな…と羅院は思った。席を遠ざかると、氷が解けたようにまた動きだすのだ。このトップ経営者達も同じなんだ…と、羅院はまた思った。これは面白い現象だ。この所作がすべての客でも同じなら、人間の本能的に定まった一つの動作と考えることができる。羅院は統計データをとってみよう…と決意した。

                          完

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2017年5月 1日 (月)

よくある・ユーモア短編集-5- ああ…お金がない 

 谷底(たにそこ)は今朝も愚痴(ぐち)っていた。
「ああ…お金がない、今朝もない…」
 ないのは当然で、昨日(きのう)から・・いや、よく考えれば何年も前から谷底には収入らしき金の巡りがなかったのである。まあ、谷底に限らず、多くの誰もが一度は口にしないまでも思う、よくある感情ではある。ただ、谷底の場合はその思いが病的で尋常(じんじょう)ではなかった。田舎で暮らす祖父から送ってもらった一万円札で買い物をしたときでも、店頭(てんとう)で「ああ…お金がない! と呟(つぶや)いたことがあった。
「ええっ? ? …手に握ってらっしゃるじゃないですか」
「ああ! そうでした。…でも私、お金がないんです」
「ははは…そら、あなたに限らず、皆さん、ない方もお有りと思いますよ」
 店の主(あるじ)は一笑(いっしょう)に付した。それはそうだな…と、そのときは谷底にも思えたから、頷(うなず)いて金を支払い、おつりと品物を手に帰宅した。その後、数日は、崩(くず)した一万円札のおつりがあったから、谷底にとっては至福のときで、資産家にでもなった気分で暮らせたのである。
「やあ! こんにちは!」
 そんな谷底が散歩で道を歩いていると、偶然、小犬を連れて対向から歩いてくる斜め向かいの豪邸に住む上山に出会った。谷底の顔に自然と笑みが零(こぼ)れ、快活な挨拶が口に出ていた。
「ああ、どうも…」
 上山も快活に挨拶され悪い気はしなかったから、笑顔で返した。二人は擦(す)れ違い、少しずつ二人の距離は離れていった。そのとき、上山はふと、立ち止まり、振り返って谷底を見た。
「谷底さん、何かいいことでもあったのか? いいねぇ…。私なんか、明日(あしたまでに、1,600万めどがつかないと不渡り出しちまうんだが…。1,500万は回収できたが、あと100万がな…」
 谷底は数千円のおつりが懐(ふところ)にあるから、ニコニコと裕福ないい気分で歩く。上山は、まだ100万の用立てが残るから、陰鬱(いんうつ)な重苦しい気分で歩く。よくあるお金に対する思いの差だ。

                          完

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