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2017年6月 3日 (土)

よくある・ユーモア短編集-38- 好(この)み

 好(この)みは、人それぞれである。淵川(ふちかわ)は久しぶりに銭湯に入ろうと、今ではもう残り一軒となった銭湯・蛸(たこ)の湯へ向かった。ここは行きつけで店の従業員とは気心が知れていたから安らいだ気分で暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、入口のガラス戸を開けることができた。いつも500円硬貨一枚を鯔背(いなせ)にポン! と番台へ置くと、これもいつものようにポン! と準備していたかのように間合いを置かず、テニスのリターン・エースのように数十円のお釣りが返ってくるのが常だった。ポン! と鯔背に置く所作は淵川の好みで、この好みに蛸の湯も合わせてくれるのが、滅法(めっぽう)心地いい淵川だった。
「ここへ置くよっ!」
「へいっ! 毎度…。今日はゆず湯でございますよ、ご主人」
「おっ! そうだったねぇ~。もう冬至かい…。また年の瀬だねえ」
 それには返さず、番台の主人はニンマリと笑顔を向けるだけだった。そして、淵川は外風呂へは必ずと決めている下駄(げた)を脱ぎ、靴箱へ収納して鍵を引き抜いた。このタイミングをまっていたかのように、番台の主人が、「ごゆっくり!!」と鯔背に声をかけた。これも個人的な好みで嬉(うれ)しい淵川だった。
 湯舟にどっぷりと浸(つ)かると、自然に鼻唄が出るというものである。淵川の場合、必ずといっていいほど♪奥飛騨慕情♪で、それもハミングのみで唄うのが好みだった。鼻唄が出るまでには湯舟に浸かって、およそ10分を要した。いわば車でいうアイドリングの時間である。最初は軽く身体を洗い、それから湯舟に浸かる・・という所作を淵川は必ず守っていた。これは好みというより、銭湯に入るマナーと心得ていたから、淵川は必ずそうしていたのである。
「おお淵さん! いよいよ年の瀬ですなっ!」
 浸かり友達の中洲(なかす)がザバッ! と湯舟に入り、ひと声かけた。
「これは! 中さん、でしたか…。いや、どうも」
 ちょうど、アイドリングが終わり、そろそろ唄を! と意気込んでいた矢先の淵川は、ギクリ! として閉じていた瞼(まぶた)を開けた。その拍子(ひょうし)に首まで浸かっていた頭の上のタオルが湯舟に落ちた。慌(あわ)てて淵川は湯の中からタオルを拾(しぼ)ると、ふたたび頭の上へ乗せた。格好が悪く、少し世間話をした挙句(あげく)、結局、唄は出ず仕舞いとなった。
 好みにしている上がりのコーヒー牛乳を飲むと、少し調子が戻った淵川は、出せなかった鼻唄を軽く流した。
「おっ! ご機嫌ですなっ、淵川さん!」
 聞こえたのか、番台の主人が声を投げかけた。
「ははは…まあ」
 鼻唄を唄うのが好みですから・・とも言えず、淵川は笑って暈(ぼか)した。好みで無意識に決め込んでいることは、確かによくある。

                           完

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