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2018年9月

2018年9月30日 (日)

泣けるユーモア短編集-22- 気分次第

 いつもの通勤電車に揺られ、鰤尾(ぶりお)は疲れた身体を引き摺(ず)るように揺られて立っていた。今朝に限って、日々の疲れがドッ! と出たような身体の重さだ。満員電車だから両横も後ろも人また人で、身動きが取れない。だから吊(つ)り革(かわ)に縋(すが)るように立っている他なかった。思わず、ぅぅぅ…と泣けてきたのは、そのときだった。
「ど、どうされました!? ご気分が終わるいんですかっ?!」
 唯一(ゆいいつ)、スペースがある前方の座席に座る若い美人が、心配そうに鰤尾を窺(うかが)った。
「いえ、どうってことは…」
 語尾を濁(にご)して否定した鰤尾だったが、自分自身にも泣けた理由が浮かばなかった。
「どうぞ…私、次の駅で降りますから…」
 声をかけた若い美人は、スクッ! と急に立ち上がり、座席を譲(ゆず)った。吊り革に縋るように立っていた鰤尾にすれば御(おん)の字(じ)で、地獄で仏・・のような有り難さだった。
「どうも…」
 鰤尾は崩れ落ちるように座席に座っていた。すると妙なもので、美味(おい)しく煮つけられたように急に身体が軽くなった。目の前には若い美人が笑顔で立っている。この上なく美しい…と思えた瞬間、鰤尾の疲れは、なかったかのようにどこかへ消え去り、気分が喜びに満ち溢(あふ)れたのである。
 気分次第で、人は泣ける土砂(どしゃ)降りから快晴へと様(さま)変わりするのだ。

        
                   完

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2018年9月29日 (土)

泣けるユーモア短編集-21- 新旧

 モノは新品の方がいいっ! と言ったり考えたりする人は、愚かしい人・・と断言してもよいだろう。多少はこのことを考慮に入れて行動しないと、ぅぅぅ…と泣ける破目に陥(おちい)るから注意が肝要(かんよう)だ。新旧に関係なく、新しくても古くても、いいモノはいいのだし、悪いモノは悪い・・ということに他ならない。
 とあるDIY専門店の中である。
「やあ! これはこれは…。山芋さんじゃありませんかっ!」
「いやぁ~! これは奇遇ですなっ、擂木(すりき)さんっ!」
「何かお探しですか?」
「いゃ~、以前から欲しいと思っておったものがありましてね、それを…」
「ああ、さよで…。家の修理かなんか?」
「ええ、まあ…。古い道具が手間取りますので、そろそろ多用途の新しいのを…と思いましてね」
「古い方はどうされるんです?」
「隠居ですねっ!」
「隠居?」
「はい! 万が一の予備ということでっ! 馴染(なじみ)み深い、いい代物(しろもの)でしてねっ!」
「なるほど…。昨今は使い捨ての時代ですからな。それがようございます」
「そう思われますか? 擂木さんも」
「はいっ! いいモノが減りました。なんか使い捨てて新しいのを買えばいい・・感覚の時代ですから!」
「そうそう! 労派[労働者派遣]法なんて、その最たるものですよっ! ぅぅぅ…」
 しゃべくり漫才のように語り合う二人の会話を、一人の女店員が声をかけようか、かけまいか…と、恨(うら)めしげに見守っていた。店の閉店時間がすでに過ぎていたのである。入店していた他の客達は疾(と)うに店の外へ出ていた。
「あ、あのう…」
 ついに若い女店員が声をかけた。
「おおっ! これは新しい、いいモノですっ!!」「ははは…これはっ! ですなっ!」
 山芋と擂木は新しく入った女店員を見て、思わずそう言った。
「はあっ?!」
「いや、なんでもありません。新しくても古くてもいいモノはいい・・という話です」
「…? もう閉店なんですが…」
「ああ、どうもすいませんっ!」「どうも…」
 二人は笑いながら謝(あやま)った。そこへ年季(ねんき)が入ったベテラン女店員が現れた。
「またのご来店をっ!」
「おっ! 古いのも、捨てがたいっ! ですな」「いいモノは、いいっ! ははは…」
 愛想いい声に、二人はまた呟(つぶや)いた。
「ええ、私は旧式ですけど、いいモノですからっ!」
「…」「…」
 ベテラン女店員の切り返しに、二人は絶句(ぜっく)した。
 新旧関係なく、いいモノはいいようだ。

        
                   完

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2018年9月28日 (金)

泣けるユーモア短編集-20- 適度

 人の意識は、あるときは邪魔になり、またあるときは必要となる二面性を持っている。
 とある病院の病室である。
 適度とは、ほどよい状態・・ということだ。熱くもなく冷たくもない、ほどよい湯加減・・これはもう、寒い冬場に浸(つ)かれば老若男女(ろうにゃくなんにょ)、堪(たま)らないはずだ。世の中では、あらゆることに言える事実だ。
 とある公民館の一室である。あちらこちらで、老人達二人が向かい合い、将棋や囲碁が指されたり打たれたりしている。
「いやいやいや、それはダメでしょっ! 桂馬(けいま)の高飛び、歩(ふ)の餌食(えじき)っ! 飛車を打たれて詰(つ)みですっ!!」
「詰む訳がないでしょ!? それは見損(みそん)じです。この石には生きはありますよっ! 後手一眼ができ、二眼ですからっ!」
「二眼できてるって? 必死がかかってるじゃないですかっ! 即詰(そくづ)みでしょうがっ!」
「いやいやいや、六目半のコミは出ないでしょう」
「コミ? ? …なんだ、碁でしたか…」
 そんな会話が、耳が遠いご老人の間で(か)わされている。これが混線問答といわれる高齢者特有の会話である。この程度ならまだ適度な会話として成立するのだが、ここへボケ老人が加わると適度とは言えなくなるから厄介(やっかい)だ。
「ええっ! 私ゃ、昼はザル蕎麦(そば)と決めとるんですわっ!」
「なにもそんなこと言ってないでしょ! 詰みだ・・と言ったんですっ!」
「私はコミは出ない・・と…」
「ブランド牛のヒレステーキ、美味(うま)いんですよ」
「ぅぅぅ…」「ぅぅぅ…」
 適度が消えると話がややこしくなり、泣ける。

                          完

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2018年9月27日 (木)

泣けるユーモア短編集-19- 意識

 人の意識は、あるときは邪魔になり、またあるときは必要となる二面性を持っている。
 とある病院の病室である。
 ほぼ20年、意識が戻(もど)らなかった妻の意識が、どうしたことか不意に戻った。付きっ切りで介護をしていた亭主は、そのときビミョ~な気分に苛(さいな)まれていた。それには当然、理由がある。
 数年前、若い美人看護師が異動し、熟年でそれなりに綺麗な看護師が病室の係となった。最初のうちは、どうってこともなかったのだが、ふとしたことがきっかけで、この亭主と看護師の間が妙なことになった。妙というのは、もうお分かりだろうが、ナニである。そのときの一場面である。
 病室の窓近くに一人の見舞い客が置いていった花束が置かれていた。そこへ、検温に訪れた看護師が入ってきた。
「あらっ! 綺麗なお花ですこと…」
「ああ…知り合いが見舞いに来てくれたんですよ…」
「そうでしたの…。花瓶に飾りましょうね」
 看護師は花束を手に取ろうとした。そのときである。
「あっ! 私が…」
 亭主は慌(あわ)てて椅子から立ち、看護師が手にした花束を持とうとした。そのとき二人の手は触れた。これはいかん…と、サッ! と手を引く亭主。そのとき合う二人の目と目。これはもう、ナニでとなる。言っておくが、ナニとはホの字のことである。ホの字? でお分かりにならない方は、惚(ほ)の字と書けば、さすがにお分かりになるだろう。要は、二人の間に互いを意識する、よからぬ恋愛感情が芽生(めば)えたのである。その後、ナニはアレになり、コレとなっていった。そうして、あんなことやこんなことが起ころうか・・と危ぶまれた矢先、突如として妻の意識が戻った。
「… … ここは?」
「おっ、お前! ぅぅぅ…」
「奥様っ! ぅぅぅ…」
 亭主は思わず寄り縋(すが)って泣き、看護師もその瞬間、ベッドへ駆け寄って泣き声になった。
 亭主としては、看護師に意識を削(そ)がれて惚の字だから、妻の意識が戻ったことがよかったのか悪かったのか、泣けるビミョ~な心理だ。看護師の方も、惚の字が頭で踊っているからビミョ~である。
 その後、コトの顛末(てんまつ)がどうなったか? まで、私は知らない。
 ただ、意識は泣けるビミョ~な心理を与える・・とは言える。それが嫌(いや)なら、無我の境地(きょうち)になる禅(ぜん)でも組むことだ。

                           完

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2018年9月26日 (水)

泣けるユーモア短編集-18- 先読み

 これから先、起こるであろう…と考え得る読み筋(すじ)を誤(あやま)ると、取り返しがつかない失態を呼ぶ。これが囲碁、将棋、チェス、トランプなどの場合では敗着(はいちゃく)となる。囲碁、将棋などのプロ棋士が、プロ風に、「見損じですね…」とかなんとか、いかにも私は専門家だ…と言わんぱかりの上から目線で語る先読みのミスだ。これは何も対戦や試合などに限ったことではなく、すべての社会生活で起こり得る事実なのである。
 春近い、とある定食屋の前を二人の社員が話しながら次第に近づいてきた。
「フフフ…今日の日替わり定食は焼肉だろっ!」
 東雲(しののめ)は勝ち誇(ほこ)った口ぶりで、もう一人の同僚(どうりょう)、黄昏(たそがれ)に言った。
「ははは…それはお前、先読みが甘いっ! 俺の直感だと、昨日(きのう)のアレからして…そう! たぶん、生姜(しょうが)焼きだっ!」
「んっ? その根拠(こんきょ)はっ!」
「だって、お前。昨日はトンカツだったろ?」
「ああ、まあ…。それが、なぜ生姜焼きだ?」
「そら、そうさ。俺のデータ分析によれば、トンカツの次の日は、ほぼ100%の確率で生姜焼きなんだっ!」
「ほう…それはなぜだ?」
「さあな? たぶん、余った豚肉をスライスして生姜焼きにするんじゃないか? 材料費の関係でなっ!」
「なるほどっ! そういや、うちの会社もそうだな…」
「ああ…有効利用って訳だ」
 二人が店前の暖簾(のれん)を上げ、店内へ入ると、その日の日替わり定食はアジフライだった。黄昏の先読みは完全に甘く、ハズレだった。黄昏は面目(めんもく)を失い、ぅぅぅ…と、テンションを下げた。
 先読みが甘いとテンションを下げることになるようだ。

          
                   完

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2018年9月25日 (火)

泣けるユーモア短編集-17- 雪(ゆき)

 雪(ゆき)も適度に降るなら、いい風情(ふぜい)となり、趣(おもむき)を醸(かも)すのだが、降り過ぎれば、いかがなものか…などと国会答弁のようなことを言わねばならなくなるから困る。さらに、時間に追われているときなど、[雪かき]という余計な手間(てま)をかけさせられ、思わず、ぅぅぅ…と泣けることにもなるから考えものだ。まあ雪不足に悩まされ、降れば降るほど有り難いスキー場などは別なのだが…。
 夕暮れが迫る、退庁直前の町役場の一コマである。
「またかっ!」
「なにがです?」
「降り出したじゃないかっ! 雪がっ!!」
 課長の捨場(しゃば)がサッシ窓を指さし、課長補佐の屑川(くずかわ)に愚痴(ぐち)った。
「私に言われても…」
 屑川としては言葉を自分にポイ捨てられた気分がし、面白くないから思わず返した。すると、どういう訳か、捨場は突然、ぅぅぅ…と泣き出した。泣けるようなことを言った訳でもなく、泣ける状況でもないから、屑川は思わず訝(いぶか)しげに捨場の顔を窺(うかが)った。
「これから大事な人に逢(あ)うんだよっ!

「えっ?」
 それが泣けること? と、益々(ますます)、屑川は分からなくなった。
「三十数年ぶりのね、私の初恋の人。ぅぅぅ…」
「ああ、そうなんですか…」
 屑川とすれば、それが雪とどういう関係が? くらいの気分である。
「外だよ、外! 駅の外! 待合い場所がっ!」
「はあ!」
「寒い上に、雪だよっ! 彼女は態々(わざわざ)、田舎(いなか)から出てきてくれたんだよっ!」
「はあ!」
「寒いじゃないかっ! 冷えるし、濡(ぬ)れるじゃないかっ!」
「ええ、まあ、そうなんでしょうね…」
「君というやつはっ! 不人情だなっ! ぅぅぅ…」
 屑川は理解できず、もう一度、捨場の顔をそれとなく窺った。
 雪は、ぅぅぅ…と泣ける状況を作る場合もあるのだ。

        
                    完

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2018年9月24日 (月)

泣けるユーモア短編集-16- 縁起絵巻(えんぎえまき)

 柚子山(ゆずさん)胡椒寺(こしょうじ)には開祖(かいそ)豆腐大師(とうふだいし)の時代から伝わる絵巻物が大事に保管(ほかん)されている。国の重要文化財に指定された所謂(いわゆる)国宝で、そのレプリカが一年に一度、前立てでお立ちの仏様のように特別拝観になるという情報を得た食気(くいけ)は、心勇んで当日、寺へと出かけた。奇妙なことに、この縁起絵巻を拝観した者すべてが、ぅぅぅ…と涙して寺を出る・・という曰(いわ)く付きの寺ということもあり、食気の心は寺へ着く前から、すでに寺を拝観しているような気分になっていた。
『ははは…いくらなんでも泣ける、ということはないだろ…』
 バスに揺られ、車窓に流れる景色を見ながら、食気は馬鹿馬鹿しい話だ…と思った。
『次は胡椒寺前、胡椒寺前でございます…』
 車内アナウンスが流れると、食気はすぐにボタンを押した。バスを下りた途端(とたん)、拝観を終えた観光客が涙に暮れながら停留所で待っているではないか。それも全員が、である。
「そんなに泣けるんですか?」
 思わず食気は、その中の一人に訊(たず)ねていた。
「ええ、そらもう! ぅぅぅ…」
 何がそんなに泣けるんだっ!? …と、食気の好奇心は益々(ますます)、高まっていった。拝観料を支払い、仏様そっちのけで絵巻物の展示コーナーを覗(のぞ)くと、そこは剥(む)かれたタマネギで満ち溢(あふ)れているではないか。それも、みじん切りにされているから堪(たま)らない。タマネギから放散される硫化アリルという物質で辺(あた)りは満ち、当然、拝観者達は、ぅぅぅ…と涙せずにはいられなかった。入った食気も例外ではなかった。
「ぅぅぅ…、そら泣けるはずだ」
 寺から出た食気は、ようやく得心がいって呟(つぶや)いた。風変わりな寺もあるものだが、聞くところによれば、寺の僧にも分からない寺に伝わる慣習だそうだ。絵巻物の内容は美味(おい)しく湯豆腐を食べる極意図で、なんてことはなく、どうも見せないようにするため・・とかなんとかのセコイ理由らしかった。まさか、寺が? と、余りのセコさに泣ける話ではある。

       
                   完

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2018年9月23日 (日)

泣けるユーモア短編集-15- 悴(かじか)む

 冬の冷気(れいき)は手足を凍(こお)らせる。身体(からだ)が冷え、思わず、ぅぅぅ…と、泣けるような痛みが手足を襲う。これが悴(かじか)む・・という注意信号で、身体がなんとかさせよう! としているのだ。放っておけば、痛みは失せ、悴みも消えるが、これはもう、注意信号を超えた危険信号で、冷気による細胞の壊死(えし)が始まっていることになる。まさに、ぅぅぅ…と、あとから泣ける状態になるのだから怖(こわ)い。悴む手足を温(あたた)めようとストーブなどの暖房器具に近づけると、冷えは消え心地(ここち)よくなる。が、暖め過ぎると、今度は血行がよくなり、痒(かゆ)くなってくる。ボリボリと掻けば、皮が剥(は)がれ炎症となるから厄介(やっかい)だ。
 羽柴(はしば)議員の主席秘書を務(つと)める村雲(むらくも)は、朝から羽柴に怒られ、身体が悴むように萎縮(いしゅく)していた。
「もう少し頭を使いたまえっ! 普通常識だろうがっ!!」
「どうも、すいません…」
 頭を下げてみたものの、村雲には怒られた意味が分からなかった。だが、ここは謝(あやま)っておくに限(かぎ)る…と反射的に頭を下げたのだった。
「私がスキ焼のネギ好きだとは、君もよく知ってるはずだっ! それに、よりにもよって、玉ネギとは…」
 村雲は何を勘違いしたのか、長ネギではなくタマネギを多量に買ってきたのだった。肉好きなら分かるがなぁ~…と思いながらネギを買い、頭が回らなかった・・ということもある。
 鍋(なべ)に大量のタマネギが放り込まれ、スキ焼がグツグツと美味(うま)そうに煮え始めた。白滝(しらたき)、菊菜(きくな)、少しの安い牛肉、大量のタマネギ・・見た目はともかくとして、それなりに美味いのか、羽柴は何も言わず箸(はし)を進める。
「おいっ! もっと食えよっ!」
「はっ! 有難うございます…」
 村雲は、また何か言われはしまいか…と疑心暗鬼に陥(おちい)り、悴む思いで箸が全然、進まない。グツグツ煮える熱い鍋、益々、冷える村雲の悴む心・・両者が羽柴の前で相対的な構図を見せていた。

         
                  完

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2018年9月22日 (土)

泣けるユーモア短編集-14- 辛(つら)い

 辛(つら)いと、ぅぅぅ…と思わず泣ける。辛いという漢字は辛(から)いとも読む。確かに、辛い唐辛子(とうがらし)とか山葵(わさび)を口にすれば、これは間違いなく泣ける。要は、[辛]という漢字は辛(つら)くも辛(から)くも泣けるのである。そういえば干支(えと)にも辛子(かのとね)とかがある。言っておくが、辛(から)い辛子(からし)とは読まない。
 とある小学校・六年の家庭科実習の時間である。ようやく料理が完成し、家庭科教師の河豚川(ふぐかわ)と6年B組の生徒達の試食会を兼(か)ねた昼食が始まっていた。
「先生、なぜ泣いてるんですかっ?」
 訝(いぶか)しげに、一人の男子生徒が横に座る河豚川に訊(たず)ねた。
「… 泣いてないわよ。目にゴミが入っただけ…」
「あっ、そうなんですか…?」
 生徒は、それ以上、突っ込まず、出来上がった料理とパンを齧(かじ)り始めた。河豚川も体裁(ていさい)を整え、生徒達と食事を再開した。だが、時折り頬(ほお)を伝う涙は止まらず、ハンカチが食事道具のスプーン、フォークと同じように両手を行き来した。生徒には誤魔化して言ったものの、実のところ河豚川は泣けていた。それは子供時代の辛いのではなく、辛(つら)い記憶が脳裏(のうり)を過(よ)ぎったのだった。その記憶と同じ料理が、この日の実習で作られたのだった。この料理を食べたいと言って逝(い)った幼い弟の記憶だった。
「ぅぅぅ…」
 河豚川は我慢しきれず、ついに嗚咽(おえつ)した。
「おかしいなぁ~? 先生、辛(から)かったですか?」
「いいえ、美味(おい)しいわ。…辛(つら)かったの、先生」
「えっ?」
 生徒は意味が分からず、ふたたび訝しげな顔をした。泣けるからといって、辛(つら)いのは辛(から)いという訳ではないのだ。

          
                   完

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2018年9月21日 (金)

泣けるユーモア短編集-13- 演歌調

 やはり泣ける・・といえば演歌だ。思わず、ぅぅぅ…と咽(むせ)び泣けそうな歌から、軽い、ああ、そうなんだ…程度の悲しい歌まで様々(さまざま)である。しかし、概(がい)して言えることは、聴けばシンミリ気分にさせる・・ということだろう。
 ここは、とある町役場である。続々と出勤してくる職員で朝の活気に満ち溢(あふ)れていた。
「おい、見ろっ! 虎皮(とらかわ)さんだっ!」
「だな…」
 エントランスへ入ってきた虎皮は、すぐ二人の若手職員に目をつけられた。虎皮は役場では演歌調の男としてタレント的に超有名だった。彼が存在するところ、かならず、ょょ…、あるいは、ぅぅぅ…と泣けるようなことが起こるのだから、不思議といえば不思議ということもあった。それは何も悪いことに限ったことではなく、妙なことで涙する出来事が多発していたのである。ところが、しばらくすると、なぜ自分が泣いていたのか? と、本人が首を傾(かし)げることばかりで、不気味(ぶきみ)といえば不気味だったのだが、実害は何もなかったから、誰もが興味を持っていたのである。注目の焦点(しょうてん)はその日に何が起こるかで、昼の食事代や閉庁後の飲み代をかける職員も出て、管理職達は手を焼いていた。
「おいっ、虎皮だっ! 今日は何をしでかしてくれるやら…。演歌調は困るからなっ! 知らぬふり、知らぬふり…」
「はい!」
 同じ課の課長、狐池(こいけ)と課長補佐の狸川(たぬかわ)は虎皮が課へ入ってくるや、ヒソヒソ話をして、厄介者(やっかいもの)が来たとばかりに、知らぬふりを装(よそお)った。その途端(とたん)、今まで何ともなかった花が生(い)けられた花瓶がフロアへ落ち、ガチャリ! と割れたのである。前の日、課長の狐池が態々(わざわざ)買って持ってきた、お気に入りの花瓶だった。
「ぁぁぁ…」
「今日も演歌調ですね、課長!」
 デスクへ腰を下ろした虎皮はニコリ! と笑って言った。
「ぅぅぅ…お前が言うなっ!」
 狐池は思わず怒れて泣いた。
 演歌調は、やはり泣けるのである。

           
                   完

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2018年9月20日 (木)

泣けるユーモア短編集-12- 空(そら)

 空(そら)が、ははは…と笑うと快晴になると聞く。逆に、ぅぅぅ…と泣けるようなことになれば雨が降り出すということらしい。もちろん場合によっては雪、霙、霧、霰などと、いろいろな変化となるそうだが、真偽(しんぎ)のほどは定(さだ)かではない。定かではないが、どうも間違っているとも思えないようなことが起こるらしい。
 とある市役所の風景である。
「羽衣さんに頼めば、いかがですか、課長」
「羽衣か…。あれはいつも空を舞っているように優雅(ゆうが)だからなあ…。君、ダメかい?」
「いや、僕は…」
 三保(みほ)に振られた松原(まつばら)としては、いい迷惑である。それでなくとも、予算書の完成が急かされていた時期だけに、そんな余裕はなかった。
「ははは…空を見なさいっ! 快晴の青空じゃないかっ!」
 それと、どういう関係がっ? と訊(き)こうとした松原だったが、思うにとどめた。そんな松原の気持が天に伝わったのか、それまで雲一つなかった空に暗雲(あんうん)が浮かび、漂(ただよ)い始めた。
「妙だなぁ~? 今日は一日晴れると天気予報が言ってたんだが…」
 三保は訝(いぶか)しげに窓ガラスに広がる空を眺(なが)め、言うでなく呟(つぶや)いた。
「どうかされましたか?」
「いや、なに…空がな」
「空? 空、ですか?」
「いや、もういい、ははは…」
 三保が笑った途端(とたん)、呼応(こおう)するかのように、空の暗雲がスゥ~っと消え去った。
「おおっ! 空が…」
 三保は、ふたたび独(ひとり)りごちた。
「どうかされましたか?」
「いや、なに…空がな」
「空? 空が、ですか?」
 松原は窓ガラスに浮かぶ空を怪訝(けげん)な表情で見上げた。そのとき、天女(てんにょ)のように可愛い乙宮(おとみや)がお茶を淹(い)れて運んできた。
「いや、もういい、ははは…」
 三保は思わず前言(ぜんげん)を打ち消し、口を噤(つぐ)んだ。
「課長、私、結婚することになりました…」
「ええっ!」「えっ!」
 乙宮が発した突然の言葉に、二人は異口同音に驚いた。その途端、ふたたび空に暗雲が立ち込め、ぅぅぅ…と泣けるような小雨が降り出した。

      
                   完

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2018年9月19日 (水)

泣けるユーモア短編集-11- 世の流れ

 川の流れと同じで、世の中の動きにも見えない流れがある。その流れは、あるときは猛々(たけだけ)しく、世の人々がぅぅぅ…と泣ける事態を引き起こす。その典型的な例が自然災害で、これだけはどれだけ世の中で権威を振るう人でも手に負えない。そんな世知辛(せちがら)い世の中を、スイスイと何の苦もなく器用(きよう)に流れる女性がいるのだから、これはもう特技としか思えない。当の本人は、この潜在能力を自覚していないのだから、人の世は面白い。
「はい、分かりましたわ。時間には到着できるよう行かせますから。…はい! なにぶん、よろしくお願いしますぅ~」
 丘間(おかま)専務は電話を切ると、女っぽく営業統括部長を社内インターホンで専務室へと呼び出した。
「尾那辺(おなべ)、参りましたっ!」
 尾那辺は男っぽく、堂々と言った。
「あら、尾那辺さん。実はあなたの手腕を見込んで明日の11時までに、なんとかして欲しいの」
「何を? でしょう!」
「人材派遣よぉ~」
 尾那辺には世の流れを具(つぶさ)に感知し、社内業績に貢献してきた実績があった。
「明日の11時ですねっ?!」
「ええ。…大丈夫?」
「分かりました。なんとか、しましょう!」
「詳細は、この紙に書いてあるの。読んだらすぐにあなたの責任で処分してちょうだい」
「はっ!」
「私、祈ってます」
 数十分後、尾那辺に召集されたメンバーの一人が人材確保に世を流れ始めた。そして次の日、その人材が派遣先へと出向した。尾那辺は今回も世の流れをスイスイと男のように流れ、丘間は、ぅぅぅ…と女っぽく喜びに咽(むせ)んだのである。

         
                   完

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2018年9月18日 (火)

泣けるユーモア短編集-10- 設定

 作家の軽羽角(かるはずみ)は朝からパソコン作業に余念がなかった。と、書けば、いかにも仕事熱心に思えるのだが、内情はそうではなく、画面設定のひょんなミスで、厄介で難儀なトラブルに巻き込まれたのだった。それでも、そのままにしておけば作業に支障はなかったのだ。それを、ああでもない、こうでもない…と弄(いじ)くったものだから、少しずつパソコン本体の調子が悪くなり出したのである。恰(あたか)も、関が原の戦い当時の徳川秀忠公の上田城攻めにも似て、ぅぅぅ…と泣ける難儀(なんぎ)な事態に立ち至った訳だ。スゥ~~っと素通(すどう)りなされれば、どうってこともなかったのだが、意固地(いこじ)におなりあそばされた結果、散々な目に立ち至られ、真田氏に梃子摺(てこず)られた・・という状況に似通(にかよ)っている。結果、秀忠公は関が原の戦(いくさ)には間に合わなかった・・として史実に残っているのだが、軽羽角の場合は、美味(おい)しい鰻重(うなじゅう)を食い損(そこ)ねた・・という史実として残る・・いや、残る訳はないが、まあ、ぅぅぅ…と泣けることになった訳である。
 設定を一つ不用意に弄ると、まあ軽羽角のように、ぅぅぅ…と泣けることに至るから、最近の高性能機器を取り扱う際(さい)は、くれぐれも慎重さが求められる・・というお話だ。

        
                   完

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2018年9月17日 (月)

泣けるユーモア短編集-9- 負ける

 負ける・・と、ぅぅぅ…と無念さで泣けることになる。ことにはなるが、しかしそれは、人として負けた訳ではない。いや、むしろ、人としての勝敗的な視点に立てば、争(あらそ)う必要がなくなったのだから、ある意味、勝った・・と判断できることでもある。なぜ? かは、次の短い話を読んでいただければお分かりになるだろう。
 自治会長選に立候補し、僅(わず)かな票差で相手候補に破れた
痩川(やせかわ)は不貞腐(ふてくさ)れながら温泉へと旅し、名湯(めいとう)に浸(つ)かっていた。岩風呂に仕立てられた広い浴室は靄(もや)のような白煙に覆(おお)われ、一寸先すら見えない。
「これはこれは…。痩川さんじゃないですかっ!」
「んっ?!」
 痩川は思わず声がした方向に目を凝(こ)らし、見据(みす)えた。湯煙(ゆけむり)の向こうから現れた男は、商工会の太山(ふとやま)だった。
「なんだっ、商工会長の太山さんでしたか。こんなところで会うとは…。奇遇(きぐう)ですなっ!」
「ああ、さようで…。それにしても、いい湯ですなぁ~」
 太山はそう言いながら、湯を手拭(てぬぐ)いでジャバッ! と肩(かた)へかけた。
「はい…」
「ご旅行ですか?」
「ははは…傷心旅です」
「ああ、そういや、先だっては残念なことで…」
「いやぁ~なに…。人徳(じんとく)のなさですよ、ははは…」
「いやいや、そんなことは…。いえ、こんなことを申してなんですが、残念な結果で返ってよかったんじゃないですか?」
「えっ? どういうことです?」
「私なんか、もう選ばれたばかりに日々、針の筵(むしろ)に座らされてますから…」
「そんなことは…」
「いや! そうなんです。ようやく逃げるようにこの温泉へ来たようなことで…」
「そうなんですか?」
「ええ、そうなんです。そこへいくと、痩川さんはいい! たっぷりと自由な時間が出来たじゃないですかっ!」
「ええ、それはまあ…」
「それそれ! それが一番っ! 負けるにかぎりますよっ! 近々(ちかぢか)私も負けることにして、会長を辞退(じたい)しようかと…」
「そんな、もったいないっ!」
「いえいえ、負ける・・のが一番っ!」
 どうも、勝っているうちは責任が付き纏(まと)って地の底を這(は)うように重く、負けた途端(とたん)、空を飛べるような気楽さで軽くなるようだ。さらに、負けると[お負け]という特典もあり、ぅぅぅ…と、思わず泣ける喜びにもなる。
 これが、なぜ? の答である。

       
                   完

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2018年9月16日 (日)

泣けるユーモア短編集-8- 餅々(もちもち)した話

 先だって、こんなことがあったそうだ。とある老舗(ろうほ)のご隠居さんは餅(もち)が好きで、いつも居間の棚(たな)の中へ餅を隠していた。それもただの餅ではなく、中に甘餡(あまあん)が詰(つ)まった餅か甘~ぁいボタ餅だったという。甘い物好きなんだな…と私は聞いて思ったが、次の瞬間、別に餅じゃなくても、甘~~ぁい餡が詰まった饅頭(まんじゅう)でもいいんしゃないか…とは思えた。まあ、それはさて置き、話を聞いていると、それが笑いながら泣ける話だった。というのも、そのご隠居さん、得意先からお中元で貰(もら)ったボタ餅の詰め合わせを嬉(うれ)しそうに棚に隠し、さて、いよいよ誰もいなくなった離れで、今をおいて他にないとばかりにムシャムシャと食らい始めたそうだ。最初のうちはよかったが、遠くから店の者が近づく足音がしたから、さあ慌(あわ)てたのなんの。よく噛(か)みもせず思わずゴクリッ! とやっものだから堪(たま)らない。餅が喉(のど)に閊(つか)え、帰らぬ人となってしまった。家の者は俄(にわ)かなことに涙、涙と泣けるはずだった。ところがこのご隠居さん、なかなかしぶとく、しばらくすると、また息を吹き返した。そして言った言葉が、『お前のような餅好きは冥土(めいど)においておく訳にはいかん! そうじゃ』だ。家人一同はそれを聞き、泣き顔から笑い顔になったという。なんとも泣けるようで笑える餅々した柔らかい話だった。

        
                  完

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2018年9月15日 (土)

泣けるユーモア短編集-7- お悪いことが… 

 偶然(ぐうぜん)、他人の不幸に出くわすことがある。この場合、普通は紋切(もんき)り型(がた)で、お悪いことが…とかなんとか、お悔(くや)みを申し添(そ)えるのが常識だ。その言葉がスンナリと飛び出す人は相当、徳を積んでいる・・と言ってもよく、この辺(あた)りに人の内面が観て取れる・・ということになる。もちろん、よく知っていて付き合いの深い知己(ちき)の人なら、ぅぅぅ…と、思わず涙劇(るいげき)に及ぶ訳だが、まあ普通は、そこまで! には至らない。時折り、それほどの知り合いでもないのに咽(むせ)ぶ人もいるが、これはもらい泣き、というやつで例外だ。
 とある家へ弔問(ちょうもん)に訪れた人と、家人の会話だ。
「この度(たび)は誠(まこと)にお悪いことが…」
「はあ?」
「いや、ご母堂(ぼどう)さまが…」
「どちらの?」
「いえ、お宅の…」
「いつ?」
「いや、先だって…」
「ははは…馬鹿なっ! うちの母はピンピンしておりますよっ!」
「ええっ!!」
「その話、どこでお聞きになりました?」
「向こう三軒(さんげん)隣(どな)りの尾豚(おぶた)さんですが…」
「尾豚さん? はて? 私は知りませんが…」
「そら、そうでしょ。ここから遠い私の町内の方ですから…」
「その方が、なんて?」
「『なにか、お悪いことが出来たそうよ』と…」
「いつ?」
「いや、先だって…」
「ははは…それは入れ歯ですよ、入れ歯。ははは…」
「どういうことです?」
「うちの母が敬老会で、ついうっかり入れ歯を無くしましてね」
「それが、お悪いことが…ですか?」
「私に訊(き)かれても…。まあ、入れ歯は、すぐ出てきましたがね」
「はあ…」
「いや、実はですね。敬老会で婦人会が奉仕の散らし寿司が振る舞われたんですがね。食べたあと、母は洗面所で洗ったそうなんですが、ははは…」
「はあ…」
「うっかり、他の人が自分のだと思って持って帰られたようで…」
「それが、お悪いことが…ですか?」
「…でしょうね、たぶん。話に尾鰭(おひれ)がついたんだと思います」
「そうでしたか…」
「いや、どうも。遠路はるばる来ていただいて、お悪いことで…」
「いやいや、それならよかった! ははは…」
 お悪いことが…は、時折り、お悪いことではなくなるのだ。

       
                    完

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2018年9月14日 (金)

泣けるユーモア短編集-6-  感無量女優                                 

 いい意味で泣ける・・ということがある。所謂(いわゆる)、感無量といえる状態で、心理は感動に打ち震(ふる)え、ぅぅぅ…となっている訳だ。こうなると、自然と脳神経の命令で涙腺(るいせん)が緩(ゆる)むことになる。緩めば当然、涙が頬(ほお)を伝う・・と、こうなる。ここまで感無量になれるには、相当、感が極(きわ)まらねばならない。芸能方面、特に演劇の関係では、この集中力が要求され、この技量に長(た)けた者は名優と呼ばれる。要は、その人物に成りきれるか否(いな)か・・ということに他ならない。
 とある撮影所近くの大衆レストランである。片隅(かたすみ)の一角(いっかく)で監督と助監督と思(おぼ)しき二人が食事をしながら話をしている。
「川蟹(かわがに)座里(ざり)ちゃん、最近、メキメキ腕を上げたねぇ~。そうは思わない?」
「いやぁ~そうなんですよ。何かあったんですかね? 以前と全然違う。演技に幅(はば)というか、味(あじ)のようなものが…。今日の感無量のシーンなんて、私まで泣けて困りましたよ」
「そうそう、旨味(うまみ)がねっ! いやぁ~、僕も泣けて目頭(めがしら)が熱(あつ)くなったよ。で、この次のやつ、主役のキャストで考えてんだけどね、どう思う?」
「ええ、いいんじゃないですかっ!」
「そうか、感無量女優の誕生だなっ、ははは…」
「ははは…感無量女優ですか」
 泣ける演技が上手(うま)い感無量女優は笑えるのだ。

            
                 完

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2018年9月13日 (木)

泣けるユーモア短編集-5- 適度

 物事(ものごと)には、すべて適度・・ということがある。━ 過ぎたるは及ばざるがごとし ━ という格言が示すとおりだ。やり過ぎたり欲張ったりした挙句(あげく)、ぅぅぅ…と泣く破目(はめ)に陥(おちい)るのは悲しい限りだが、当人がそうしよう…と思ってした結果なのだから致(いた)し方ない。
 とある大衆食堂の店内である。
「本当によく食べますね。大丈夫ですかっ? その天丼(てんどん)で三杯目ですよ」
 ご近所仲間の細見(ほそみ)は太原(ふとばら)のアグレッシブな食べっぷりに呆(あき)れながら小声で言った。自身が食が細い・・ということもあった。
「ははは…いつものぺースなら丼(どんぶり)、5杯は食ってるっ。今日はまだ3杯だっ!」
「いや、私はあなたのいつもは知りません。そうなんですか?」
「ああ。そら、もう! この店じゃないがね…」
 太原に当然とばかりに言われた細見は、思わず相撲の力士じゃないんだっ! …と言おうとしたが、個人の自由だな…と考え直し、思うに留(とど)めた。
「あと、他人丼と親子丼ねっ!」
「えっ!! あっ、はいっ!!」
 追加のオーダーをされた女店員は思わず驚くと、そのまま奥へ消えた。しばらくすると店奥の厨房(ちゅうぼう)からヒソヒソ話が聞こえ始めた。細見にはその話の内容が、『大丈夫ですか? あのお客さん』『ああ…よく食う客だなっ』とかなんとか言ってる様子が手に取るように浮かんだ。が、ご近所仲間だから仕方がない。もう、食うなっ! とも言えないのだ。細見はすでに食べ終わっているから手持ち無沙汰(ぶさた)で、冷(さ)めた茶を啜(すす)るくらいのことしか出来ない。その細身が、どうしたものか…と思った矢先だった。急に太原が腹を押さえ、呻(うめ)き出したのである。
「ゥゥゥ…、く、苦しい~~っ!! い、痛い~~っ!!」
 細見は、どっちなんだっ、はっきりしろっ! と腹立たしく思えたが、ここは、介抱するしかない…と仕方なく心配する素振りをした。
「だ、大丈夫ですかっ?!」
「医者、医者!! 医者を呼んでくれぇ~~!」
 細見は、ほら見たことかっ! 適度というもんがあるんだっ! と北叟笑(ほくそえ)みそうになり、思わず顔を背(そむ)けた。1時間後、緊急来患病院へ運び込まれ、事なきを得た太原の姿がベッドにあった。
「食べ過ぎみたいです。食べなければ、すぐよくなるそうですから安心して下さい。それにしても、ものには程度がありますよ…」
 細見は、やっと注意が出来たからか、少し嬉(うれ)しかった。が、次の瞬間である。
「またかっ! …」
「えっ?」
 細見は太原の言葉が理解できず、思わず訊(き)き返した。実のところ太原は食い過ぎで医者から絶食を言い渡され、一週間、何も食べていなかったのだ。ようやく、医者の許可が出た日だった・・という訳である。
 物事には適度が大切で、ゥゥゥ…と苦しんだり、ぅぅぅ…と泣けることがあるから、用心が必要! というお話だ。

      
                   完

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2018年9月12日 (水)

泣けるユーモア短編集-4- 泣きの涙

 泣きの涙・・という言葉がある。この場合の涙は悔(くや)しかったり辛(つら)い涙で、涕(なみだ)[発音から出来上がった形声文字の涙や、状態や状況から出来上がった会意文字の泪(なみだ)、さらにその泪を超越(ちょうえつ)し、同じ会意文字ながらも、より奥深い感情を含んだ文字]であり、ぅぅぅ…と思わず流す涕なのである。
「錦着(にしきぎ)さん、惜(お)しかったですね…」
「ははは…。今(いま)一歩(いっぽ)のところだったんですが…残念です…」
 アナウンサー帯田(おびた)のインタビューに答える錦着は、微笑(ほほえ)みながらそう返した。だが、その言葉とは裏腹に、錦着の頬(ほお)には一筋(ひとすじ)の涕が流れていた。テニスプレーヤー錦着の心中(しんちゅう)は、地球[アース]オープン制覇(せいは)の夢が果(は)たせなかった無念さに打ち震(ふる)えていたのである。この無念な涕は尋常(じんじょう)に頬を伝う涙ではなかった。泣きの涙・・というやつで、2-2セットで迎(むか)えた最終セット、それもデュ~ス[同点]の末の敗退だったのだ。さらにさらに、その敗退の原因が相手の球を打ち返そうとした一瞬前、立て続けに二度、鼻先にとまった一匹のアブ・・というのだから頷(うなず)ける話ではある。
「最後に、会場の応援にこられた皆さんに一言(ひとこと)…」
「ぅぅぅ…これからも…ぅぅぅ…」
 錦着の言葉は言葉にならなかった。そのときまた、アブが錦着の鼻にとまった。
「ぅぅぅ…」
 錦着は鼻にとまったアブを片手で振り払いながら号泣(ごうきゅう)し出した。それを見たアナウンサーの帯田も、釣られて号泣し始めた。
 これが泣ける、泣きの涙・・なのである。

         
                  完

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2018年9月11日 (火)

泣けるユーモア短編集-3- 嘆(なげ)き節(ぶし)

 小規模ながら笹山建材という工務店を営む笹山は、よく嘆(なげ)く男として、店の従業員達に知れ渡っていた。愚痴(ぐち)る訳ではなく、単に嘆き節(ぶし)でボヤくのだから、それほど聞き苦しい・・ということでもない。そんな訳で、従業員達は、冷めた目で呟き始めた笹山を見ない態(てい)で知らんぷりするのが常だった。
 そんなある日のことである。作業を終えた二人の従業員が店へ帰ってきてロッカー室へ入っていく。その通路からは、事務をする傍(かたわ)ら、嘆き節をガナる笹山が一望できた。
「またか…親父(おや)っさん、始めたぜ…」
「ああ、今日は何があったんだ?」
「さあなぁ~。どうせ、この身入りで俺達の給料が支払えるかっ! とか言ってんじゃねえのかっ」
「だな…、いや、今日はちょいと違うな? 泣き始めたよっ!」
「こりゃ、大事(おおごと)かもなっ!」
 そこへ別の従業員が着替えにロッカー室へ入ってきた。
「んっ? お前ら、どうしたんだっ?」
「どうもこうもねえよっ。親父っさんが泣いてるからな」
「ははは…なんだ、そんなことかっ! 実はカクカクシカジカ・・でなっ」
「はっ、はっ、はっ、はっ!…」「がはははは…」
 笑い方にもいろいろあるが、カクカクシカジカと訳を聞いた二人は、こんな感じで爆笑し始めた。その訳とは、笹山がよく通うスナックのホステスとのあんなことやこんなことが、どうも奥さんにバレたらしいということだった。その話には続きがあり、そのホステスには逃げられるわ、奥さんからは離婚を突きつけられるわ・・で、泣きの涙だという。さらに追い討ちをかけるように、そのホステスが走った先が別の工務店の社長・・というのだから笹山が泣けるのも頷(うなず)ける。
 このように、嘆き節の奥には泣ける複雑な内容が秘められているのである。

        
                   完

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2018年9月10日 (月)

泣けるユーモア短編集-2- 演歌

 演歌に泣ける話は欠かせない。
 苦節20年、15でデビューした演歌歌手、若草鹿美の新曲♪絶壁波止場♪は、ようやくヒットの兆(きざ)しを見せ始めていた。
「有線、なかなか、評判がいいようだよ、鹿美ちゃん」
 慰めともつかぬ言葉を口にしたのは、デビューから共に苦労してきたマネージャー、煎餅(せんべ)だった。言葉とは裏腹に、煎餅は、またダメかも知れん…と泣ける思いだった。しかし、頑張る鹿美を前にそうとは言えなかったのである。鹿美にもすでに四十路(よそじ)の坂が迫っていた。
「ありがと…」
 鹿美にも、ダメかも知れない…とは分かっていた。だが、懸命に売り込みを続けてくれる煎餅を前に、そうとは言えなかった。二人は泣ける心とは裏腹に、互いに顔を見合わせ微笑(ほほえ)んだ。
 そのときだった。
「う、売れたよぉ~~っ!!」
 楽屋に飛び込んできたのは、煎餅が所属する芸能プロダクションの社長、大仏(おさらぎ)だった。
「や、やりましたねっ、社長!!」
 煎餅は思わず大仏に抱きついていた。
「ああっ! やったよ、鹿美ちゃん~~!!」
 大仏は落ち着きを取り戻(もど)し、煎餅から離れると鹿美に言った。
「社長、それで何枚くらい?」
 鹿美は不安げに訊(たず)ねた。
「…200枚」
 やはり、演歌は泣けるのである。

                            完

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2018年9月 9日 (日)

泣けるユーモア短編集-1- 感涙(かんるい)に咽(むせ)ぶ

 感涙(かんるい)に咽(むせ)ぶ・・ということがある。悲しいことではなく、喜びの余り思わず感(かん)極(きわ)まり、知らず知らずのうちに頬(ほお)を幾筋(いくすじ)もの涙が伝う・・といった、そんな状況だ。無意識にぅぅぅ…と、思わず涙が頬を伝う訳である。当然、傍目(はため)にはその人物の心理状態が分からないから、おやっ? と他人が思える事態も多々(たた)、発生する。
 初土俵から苦節20年、35才にして初めて十両への昇進を決めた漬石(つけいし)部屋の大根(おおね)改め、大根山(だいこやま)は、番付表を手にして師匠の漬石親方の前で感涙に咽んでいた。
「ぅぅぅ…」
「よく、やった! ぅぅぅ…関取! がんばった、がんばった!」
 漬石親方も、感涙に咽び、頬から涙を流す大根山の肩を優(やさ)しく叩(たた)き、思わず涙した。その状況を他の部屋付き力士達も見ながら、思わずぅぅぅ…となった。そうなると、感涙は感涙を呼び、ぅぅぅ…の響(ひび)きは微細(びさい)な振幅音(しんぷくおん)の集合体と化して部屋の建物を振動させていった。漬石部屋の前の路地(ろじ)を歩く二人連れの老人は、思わず立ち止まった。
「じ、地震ですなっ!!」
「そ、そのようです…」
「それにしても妙ですぞっ。低い声が聞こえやしませんか?」
「ああ、そういやっ! …声がする地震なぞ、私も長いこと人生やっとりますが、初めてです…」
「いや、それは私もです…」
 苦節20年、泣ける関取の誕生は、感涙に咽ぶ地震を引き起こしたのだった。

                           完

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2018年9月 8日 (土)

逆転ユーモア短編集-100- 一喜一憂(いっきいちゆう)

 クヨクヨと一喜一憂(いっきいちゆう)するのは考えものである。物事が逆転した運びとなり、スンナリいかなくなる場合が多いからだ。だいたい、クヨクヨすること自体が問題で、余りよくない心理状態なのである。仏教の煩悩(ぼんのう)とかいう小難(こむずか)しい言葉に似通(にかよ)っている。
「やあ! 橘(たちばな)さん。どうされました、頭(あたま)? 薄くなられましたな…」
「これはこれは広瀬(ひろせ)さん。そう言われるあなたも真っ白じゃないですかっ、ははは…」
 二人は偶然、同じ職場で出会い、いつも交(か)わす湾曲(わんきょく)的な嫌味(いやみ)を大げさに展開し始めた。これは対立して・・という訳ではなく、互いに慰め合っているように誰の目にも見えた。
「ははは…そうなんですよ、一喜一憂ですわっ!」
「いや、実は私も、です。ははは…」
 二人は傷(いた)めた傷口を舐(な)め合った。
「一喜一憂しても仕方ないですかな?」
「ははは…そうかも、ですな」
「返って…」
「そうそう! 益々(ますます)ということに…」
「行雲流水(こううんりゅうすい)ということで…」
「ほう! 雲水ですか? これも修行(しゅぎょう)ですかな?」
「そのようです、ははは…」
 二人は逆転に気づき、それ以降、頭髪(とうはつ)を気にしなくなった。
 一喜一憂するのは逆転の結果を招(まね)きやすいから、やめた方がいい・・というお話だ。禿(はげ)るか白髪(しらが)か、どちらかハッキリしろっ!! と切れる方もいる・・というのが逆転現象の一つである。

         
                   完

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2018年9月 7日 (金)

逆転ユーモア短編集-99- 意識

 準備は十分に行われ、いよいよ実施に向けての最終段階に至っていた。こう書けば、まるでロケットの打ち上げ間際(まぎわ)か何かを連想させるが、コトは至って簡単で、小学校に通う正也の朝の寝起き場面だった。数億円が無駄に消える・・などという馬鹿げた話ではない。
 明日は遠足だというので、正也は意識して、いつもの30分前に眠ることにした。両親に言われたから・・ではなく、自主的に意識したところがパチパチパチ…と手が叩(たた)ける偉(えら)いところだ。が、しかしである。目覚めると、用意 周到(しゅうとう)に準備して枕元に置いたはずの水筒(すいとう)が見つからない。さあ、弱ったな…と、正也は思うでなくアチラコチラと探し始めた。これも思うでなく少し寒いな…と思えたのは探し始めた5分後で、正也はまだパジャマから着がえていないことに気づいた。目覚ましは30分早く寝たのが功(こう)を奏(そう)したのか、セットした時間より小一時間も早かったから、まだ十分にゆとりはあった。正也は意識して、いつもの服に着替えた。これも自主的に・・だから偉い。着替えて水筒の捜索(そうさく)を再開した正也だったが、水筒は見つからない。まあ、いいや…と思うでなく捜索を断念した正也は洗面所へ歯磨きに向かった。
「正也、これっ!」
 母親の未知子がキッチンから出てきて、水筒を正也に差し出した。そのとき、正也は意識して水筒を未知子へ手渡したことを思い出した。お茶を淹(い)れてもらうのだから、枕元に置いておいても仕方がないな…と、思うでなく意識して枕元へ置くのを変更したのだった。
「…」
 正也はニンマリ! とした顔で受け取った。なんだっ! と、よかった! が合わさったような気分で、である。
 このように意識してやったことは、逆転の結果を招(まね)きやすいから、意識しないでコトに望むことが成就する秘訣(ひけつ)なのかも知れない。

         
                   完

 ※ 正也君、未知子さんは風景シリーズの湧水家(わきみずけ)からの特別出演です。^^

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2018年9月 6日 (木)

逆転ユーモア短編集-98- 雪の朝

 前日の夜、木枯らしのような雪起(ゆきお)こしの冷たい風が吹いていたから、氷柱(つらら)は、たぶん明日(あした)は雪が積もっているだろう…と、気象予報官にでもなったように偉(えら)そうに思いながら眠った。別に偉そうに思うほどのことでもないのだが、予想はドン、ピシャ! で、大当たりだった。上手(うま)い具合に正月休みを取らず仕事をしていたから、勤(つと)めを数日休める・・というラッキーな巡りで、こりゃ、ラッキー・ストライクだなっ! …と、アメリカのタバコの銘柄(めいがら)のようなことを思わなくてもいいのに、また思った。逆転した発想だと雪の朝は、どういう訳か世の中の慌(あわ)しさが消え去るように氷柱には感じられた。第一に毎朝の車の騒音が途絶えるのである。というのは、雪道で危(あぶ)ないから、車は速度を上げてビュンビュンとは走れないからだ。第二として、いつもの朝とは違う雪明りと静けさが清浄(せいじょう)な景観を醸(かも)し出すのだから不思議といえば不思議だった。
「ああ、ご苦労さんです…」
 雪かきをしようと通り過ぎたご近所の一人に、氷柱は思わず声をかけた。よく見れば、それは子供だった。
「…」
 見ないで声をかけてから気づいたのだから、どうしようもない。子供はニタリ! と笑顔で通り過ぎた。
「…」
 氷柱は無言(むごん)で罰(ばつ)悪く家の中へと撤収(てっしゅう)した。
 雪の朝は思わぬ逆転した錯覚を与えるようだ。

         
                  完

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2018年9月 5日 (水)

逆転ユーモア短編集-97- さりげなく生きる

 激しく生きるより、さりげなく生きる方が生きやすい。そればかりか、物事が進む成りゆきを冷静に見て、自分が進む方向をプラスに修正し、正しく判断できるという逆転効用もあるから不思議だ。激しい生き方は効果があるようで反動も食らいやすいから、結果的に生きにくくなる場合だってあるのだ。いわば温泉の薬湯に似ていて、効果は大きいが、そういつも温泉に浸(つ)かる訳にはいかないから場当たり的な効果だし、悪くすればアレルギーを起こす危険性だってある訳だ。そこへいくと家庭風呂は、好きなときに入れる上に、アレルギーを起こす心配もないから、さりげなく生きる生き方と似ている。
 とある高校の廊下である。テスト結果の得点順ランキングが、ベスト10まで掲示板に張り出されている。
「いい成績だな、あいつ?」
「まあ、一夜漬けなら成績もいいさ…」
「お前、あいつのこと、よく知ってるなっ」
「そうじやないさ、ヤツがそう言ってたからな」
「なんだ、そうか…」
「俺もお前も、さりげなく生きる方だからな…」
「まあ、よく言えばな。悪く言やぁ~、二人とも鳴かず飛ばずだっ、ははは…」
「そうだな、ここに張られたことねぇ~もんな。ははは…」
 数ヵ月後、さりげなく学習し続けた二人は大学へ合格し、進学した。一夜漬けの生徒は予備校へ通うことになった。
 さりげなく生きることは激しく生きるより効果があった・・という一例だ。

          
                  完

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2018年9月 4日 (火)

逆転ユーモア短編集-96- のべつくまなし 

 のべつくまなしとは、絶え間なく続く・・という意味で使われているが、元々(もともと)は芝居で幕を引かず、休みなく演じ続ける、[幕なし]から派生した言い回しだ。ただ、のべつくまなしだからといって、効果が上がる・・というものでもない。逆転して、五月蝿(うるさ)く思われたり、手元が疎(おろそ)かになり失敗することも多々あるのだ。『口を動かしてないで、手を動かせっ!』と怒られるケースがそれだ。
「ははは…いや~まいりましたよ。脱線転覆(だっせんてんぷく)でしょ。私は次のでよかったんですが、お蔭(かげ)で旅行の予定は大幅(おおはば)に遅(おく)れましてね」
「ええ、それで?」
「ところが、旅ってゆうのは何がどうなるか分からんものです。今思えば、それが返ってよかったんですからな、ははは…」
 久しぶりの旅から帰った針山(はりやま)は、すでに4時間以上、話し続けていた。聞き手になっているのは、お隣(となり)に住むご近所仲間の着物(きもの)だ。針山の語り口調は、のべつくまなしだったが、馴(な)れているのか、着物の合いの手の入れ方も、のべつくまなしに合わせたようで上手(うま)かった。
「と、言われますと?」
「じゃあ、仕方ないから別のルートで鹿馬(しかま)温泉に向かったんですが、これがどうして、なかなかのいい温泉でしてね」
「ほう!」
「景色はいいわ、料理は美味(うま)いわ、湯はいいわ、女将(おかみ)、仲居は美人だわ・・」
「よかったですなっ!」
「ええ、よかった、よかった! よかったのなんのって!」
「ふん! ちっとも、よかないよっ!」
 店からコーヒー一杯でいつまでも出そうにない、のべつくまなしの二人に、喫茶店の店主は、レジ台から思わず小声で愚痴った。
 のべつくまなし・・は、周(まわ)りの環境を確認する必要があるのだ。

        
                   完

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2018年9月 3日 (月)

逆転ユーモア短編集-95- どうでもいい

 必ず、そうしなければ…と思えば思うほど、物事は順調に運ばないものだ。逆転して、どうでもいいと思いながら、出来ないとは思うが、まあ一応やっておこうか…などといった軽い気分でやると、割合と早く終わるものだ。
「川柳(かわやなぎ)さん! どうでもいいんですが、早く済めばこの計算、やっておいてもらえませんかね? いやっ! 無理に、とは言ってませんよ。どうでもいいんですから…」
 課長の舟綱(ふなづな)は古参(こさん)で万年平(まんねんひら)社員の川柳に遠慮(えんりょ)気味(ぎみ)にそう言った。同期入社だったこともある。
「はあ、出来ましたら、そうさせてもらいます」
「なにぶん、よろしくっ!」
 川柳は舟綱が言った『なにぶん、よろしくっ!』という言葉が妙に気になった。どうでもいいと言いながら、なにぶん、よろしく・・と加えるのは変だ。なにぶんという言い方は、すでにやってもらうことを見越した言葉だからだ。どうでもいい訳ではないっ! と遠回しに言っているのも同然だった。
「はい…」
 川柳が腕を見ると、すでに7時近くになっていた。残業は、ことのほか長びき、舟綱が言った計算は、とうとう出来ず、次の日となった。
「どうでもいいあの計算、やってくれました?」
「いや! 残業分は出来ましたが、どうでもいいあの計算は時間足らずで出来ませんでした、どうもすみません」
「ははは…どうでもいいんですから。…どうでもよかないんですよっ!」
 舟綱は切れた。その切れた意味が分からず、川柳は訝(いぶか)しげに舟綱を見た。
 どうでもいい…と言われれば、どうでもよくないんだ…と逆転して考えた方がよさそうである。

        
                   完

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2018年9月 2日 (日)

逆転ユーモア短編集-94- 灯(あか)り

 時代劇を思わせるように古式(こしき)ゆかしく、灯明(とうみょう)に灯(あか)りが揺(ゆ)らめいて灯(とも)っている。注視して灯りが灯った状態を観察すれば、灯るまでに幾つかの物品が必要なことが分かる。まず、油を注ぎ入れる磁器製の油皿(あぶらざら)、油が染(し)みて火となり灯りとなる。また、イグサの髄(ずい)から作られる灯心(とうしん)が必要である。他にも幾つかあるのだが、こうした細々(こまごま)な物品がすべて整わないと、灯りとして明るくならない訳だ。要は、灯明家のメンバーといったところだ。これは灯りに限らず、すべての物や事象に当てはめることが出来る。逆転して考えれば、その中の一つが機能しなくなっただけで全体がアウトになるのだから怖(こわ)い。
 とある会社の部長室である。
「君の課はいつ頃、提出できるの?」
「はい、明日(あす)には間違いなく出揃(でそろ)うと…」
 部長の太丸(たまる)に訊(たず)ねられた鋸切(のこぎり)は、他の課に負けてはならない…と、課長として大見栄(おおみえ)を切った。
「ほおっ! そりゃ早いじゃないかっ! よろしく頼むよ」
「はいっ!」
 鋸切は鼻高々に部長室を出た。出た途端、ひとつ気がかりなことが頭に浮かんだ。選抜(せんばつ)したプロジェクト・チームのメンバーの一人(ひとり)、枝木(えだぎ)が今一つ頼(たよ)りなかったからだ。枝木は仕事こそ遅(おそ)かったが、時折り素晴らしいアイデアを出し、課の営業成績に貢献したからチームのメンバーに入れたのだが、普段は鳴かず飛ばずだったから、果たして分担分をキッチリやってくるか? が心配だった。
 そして、次の日が瞬(またた)く間(ま)に巡った。
「枝木はどうした?!」
「今日はお休みになられるそうです…」
「なんだって!! 他のメンバー分は出揃ったというのに、あいつの分だけないっ! これじゃ、部長のところへ持っていけないじゃないかっ!!」
「私に言われましても…」
 係長の金槌(かなづち)は鋸切に弱く返した。
「あいつは灯らんヤツだっ!」
 鋸切は切れぎみに愚痴(ぐち)った。
「はあ?」
 金槌は意味が分からず、訝(いぶか)しげに鋸切を見た。
「いや、なんでもない…」
 そして、ついに退社時間が近づいた。
「今日じゃなかったのかねっ!」
 太丸から呼び出された鋸切の姿が部長室にあった。
「はあ…そのつもりだったのですが…」
「ははは…つもりじゃなぁ~」
 この言葉の裏には、『君の次長の推挙(すいきょ)は諦(あきら)めてくれたまえ…』の意味が含まれていた。鋸切の頭の中は火が灯らず、真っ暗になった。
「課長、速達書留が届(とど)きましたっ!! 枝木さんの持ち分ですっ!!」
 金槌が書類を手にし、部長室へ叫びながら飛び込んできた。逆転である。
「そうかっ!」
 鋸切の頭に灯りが灯った。

                         完

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2018年9月 1日 (土)

逆転ユーモア短編集-93- 嘆(なげ)き

 物事をやって失敗すれば、当然、人は嘆(なげ)きを漏(も)らすことになる。ああっ! と大声を出す人もあれば、しまった! と無言で顔を歪(ゆが)める人もあり、その態度には個人差がある。ただ一つ言えることは、嘆きを漏らす前に逆転して失敗しないよう注意できないのか? ということだ。注意して慎重(しんちょう)にコトを進めたり、努力してやったりすれば、必然的に失敗もなくなるから、その結果、嘆きを漏らさなくてもよくなる・・という三段論法が成立する訳である。
 ここは、とある神宮の境内(けいだい)である。どうしても飛べない…と放(はな)し飼(が)いにされた一匹のニワトリが、今日も餌(えさ)を突(つつ)きながら悲嘆(ひたん)に咽(むせ)んでいた。そこへ偶然、木の枝へ舞い下りたのがノバトである。
『ニワトリさん、何をそんなにコツコツ、悩(なや)んでいるんだい?』
『これはこれは、ノバトさん。どうしても飛べなくてねぇ~』
『ははは…そんな、つまらない嘆きでしたか。簡単なことです。では、私が飛法(ひほう)を伝授(でんじゅ)いたしましょう』
『そんなのが、ありますか?』
『ええ、ありますとも。簡単なことです。野生になりなさい』
『野生ですか? これでも、十分に野生だとおもっているんですが…』
『甘いっ!!』
『甘いですか?』
『ええ、甘いっ! 心がけが甘いっ! 努力が足りないっ!』
『甘くて足りないですか?』
『ええ、甘くて足りないっ! …一つ、いいヒントを教えて差し上げましょう。ほら、そこにある木の梢(こずえ)から飛び降りる練習をしなさい』
『飛び降りる練習を、ですか?』
『ええ、そうです。飛び降りる練習を、です。その枝よりもう少し高い梢からという風に…』
『それで、飛べるようになると?』
『はい、必ず…。あなたは下から上へ飛ぼうとしている。だから、飛べないのです。逆転して上から下へ下りようとすれば飛べるんですよ。下りることが飛ぶということです。自然と羽ばたきますからね。飛距離も少しずつ伸びます』
『なるほどっ!!』
 それ以降、そのとある神宮のニワトリは修業を重ねた結果、飛べるようになったそうだ。もちろん、人の場合は無謀(むぼう)で、激突死するのが関の山だろうが、努力すれば人として飛躍(ひやく)できることは疑(うたが)う余地がない。

       
                    完

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