泣けるユーモア短編集-29- とりあえず…
ぅぅぅ…と泣けるようなことが起こる前に用意を周到(しゅうとう)にしておくことは大事なことだ。所謂(いわゆる)、とりあえず…と、やっておく準備のことである。囲碁のプロ棋士なら、石を取られないよう万一の場合を考え、保険をかけておく・・とか格好よく言うそうだが、別に保険をかけておかなくても常備薬を用意する・・という解説でもいいのではないか…と思えるが、まあ、そんなところだ。
山奥に立つ、とある村役場の課内である。
「石黒(せきぐろ)さん、今朝は随分(ずいぶん)、早いご出勤ですな?」
いつも遅刻ギリギリに出勤する石黒を訝(いぶか)しげに眺(なが)め、白石(しろいし)がポツリと言った。
「ははは…私だって早いときもありますよ。昨夜は雪が舞ってましたから、こりゃ、積もって遅刻だ…と思いまして、とりあえず…」
「そう大したこともなかったですね」
「はい。もう、三月(さんがつ)近いですからね…。しかし、万が一・・ということもあります。それに、昨日(きのう)の事務処理が私、まだ残ってましたから…」
「なるほど! それで、ですか?」
「ええ、まあ…。若い灰川課長補佐に嫌味(いやみ)を言われるのも癪(しゃく)でしたからね、とりあえず…」
「積もってりゃ、皆、遅いんでしょうが…」
「そうですね。…あれっ?!」
石黒は、鞄(かばん)の中を小忙(こぜわ)しそうに探し始めた。
「どうされました!?」
「いえ…おかしいなぁ~。…ああっ!」
妻が入れてくれた弁当を、石黒は慌(あわ)てたため、玄関へ置き忘れたことを思い出した。
「なんでしたっ!?」
「ぅぅぅ…弁当をっ!」
「ははは…忘れられましたか。とりあえず…よかったら」
白石はデスクに隠し入れたカップ麺を一つ、石黒に手渡した。
「ど、どうも。ははは…、とりあえず…頂戴しておきます」
とりあえず…は、ぅぅぅ…と泣けることを予防する手段となるのである。
完
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