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2019年4月

2019年4月30日 (火)

愉快なユーモア短編集-34- 昔の子供遊び 8> お手玉と赤拾(あかひろ)い 

 男の子供遊びばかりを列挙(れっきょ)してきたので、ここで女の子供遊びも一つ紹介(しょうかい)しておきたい。お手玉である。別に紹介などしてもらわなくてもよいっ! とお思いの方は、テレビのサッカー中継でも観ていて下さればそれでいい。^^
 この遊びも一人と数人とやる場合に分かれる。ということは、一人でも十分、楽しめるのである。まず、お手玉を作る必要がある。どんな布切れ(出来れば薄い方がいいようだ)でもいいから用意し、俵(たわら)形、四角形など形は好みで作ればいいようだ。朧(おぼろ)げながらも実際に見た記憶によるものだ。ということで、よく知らないから遊び方の解説はネットの検索でお願いしたい。
 女の子達がお手玉で遊んでいる。その光景を遠くから男の子供達が垣間(かいま)見ている。
「細かいこと、してるなぁ~」
「ああ…僕達は赤拾(あかひろ)いでもしようかっ!」
「だねっ!」
 昭和30年代前半の頃は、捨てるより拾(ひろ)う時代だった。赤拾いとは当時、貴重だった銅を含む金属の屑(くず)を拾い集めることを指(さ)し、拾っては竿秤(さおばかり)で量(はか)って買ってもらう訳だ。10円硬貨を一枚、もらった記憶が残っている。^^
 お手玉は楽しいのだろうが、赤拾いも結構、愉快な実益(じつえき)を兼(か)ねた昔の子供遊びである。

       
                   完

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2019年4月29日 (月)

愉快なユーモア短編集-33- 昔の子供遊び 7> 竹馬(たけうま)

 7>として竹馬(たけうま)がある。これもメジャーな昔の子供遊びとして多くの人の記憶に残っていることだろう。数人で遊ぶというより、個人で楽しむ遊びとなる。もちろん、個々に作って数人でも楽しめるのだが…。作り方は簡単で、適当な真竹が1本と体重を支えられる小さな板切れが2枚あれば事(こと)足りる。竹を身長より高めの適当な長さに切り、20~30cmの高さのところに足が乗る板切れを縄(なわ)や紐(ひも)、ロープなど、適当なもので括(くく)りつけて固定する。で、同じものをもう1本、作れば完成となる。作れば、あとは遊ぶだけだ。手で持って片足づつ板切れの上へ乗せ、上手(うま)く歩けるようになれば、歩く愉快な感覚が味わえるというものだ。上達すれば、数人で速(はや)さを競(きそ)ってもいいし、一人で、まったりと歩き心地(ごこち)を楽しむのも一興(いっきょう)というものである。^^
 カツッ、コツッ・・と音をさせながら、数人の子供が竹馬を楽しんでいる。竹の乗り心地と音が子供達を愉快な気分にさせている。
「速いだろぉ~~!」
 一人の子供が道に引かれた線の上へ一番でゴールし、遅(おく)れて着いた子供達に自慢たらしく言った。
「うんっ!」
 遅れて着いた子供達は頷(うなず)いて認めざるを得なかった。
「なっ! ははは…」
 したり顔で一番速く着いた子供が笑ったときだった。その子供はバランスを崩(くず)して倒れた。
「だ、大丈夫?!」
 遅れて着いた子供達は、竹馬から全員が降り、駆け寄った。
「だ、大丈夫さっ! ははは…」
 速く着いた子供は打身の痛みに顔を歪(ゆが)めながらも強がった。油断は禁物(きんもつ)なのである。^^
 自転車と人だけが道に見られた頃の昔の子供遊びである。

         
                   完

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2019年4月28日 (日)

愉快なユーモア短編集-32- 昔の子供遊び 6> ビー玉

 さて次は、6>ビー玉である。この遊び方も実にシンプルで、遊び道具としてのビー玉が数個あれば事足りる。市販のビー玉も、あることはあったが、なにも市販品を買う必要はなく、駄菓子屋で買ったラムネ(昭和30年代前半は1本、5円)の瓶(ビン)に入ったガラス玉を使ってもよかった。剛(ごう)の子供などは、ラムネ瓶の玉、数個で、お金持ちの子供が買った色付きの綺麗なビー玉を、しこたま、せしめたものだ。で、その数多く手に入れたビー玉を、密(ひそ)かに隠し持って蓄(たくわ)え、宝物として自慢した・・というのが、当時の真相である。遊び方も実にシンプルで、2~数人がジャンケンをして遊びが始まる。場所は土の上が適当である。まず、ジャンケンで勝った最初の一人が1個のビー玉を片手に持ち、他の子供が地面に置いたビー玉に狙(ねら)いを定めて当てる・・という、それだけのものだ。当たれば、当てた玉は自分の物になる・・という寸法である。当然、外(はず)れるまで当て続けられるのだが、当てられた側の子供は、また別の玉を土の上へ置かねばならず、上手く当てられるか? という腕の見せ合いの遊びとなる。まあ、大方は男の子供の遊びで、女の子供はしなかった・・と記憶している。
「ヒヒヒ…これで25個だぜっ!」
 腕のいいガキ大将が数人の子分を従え、せしめたビー玉を数えつつ悦(えつ)に入(い)っている。
「今日はシコタマ、手に入りやしたね、お頭(かしら)っ!」
 子分の子供の一人が、ガキ大将のご機嫌(きげん)を伺(うかが)う。
「そうよ、チョロいもんよっ!」
 一端(いっぱし)の親分風のしたり顔(がお)で、ガキ大将は子分どもを見回す。
「で、お頭、分け前はっ?」
「おっ! そうだったなっ!」
 ガキ大将は、勝ち取ったビー玉を、ほんの数個づつ子分どもに分け与える。その数の少なさに、なんとケチ臭い…と思いながらも口には出せず、有り難く頂戴する子分ども。^^
 まあ、こんな光景が昭和30年代前半は展開されていたのだが、実に愉快な子供遊びだ。       

                            完

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2019年4月27日 (土)

愉快なユーモア短編集-31- 昔の子供遊び 5> 鉄砲遊び

 さらに続くが、5>鉄砲遊びがある。誤解されるといけないから説明するが、金属の犯罪めいたものではなく、竹木(ちくぼく)を工作して遊び道具にした鉄砲だ。
この鉄砲には各種あり、特に竹で作るものが大半である。挙(あ)げただけでも、水(みず)、吹き玉(だま)、杉の実(み)、紙などがあり、紙鉄砲(かみでっぽう)に至っては木で作るものもある。竹の場合は普通の真竹(まだけ)を使用する場合と女子竹(おなごだけ)[メダケの別名]を使う場合がある。杉の実や吹き玉鉄砲の場合は女子竹だ。女子竹の遊び道具の作り方は簡単で、川原から採(と)ってきた女子竹の節(ふし)と節の間(あいだ)を切り、竹筒(たけづつ)と押し手[手で持てるくらいの竹筒に押し棒の細い竹筒を押し込んだもの]を作る。当時は長閑(のどか)な時代で、子供が鉛筆削りや工作で常用した肥後守(ひごのかみ)という子供用ナイフを使って作ったものだが、今の厳(きび)しい時代は刃物と見られて所持を許されないかも知れない。まあ、それはそれとして、作れば、あとは遊ぶだけだ。ここでは、メジャーな吹き玉鉄砲の場合を説明したい。例によって、説明して欲しいと思わない! 方は、シャワーでも浴びていただけば、それでいい。^^
 まず女子竹の筒に吹き玉[リュウノヒゲと呼ばれる植物の実]を先端に詰め込み、押し棒の細い竹筒で押す。次に、別の吹き玉を先端に詰め込んで勢いよく押し棒の細い竹筒で押せばいいだけだ。竹筒の内部の空気が圧縮され、その圧力が最初に詰め込んだ吹き玉を鉄砲風に{ポンッ! ? …ピシッ! ? …バシッ! ? …という音だったか、当時からかなり経つので忘れてしまった^^]押し出すといった具合だ。数人で遊べば面白い遊びである。余り威力がないから、相手の玉が当たった記憶もなく、音で遊ぶのが味噌だ。あとの各種鉄砲も作り方の差こそあれ、ほぼ同じである。木で作る紙鉄砲だけは他の鉄砲類と違い色彩を異(こと)にした。鉄砲型に切った木片を蝋燭(ろうそく)の蝋で塗って工夫する場合と、工作した鉄砲型の木片の先に輪ゴムをつけ、輪ゴムを伸ばして引き木の先にはめ込み、その間に1cm×5mmぐらいのやや厚めの紙片を挟(はさ)んで引き木を動かし、紙片を飛ばす場合とがある。
 数人の子供が吹き玉鉄砲で遊んでいる。音だけがパシッ! ピシッ! とするだけで、お互いの姿は見えない。それでいて、妙に愉快で楽しい子供達の顔がある。数十分後、音が急にしなくなった。一人の子供が訝(いぶか)しげに他の子供を捜(さが)し始めた。
「? おかしいなぁ~? …音がしないぞ」
 最後まで残っていた子供は、すでに遊びが終わっていることを知らなかった。皆(みんな)、家へ帰ってしまい、一人だけ忘れられたのだ。^^
 鉄砲遊び・・こんな長閑で愉快な昔の子供遊びもあった。

        
                   完

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2019年4月26日 (金)

愉快なユーモア短編集-30- 昔の子供遊び 4> ケンパ

 なぜか、妙に調子づいてきたが、続いて4>ケンパという子供遊びがある。この子供遊びも数人の子供で出来る昔の子供遊びなのだが、一人(ひとり)一人の技量が問われる個人戦となる。遊びには何も用意する必要がない・・といっても、自分用の小石(こいし)一つは適当なのを拾って持つ必要はある。場所は、適当に湿(しめ)った土の上だ。お寺や神社の境内(けいだい)などが最適である。湿っていないといけない理由は、2>の線切りと同じで、線を描く必要があるからだ。
 遊びを始める前に、線で図形を描く必要がある。まず、適当な大きさ[2m程度]の長方形の線を描く。次にその中の上下線から30cmほど内側のところに線を引く。このとき、長方形は上下の小さな四角形と真ん中の大きな正方形に近い長方形の3つに分割された形となる。次に、上下の小さな四角形を2等分したところに縦線を描く。この段階で、小さい四角形が上下2つづつの4つ、そして真ん中の大きな正方形に近い長方形の計、5つになる。続いて、真ん中の大きな正方形に近い長方形の角(かど)から対角線を2本引く。これが遊ぶ図形[内部の上下に小さな四角形が各2つの計4つ、真ん中に対角線で出来た三角形が4つの計8分割形]となる。さて、土の上に図形が描ければ遊びの開始だ。まず、参加する子供達がジャンケンをして各自の順番を決める。ここでは、一人の最初の競技の内容を解説したい。解説などいいっ! と思われる方は、おやつでも食べてお茶を啜(すす)っていて頂ければ、それで結構だ。^^
 まず、石をすぐ前の2つの四角の片方上へ置く。続いて、置いてない四角を片足で踏んでゆくのだが、横の三角2つのところは広げた両足で踏まなければならない。跳(と)ぶときに片足のときは心でケン! と言い、三角のところでは両足を広げて地面へ足が着いた瞬間、パッ! と叫ぶことがケンパの名の由来のようだ。文章では分らりづらいが、まあ、そんなところだ。ケンケンパッ! ケンパッ![ここで反対を向く] ケンパッ! ケンケンパッ! のようなことで、最後のケン! のとき、片足のまま置いた石を拾って元の四角外へ出られれば競技は成功で、次の四角の位置へ石を置いて競技を続行できる・・というものだ。この遊びも勝ち負け・・というのはなく、愉快な気分で遊ぶだけで順位を決めるものだ。いつの間にか終わって帰っていった…という記憶が残っている。
 一番、遠い四角の一つに石を放り投げた子供が跳び始めた。
「ケンケンパッ! ケンケン[ここで、石を拾う]ケンパッ! ケンケンケンッ!」
 上手(うま)く出来たところで、子供は、ヨッシャ! と無言(むごん)でガッツポーズをした。まだ、前の四角に石を置くところから成功していない子供は見ていて余り愉快ではない。
「僕、帰るっ!」
 そう叫んだその子供は、自分の小石を持ったまま走って帰った。一瞬、シラケた雰囲気が辺(あた)りに漂(ただよ)う。そして誰が言うともなく、自然とケンパの遊びは終わっていた。
 まあ、こんな感じの愉快な昔の子供遊びである。^^

       
                   完

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2019年4月25日 (木)

愉快なユーモア短編集-29- 昔の子供遊び 3> どん馬(ま)

 続いてその3>だが、どん馬(ま)という子供遊びもあった。これは遊び道具が要(い)らず、複数の子供・・おおよそ10人ばかりも集まれば出来た遊びだ。ただ塀とか家の外板や外壁など、前から押されても後ろへ倒れない背凭(せもた)れが出来る場所が必要となる。これは、どん馬の遊び方によるものだが、これから詳(くわ)しく話すとしよう。例によって、別に聞きたくもない…と思われる方は適当に寛(くつろ)いで鼻糞(はなくそ)でもホジいていて欲しい。^^
 この遊びは参加する子供達が2つのグループに分かれるところから始まる。グループ分けはジャンケンなどで決めたものだが、その方法はどうでもよく、とにかく2つのグループに分かれる訳だ。そして遊びが始まることになる。野球と同じで2つのグループが攻守(こうしゅ)に別れるのだが、守り手のグループは代表一人が建物に背凭れする格好(かっこう)で両脚(りょうあし)を広げて立つ。その脚の間(あいだ)に次の子供は頭を突っ込み、立っている子供の両足を手で持つ。同じように残りの子供達も一人づつ次々に頭を両脚の間へ突っ込んでいく。1本の隊列が完成し、守り手の代表が守りOKを出したところで、もう片方のグループは一人づつ背の上へ、ど~んと崩(くず)れさせるように次から次へと走って跳(と)び乗っていくのだ。全員が背に乗ったとき守り手のグループが崩れなければ、跳び乗った先頭の子供[攻め手の代表]とジャンケンをする。守り手の代表が負ければ攻守は変わらず始めへ戻(もど)り、勝てば両グループの攻守が変わるというルールである。
「またかっ!」
 相手グループが全員、跳び乗ったあとのジャンケンで守り手の代表が負けた瞬間、頭を両脚に突っ込んで重みに耐えている子供の一人が叫んだ。これで5度目だから分らなくもない。
「ちょっと休もう!!」
 ジャンケンで負けた守り手の代表が、罰(ばつ)が悪いのかタイムをかけた。遊びは一端(いったん)中断し、休憩になったかと思われたが、再開されずそのまま流れ解散となった。
 この愉快な子供遊びも勝ち負けがなく、適当なところで終わるから、勝って誇(ほこ)るでもなく、負けて悔(くや)しくもない運動的なものだ。冬場の寒い時期の遊びに向いていて、身体がポカポカと温まるから一挙両得(いっきょりょうとく)で、愉快な昔の子供遊びとなったのである。^^

       
                   完

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2019年4月24日 (水)

愉快なユーモア短編集-28- 昔の子供遊び 2> 線切(せんき)り

 その2>として線切(せんき)りという遊びがある。これも年相応の方ならお分かりだと思うが、実にシンプルな遊びで、五寸釘(ごすんくぎ)が1本あれば事足(ことた)りる遊びなのである。五寸釘も呪(のろ)いで人形を木に打ちつけるのと違い、こういう有効で愉快な使い方もある訳だ。^^ 子供の数だが、余り多いと投げて出来る線がややこしくなるから、2、3人が適当である。
 まず、2.3人の子供が五寸釘を持って集まることから遊びは開始される。続いて、釘が刺さりそうな適当な土質(どしつ)の場所を選ぶ必要がある。選べば、ジャンケンをして、釘を刺す順番を決める。そして遊びが開始される。ここでは、2人の子供が遊ぶ場合を紐解(ひもと)きたい。前の話と同様、解いてもらわず括(くく)ったままでいいっ! という方は眠っていてもらっても、いっこう構わない。^^
 最初に投げる子供は、釘を土に向かって投げ刺す。続いて次の子供が刺す。最初の子供→次の子供→最初の子供→次の子供と投げていけば、刺された点と点で線が出来る。サスペンス小説ではないが、^^ [点と線]で、蜘蛛(くも)の巣(す)が大きくなるように円が広がっていく訳だ。さて、そのままではコトは始まらない。^^ ここで相手の線を切れれば、相手の描いた線の外へ、もう一度投げることが出来て出られる・・という寸法だ。
 二人の子供がお寺の境内の一角で線切りをしている。
「よしっ! 切ったぞっ!」
「あああ…やられた~」
 いいところまで二人の切り合いは続いたが、残念なことにお昼が近づいた。
「じゃあ、またっ!」
「うん!」
 二人の子供は、愉快な顔で、いとも簡単に釘刺しを終わると家へ帰っていった。
 釘刺しは勝ち負けに拘(こだわ)らず、すぐにやめられる愉快な昔の子供遊びなのである。^^

         
                   完

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2019年4月23日 (火)

愉快なユーモア短編集-27- 昔の子供遊び 1> 缶蹴(かんけ)り

 戦後、ようやく日本が立ち直ろうとしていた昭和30年代前半、愉快な子供の遊びといえば、今のような物資に恵まれた時代ではなかったから、外での遊び道具は作ったり廃品を工夫したりして遊んだものだ。さてこれから、昔の子供の遊びを1>~10>に分け、紐解(ひもと)きたいと思う。いや! 紐解かずにそのまま括(くく)っておいて欲しい…と思われる方は読まずに眠っていてもらっても、いっこう構わない。^^
 まず1>として缶蹴(かんけ)りという遊びがある。年相応の方ならお分かりだと思うが、いわば、隠(かく)れんぼの缶バージョンといえるだろう。遊び道具を買う必要もなく、空(あ)き缶が一つあれば、数人の子供達が愉快に遊べたのである。遊び方は実にシンプルで、数人の子供がジャンケンをし、負けた子供が鬼になる。鬼は土の上へ小さな円を描(えが)き、その真ん中へ缶を置く。そして鬼以外の子供の一人が缶を勢いよく蹴り、鬼以外の子供達は走って逃げる。遊びの始まりだ。鬼は蹴られた缶を拾(ひろ)って円中央へ置かなければ捕らえられない。その間に鬼以外の子供達は思い思いの場所へ隠れるのである。鬼は見つけてタッチ[身体に触れ]さえすれば捕らえたことになる。全員を捕らえれば鬼の勝ちとなるが、誰かが鬼のいない隙(すき)に缶をカ~~ン!! と蹴れば、捕らえられていた子供は逃げることが出来る。音に気づき、しまった! と鬼が戻(もど)ってもあとの祭りで、最初からやり直しになってしまう訳だ。
 すでに、大部分の子供が鬼に捕(つか)まっていた。
「僕が出て誘(さそ)うから、その隙にっ!」
「わかった!」
 残った二人の子供が小さな声で密約(みつやく)を交(か)わした。まるで幕末の薩長同盟のように…。^^
 その後、一人の子供が飛び出し、鬼を誘った。鬼は罠(わな)にかかり、その子供を追いかけた。その隙に、もう一人の子供が缶をカ~~ン!! と勢いよく蹴った。捕らえられていた子供達は一斉(いっせい)に逃げ散った。音に気づいた鬼は、しまった! と戻ったが時すでに遅(おそ)しで誰一人いなかった。辺(あた)りを夕焼けが照らし、カラスがカァ、カァ~と鳴きながら帰っていく。鬼には、それが、バァ~カ、バァ~カ・・と聞こえた。
「もう、やめようよぉ~~!!」
 鬼の負けとなり、子供達はそれぞれの家へ帰っていった。
 長閑(のどか)だった昔の遊び、缶蹴りの愉快なお話である。^^

        
                  完

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2019年4月22日 (月)

愉快なユーモア短編集-26- 救済(きゅうさい)

 夏も終わり近くになると、お地蔵さまを囲こみ、各地で地蔵盆(じぞうぼん)と呼ばれるお盆の供養(くよう)が行われる。日本に古くから伝わるレトロ感覚のいい風習である。津島盆(つしまぼん)[今から考えれば神さまのお盆というのも妙な話だが…]というのも昭和30年代当時は存在したが、今の時代も続いているかは定かでない。枝葉末節(しようまっせつ)となったので話を地蔵盆へ戻(もど)すが、僧侶(そうりょ)の読経(どきょう)のあと、子供達は手に持つ大きな袋の口を開け、並んでお下がりのお菓子を入れてもらう・・という救済(きゅうさい)を受ける。このことがお地蔵さまが子供の味方(みかた)といわれる由来(ゆらい)? なのかどうかは別として、子供達は有り難~~い功徳(くどく)を受け、愉快になる訳だ。だがこれは、お菓子も乏(とぼ)しかった昭和30年代前半の子供達の感じた愉快な気分で、物が有り余った今の子供達に通用する話なのかは分らない。昭和30年代の子供達といえば、すでに老人の域へさしかかろうとする際(きわ)どい世代である。^^ この時代の子供達は、朝からお菓子の救済を受けるぺく? ^^ お地蔵さまや神さまの祠(ほこら)を水で洗いながら束子(たわし)で必死にゴシゴシと磨(みが)き、ひとまずその場は撤収(てっしゅう)したものだ。そして暗くなると、袋を密(ひそ)かに潜(ひそ)ませた浴衣などを着てお参りするでなく現れるのである。この愉快な感覚は、物資の乏しい時代だったからこそ言えることで、現代では味わえない感覚なのかも知れない。
 二人の男がお地蔵さまの前に敷かれたバランシートの上に座り語らっている。
「ほう! 時代も変わりましたなぁ~。昔は茣蓙(ござ)でしたが…」
「ははは…時代ですよっ、時代っ!!」
「ですなっ! 時代、時代っ! ははは…」
「で、津島盆はっ?」
「さぁ~…? 今もやってるんですかなぁ~? ははは…ゴシゴシとっ!」
「ははは…ゴシゴシでしたなっ!」
 救済された愉快な気分で遠い過去を話し合う二人の男の姿が、行灯(あんどん)の微(かす)かな光りに浮かんでいた。

       
                   完

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2019年4月21日 (日)

愉快なユーモア短編集-25- 軽く生きる

 生き方として重い? 軽い?・・どちらが生きやすいか? を考えた場合、果たしてどうなのか? それを理詰めで考える風変わりな一人の教授がいた。教授は、60の還暦近くになった頃、初めてこのことに気づき、研究しようとしたのだか、皆から馬鹿にされるように思え、秘密裏(ひみつり)に研究やそれに伴(ともな)うシミュレーションを重ねるようになった。そしてようやく今、その成果の一部が実を結ぼうとしていた。
[1]重く生きる→よく考えて慎重にコトを運んだ結果、生きる上での失敗は少なく、実利を得やすい。しかしその反面、意外性が欠如し、面白味が乏(とぼ)しく、愉快な気分では生きにくい。
[2]軽く生きる→深い熟慮(じゅくりょ)もなくコトを運び、心の趣(おもむ)くままに生きるから、失敗をしやすい。しかしその反面、以外な発想が以外な新事実を生む場合もあり、面白味が多い。当然、失敗も多いが、愉快な気分で生きやすい。
「まあ、軽く生きる方がベターか…」
 教授が小声で呟(つぶや)いたとき、助手が研究室に入ってきた。
「先生! 教授会で来年の学部長に名が上がってるようです!」
「なにっ! それは本当かっ!」
「はいっ! 間違いありませんっ!」
 その日から、愉快な気分で軽く生きていた教授は、不愉快な気分で重く生きるようになった。
 欲が出ると愉快な気分が消え、軽く生きることは出来ないようだ。^^

                           完

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2019年4月20日 (土)

愉快なユーモア短編集-24- 思いよう

 どんな物事でも思いようによって、その後の展開が大きく変化する。カッ! となって言ったり、やってしまう短慮(たんりょ)も、思いようによってはカッ! としなくなり、冷静に対処(たいしょ)することで、その後の展開がスムースに運ぶのである。
 とある宝籤(たからくじ)売り場に一人の男が籤を買いに来た。
「またダメかな…」
 ひと言そう呟(つぶや)くと、来た男は店頭へと近づいた。すると、一人の別の男が籤を買い終えたところで、立ち去ろうとする矢先だった。
「フフッ! また当たるかな…」
 別の男は、来た男とすれ違いざま、ニヤリ! と笑い、そう言い残して去った。来た男は、当たることは当たるんだな…と思った。籤を買ったあと、来た男は歩きながら思った。俺は、いつも当たらない・・と思ってるから当たらないのかも知れない。ものは思いようだ…と。そうしてその後、来た男は当たるに違いない、当たるに違いない! …と、自(みずか)らに言い聞かせることにした。
 月日は巡り、当選発表の日が来た。来た男は結果を見たあと、愉快な気分で笑った。買った籤は、ものの見事に当たっていたのである。…3等・・賞金¥3,000が1本。
 思いようによって好結果? が得られた・・という愉快なお話である。^^

        
                   完

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2019年4月19日 (金)

愉快なユーモア短編集-23- 鰯(いわし)の頭(あたま)

 古い諺(ことわざ)に、━ 鰯(いわし)の頭(あたま)も信心(しんじん)から ━ というのがある。歴史だと、鎌倉時代の元寇(げんこう)で吹いたとされる神風(かみかぜ)がその鰯の頭で、先の世界大戦で多くの尊い命を散らせる因にもなった。普通常識として考えた場合、鰯の頭は、ただの魚(さかな)の頭なのだが、信心する人からすれば、節分に柊(ひいらぎ)の葉とともに挿(さ)せば、家の魔除(まよ)けになる・・という。ただの愉快な慣習に過ぎないのだろうが、信心する人からすれば、それで魔や鬼が退散する! というのだから怖(こわ)い話である。
 これは古い江戸時代のお話である。とある深夜のこと、とある村の野原に落ちた隕石(いんせき)は、次の朝、村人達を驚愕(きょうがく)させた。その年、村は数十年ぶりの水不足に見舞われ、凶作が心配されていた。
「ピカッと光って落ちてったのは、どうもこれだな…」
「ああ…そうだべ」
 村人達は落ちた隕石を取り囲み、ああだこうだと騒いでいた。
「こりゃ~、神様がお祀(まつ)りしてけろ・・と言ってなさるにちげぇねえで」
「ああ、んっだ…うらも、そう思う」
「お祀りすりゃ~、お恵(めぐ)みの雨を降らして下さるだぁ~よぉ」
「んっだ、んっだっ!」
 一人の村人のひと言で、その隕石は鰯の頭になったのである。次の日から村人達は総出(そうで)で祠を作り、その隕石をご神体(しんたい)として祀った。すると、不思議なことが起こった。祠が出来た数日後、潤(うるお)いの雨が村に降り注(そそ)いだのである。田畑の作物は、たちまち息を吹き返し、村は飢饉(ききん)から救われたのだった。祠の隕石は水神様として、村人の鰯の頭になり続けた・・というお話である。
 鰯の頭はご利益(りやく)を齎(もたら)し、人々を愉快な気分にさせるようだ。^^


          
                   完

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2019年4月18日 (木)

愉快なユーモア短編集-22- 先々(さきざき)

 愉快なことは先々(さきざき)の結果がはっきりと分かることである。分かればその対処や対策も可能で、自然と愉快な気分になる・・という寸法だ。いくら優勢な状況にあったとしても、先々の結果が分らなければ不安だし、とても愉快な気分にはなれないだろう。戦国時代、桶狭間の戦いで軍勢の数では圧倒的に優勢だった今川軍が少数精鋭の織田軍に敗れ去ったのが、そのときの心境を物語るいい例だ。僅(わず)か数千の軍勢が何万もの大軍に勝つことなど、常識では到底(とうてい)考えられないのだが、先々を読み切った武将の決断力と行動力は、後世の殺伐(さつばつ)とした現代社会でも模範(もはん)とされる確固とした先々の読みなのである。
 一人(ひとり)の老人がホカホカで美味(うま)い饅頭(まんじゅう)を買いにやってきた。この饅頭はかなり評判が高く、店頭(てんとう)には長蛇の列が出来ていた。が、しかしである。老人は慌(あわ)てることなく、いっこうに動じる気配がなかった。それは老人に先々が見えていたからである。おそらくは長時間、並ばねばならないことは誰の目にも一目瞭然(いちもくりょうぜん)だったにもかかわらずである。
 老人が列の最後尾(さいこうび)に並び、数分が経(た)ったときだった。
「すいませぇん~~!! 本日は完売でございますぅ~~!! またのお越しをぉ~~!!」
 高い声の若い女店員が急に店から飛び出し、そう叫(さけ)んだ。人々はガックリと肩を落としたような表情で散(ち)り散(ぢ)りに消え去った。ところが、老人は一歩も動かなかった。しばらくすると、老人以外、店頭から人の姿が消えていた。老人は辺りをキョロキョロと見回すと、店の入口の戸をコンコン! と叩(たた)いた。
「はぁ~いっ!!」
「いつもの年寄りでございます…」
 老人は厳かな声で、ひと言(こと)、そう言った。
「ああっ! いつもの、でごさいますね? 取ってございますっ!」
 女性はニコリとした笑顔で出来立てでホカホカの饅頭入りの紙袋を手渡すすと、深々と一礼した。この老人こそ・・誰あろう! 恐れ多くも、先の副将軍、従三位(じゅさんみ)中納言、水戸光圀(みとみつくに)公! ・・ではなく、この一帯の土地地主だったのである。老人はひと袋を残し、饅頭が完売されたという先々を知っていた。
「ホッホッホッホッ…どうもありがとう」
 老人はホカホカの袋を手にすると、愉快な気分で待たせた高級車へと乗り込み、消え去った。

                           完

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2019年4月17日 (水)

愉快なユーモア短編集-21- 文明の進む方向

 文明の進歩とともに私達は快適に暮らせる時代を手に入れた。快適に暮らせれば、言わずとも愉快な気分で心地よく生きられる・・ということになる。だが、しかしである。ここで問題が派生(はせい)する。快適にさえ暮らせれば文明は果(は)てしなく進歩していいのか? という素朴(そぼく)な疑問が生じるのだ。文明の進む方向の問題である。進む方向によって人の愉快な気分は阻害(そがい)され、逆に不愉快 極(きわ)まりない事態にも立ち至る訳だ。
 高級車を脇道に止め、二人の男がようやく稲が色づこうとする田園地帯の細道を歩きながら話をしている。
「昔に比べりゃ、随分(ずいぶん)、楽(らく)になったようです。それに収穫量も増えたと聞きますが…」
「ああ、そりゃそうでしょ! 今は牛が泥田(どろた)の中を動き回る時代じゃないですからなぁ~」
「昭和30年代前半ですねぇ~。あの頃はコンバインもなく、手で刈ってられました…」
「そうそう! 長閑(のどか)な時代でした」
「あの頃に比べますと、文明も進歩しましたが…」
「そこ! なんですよ、問題はっ! 文明の進む方向ですっ!」
「? と、言われますと?」
「つまりは、本当に進歩したのか? ってことです」
「? …どういうことです?」
「確かに収穫量も増え、人手(ひとで)もいらない時代になりました。しかし、ですよっ!! 二毛作が一毛作となり、飽食(ほうしょく)の時代ですっ! 農業だけでは食べられず、減反(げんたん)政策で休耕(きゅうこう)地、耕作放棄(こうさくほうき)地ですよっ!」
「それで進歩したのか? ってことですか…」
「そう! そのとおりっ!!」
 二人はそんな会話をしばらくしたあと、車の人となり、美味(うま)いステーキを高級レストランで、しこたま頬張(ほおば)った。
 今の文明の進む方向は、愉快なこの二人の感じだ。^^

      
                   完

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2019年4月16日 (火)

愉快なユーモア短編集-20- 程度(ていど)

 物事(ものごと)には程度(ていど)というものがある。いくら素晴らしいことでも程度が過ぎれば素晴らしくなくなる。これと同じように、愉快な出来事も度(ど)を超(こ)せば不愉快になるから、程度はことの他、難(むずか)しいといえる。
 湧水(わきみず)家の細めの大黒柱、恭一が、珍しく父で今年、古稀(こき)を迎えた恭之介の肩を揉(も)んでいる。
「ほう! なかなかいい具合だぞ、恭一。ははは…嵐にならんといいがなっ!」
「ははは…私だって、たまには肩くらいは揉みますよっ、父さん」
「いや、だから怖(こわ)いんだ。お前が親孝行? …考えただけでも不吉(ふきつ)だっ!」
 恭之介の愉快な気分は、たちまち消え失(う)せた。
「まあ、そう言わないで下さい…」
 恭一は、やんわりと恭之介の肩を揉み解(ほぐ)していたが、不吉と言われて腹が立ったのか、一瞬、揉み手に力が入った。
「ウウッ!! い、痛いっ!! な、なにをするっ、この無礼(ぶれい)者(もの)っ! そこへなおれっ!!」
「す、すみませんっ!!」
 恭一は恭之介の剣幕(けんまく)に恐(おそ)れをなしたのか、足早(あしばや)に離れから去った。
 これが、程度の難しさなのである。^^

 

 ※ 湧水家のお二人は、風景シリーズからの特別出演です。^^ 


                              完

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2019年4月15日 (月)

愉快なユーモア短編集-19- 落ちつく

 落ちつく・・という心の有りようは、愉快な気分になる源(みなもと)である。何故(なぜ)かといえば、落ちつけば慌(あわ)てないからだ。慌てれば、心に乱れが生じ、愉快な気分どころの話ではなくなる。そればかりか、失敗をしやすくなり、益々(ますます)、負(ふ)のスパイラルを引き起こすことになりかねないのである。そんな訳で、ということでもないが、落ちつくという心の有りようは愉快な気分になるための必須条件なのかも知れない。
 夏休みである。夫婦と子供二人の家族四人が列車旅行をしている。愉快な気分でお茶を飲みながら駅弁を頬(ほお)張ったあと、父親が上着、ズボン・・と、ポケットを弄(まさぐ)って何やら探している。
「あれっ? 俺、財布、渡したよなっ!?」
「なに言ってるのっ! さっき、駅弁買うって言ったから渡したじゃないっ!」
 母親がすぐ全否定した。
「? …ああ、そうだ。そのあと、返したじゃないか」
「返してないじゃないっ!」
「いやいやいや、確かに返したっ!!」
「馬鹿言わないでよぉ~~!!」
 さあ! 偉いことになった・・と、父親は座席から立ち上がり、座席、座席の下・・と、慌てながら財布を探し始めた。しかし、財布は見つからなかった。父親の顔が少し蒼(あお)ざめ、愉快な雰囲気は消えていた。なにせ、財布の中には旅費の大部分が入っていたからである。旅館の宿泊代はすでに旅行社を通じて先に支払っていたからよかったものの、これでは土産(みやげ)さえ買えない。
 するとそこへ、トイレに行っていた小学校2年の長男がルンルン気分で戻(もど)ってきた。
「パパ、とうしたのっ?」
 長男は訝(いぶか)しそうな顔つきで訊(たず)ねた。
「んっ? ああ、財布がな…」
 父親は罰(ばつ)が悪いのか、小声で呟(つぶや)くように言った。
「財布? 財布って…」
 長男は首からぶら下げたポシェットのチャックを開け、中から財布を取り出した。
「あああ…!!」
 父親は、長男に財布を預けていたのを、すっかり忘れていたのだった。たちまち、父親ばかりか家族全員に愉快な気分が戻った。
 落ちつくことで、愉快な気分が戻る・・という一例である。^^

                            完

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2019年4月14日 (日)

愉快なユーモア短編集-18- 気分(きぶん)

 気分(きぶん)がいいと必然的に愉快な心地(ここち)で満たされる。その気分だが、よくなるためには、いろいろな要素が必要となる。まず、身に着けるさまざまな品・・これには、装飾品から化粧品、下着、衣類などに至るまで各種あるが、自分が好みとする具材に囲まれ気分よくなる訳だ。当然、そうなれば愉快な心地となるに違いない。ところが、そればかりでは愉快な心地は長続きしないのだ。というのも、気分が滅入る外的要因も多々あるからだ。この外的要因だけは自分自身ではどうにも出来ないから、そのとき吹く風任(かぜま)せ・・ということになる。例(たと)えば、心地いいサッパリした浴衣(ゆかた)を着たとしても、ジメジメした湿気の多い外気の中では心地よくならず、愉快な気分は削(そ)がれるだろう。また、気候は快適だったとしても、周囲を取り巻く連中が自分好みでなかった場合でも気分は晴れず、愉快な心地も失せる・・としたものだ。
 二人の男が会員制の高級クラブで飲んでいる。一人は着馴れた襤褸(ぼろ)い普段着を身につけ、もう一人は見てくれっ! と言わんばかりの豪華な衣服と装飾品に身を窶(やつ)している。どうも古くからの知り合いで豪華な男が襤褸い男を誘ったようだ。
「凄(すご)いですなぁ~。私なんか一生かかっても着られないですよっ!」
「ははは…ご冗談をっ! ほんの安物(やすもの)ですっ!」
 言われた豪華な男は襤褸い男に褒(ほ)められ、少なからず愉快な、いい気分になった。
「いやいやいや、ご謙遜(けんそん)をっ!」
「はっはっはっ…またまたまたっ!」
 豪華な男は益々(ますます)、有頂天(うちょうてん)になった。そこへ、クラブの若い綺麗どころが数人、二人の周(まわ)りを取り囲み、座った。
「あらっ! なにか楽しそうですわねぇ~」
 そう言いながら、一人の娘が襤褸い男に身体を押しつけた。柔らかな感触が襤褸い男を愉快な気分にさせる。
「ははは…まあ」
 襤褸い男は照れながらグラスを飲み干した。次の瞬間、身体を押しつけた娘が空(から)になった襤褸い男のグラスへウィスキーを注ぎ入れ、ミネラルウォーターと氷で素早く水割りを作る。豪華な男は無視された格好で、気分はちっともよくない。
「おいおい! 俺はっ!!」
「あ~~らっ! あなたは常連じゃないっ!」
 身体を押しつけた娘には豪華な男の服が嫌味(いやみ)っぽく、逆に、襤褸い男の服が新鮮に映ったのだろう。
 気分は外観だけでは、よくならない・・という、ほんの愉快な一例である。^^

                           完

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2019年4月13日 (土)

愉快なユーモア短編集-17- イラッ!

 愉快な気分になっているとき、イラッ! とすることは誰しもある。だが、このイラッ! には個人差があり、些細(ささい)なことでイラッ! とする気の短(みじか)ぁ~~い人もおれば、怒(おこ)るだろう…と思えることでもイラッ! としない気の長(なが)ぁ~~い人もいる訳だ。要は、人それぞれっ! ということになるが、誰しも愉快な気分を削(そ)がれ、イラッ! とは、したくないだろう。
 運動会が近づく、とある小学校の運動場で体育の授業が行われている。5年B組の生徒達は、運動会の競技で披露(ひろう)する組立体操の練習に余念がない。指導するのは体育教師の我慢(がまん)だ。気温の関係からか、開催が春の五月に変更されたまではよかったが、生憎(あいにく)の時期外れの高温で生徒達は危(あや)うかった。
「先生! 僕、気分が…」
 生徒の一人が体調不良を我慢に訴(うった)えた。
「そうか…。よしっ! 今日は中止だっ!! 全員、教室へ戻(もど)りなさいっ!!」
 我慢の性格は苗字(みょうじ)どおりという訳ではないが、無理をしない性分(しょうぶん)だったから、いとも簡単に練習を中止した。運悪く、その様子(ようす)を2階の職員室から見下ろしていたのが教頭の無理(むり)だった。無理は、これも苗字どおりという訳ではなかったが、出来そうでないことまで無理にやってしまおう! という性格だったから、拙(まず)かった。イラッ! とした無理は職員室から飛び出すと、一目散(いちもくさん)に1階の5年B組の教室へと走っていった。教室の中には我慢が生徒を前に教壇に立っていた。
「息を切らしてどうされました? 教頭」
「どうされましたも、こうされましたもないよっ! 運動会は、あと一週間だよっ、君っ!」
「ええ、それは分かってますよ。生徒の体調が悪かったもので…」
「少し休ませてから続けりゃいいじゃないかっ!!」
「教頭! それは本気でおっしゃってるんですかっ!」
 逆らうつもりは毛頭(もうとう)なかった我慢だったが、さすがにイラッ! とした。
「もちろんだよっ!!」
「あんたねっ! それでも教頭かっ!! 生徒のことを本気で考えてるんかいっ!!」
「教頭に向って、なんだその物言いはっ!!」
 売り言葉に買い言葉である。教壇は口喧嘩(くちげんか)の様相(ようそう)を帯びてきた。
「私は大体、春っていうのが反対だったんだっ! 9月が暑くてダメなら、11月の文化祭と入れかえりゃいいじゃないかっ!」
 生徒達の中から、パチパチ…と拍手が起き、たちまち拍手の渦(うず)となった。こうなっては教頭の無理も無理を通せない。
「…」
 苦虫(にがむし)を噛(か)み潰(つぶ)したような顔つきで、渋々(しぶしぶ)、イラッ! としながら教室から出ていった。逆に、体育教師、我慢のイラッ! は消え、愉快な気分が溢(あふ)れていた。
 イラッ! としないのが、愉快な気分になる妙薬(みょうやく)かも知れない。^^

                         完

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2019年4月12日 (金)

愉快なユーモア短編集-16- 音(おと)

 誰しも愉快になる音(おと)と不愉快な音はある。もちろんそれには個人差があり、程度の差もある。笛や太鼓の祭りの音(ね)は風雅(ふうが)でいいものだが、雑音(ざつおん)と感じる者もいることだろう。窓際(まどぎわ)を走る電車の振動音を心地よい子守唄として聴(き)き、愉快な気分で眠る剛(ごう)の者もいれば、騒音公害だっ! と息巻(いきま)いて訴訟に及(およ)ぶ繊細(せんさい)な神経の持ち主だっている訳だ。それだけ音は影響力が大きいといえる。世の音を観(み)られるという有り難い菩薩さまもおられるくらいのものだ。^^
 とある公園で誰が聴いても下手(へた)なバイオリンを弾(ひ)く一人の男がいた。唯一(ゆいいつ)の救いは、その男が誰にも聴かそう! と意気込んでいないことだった。いい気分で散歩に来た人々は、思うでなくその男を迂回(うかい)した。男を避(よ)けた・・のではなく、愉快な気分を削(そ)がれる音を避けたのである。男はそうした状況にも怯(ひる)むことなく弾き続けた。すると妙なことに、散歩をする一人の男が、バイオリンを弾く男に近づいてきた。
「いい音色(ねいろ)ですねっ!!」
 男は傍(かたわ)らまで近づくと、そう語りかけた。
「ははは…そ、そうですか? いやぁ~、お恥ずかしいっ!!」
 周(まわ)りを避けて散歩する人々は、その二人を妙な変人のような目で見ながら通り過ぎていった。
 愉快な音には感じ方に違いがある・・という、ただそれだけの愉快なお話である。音の答えは、ただ一つではない・・ということだろうか。^^

                            完

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2019年4月11日 (木)

愉快なユーモア短編集-15- 苦(く)のあと

 昔からよく使われる言い回しに、━ 苦(く)のあとには楽(らく)がある ━ という例(たと)えがある。もちろん、私達はそうなることを願い、期待もして日々の生活を営(いとな)んでいる訳だが、そう上手(うま)くいかない場合だってある。要は、苦のあとに、また苦が待っているこの世の生き地獄と思える状況だ。苦のあとの快適で愉快な結果を期待する人々にとって、そうなる事態はなんとも残酷(ざんこく)な話だが、運が悪いのさ…と他人に慰(なぐさ)められ、仕方のないこととして片づけられてしまうのである。片づかないとこれもまた偉(えら)いことで、悩んだ末(すえ)の自殺とか犯罪といった事態に至るのだから怖(こわ)い。
 ようやく仕事を終えた一人の中年男が、とある生きつけの居酒屋のカウンターで一杯やりながら寛(くつろ)いでいた。
「これこれっ! この料理のひと皿(さら)が楽しみで俺は働いているようなもんだっ!」
 男は誰に言うともなく割り箸(ばし)を手にしながら独(ひと)りごちた。
「ははは…そういやお客さん、毎度、そればっかしですなっ!」
 カウンター前に立つ店の主人が料理を作りながら合いの手を入れた。
「おやじさん! よく言ってくれたっ! これこれ、これが実に美味(うま)いんですよっ」
「そうですか~? そう大したもんをお出ししている訳じゃないんですがねぇ~」
「いやいや、これがないと、一日の苦が消えないっ! 苦を消す妙薬だよ、これはっ! 苦のあとには、このひと皿っ!」
 男はそう言いながらグビリと冷酒を味わいながら、出されたひと皿の料理をやっつけた。食べたあと、下品にも舌(した)で嘗(な)め回すのだから、周(まわ)りの者には、やっつけたとしか思えない食いっぷりなのである。
「ははは…そこまで食べていただくと、料理人 冥利(みょうり)に尽きますっ!」
「いやいや、下品(げひん)な食べようで申し訳ないっ!」
「いいんですよっ! 下品といいますが、下品も品(ひん)のうちですからっ! お客さんの中には品がない方もおられますからねぇ~」
「へぇ~? どんな方ですっ?」
「ははは…ぞんざいに食べ散らかした挙句(あげく)、食べ残すお客さんですよ」
「なるほどっ!」
「アレはいけませんっ!! 不愉快きわまりないっ!!」
 珍しく店の主人の愉快な笑顔が消え、怒(いか)り口調(くちょう)へと変化した。そのとき、すっかり疲れきった一人の常連(じょうれん)の食べ残し客が暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、店の戸を開けようとして、くしゃみした。
「妙だなぁ~? 夏風邪でも引いたか…」
 苦のあとの苦である。^^

        
                   完

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2019年4月10日 (水)

愉快なユーモア短編集-14- 変化

 不愉快な状況が一転して変化し、愉快になることがある。当然、この逆も起こるから用心は必要だが、愉快な状況へと一転する場合は大いに有り難いし、拍手ものだ。
 ここは中堅企業、田織(たおり)通商の社長室である。朝から社長の田織が提携(ていけい)する別会社の社長、川徳(かわとく)を前にし、相談をしていた。
「川徳さん! うちはもう駄目ですっ! 倉朝商事と井浅通販にお得意先を持っていかれましてなっ!」
「なにをおっしゃいますっ! 勝負はこれからじゃありませんかっ! いいでしょう!! 私のところから得意先の幾つかをお回し、しましょう!」
「ええっ! それは有り難いっ!」
「二社の目が光ってますから直接とは参りませんが、搦(から)め手から・・ということになりますが、それでよろしゅうございましょうかなっ?」
「はあ、そらもう…」
 半年後、田織通商の業績(ぎょうせき)は変化し、回復基調へと一転、莫大(ばくだい)な当期純利益を計上するに至った。その逆に、倉朝商事と井浅通販は会社更生法の適用を申請、事実上の倒産に至ったのである。
 田織通商の社長室では田織と川徳が愉快な気分で特上の寿司を摘(つま)みながら美酒で祝杯(しゅくはい)を挙(あ)げていた。
 これが変化の一例である。^^

         
                   完

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2019年4月 9日 (火)

愉快なユーモア短編集-13- ドジ

 ドジとは、普通では考えられないミスを犯す・・といった場合に使う言葉だが、妙なものでドジを踏む場面に遭遇(そうぐう)した途端(とたん)、誰しも思わず愉快な気分になるのは不思議といえば不思議な現象である。
 世に知られた有名な書道の大家である本山(もとやま)大臣(おおおみ)が、注文された書をっ! ・・と、まさに今、筆(ふで)を握ろうとしていた。その矢先である。古くから飼われている猫の権兵衛(ごんのひょうえ)がヒョイ! と居間から現れ、紙の上を何げなくヒョコヒョコ…と横切ったのである。悪いことに、本山が磨(す)り溜(た)めた墨汁(ぼくじゅう)を筆にたっぷりと含(ふく)ませ、大紙に向かおうとした瞬間とタイミングが、ばったり合ってしまった。
「…!!」
 本山は刹那(せつな)、権兵衛が横切るまで筆を止めようとしたが、時すでに遅(おそ)かった。さすがに猫に筆は下ろされなかったが、それでも勢いよく紙の上へと避(よ)けて滑(すべ)り落ちた。こうなっては仕方がない。書き始めた以上、止められず、大臣はそのまま書き終えた。紙の上には書かれる予定にはなかった書が描かれていた。大臣にすれば完全なドジである。悪いことは重なるもので、そのとき権兵衛が振り返った。
「ニャ~~!?」
 ひと声、小さく鳴くと、権兵衛は書かれた紙の上を戻(もど)り始めたから堪(たま)らない。権兵衛の墨の足跡が、これ見よがしに紙の上に描かれたのである。
「先生、そろそろ如何(いかが)ですかなっ?」
 注文した一流企業の会長が間(ま)の悪いことに、そこへヒョイ! と顔を出した。
「こ、これはっ、ははは…私のドジですっ!」
 誤魔化(ごまか)そうと、大臣は態(わざ)と愉快に笑った。会長はシゲシゲ・・と紙を見入ったあと叫んだ。
「な、何をおっしゃいますっ!!  こ、これは歴史に残る、た、大作ですぞっ! 先生!!」
 その後、その書は大臣の作品集の一枚として出版され、世に出た。
 ドジは必ずしもドジではない・・という愉快なドジのお話である。^^

          
                   完

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2019年4月 8日 (月)

愉快なユーモア短編集-12- 思いどおり

 世の中、自分の思いどおりにいけば、こんな愉快なことはない。程度の差こそあれ、人は多かれ少なかれ思いどおりにならず生きているのだ。ということは、誰にも愉快な気分になれない嫌(いや)な瞬間がある・・ということになる。
 地上六階建ての豪邸で何不自由なく生きる黒腹(くろはら)にも、愉快な気分を害する瞬間があった。
「旦那(だんな)さま、いかがされます?」
「あ~…、まだアレか。お前、よろしく頼む…」
 愉快な気分でお気に入りのゴルフクラブをシコシコと磨み(が)いていた黒腹だったが、執事(しつじ)の蚤田(のみた)‎に訊(たず)ねられ、不愉快な顔で朴訥(ぼくとつ)に返した。
「畏(かしこ)まりました。では、さように…」
 執事はよく分かっているのか、馴れたような物言いをすると、部屋から退去した。愉快な気分を取り戻(もど)した黒腹は、ふたたびシコシコ・・とゴルフクラブを
磨き始めた。黒腹が口にしたアレとは、毎年、徴収される税務署の税金だった。掃いて捨てるほど金が舞い込む黒腹にとって、唯一(ゆいいつ)嫌な瞬間は、その掃いて捨てるほどの金の計算だった。場普通では考えられないほどの金の計算は七つの会計事務所が分担して行っていたが、それでも計算し尽(つ)くせないほどの鉦が、湧き水のように黒腹の懐(ふところ)へ舞い込んでいたのだった。
 ゴルフクラブを磨き上げ、黒腹がふと立って見下ろす大窓サッシの視線の先に、一人のホームレスがダンポールを思いどおりに纏(まと)い眠っていた。
「羨(うらや)ましいかぎりだ…」
 黒腹はポツリと呟(つぶや)いた。黒腹はホームレスの思いどおりの生活に愉快な気分を見出(みいだ)したのである。

          
                   完

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2019年4月 7日 (日)

愉快なユーモア短編集-11- 存在感

 いるだけで愉快になる人とそうでない人がいる。取り分けて両者の判別基準・・といったものがある訳ではないが、その人がいるだけで周(まわ)りの雰囲気が和(なご)み、愉快な気分になれるということはある。逆も また然(しか)りで、その人が現れただけで雰囲気が冷え込んでしまう・・という場合だってある。当然ながらこの場合は愉快どころか不愉快極まりなくなり、その場を離れて帰る人だって出るに違いない。
 では、両者の間に、どんな違いがあるのだろうか? ということになるが、今日はそれが分りやすい存在感のお話である。
 とある公民館で老人会の余興(よきょう)が行われている。老人達の中から選ばれた数人が民謡の安来節(やすきぶし)の流れる中、泥鰌(どじょう)掬(すく)いを披露(ひろう)している。会場は、やんやの喝采(かっさい)だ。そんな中、二人の老人が話をしている。
「ハッハッハッ! なかなかのものですなぁ~!」
 存在感を見せつけようと、老人Aが長く伸びた顎鬚(あびこげ)を撫(な)でつけながら、もう一人の老人Bに話しかけた。
「はあ、そうです。あの右の方、私の隣の家の方ですっ!」
 自分が褒(ほ)めらている訳でもないのに愉快な気分で話しかけられた老人Bは一歩も引かず、自慢っぽく口髭を撫でつけながら返した。そんなこたぁ~どうでもいいんだっ! と、ムカッ! とした老人Aは、話しかけなけりゃよかった! と不愉快な気分になった。
「その後ろの方もご近所ですっ!」
「そうですかっ! 私なんか、ほとんどがご近所ですよっ!!」
 老人Aは自分の存在感を高めようと意固地(いこぢ)になり、老人Bへ返した。
「ハッハッハッ! そんな訳ないでしょうが、あなたっ!」
 老人Bは一本、取ったような存在感で、老人Bへ愉快そうに返した。老人Aは、たちまち存在感を失い、フガフガフガ…と、口籠(くちごも)ったあと、不愉快そうに、おし黙(だま)った。
 存在感は目に見えないオーラのようなもので、強い方が有利となるから、なかなか侮(あなど)れない。^^

        
                   完

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2019年4月 6日 (土)

愉快なユーモア短編集-10- 上手(うま)くいかないとき

 物事をやっていると、上手(うま)くいくときと、いかないときがある。いくときは愉快な気分になるからいいのだが、いかないときは少しずつ気分が悪くなるから困りものだ。ただ、この気分は個人差があり、別にどうとも思わない気長(きなが)な性格の人から、イラッ! として途中でやめたり、投げ出してしまう人と違いがある。共通するのは、愉快な気分ではない・・という点である。上手くいかないとき、気分を愉快にすれば物事がどうなるか? である。妙なもので、愉快にすれば、その上手くいかない原因がポロッ! と現れたり分かったりするのだから不思議といえば不思議な話だ。どうも、冷静さがその上手くいかない原因を自(おの)ずと探り出すからなのかも知れない。要は、上手くいかないときこそ愉快な気分が求められる・・とも言える。
 一人の男が旅をしていた。乗り継ぎが上手くいかず時間が二時間ばかり出来てしまい、仕方なく男は知らない町へ降り立った。男は、上手くいかないときはこんなものさ…と、そう気にする風でもなかった。スケジュールを組まないブラリ旅だったということもある。まったく一面識もない町で、男としては地元の人に訊(たず)ねる以外、どうしようもなかった。
「ちと、お訊ねしますがっ?」
「はい、なんですかな?」
 通りかかった老人が、逆に訊ね返した。
「あの…旅の者なんですが、この辺りで有名な所などは…」
「おお、いいとこへ来られたっ! 今日は牡丹(ぼた)神社の祭礼日でごぜぇ~ましてなっ! 是非、ご見物なさるがよいっ! なにせ、数メートルの高さから牡丹餅(ぼたもち)を真下で大口を開けて待つ多くの男衆(おとこし)めがけて落とす神事がごぜぇ~ましてなっ! 上手く食えた男衆は神男として一年、皆の衆から崇(あが)められるんでごぜぇ~ますよっ!」
「上手くいかないときはどうなるんですかっ?」
「ただの笑い話になる・・というだけのことでごぜぇ~ますよっ」
「ほう! それは面白そうだっ!」
 上手くいかないとき、愉快な気分になれるという典型的な一例である。^^

       
                   完

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2019年4月 5日 (金)

愉快なユーモア短編集-9- 枯れた人

 人が年を重ね、いい風格を備えれぱ、他人から尊敬されることになる。枯れた人・・と言われる状態である。植木が枯れるのは戴(いただ)けないが、人が枯れればいい味(あじ)わいとなり、好かれるのだから不思議だ。「◎◎さんは枯れた人だっ!」などと周囲から絶賛(ぜっさん)され、言われた当の本人も、思うでなく愉快ないい気分になる訳だ。この場合、「ホッホッホッ、そうですかな…」などと、言われた側は謙遜(けんそん)して返すのが常(つね)だが、ある意味、心の奥底で優越感を(おぼ)え、他人より一歩、先んじているような愉快な気分を味わっているのである。ただ、こういった人が、ふとした弾(はず)みで間違いを犯すと、これはもう、ど偉(えら)いことになってしまう。今日は、そんなお話である。
 とある町に住む鉾池(ほこいけ)は今年で八十五になる好々爺(こうこうや)だ。七十を過ぎた頃までは、取り分け、どう~ってこともない、ただの老人だった。しかし、あることを境(さかい)にして心境(しんきょう)が一変し、現在では枯れた人・・として、町中で名が知られる存在になっていた。
 そんなある日のこと、老人達のゲートボール大会が町の広場で行われることになった。鉾池もその中のメンバーの一人として参加した。
「ホッホッホッ…私など大したことありません」
 参加した老人の一人から腕前(うでまえ)を訊(たず)ねられ。鉾池は枯れた人の風格でそう返した。枯れた人・・で名を通した鉾池は、ゲートボールでも他を超える存在として老人達に一目(いちもく)置かれていたのである。
「いやいや、なにをおっしゃる」
 鉾池は思わず謙遜(けんそん)した。大会が始まると、どういう訳か鉾池は他のメンバーを圧倒するスコアーを出した。鉾池自身にも、その理由は分からなかった。それでもまあ、枯れた人・・としてのメンツは保たれたかのように思えた。
「大したものですなぁ~、鉾池さんっ!」
「いやいやいや、ホッホッホッ…」
 鉾池は愉快な気分で大笑いした。その弾(はず)みで入れ歯が外(はず)れ、運悪く、下の下水路へ落ち、流れしまったのである。枯れた人は一瞬にしてフガフガ状態の哀れな老人になったのである。
「ファ![あっ!]」
 叫んだ鉾池だったが、流された入れ歯はどうしようもなく、あとの祭りだった。
 その後、お疲れ会の食事となったが、鉾池の枯れた人の風格はすでに消え、出された美味(うま)い料理の数々を食えないただの老人の姿がそこにあった。鉾池の頭の中は、歯科医院へ通う新しい入れ歯のことで一杯で、愉快な気分は完璧(かんぺき)に消え去っていた。

        
                   完

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2019年4月 4日 (木)

愉快なユーモア短編集-8- 気分

 同じ物事をするにも、気分がよい、悪いでは、結果に大きな差異を生じる。気分がよいと当然、愉快な気分となるから、やっていることが楽しい・・とまではいかないまでも、スム-スに流れやすい。逆に気分が悪いと、やっている簡単なことさえ、ぎこちなくなり、場合によっては失敗に至ることすらある。気分はすべての事柄(ことがら)に影響を及(およ)ぼすのだ。だから、物事を始める前には気分を整えておくことが肝要(かんよう)で、失敗を未然に防ぐ最善の予防策となるのである。
 とある神社の祭礼日で、境内(けいだい)は多くの人で賑(にぎ)わい、ごった返している。参道の左右両側には多くの出店が出て、祭り気分を盛り上げる。こんな日は誰しも愉快な気分となり、普段はどぅ~~ってないことも、面白おかしく感じるのだから不思議だ。
 二人の男が多くの人に混ざり参道を歩いている。
「ははは…多くの人だねぇ~~」
「はい、社長っ! 皆、気分よく歩いてます…」
 秘書を兼ねた車係が媚(こ)び諂(へつら)う。、
「何がそんなに愉快なんだろうねぇ~」
「さあ? …このお祭りの雰囲気なんじゃないでしょうかっ!」
「ああ…笛、太鼓、お神輿(みこし)ねぇ~。風情(ふぜい)があって、いいもんだっ!」
「ええええ! そうですともっ! 遠い昔を思い出させますっ」
 そう言いながら愉快な気分で辺(あた)りを見回した拍子(ひょうし)に、車係を兼ねた秘書は躓(つまづ)いて、石畳で、しこたま膝(ひざ)を打った。
「き、君! 大丈夫かっ!!」
「大丈夫ですっ! た、大したことありませんっ」
 内心は痛みでちっとも大丈夫でない秘書だったが、作り笑いで愉快な気分を演出した。
「そうか、そりゃよかった! ははは…」
 愉快な気分になるには、演出が欠かせない。^^

                          完

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2019年4月 3日 (水)

愉快なユーモア短編集-7- 生活

 誰しも悩んだり苦しんだりして生活をしたくないはずだ。要は、日々の生活を愉快な気分で過ごしたいと思うでなく思っているのである。この愉快に気分は、心の内面に存在する心理なのである。お金や地位は愉快な気分を得るための手段とはなるが、それらがあるからといって愉快な気分になれる・・という性質のものではない。
 日も暮れようとするとある会社のエントランスである普。四月の人事異動で係長から課長代理に昇格した蒲鉾(かまぼこ)は、よしっ! 次は課長補佐だっ! と闘志に燃えながら退社しようとしていた。それは、そう思うことで消えかけた出世意欲を自(みずか)ら奮(ふる)い立たせる以外の何ものでもなかった。一時は課長代理の席に座った瞬間、愉快な気分になれた蒲鉾だった。それだけ会社の出世コースは先が大変だったのだ。まず、平社員から係長に昇格し、さらに課長代理、課長補佐、副課長・・と、ハドルは幾重(いくえ)にも待ち構えていた。恰(あたか)もそれは、短距離のハードル競走のようなものだった。さらに、課長の上には副部長代理、副部長補佐があり、副部長、部長代理、部長補佐・・と続くのだった。
「あぁ~~あ…」
 会社ビルの外へ出た蒲鉾の口から、なんともやるせない溜め息が出た。そのときだった。
「やあ! 蒲鉾さんじゃないですかっ!」
 違う事業部に所属する山葵(わさび)が蒲鉾の後ろから声をかけた。蒲鉾と山葵は同期入社の間柄(あいだがら)だった。
「これは、山葵さん。お久しぶりです」
「ははは…そうですね。どうですっ! よかったら、これから美味(うま)い肴(さかな)で冷酒をキュッ! とっ! いい店があるんですよっ!」
「おっ! それは、いいですねっ!」
 たちまち、蒲鉾に愉快な気分が復活とした。二人は板ワサ[醤油で食す料理]のように語らいながら寄り添(そ)い、その店へと仲よく歩(ほ)を進めた。
 生活の愉快な気分は些細(ささい)なことで復活するのである。^^

         
                   完 

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2019年4月 2日 (火)

愉快なユーモア短編集-6- 失敗

 人とは妙なもので、他人が失敗すれば愉快な気分になるのだから困りものである。ある意味、自分ならそんな失敗はしないぞ…と、チラ見しながら思う、嫌(いや)な人の一面だろう。
 とある大学構内にある機械工学研究所である。この中では教授の露草(つゆくさ)と万年助手の方波見(かたばみ)が得体の知れない機械の製作に勤(いそ)しんでいた。
ところが、やれどもやれども失敗続きの連続で、二人とも半(なか)ばダレていた。
「もう、やめませんかっ、教授っ!!」
「君、なにを言っとるんだっ! この人工重力発生装置が完成すれば、私達は世界の英雄なんだぞっ! 今更(いまさら)、やめられるかっ!」
「はあ、それはそうなんですが…。しかし教授、失敗続きです、しこの辺で、もう一度、考え直されては?」
「馬鹿を言うんじゃないっ! 私の理論が間違ってるとでも言うのかね、君はっ!!」
 赤い茹蛸(ゆでだこ)と化した露草は、ものすごい剣幕(けんまく)で助手の方波見を見据(みす)えた。
「いや、そうは言ってないんですが…。ただ、現にこうして失敗してるんですから…」
「失敗、失敗って、君! ただ単なる配線ミスかも知れんじゃないかっ!」
「接触不良かも…」
「おおっ!! そういうこともあるだろうっ! そうと分りゃ、もう一度やるぞっ!!」
「はいっ!!」
 妙なところで意気投合し、愉快な気分になった教授と助手は、ふたたび機械を弄(いじ)くり始めた。そして、八月のクソ暑い最中(さなか)の今も、二人は研究に没頭している。ある意味、この姿勢こそが、世界に誇(ほこ)れる真(しん)の愉快な英雄の姿なのかも知れない。
 失敗の連続は愉快な英雄を生む…いや、愉快な英雄を生む可能性を秘めている・・とも言える。いやいや、言えないかも知れないから、よく分らない。^^

                          完

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2019年4月 1日 (月)

愉快なユーモア短編集-5- 赤ん坊

 不思議なことに、赤ん坊は妙なところで愉快な笑いをする。大人にはそのツボといえるようなものが分からない。分からないから、ともかく赤ん坊が笑ったことを繰り返す。ところが、これがいけない。限度を超(こ)すと、赤ん坊は愉快な笑いをやめ、急にむずかって泣き始めるのだ。それも尋常(じんじょう)な泣きではなく、爆泣(ばくな)き・・とでもいえる大声で喚(わめ)き泣くのである。泣かせた者は、まるで大悪人のような存在で、周囲の者から厳(きび)しい視線で睨(にら)まれることになる。
 このように、赤ん坊という存在を何が愉快にさせるのか? を捉(とら)えるのは、現代の科学をもってしても非常に難(むずか)しいのだ。
 とある夫婦の話である。妻が産院から退院して約半年が経過しようとしていた。夫は妻と赤ん坊を車に乗せ、車のエンジンを始動させた。久しぶりの休みが取れ、今日はブラッと街へ出よう! という話が纏(まと)まったのだ。赤ん坊はスヤスヤと眠っていたが、ふとした車の振動に驚いたのか、薄目(うすめ)を開けた。すると、どういう訳かその微細(びさい)な振動が気に入ったらしく、愉快に笑い出したのである。
「ははは…そこは笑うとこじゃないだろっ!」
 夫は赤ん坊が笑ったツボが分らず、ハンドルを動かしながら首を傾(かし)げた。
「いいじゃないっ、笑ってるのよねぇ~~」
 妻は抱いている赤ん坊の顔を覗(のぞ)き込みながら、やさしく語りかけるように呟(つぶや)いた。
「そらまあ、そうだ。泣かれりゃ偉(えら)いことだがな…」
「そうよっ! 快適で愉快なんだから、それでいいのよねぇ~~」
 妻はふたたび赤ん坊の顔を覗き込む。
「ああ…」
「そういや、あなた、最近、家でちっとも笑わないわねっ!」
 妻の奇襲攻撃に、夫は一瞬、たじろいだ。
「んっ? ああ…会社の調子が今一だからな。愉快な気分になれんのさっ! 俺も赤ん坊に戻(もど)りたいよっ!」
「しっかりしてよっ、パパなんだからっ!」
「ああ…」
 赤ん坊は愉快な気分で笑い、夫は発破(はっぱ)をかけられ、しょぼい気分になった。
 この世の愉快な気分は、すぐに崩(くず)れるのだ。^^

          
                  完

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